1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/06/21:聖日礼拝(旧音源)
2015-06-21 42:41

2015/06/21:聖日礼拝(旧音源)

2015/06/21 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
今日もよくいらっしゃいました。
それでは、いつものようにメッセージが入る前にですね、隣の方と挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。
はい、ありがとうございます。
それでは、一言お祈りいたします。
愛する志丸父の神様、今日もこうして、私たち一人一人を須賀、行かせて、祝福して、または導いて、主の二枚に集めてくださり、ありがとうございます。
賛美を捧げました。祈りを捧げました。
どうぞ、今から神様ご自身が、私たち一人一人に、この群れの上に、主の教会の上に、今日の御言葉を、どうぞあなたがお語りくださいますように。
私は、本当に耳を傾けて、主の御言葉を心に留め、そして、したろうとができる力も上から、あなたが届いてくださいますように、お願いをいたします。
この物を隠して、主だけが現れ、あなたの御言葉だけが、本当に語られますように。
イエス様の二難によって、お祈りいたします。
アーメン。
はい、今ですね、人なたらきのメッセージが続いています。
今日は、9回目で、信仰によって歩んでいますか、信仰によって歩んでいますか、という題にして、共にですね、恵みをお受けしたいと思います。
先週の第3章においては、ペテロとヨハネが、いつものように宮に、祈りに登って行った時に、
あの宮の美しい門のところに、いつも座って、施しを求めていた、あの飽きのない人を、ペテロとヨハネは、イエス様の二難によって立ち上がらせた、
癒した、この人なたらきにおいてはですね、第一回目の記録が、奇跡が起きたわけなんですよね。
そして彼はですね、本当に今まで歩いたことがなかった彼がですね、歩いたり、走ったり、踊ったり、花衣たり、賛美して、宮に登って礼拝できた、素晴らしい奇跡が起こりました。
03:08
皆さん、この癒し、この知る日にはですね、二つの意味があると思います。
それは今日のメッセージにも繋がることなんですけれども、これにはですね、我々人間には、イエス様の皆はなくしては、イエスキリストなくしては、何の希望もなく、期待もなく、将来もないような、我々の人間の状態ではないでしょうか。
しかし、イエス様が尋ねてくださって、足を与え、手を与え、目を与え、耳を与え、賛美を与え、命を与えてくださった。新しい命を彼に与えてくださった恵の事件であると思います。
皆さん、私たちが信じる神様は、私たちに新しい命をお与えになる方です。私たちに希望を与えるお方であります。私たちに回復の恵みを与えてくださるお方であります。
それからもう一つの意味としては、その足のなれた人を癒したのは、イエス様の皆なんですけれども、実際に彼の手をおこって立ち上がらせたのは、ペテロなんですよね。ペテロ。弱音なんです。
つまり、イエス様なら真の名残も蘇らせたから、38年間病んでいた人も癒すことができたから、イエス様なら何でもできるわけなんですけれども、これはイエス様ではなく、私たちと同じ人間であるペテロが、
あの第二書において、聖霊の満たしのペンテコステのあの日以降、初めて彼が本当にこの病人を癒したことが起きたわけなんですよね。
そこでですね、聖書一括を一緒にしたいと思いますが、ヨハネの福音書十四書十二節をちょっと開いていただいてですね、一緒に読みたいと思います。
新約聖書、ヨハネの福音書、第十四書十二節、新約聖書の210ページです。それでは聖書面白かったら一緒に読みたいと思います。
三杯、誠に誠にあなた方に告げます。私を信じる者は私の行う業を行い、またそれよりもさらに大きな業を行います。私が父のもとに行くからです。アーメン。
06:14
皆さん、この十二節通りにこの人の働き三章においてペトロがそれを行ったわけなんですね。イエス様がおっしゃいました。私を何するものですか?信じる者は。
イエス様の皆を信じる者は、イエス様が行われる業を知るしを、不思議なことをイエス様が行われたようにあなた方も行うことができますよ、というメッセージなんです。
皆さん、素直に純粋にこの御言葉を信じようでありませんか。これが神の力であって、これが精霊の見た日の力であって、信仰の力ではないでしょうか。他の条件は皆さんついていないんですよ。私を信じる者はとありますから。
ところが、私たちは時々、神様を、イエス様の皆を、神の力を信じないわけではないんですけれども、しばしば神のあの偉大な力を、全能な力を、私たちの常識という箱の中に、理性という箱の中に、神の力を詰め込んでしまうことがあるのではないでしょうか。
神のあの全能、全知の力を、偉大な力を、不審なものを生からやさる力、病人を癒やせる力、無からゆを作り出す力、砂漠に川を流せ、そして荒野に道を作られる神の力を、時々私たちの理性で、常識で、経験という箱の中に詰め込んでしまって、制限づけてしまうことがあるのではないでしょうか。
私たちが理解しにくくても、信じがたくても、神の力をそのまま、私を信じる者は私の行う業を行いますよという御言葉を純粋に受け止めて、信じること、従っていくこと、これが信仰ではないでしょうか。
そして本文に戻りますと、その時に多くの人々が、あの足の前にいたあの人、あのペテロたちが癒やしましたが、みんな驚きました。
そしてそこにいた人々が、庭にいた人々が、ペテロやヨハネを見つめて見つめて驚いていました。
その時にペテロは何と言いましたか。そこをちょっとですね、見てみたいと思います。
09:04
それが十二節です。十二節を一緒に読みたいと思います。十二節です。
三回。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。イスラエル人たち、なぜこのことに驚いているのですか。なぜ私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように私たちを見つめるのですか。
ここにですね、ペテロがそこにいた自分たちを見つめて注目して驚いている人々に、なぜこのことに驚いているのですか。つまり、なぜ神様が行われたこの癒しに驚いているんですか。
なんでびっくりしているんですか。という彼のお話です。皆さん、神様が行われること、神様が行われる癒しは、私たち人間が行うことよりはるかにその次元を超越することではないでしょうか。
神様がなされることには、印があり、力があり、癒しがあり、時には超自然的なことが起こり、創造を絶することが起きます。私たちはそれを信じます。深く信じます。
つまり神様は、私たちのためなら、ご自分の身胸のためなら、いくらでもですね、いくらでも奇跡を、印を、不思議を行うことができるお方であられます。
皆さんいかがでしょうか。皆さんの人生に今まであるいは最近、本当に印が、不思議なことが、奇跡のようなことが起きているでしょうか。そしたらば、皆さんのうちには本当に神様がおられて働いておられる証拠なんですよね。
皆さん、私たちが信じる神様は、死んだ神ではありまい。生きておられ、働いておられるお方であられます。
皆さん、生きる種を信じてください。死んだ神、関連の神、一つの宗教の神じゃなくて、今も生きておられ、働いておられ、印を行い、不思議を行い、奇跡を行う、そして語られる、答えてくださる種なる神様を信じていてください。
なぜ、このことに驚いているのですか。つまり、それを裏返して言うと、めったにこんなことが起こっていないから、こんなことが起きて、みんな驚くわけなんですよね。
12:01
皆さん、奇跡とは何でしょうか。普通には起こらないこと、めったに起こらないことが奇跡なんですよね。
ところが皆さん、驚くことは、奇跡が起こることが驚くことではなく、奇跡が驚かないのがおかしいことであって、驚くことではないでしょう。
例えば、普通に奇跡が起こるんだったら驚かないでしょう。でも、なかなか奇跡が起こらないから、一度起きたら、みんな驚くわけなんです。
神の世界には、私たち人間の世界に奇跡と言われる、そんなことがあるのでしょうか、無事でしょうと思うことは、神の世界には常識的に普通に起こる、いつでも起こる、誰にでも起こることではないでしょう。
だから、私たちの信仰は、まるであの神の世界が、神の国が、奇跡が普通に起こる神の世界が、この地上に臨むこと、来ること、そして私たちがそれを見ることをあげることではないでしょうか。
私は、この三谷教会に、一年にも何十人、何百人も洗礼を受けて救われることが、普通にあるようにお祈り申し上げます。
奇跡のようなことが、普通に起こる教会であってほしいです。そして、明かししたくて、明かしのことがあまりにも多くて困るほどの教会になってやりたい。
そのために、祈る、働く、神と教会になろうではありませんか。この夢をもって、その祈りをもって、実に使え、信じていく教会であった。
そして、他の教会では、他のところでは、奇跡のようなことが、この三谷教会では、この日本の教会では、それを体験し、そして明かしをし、賛美する、そしてそれを自分が栄光で奪うのではなく、その栄光を神様にお返しする、今日のペテロたちのようになりたい。
少し小さな明かしなんですけれども、結論から申し上げますと、全ては神様がなされたことでした。
5月から午後2時の賛美礼拝が始まって、その前からオーガンもあってピアノもありますけれども、音量を調節できる神聖祭座が一切あったらいいなと思って祈っていました。
15:07
もちろん、教会の予算で買えますよ。買えるんですけれども、私は祈って神様にいただきたい。自分のお金があるから、それを買える。
普通にそんなことではなくて、神様にいただくその恵みを、その奇跡のようなことを体験させていただきたいと思って祈っていました。
神様、あなたにはあの神聖祭座一倍くらい私たちに与えるのは、お安い御用ではないでしょうか。お茶の子祭祭でしょう。
そう思って私たちも祈っていました。必ず与えられる。祈っていました。
皆さん、時々こんな祈りもいいんです。神様、あれを渡させていただくのは、それはお安い御用でしょう。
神様、あなたには何でもできるんでしょう。祈ったら与えられるんですね。
そして祈って待っていたところ、我が家のためにいつも祈っている父さんのある夫人から連絡がきました。
先生、何か必要なものはないでしょうか。
それですね、だいたい最初は遠慮するんですね。大丈夫です。祈っていただけるだけで十分です。
いやいや、そんなことをおっしゃらないで言ってくださいよと。
実は賛美礼拝が弾まってですね、神聖祭が一体あったらいいなと思って祈ってるんですよと言いました。
そしたらですね、いくらぐらいいいんですかね。種類はいっぱいあるからですね、何十枚もあるし、そんなものをいらなくて、これぐらいでいいでしょうと。
正直に言いました。そう言ったらですね、彼女もびっくりしてました。
ちょうどそれぐらいの金額を彼女がその教会で神様に捧げて献金するそのお金だったんですね。
ところがそれをしなくても良いようにそれができたので、彼女はそれを持ってですね、自分のために誓うんじゃなくて、
これはもう神様に捧げるつもりでしたから、自分のものではない。これを持っていて、選挙したためにもし必要なものがあればこれを捧げようと、
彼は即してキープしていただいたんですね。ちょうどその時に私と連絡があって、先生ちょうどあれぐらいの金額が、献金がありましたよ。
それを贈りましょうと。いいですかと言いながら嬉しくてですね、思うとですね、それが贈られて、あの神聖サイザー、素敵なものを買ってですね、今、賛美礼拝で使っているんですね。
皆さん、神様は生きておられます。これは本当に小さなことなんですけれども、それ以上にはるかに大きなことが起こるんでしょう。
ペテルは、だからなんで驚いているんですか。これは神様には不趣なことですよ。おやすみごよですよ。
18:01
だからこんなことが起こるのを驚くのではなくて、こんなことが起こらないことを驚くべきではないでしょうかというペテルのメッセージです。
すべては神様がなさることです。12節をもう1節、私が読みますのでご覧ください。
そこでですね、その後ペテルはこのように語っています。
なぜ私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように私たちを見つめるのですかと言います。
つまりペテルが言いたいのは何でしょうか。
私を見つめないでください。これは私がやったことではない。これはイエス様の皆がイエス様を信じる信仰によってこれができたんですよ。
イエス様を見つめてください。イエス様を見上げてくださいとですね、ペテルは自分に見つめられているあの目を、彼はその注目をイエス様に運んでいるんですね。
これが実は信仰なんです。もちろん彼がそこにいたからそれができたわけなんですけれども、ペテルのこの赤きは、皆さんこれは私がやったのではありません。
イエス様の皆がイエス様がなされたことですよと明かしているんですね。
皆さん、私たちが主にやってするすべての事柄はみんなそうなんです。
伝道は誰がすることでしょうか。私たちがすることのようでありますが、実は神様がなさることであって、精霊様がなさることではないでしょうか。
祈りは私たちがするんですけれども、その祈りをついて働かれるのは神様であります。
奉仕は私たちがするんですけれども、それをさせて、それを導いてくださるのは神様なんですね。
ですから、ペテルもヨハネも私たちも皆、神に用いられる道具にすぎない。道具にすぎない。
道具を注目するのではなく、その道具を使う人を注目するわけなんですよね。
例えば皆さん、大工さんが家を建てるとします。そしたら家が建てられました。
一ヶ月経って、そしたら皆さんがいて、その大工さんじゃなくて、ここに置いてあるハンマーを見て、
わあ素晴らしい、このハンマーがこの家を建てたですね。そう言わないでしょう。
あなたは素晴らしいですねと、大工さんを注目するわけなんですよね。同じです。
ペテルを注目するのではなく、牧師を注目するのではなく、兄弟姉妹を注目するのではなく、神を注目する。
イエス・キリストを見つめるときに、そこに印が起こる、恵みが起こるのではないでしょうか。
21:04
ペテルはこの話から、みんな驚いているこのチャンスを逃さないでですね、そこから家様への関心を注目を運んでですね、
彼はイエス・キリストのお話をですね、それを語り続けているんですね。
それはペテルの関心が、いつも人や起きた日々じゃなくて、いつもイエス・キリストに関心がありました。
彼が見つめているのはイエス・キリストでした。いつもそうでした。
奇跡そのものに関心を持っている群衆に、彼らの関心をイエス・キリストに運んでいるんですね。
皆さん、私もですね、この群衆のように奇跡自体に関心を持つのではなく、
癒し自体に関心を持つのではなく、イエス・キリストに見つめて、イエス・キリストを見上げて、
そしてキリストが私たちを癒し、キリストが私たちを回復していただくように求めていこうではありませんか。
イエス・キリスト、ペテルはこの人の頭に、そして第1、第2ペテルの手紙がありますけれども、
そこで、いや、ペテルだけではなくですね、
使徒カオルも見てもですね、この新約聖書の13巻のペテルが記録した聖書がありますけれども、
そこを読めば読むほど残ることは、イエス・キリスト、これ一つだけではないでしょう。
そして彼はイエス・キリストにこの文集の関心を運ばせて、
そしてその次の観聞に運ばせているんですね。
それは何でしょうか。
それが13、15節のメッセージであります。
少しだけ読みますね。
13節、14節です。
アブラハム・イシャク・ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、
その日もべイエスに栄光をおあたりになりました。
あなた方は、今この文集に向かってですよ。
あなた方はこの方を敷渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
その上、この強い正しい方を拒んで、使徒殺しの男を断面するように要求し、
命の金を殺しました、とペテロは言っている。
つまり、要約すると簡単にあなたたちがイエスを拒み、イエスを殺しましたという話です。
きっとですね、そこにいたですね、このユダヤ人たち、群衆たちには聞きづらい、聞きたくないお話なんですよね。
24:06
ところがペテロは、ためらうことなく、あの地席からイエスキリストへ、
そしてすべての人々が通らなければならない関門という、
それは私たちがイエスキリストを十字架につけて殺したものであるという関門へ、
群衆を、いや、今日の私たちをそこに運んでいるんですね。
確かにこの群衆たちも、ステファナを殺したように、吐きしりをしたように聞きづらい、聞きにくい、聞きたくない話です。
しかし、この群衆たちも、いや、すべての人類はこのお話を聞かなければならないです。
イエスキリストを私が殺し、イエスキリストを私が拒み、
イエスキリストを私が十字架につけた罪人であるという事実を、実はすべての人は聞かなければならないんです。
その関門、その橋を通り渡らなければならない。
その時に初めて私たちに救いが望む、恵みが望むことではないでしょうか。
皆さん、新約聖教、特にこのですね、使徒の働きを読んでいきますと、
今日のこのペペルのメッセージ、そして第二章のペペルのメッセージ、そして七教八教のあのステファナのメッセージ、
そしてシトファルが救われて、ユダヤ人のカイドウで語るあのメッセージの中の共通の一つのメッセージは、
あなた方がイエスキリストを十字架に殺しました。
だから悔やかめて神に立ち帰りなさいという悔やかめのメッセージなんです。
またなら、この悔やかめなさいというメッセージはイエス様のメッセージであって、悔やかめた者には救いの恵みが望み、支給の恵みが望まれるから。
聖書を皆さんたくさん、多く皆さん読んでいらっしゃると思うんですけれども、読めば読むほどそこには確かに慰めのメッセージがあります。
励ましのメッセージもあって、恵みのメッセージもあって、支給のメッセージもあるんですよね。
しかしその慰めや支給や恵みのメッセージに至るまで到達する前に必ず通らなければならない関門がある。
それは何でしょうか。悔やかめて、罪許されて、洗い流されて、清められること。
だから悔やかめなくしては救いはありませんし、悔やかめなくしては十字架の栄光も至福もないのです。
27:12
教室の話なんですけれども、私、今年が2015年ですから10年くらいになりました。
ポシファンから始まって、日本の方向けの働きをし始めて10年くらいになったんですけれども、
そのときから最後のときから今まで、今もそうなんですけれども、数えてないんですけれども、
数百以上の日本の先生方の説教を聞いたり、あるいは本を読んだり、あるいは今はネットで原稿も結構持っていますので、
それをダウンして読んでいるんですね。
それで本当に第一は自分が恵まれるためなんです。第一の目的は自分が恵まれるために。
皆さんは毎週、あるいは毎日朝とか水曜日にメッセージを聞いていらっしゃるんですけれども、
自分はもし他の先生方のメッセージを聞かないんだったら、1年が経っても10年が経ってもメッセージを聞くチャンスがないじゃないですか。
自分が牧師で語っているわけですから。
だから自分もこの恵みをいただくために読んだり、聞いたりしているんですけれども。
要は第一の目的は自分が恵まれるためなんですけれども、他のいくつかの目的があって、その中の一つは、これはやはり自分は韓国人だから、
例えば自分の日本語が下手くそだからといって、このメッセージの恵みが伝わることが妨げられないように、
そのために自分なりに努力して、読んで、聞いて、研究して、勉強しているわけなんですよね。
その次の一つは、自分なりにそのメッセージを分析と言いましょうか、研究するためにですね。
そしてどんなメッセージをするんだろうか。こういう協会でどういうメッセージをするんだろうか。
そういうふうにいろいろ調べながらメッセージを聞いたり読んだりしているんですね。
そういう中でたくさんめくまれているんですけれども、その中に私なりに見つけた特徴があります。
一つは、セックスの中に最も多いテーマのメッセージは、慰め、励ましが一番多かったと私は思います。
慰めで始まって、慰めで終わる。ところがですね、それもいいでしょう。
ところが時々はその中に、イエス様も十字架も福音も福音もなかなか触れていないメッセージが多いなと私は思いました。
ありのままでいいですよというメッセージが多くあるかなと思いました。
30:05
だからといってですね、ありのままの信者が多いかもしれません。
なぜ、励まし慰めのメッセージが多いなのかと自分勝手に考えました。
そしたら、やはり日本の信徒さんは、励まし慰めが好きなんですね。
信徒が好きな好みのメッセージを語っているんじゃないかなと私は、勝手なんですけれども、そう思いました。
そしてもう一つ。
誰や誰や誰や誰や誰、牧師先生の名前とか、そういう人間の話はよく挙げて語っているんですけれども、
その中でイエス・キリストが聖霊様が神様かとか、なかなか挙げられないメッセージも多くあるんだなと私は思いました。
そしてもう一つは、なかなか悔やためを促し、それを語るメッセージがなかなか少ないなと私は思いました。
そしてもう一つは、とても景色的で、とても論理的で、とても哲学的で、本当に立派な説教なんだけれども、そこには一つ恵みが欠けているんじゃないかなと私は思いました。
もちろんですね、全ての先生方のメッセージがそうであるとは言いませんが、
少なくとも今まで十年かたちが何百遍のですね、メッセージを聞いて読んだ中での自分なりの今の時点での結論でもあります。
皆さん、私たちが聞きたいお話を聞くのは礼拝ではないです。
神様がお語りになる御声を聞くのが礼拝です。
初めてそこに神の働きが起こるわけです。
ケテルは自分が話したい話をしていないんですね。
この文集の関心をあの奇跡から家様へ運ばせて、そして家様から悔い改め、そして悔い改めから最後には信仰へ運ばせているんですね。
十六節を一緒に読みましょうか。
十六節を一緒に読みたいと思います。
はい、ご一緒に。
そしてこのイエスの皆がその皆を信じる信仰のゆえに、あなた方が今見ており知っているこの人を強くしたのです。
イエスによって与えられる信仰がこの人を皆さんの目の前で完全な体にしたのです。
皆さんよくご覧ください。
何がこの人を強くしたのですか?
このイエスの皆がです。
33:00
何がこの人を完全な体にしたのですか?
イエスによって与えられる信仰です。
この十六節の二言葉の主語に注目していただきたい。
この人を強くしたのは、この人を完全な体にしたのはペテルの力ではないのです。
何でしょうか。
イエス・キリスの皆であって、イエスによって与えられる信仰がこの人を癒し、この人を完全な体にしたのです。
ですから皆さん、皆さんの中に悩みがあるのでしょうか。
病の中にあるのでしょうか。問題の中にあるのでしょうか。
祈りの課題にあるのでしょうか。
何がそれを解決できるのでしょうか。
イエス・キリスの皆であって、イエス・キリスによって与える信仰がそれを癒し、解決し、救うことができるのです。
ですから私たちがついていくべきものは、求めるべきものは、記録や遺跡や遺跡、事態ではなく、イエス・キリスとその皆です。
そしてイエスによって与えられる信仰なんです。
だから信仰によって歩んでいますかと、今日皆さんにお問い合わせをしています。
皆さんは最近信仰によって歩んでいらっしゃるのでしょうか。
自分の頑張りで歩んでいないでしょうか。
あるいは習慣的に歩んではいないんでしょうか。
あるいは漠然とですね、何かいつかはよくなるんじゃないと、そういうふうに歩んではいないでしょうか。
イエス・キリスとの皆が、イエスによって与える信仰が、この人を完全な体にしたように、強くしたように、私たちの心も魂も霊も、死の境界も、この日本の国も、死は強くすることができますし、完全なものにすることがおできになる。
信仰を求めようではありませんか。信仰を求めようではありませんか。
皆さん、この人の働きをですね、私は今まで何回も説教して、何回も勉強して、説明をしていましたけれども、読めば読むほど、本当に霊に燃えるんじゃないのですか、皆さん。
わくわくするんですか、皆さん。
毎日ここに立ってメッセージを出したら、私はいつも目に当てているあの主義があるんです。霊に燃え、罪に仕えよと。
私はそれをいつもね、見てですね、メッセージを出していたというわけなんですけれども、皆さん、いくらですね、霊に燃え、死に仕えよ、ここにですね、いっぱい書けてあったとしても、私たちの霊が、魂が、霊に燃えていない限り、それは何の意味もない。
36:08
私一人一人が、霊に燃えて奉仕をし、霊に燃えて生き、霊に燃えて教え、霊に燃えて説教し、霊に燃えて賛美を捧げ、霊に燃えて恋愛をしなければならない。
皆さん、恵まれた神とは、恵まれた教会はですね、本当に霊に燃やされているんです。霊に燃えてですね、祈りましょうと言われなくても、祈りたくなる。伝道しましょうと言われなくてもですね、霊に燃えているから伝道もしたくてどうしようもない。
明かしてきたくてもどうしようもない。使いたくてもどうしようもないそのパッションがあるんですよ。
二つの内容が、二神社に伝道できる神と、そういうね、タイトルがあるんですけれども、そしてそのポイントは、恵まれた神社は、霊に燃やされている神社は、牧師が伝道しましょうと言われなくても、
自らもうパッションがあって、ハートがあるから伝道するでしょう、という言語でしょうか。
皆さんの今の、皆さんの霊の状態は、書いてあるように霊に燃えているでしょうか?延々と燃えているんでしょうか?あるいは炭の状態でしょうか?あるいは火がかけている状態でしょうか?
与谷教会が、この使徒の働きの、この初代教会のような夢を見たい。そしてですね、霊に延々とぼうぼうと燃えてですね、そして祈り、礼拝をし、捧げ、伝道する教会になりたい。
そうすると、一人との人生が、全く新しい次元が始まりますよ。新しいことが始まりますよ。それを一度も二度も、私たちはそれを経験させていただきたい。
それが今までなかったならば、それは奇跡のように思えるかもしれませんけれども、毎日のように毎日のようにそれが起きたらですね、それは普通に考えるようになる教会になりたい。
ペテルのメッセージの結論を見ていきたいと思います。19節です。19節一緒に読みましょうか。19節一緒に読みましょう。
39:09
そういうわけですから、あなた方の罪を拭い去っていただくために、悔い改めて、神に立ち帰りなさい。
20節私が読みますね。それは主の御前から、回復の時が来て、あなた方のためにメシアと定められたイエスを、主が使わせてくださるためなのです。
皆さん、ペテルのメッセージの結論は、罪を拭い去っていただくために、悔い改めて、神に立ち帰りなさい。
そうしたら、あなたに回復の時が来ますよ、という祝福のメッセージではないでしょうか。
皆さん、キリスト教の最も祝福されたメッセージは、御国が近づきました。
あなた方は、悔い改めなさい。神に立ち帰りなさい、というメッセージではないでしょうか。
皆さん、この悔い改めるというお話は、責めるメッセージではありません。実は祝福のメッセージがあります。
誰に立ち帰るんですか。神に立ち帰る。イエス・キリストに立ち帰る。
そこに、二十節に書かれているように、誠の回復があるんです。
誠の人生がそこにある。誠の喜びがそこにある。
誠の人生がそこにあるから、神に立ち帰ることが祝福ではないでしょうか。
今日のメッセージを、四つで短くまとめて、今日のメッセージを終わりたいと思います。
このことをですね、私は自分自身の生活、人生に適応していただき、そしてこのようなことが起こるように、祈り求めていきたいと思います。
1、神様は奇跡を起こされる方でありません。
神様は、人間の常識や理性や論や伝統の中に囲まれている、閉じ込まれている方ではない。
神様はいつも新しいことをなされる方でありません。
2つ目、イエス・キリストを私が、皆さんが、あなたが十字架につけて殺したのを認めていただきたい。
この事実を認めるときに初めて、私の人生に救いの祝福が始まります。
3つ目、イエス様は蘇られたことを信じてください。
イエス・キリストを信じるということは、ただのイエスを信じるということではなく、
亡くなられて、三日目に蘇られた復活のイエス様を信じることであって、
42:03
今も生きておられ、語っておられ、働かれ、奇跡を起こされるキリストを信じることであります。
4つ目、悔やめて神に立ちかえていただきたい。
今日も皆さん、悔やめるではありませんか。
今日、神に、主なる唯一の神様に立ち帰ろうではありませんか。
その時に初めて、新しい人生が始まります。
そして、救われた私たちクリエイターは、日々悔やめて、日々一緒に立ち帰らなければなりません。
お祈りいたします。
42:41

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