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2020-05-31 32:31

2020/05/31:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(1)種を蒔く人

2020/05/31 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 13:1-8


00:01
改めて皆さん、おはようございます。
またあるいは、お久しぶりです。
今日に至るまで、主が皆さん一人一人を、信仰も、あるいは健康も、あるいは家庭も守ってくださって、
全国の非常事態宣言発令が一旦解除されましたので、本日から教会同寝の礼拝が再開されました。本当に感謝いたします。
もちろん、私たちの礼拝がなかったわけでもありませんし、止まったわけでもありません。
それぞれ皆さんがお家で、たとえYouTubeなりに、宗法なりに、それぞれ皆さんが礼拝を守られたそこに、神様がご一緒に行ってくださって、
また、皆さんの礼拝を主が喜んで受け入れてくださったと、そういうふうに信じております。
また、今日からこの礼拝が再開されますけれども、4月12日、残念ながらイースター礼拝から、自宅にいての礼拝に切り替えまして、
8週間ぶりのここに皆さんお集いになって、とても嬉しく思っております。
その間、ある方はよく教会に来られて、掃除をしてくださったり、お花に水やりをしてくださったり、あるいは街道での祈りをしてくださったり、
ある方はまた、行きたくても行けないから、お家で本当によく祈ってくださったり、あるいは教会のために、コロナのために断食の祈祷もしてくださったり、本当に感謝いたします。
8週間、私も皆さんになるべく礼拝が守られるように、修法を送ったり、あるいはお家に訪問したり、土曜日は礼拝動画を撮影してアップして、8週間YouTuberになりましたけどね。
もう今日から辞めますけどね。本当に共に礼ができたこと、本当に感謝いたします。
そのうちにお話ししましたけれども、私たちはこのように集まって礼拝できることは当たり前のことではないんだと、おそらく皆さんも教えられたんじゃないかと、そういうふうに思っております。
全ては神様の恵みであり、感謝して礼拝ができること、普通にあちらこちら行けること、人に出会っておしゃべりができること、食べにどこか行くこと、本当に当たり前のことは一つもない。
全ての神様の恵みがあったから、今まで守られたことだなと、そういうふうに思っております。
まだこのコロナウイルス感染が完全に終わったわけでもありませんので、油断してはいけないと思いますが、注意しながら消毒やマスクを着用して、また皆さん日頃も感染予防に注意しながら、また集会に集まって共に礼拝していきたいと思います。
03:22
さて、今日は、教会歴としては、五巡節の日、ペンテコステです。
それは、イエス様がよみがえられて、聖天にのばられてから十日目、イエス様の復活から五十日目の日が五巡節ですね。
ペンテコステも五巡という意味がありますけれども、それはイエス様が天に昇られた後、イエス様の弟子たちと、またその時の本当に真実に信じていた信者たち、合わせて約120人ぐらいがマルコの家の2階の部屋に集まって、
イエス様が、聖霊様が来られるまで待っていなさいと、祈って待っていなさいと、それでみんな待ちに待って、祈っていて、その時にちょうど五十日の目に、天から聖霊が下られて、そこにいた120人の人々が聖霊に満たされて、
そしてその人たちが本当にも、今日もお話をしますけれども、あの当時のイスラエル人口に比べたら本当にも、塵のような本当に少ないわずかの人数でしたけれども、その人々に、人々を通して、未国の言葉は、福音は拡散されていってですね、次から次へ人々が救われた、神の国が拡張されていったという、
その日が、このペンテコステのところであります。
すでに、私たちが信じて報告することのシリーズメッセージの中で、聖霊についてお話をさせていただきましたので、その説教を皆さんも参考ください。
今日から、新しいシリーズ説教に入りたいと思います。
それは、イエス様の例え話、私たちへの問いかけであります。
福音書をですね、マタイから、特にマタイの福音書、マルコ、ルカのところに、イエス様の例え話が結構出てくるんですね。
そこの意味がよく分かられているようで、実は誤解されている部分もありますし、そういう部分もありまして、
特に未国の言葉、福音、神の国とは何なのか、それを考えながら、
今日からしばらくこのシリーズをさせていただきたいと願っております。
06:04
今日はタイトルを、種をまく人とさせていただきました。
今日のこの例え話は、よく皆さん、だいたいご存知の方はご存知だと思うんですね。
農夫みたいな人が種をまきますよ、種をまく。
そしたらある種はね、もう道端に落ちて、そしたらどうなるのか。
鳥がやってきて、もう食べられてしまった。
ある種は岩地にまかれて、根を下ろすのが難しくなって、枯れてしまった。
またある種は、茨の林みたいなところに落ちて、
まかれたんだけど、芽が出たんだけれども、茨があるから、それで伸びることができなかった。
実を結ぶことができなかった。
またある種は、与一にまかれて、100倍、60倍、30倍の実を結ばれたという話なんです。
ところが皆さん、このお話を、よくCSでもしたり、大人のメッセージでもしたりするんだけれども、
このイエス様、このお話をなされた焦点は、種をまく人でもありませんし、
種がまかれた畑の話でも、実は大事です。
最も大事な焦点は、イエス様がこのお話をした目的は、
見国の言葉がどれぐらい偉大なものであって、力あるものであるのか、
そこに焦点が、目的があるんです。
今日の19節、読んでないんですけれども、聖書お持ちの方、19節ご覧ください。
私が読み足します、13章の19節。
もう一番最初にイエス様が解説してくださったんです。
見国の言葉を聞いて悟らないと、悪いものが来て、その人の心にまかれたものを奪っていきます。
道端にまかれるとは、このような人のことです。
イエス様が親切に、種まく人、種の話、この畑の話は何の話なのか、
これは見国の言葉の話ですよ、とイエス様が解説してくださいました。
道端にまかれた種の話、見国の言葉が聞いても悟らない。
イエス様が当時、神であるイエス様が来られて、
09:00
イエス様が聖書のお話を、病人を癒す、死んだ人をよみがえする、
そんな風にして天国の見国の言葉を語ってもどうですか、皆さん。
あの時、エルサリムの人々がみんな信じて救われたんですが、そんなことはなかったんですよ。
悟らない、悟れなかった。
残念ながら、もう神なるイエス様が語られた見国の言葉なのに、悟らなかったから。
悪いものは来て、その人の心にまかれたものを奪っていかれた。
つまり、神の言葉が語られても、聞かれても、あるいはこのようにメッセージが語られても、聞いていても、
何十年聞いていても、悟らないと。
その見国の言葉は台無しにされてしまうんだ。
悪いものに奪われてしまうんだ。
たとえそれが見国の言葉であっても、ということなんです。
その次、5節、6節。
別の種は土の薄い岩地に落ちたんですね。
土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし火が昇ると焼けて、芽がないために枯れてしまう。
これを20節に家様が解説してくださいました。
20節ご覧ください。
また、岩地に巻かれるとは、見言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分の家に根がないため、しばらくの間そうするだけで、見言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
根がないんですね。
その見言葉を聞いて、その見言葉を自分に根を下ろすべきなのに、根がないためにすぐにつまずいてしまうということなんです。
見国の見言葉を聞いていても、少し聞いてはいるんだけれども、
困難が来る、迫害が来る、難しいことが起こる。
そしたら根を下ろすことができなかった。
残念なことでした。
それで実を結ぶことができなかった。
聞いてね。
聞いてね。
12:01
おしゃべりは後でしましょう。
ありがとう。
その次は7節を見ると、別の種は茨の中に落ちました。
茨が伸びて塞いでしまったんですね。
それでそこも実を結ぶことができなかったんです。
これを22節を見てくださいね。
22節を見ると、茨の中に巻かれるとは、見言葉を聞くか、その世の心遣いだと、富の惑わしが見言葉を塞ぐため、実を結ばない人のことです。
見国の言葉を聞いても、富の惑わし、世の心遣い、いろんな心配があって。
例えばコロナの心配があって、病気の心配があって、家族の心配があって、お金の心配、健康の心配、病気の心配、いろんな心配があって、見国の言葉の根がつかなかったんですね。
さあ、こうするとですね、よく聞いてくださいね。
見国の言葉が巻かれました。聞かれました。
そしたらですね、そうすると、こうなると、道端とか岩地とか茨のところに巻かれた種は、ある意味で台無しになってしまったんですね。
そうすると、4分の3は何の実も結ぶことができなかったんです。
そうでしょ。だいたいでね、よいちお4分の1、道端、岩地、茨で4分の1とすると、4分の3はもうだめになってしまったんです。
見国の言葉は語られたんだけれども、例えばここ30人したら、だいたい22人は何の実も結ぶことができなかったということになるんです。
300人だったら、250人は、もう神の国の見事が聞いても聞いても心配があって悟らないから、もう台無しになってしまったということ。
実際皆さん、イエス様のあの時代の話は聞いてみてください。
神の子、イエス様が来られて、死んだ人を甦らせても、茨取人を猛人の目を癒しても、歩けない人の足を癒しても、神の国の見言葉を語っても、あの時どうでしたか。
15:10
イエス様が天に引き上げられる時に、イエス様の弟子は何人いましたか。
1万2千人くらいいましたか。
120人くらいいたんですか。イエス様の弟子はたった11人しかいなかったんです。
イスカリオイルデアの代わりにマッテリアが使徒になりますが、たった11人が残ったわけなんですよ。
身国の言葉が語られても、聞いてもどうですか。
最初は、初めは神の言葉が語られても、例えばあの時のイエス様が、5つのパンと2匹の魚で5千人を食べさせた。
子供、大人、男性、女性、数えると1万人になるかもしれない。分かりませんけどね。
そんなたくさんの人が満腹して、たくさん聞いてもどうですか。
あの群衆はイエス様が十字架につけられる時にどうなったんですか。
みんなイエス様をつけろ、殺せと言ってしまった。
今日ペンテコステの日ですけれども、使徒の働き、第一章、二章に見るとね、
あの丸子の、あの2階の奥前に集まっていた人は、たった120人ですよ。
もちろん妙谷の人数に比べたら、4倍にもなるから多いんですかもしれませんが、
当時のエルサレム町の人口は、いろいろ説は多くあるんですけれども、分かりますが、
少なくとも10万人から多ければ100万人はいただろうと、ちょっと幅が多くありますけれども、それほどいたと言うんですよ。
エルサレムだけで10万人、イスラエル全国合わせると、200万人から300万人ぐらいはイスラエル人口だっただろうと言われています。
そうするとですね、あのエルサレムだけ10万人しても、10万人のうち半分だけがイエス様のお話を聞いたとしてもね、
5万人が聞いたとしても、その中で残りはたった120人です。
まるで種がまかれて4分の1しかいい土地にまかれた、あの種と実はよく似ているんです。
未国の言葉が語られても、実際どうでしたか。人々がすごく応答して信じて、そうなったんでしょうか。
イエス様が言っておられたときには、そうではなかったんですよ。ものすごく冷たかったんです。
もう聞こうとしない。
パリサイ人たち、サドカイ人たち、立法学者たちはどうですか。
18:04
ものすごい知識を持っているんです。
もう孟政五章、立法すらすら暗記している立法学者たちは、もう一生の間、聖書を書き落とす仕事をしている人。
パリサイ人々はものすごく聖書の知識があって、経験があって、人々の先生に呼ばれる。
ラピで呼ばれた。どうですか。
しかし、むしろ神の言葉を、未国の言葉を聞いても、むしろ聞いた言葉が鳥みたいに、
パリサイ人や立法学者たちのあの堅い人々によって、御言葉が台無しにされてしまった。
あるいはお金の心配、健康の心配、将来の心配、死んだ後の心配、いろんな心配で御言葉を聞いても、
魚で一杯に食べても、よみがえた人を見ても、無駄のようになってしまう。
4分の3は台無しになってしまったんですね。
あの御純説の日に、また話しますと、もうイエス様を信じる人が、あの未国の言葉を聞いて、ものすごいリバイブが起きて、
あの御純説の日に、人々がグラウンドに集まるほど多かったという方ですね。
2階のお駒にもう入りきれなくて、みんなグラウンドにエルサレムの広場に集まった。
そんななじゃないかという方です。そうではない。たった120人です。
リバイバルのところか、未国の言葉は拒まれました。拒否されました。
もう嫌だ、聞こうとしない。
どうしたらあのイエスを殺すことができるんだろうか、みんなそればかり考えていたことだったんです。
今日も似ているかもしれません。
神の国の御言葉が、未国の言葉を聞いても悟られない。
受け入れようとしない。ちょっとだけでも自分の気に入らなかったら、もう吐き出してしまう。
反応しない。耳を塞いでしまう。
ところが、ある意味でイエス様が語られても、イエス様の時代もこうなったんだから、
今の時代も未国の言葉を、私たちが、皆さんが、周りの人々に、イエス様の話を、天国の話を、
よみがえりの話をしても、みんなからも冷たい反応があるのが、ある意味で当たり前かもしれません。
もうイエス様の話を聞いても、みんなそうだったんじゃないですか。聞こうとしなかったんです。
21:01
イエス様の時代でも、今の時代でも、未国の言葉には、人気がないんです。
歓迎されないんです。歓迎されるどころか、もう排斥されてしまう。
これが事実かもしれないんです。
皆さん、私たちは、未国の言葉は、人々に好きになってもらうために語っているんじゃないです。
未国の言葉は、この人が聞いたら好きになるかもしれない、と思って語る言葉ではないんです。
教会の中でも同じなんですね。
未国の言葉は、神の言葉は、私たちが好きな言葉だけ聞こうとするんじゃないんです。
神様が語られる言葉に、どう応答するかは、私たちの問題であると思うんです。
イエス様の言葉は、当時、本当に人気がなかったんです。
みんなから嫌われました。イエス様を十字架で殺せるほど、嫌われました。
聞こうとしなかったんですね。
しかしどうですか。聞こうとしないから、未国の言葉は間違ったんですか。そうではないんです。
むしろ人々は罪人だから、心の中に悪があるから、未国の言葉は当然、嫌われるわけです。
闇が光を嫌うように、悪が善を嫌うように、泥棒が警察、パトカーを見たら、嫌うように、嫌われるわけなんです。
アメリカのジョン・パイパーという有名な説教者の先生がいますけれども、
その先生の本に、これはアメリカっぽいですけれども、こんな話をしました。
牧師向けの本ですけれどもね。
アメリカはテレビメッセンジャーが多いから、こんな話がなかったのかと思いますけれども、
皆さんの説教が人々に人気があまりなくて、人々にあんまり反応がないんでしょうか。
そしたら皆さんは今、未国の福音を正しく伝えていると思ってください。
一方で、皆さんの説教は人々にものすごく人気があって、好かれているんでしょうか。
そしたら皆さんの説教は、未国の福音とは遠い遠い人気を売っているメッセージであるかもしれません。
とてもアメリカのテレビメッセンジャー、全部悪いわけではありませんが、
そういう人々向けてのとても辛辣なお話だなと思いました。
ところが皆さん、今日の話はここで終わりじゃないんですよ。
24:02
ここまで聞いたら、見たら、いやもう未国の言葉もしょうがないね。
イエス様も力がないね、絶望だなと思うかもしれませんが、
イエス様のこのたとえ話はここで終わっていません。
未国の言葉を聞いても4分の3は聞こうとしない、身を結ばない、奪われてしまう、そんな台無しになってしまったんですが、どうですか。
4分の1が残っているんですよ。
未国の言葉が聞かれて、撒かれて、もう全部聞いてしまって台無しになってしまったかと思ったんだけれども、4分の1はどうですか。
よい地に撒かれたんですよ。
8節ご覧ください。
別の種はよい地に落ちて、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだとあるんですね。
それを解説をイエス様が23節にしてくださいました。
ところが、よい地に撒かれるとは、未言葉を聞いてそれを悟る人のことで、その人は本当に実を結び、あるものは100倍、60倍、30倍。
皆さん大事なのは、未国の言葉を聞いて悟ることが大事なんです。
皆さんいかがでしょうか。
未国の言葉を聞いて、聖書を読んで、説教を聞いて、悟っていらっしゃるんでしょうか。
悟って、それを自分の身に適応して、身になるように、結ばれるようにしていらっしゃるんでしょうか。
悟ることが大事ですよ。
未言葉を悟る、聖霊の恵みによって悟ることが大事なんです。
聞きっぱなしじゃなくて、4分の3は、もう全部死んでしまった。
しかし、4分の1、わずかの種が、未国の言葉を聞いた、あのわずかの人々。
まるでね、11人の弟子のような人々。
あの御殉節の日の、あの2階の駒に集まった、たった120人、あの小さな群れ、4分の1ぐらいの人々がいた。
そして、未国の言葉を聞いて、悟った人々。
イエス様がおっしゃられた、あの御霊が来られるまで、もう本当に信じ切って、祈り続けて、粘り強く祈り続けて、そこを離れなかった人々。
結果はどうなったんでしょうか、皆さん。
4分の1が、4分の3ぐらい、2倍、3倍、それぐらい身を結んでも、もう完璧になるんじゃないですか。
しかし、あの4分の1で、100倍、60倍、30倍身を結んだんだから、元の種よりもっと多くの、あの道端や岩地や茨に巻かれて台無しになってしまった、あの種よりもっと多くの身を結んでしまった。
27:21
何が、未国の言葉が。
皆さん、これは畑の力の話じゃないんです。
未国の言葉の力なんです。
未国の言葉の偉大さの話なんです。
今日も同じなんですよ、皆さん。
教会の中であろうが、外であろうが、大きな大型の集会であろうが、小さな2,3人集まって礼拝であろうが、
未国の言葉が語られて、もう必ずのように4分の3ぐらいは冷たい反論です。
教会の中も外も。
しかし、たった4分の1であっても、その人々が、もう残って、残って、残って、そしてその人々によって、あの人の働きを見ます。どうなりますか。
たった120人によって、1日に5,000人が、3,000人が、あの祭司たちが、立派者たちが、パリ祭人たちが、イエス様の弟子に加えられた。
すごいリバイバルが起きた。
みんなが信じたからじゃなかったんですよ。
むしろ、たったわずかな少人数で、この本当のリアル信者、弟子のゆえに、神の国の力が来るわけなんです。
今日も同じです。
どこの国もそうですが、福音がもう嫌われるんですよ。
拒まれるのに聞こうとしない。
今日も同じです。
日本の方々は、だいたい自分は悪いことをしていない。
罪人と思わない。
特に日本人はもう優秀な民族だから、世界一のトップのクラスの民族だから、もうね、神なんて罪なんて、そんなにいらないと思っている。
また、もう死んでから行く天国より厳正でのご利益的な、そんな、今目の前にある利益がもっと大事であると思っている。
あるいはね、戦死国だから食べていくのにね、特に問題ないだから、もう御国の言葉なんて、キリスト教なんて、特に反応がない。
冷たいんです。当たり前なんです。
人気がないんです。
しかし、失望に落ちることはありません。
絶望に落ちることはないんです。
なぜでしょうか。
みんな聞いて悟らなくても、もう身を結ぶ人が本当にないなぁと、もうがっかりする、絶望しそうな時であっても、御国の言葉は生きているから。
30:01
その御国の言葉の力が身を結ばせるんです。
私たちの力じゃない、牧師の力じゃない、皆さんの力じゃない、我々の教会の力じゃないんです。
神の言葉の力。
御国の言葉の力が、100倍、60倍、30倍の身を結ばせる力が、御国の福音に、御国の言葉にあるんです。
これを信じていただきたい。悟っていただきたい。
そして、御国の言葉の力が福音を広げていく時に、12人弟子のような人、たった120人のマリアとか、女性が多かったじゃないですか、昔から今から。
そういう人々によって、御国の福音が広がったように、今日の私たちが、皆さん一人一人が、お一人お一人が、御国の言葉を聞いて、
悟るならば、皆さんを通して、神様が偉大なことを成してくださる。御国の言葉が力を発揮してくださるんですね。
メッセージを終わりたいと思います。
御国の言葉には力があります。弱くなることはありません。
御国の言葉を聞いて、本当に少ない人しか歓迎されない、悟らない、反応しなくても、心配することはありません。
その悟った人々を通して、従う従順な人々を通して、11人の弟子、120人のマリアたちのような人々を通して、
ウゴの種のあの群種よりもっと多くの働きを御国の言葉がさしてくださる。
私たちは聞いて悟らない群種になるか、聞いて悟る弟子のような人になるか、我々は今もどっちにつくか、選ばなくてはならないと思うんですね。
どうか御国の言葉の力が、我々一人一人を通して、明太利教会を通して、日本の教会を通して、豊かな実を結ばして御国が来ますようにと。
祈る我々の祈りが成就されますように、心からお祈り申し上げます。
32:31

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