00:01
皆さん、おはようございます。
暑い日が続きます。
本当に身体を楽にしながら、礼拝に参加していただければと思います。
一言お祈りをして、二言葉を取り継がせていただきます。
お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
私たちを今日も死の御前へと招いてくださって、
あなたご自身がこの礼拝の場にご臨在くださり、
あなたご自身がお一人一人に御言葉を語ってくださることを感謝をいたします。
神様、あなたは私たちをとことんまで愛し抜いてくださいました。
私たちの住みをその御子イエス様が担ってくださり、
十字架で流された血汁によって、
もはや完全に許されたもの、それだけではなく、
復活の命をもって永遠の死と共に生きる永遠の命を
今、私たちへと与えてくださっていることを感謝をいたします。
私たちはもはや一人で人生を歩んでいるのではなくて、
あなたご自身と共に歩む恵みの世界へと
あなたが招き入れてくださったことを感謝をいたします。
神様、私たちはなおも目が閉じ、耳が閉ざされているものであるかもしれません。
あなたご自身がどうかそれぞれを開いてくださり、
しもべはここにおります。
増加しをお語りくださいと、
へざまずいてあなたの御言葉を聞くことができるよう、
助けに導いてください。
ここに集いたくても集えないお一人一人、
施設におられる方、
また、本当に暑さで疲れておられる方もいらっしゃいますし、
家でまた足入れを聞きながら礼拝をされる方もいらっしゃいます。
お一人一人のところに主がいてください。
お一人一人をあなたの恵みによって支えてくださいますように、
お願いをいたします。
また、本当にこの続いている戦争のあなたがどうか覚えてください。
多くの方々が痛み続けています。
神様がどうかそのところにも届いてくださり、
どうか主よ、あなたによって平和が築き上げられますように、
どうか導いてください。
お願いをいたします。
御言葉を取り継ぐこのものを清めてください。
あなたの御用のためにお持ちくださいますように、
お願いをいたします。
これからの一時をあなたへと期待して、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
新学校で教わった授業の一つに
伝道学というものがあるんです。
それを教えてくださったのは
03:02
中島信光先生と小村崎義博先生という
伝道隊の二人の先生が教えてくださいまして、
特にとても印象に残っているのは小村崎先生の授業。
お会いになられた方もいらっしゃるでしょうかね。
本当に明るくてユーモアのある先生ですけれども、
小村崎先生が担当してくださった授業というのは
伝道の歴史についてだったんです。
教科書も買ったんですけれども、
先生は教科書を読んだらだいたいわかるからと。
最初そのページ少しだけ読んだ後、
だいたい話されるのは先生の経験談。
伝道においてどういうことがこれまであったかということを
ずっと話してくださって、
だんだん先生はテンションが上がってくるんですね。
最後は授業が終わる頃に正解みたいな形になって、
毎週正解みたいな、そういう授業だったことを覚えていますが、
口々に先生がおっしゃっていたこと、
それは動作も込みなんですけれども、
授業の最後に絶対言うことは、
精霊に満たされなさい。
指をふさして、精霊に満たされなさい。
伝道はそれだけだということを言っています。
伝道はそれだけだ。精霊に満たされなさい。
その授業は一応後期の学期末テストもあったんですけれども、
学期末のレポートがあったんですけれども、
その時も先生は黒板にカカカカカと、
精霊に満たされるって書いて、
これさえ書いていたら僕は合格点を上げるから、
だからこれをとにかく覚えておきなさいということを
強調されたことを覚えています。
頭でっかちな私はそれを聞きながら、
それだけでいいんですかということを思っていましたが、
最近富にそのことが大切だなと思わされています。
幸いなことに、私たちの教団は
精霊の内獣という言葉を大切にしてきました。
それは精霊様がすでに私たちのうちに
おられるということを信じますということですよね。
それは精霊様が私たちを清めることができるお方だと
信じますということです。
そしてそれは精霊様が
あの人たちを用いたように、
あのバックストーンを用いたように、
私たちを用いることができます。
そのように信じることが
おそらく精霊の内獣、
その信仰と呼ばれるものだと私は理解しています。
大事なことなんですね。
それはある種、旗から見るならば、
いや、そんなイエス様、イエス様、精霊様、精霊様なんて言わずに
もっと現実的なことをしなさいよ、取り組みなさいよと思われるかもしれません。
確かにその通りです。
私たちは一生懸命考えながら
真摯に自分の人生に向き合っていかなければならない。
ただ同時に、自分の人生に向き合って生きていくというのは
06:03
簡単なことではない。
とても大変なことですし、
私たちには限界がある。
ただ限界ある私たちの支えとなってくださる方、
それこそ精霊なる神様である。
そういうべきだと私は思うのです。
使徒の働きを今日もまた見ていますけれども、
この歌詞をやっぱり読んでいくと、
驚きをもって読まなければならないことばかりのような気がします。
一つ明らかの驚きは何かと言いますと、
この使徒たちが明らかに変わったということです。
とても変わったということです。
彼らは使徒の働きの一生を見るならば、
ローマ当局を恐れて怯えながら、
彼らは一ところに集まって隠れていた。
しかし今日の歌詞を読んでいただくときに、
何度か繰り返される言葉は、「大胆に」なんです。
大胆に彼らは語り始めた。
何を恐れるでもなく、大胆に生きるようになった。
この変わりざまを見て、
本当にそんなことがあり得るのだろうかと思わされます。
しかし、私は思うんです。
これはあり得ないことではないし、
そしてまた、おそらく複雑なことが起きているわけでもない。
やはり一つのキーワードに集約されていくようなこと柄だと思うんです。
それは、聖霊に満たされる。
聖霊に満たされなさいということだと思うのです。
今朝は少しこの使徒の働きの彼らに注目をしながら、
少しだけ聖霊様に満たされる、
そしてその働きがどういうものであったかということを
注目させていただきたいと願っています。
今朝はこの4章の13節からを読んでいただきました。
先週は4章の32節から読んでいただきましたから、
少しだけ遡りますけれども、
私たちは7月の上旬に、
今日読んでいただいた歌詞の前の歌詞をちょっと見ましたね。
これは続いているので少しだけ確認をしますと、
これは使徒3章の話のところから続いている出来事です。
神殿の前で歩くことのできない人がいました。
しかしその人にペテロとヨハネが会いました。
そのことを通して、この歩けなかった人が癒されるわけですね。
ペテロはこう言いました。
金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。
なざれのイエス・キリストの名によって立ち上がり、
歩きなさいということでした。
その言葉の通り一人の人が癒され歩き出したわけです。
このことはかなり大きな騒ぎになっていきます。
09:02
神殿の指導者たちもやってきます。
今朝はその歌詞の続き、その続き、
その騒ぎになっているところなんですけれども、
神殿の祭司や主演たちがこのペテロたちに聞きます。
あなたたちは一体何でこんなことを言うのか、
誰の名によって、何の権威によってそんなことを言うのかと。
ペテロたちは答えます。答える内容も、
十二節はすごいことを言っていますよね。
この方以外には誰によっても救いはない。
天の下でこの皆のほかに私たちが救われるべきなのは
人間には与えられていない。
とても、後でも見ますけれども、とても大胆な発言です。
徒竜祭に来たはずの主演たちは十三節を見ますと、
このペテロとヨハネの大胆さを見て、
そして彼らが知識人ではなくて無学な漁師である。
そのことを見て驚いたわけですね。
彼らは大胆なんです。何も恐れてはいない。
何よりも彼らが語っている言葉は先ほども言いましたが、
彼らが語っている内容自体がとても大胆でした。
十二節の言葉は先ほど読みましたけれども、
天の下でこの皆のほかに私たちが救われるべきなのは
人間に与えられてはいないからです。
これは神殿という場所で語ったということを考えると
ものすごくリスキーなことなんです。
それは何かといいますと、
神殿というのは唯一の神様が住まわれる場所なんですよ。
ユダヤ人からしたらそうです。
しかしこのペテロの言葉というのは
ある種、イエスのほかには救いはなしと言っているわけですよね。
聞き方によるならば、
彼らは唯一なる神を否定するのかとも見られかねないものです。
当然ペテロたちはそんなことを意識していません。
彼らが言うのは、イエス様はその唯一なる神様から使わされた
メシアなんですよということをちゃんと言っているわけですから
彼らは別に神様を否定しているわけではない。
しかしこういうことを言われると神殿の主エイたち
指導者たちからは困るわけですね。
だからこの使徒たちを勇めようとするわけです。
脅すということも書かれていますけれども
そういうことをしようとする。
しかし彼らを捉えきれなかったということが書いてある。
なぜ捉えきれなかったか。
一つは民衆たちがこのペテロたちの言葉に感化をされて
胸を打たれていたということがあるでしょう。
しかしもう一つあるのは何かというと
この16節に書いていますが
あの者たちをどうしようか
あの者たちによって著しい印が行われたことは
12:04
エルサレムの全ての住民に知れ渡っていて
我々はそれを否定しようもない。
以前も申し上げましたが
印イエスの名による奇跡が起きているというときに
そこでそこにいた人たちは何を理解したかというと
イエスの名によって力ある技が起きたということは
イエスというお方の権威が背後にあるということです。
イエスの名によって奇跡が起きるということは
ああ、イエスというお方は生きているということを証明しているんです。
イエスは生きておられる。
イエスというものは力があるものである。
それを彼らも目の当たりにした否定しようがない
イエスというお方が
あの十字架で死んだイエス・キリストが
ここで何かをしている。
はっきりわからないけれども
ここで何かが起きている。
それを否定しきれない。
だから彼らは勇めるにとどめるわけです。
何かが起きているわけです。
勇めるわけですけれども
ペテロたちはそれに屈しませんね。
19節から読みますと
しかしペテロとヨハネは彼らに答えた
神に聞き従うよりも
あなた方に聞き従う方が
神の見舞いに正しいかどうか判断してください。
私たちは自分たちが見たことや
聞いたことを話さないわけにはいきませんと言われます。
実に大胆なんですね。
本当に大胆です。
それは13節に書いてある通り
彼らの大胆さを見という
まさにそのような歩みを彼らがしている。
ちょっとだけ言葉のことを注意するならば
大胆であるという
この大胆という単語はですね
ギリシャ語では
パレシアという言葉です。
この単語は2つの単語がくっついてできている言葉なんですね。
パスという言葉とレシス
簡単に言うならばパスというのは
すべてのという意味です。
オールです。英語で言うならオール。
すべての
そしてレシスというのはこれは
発言であったりスピーチという言葉なんです。
大胆であるという言葉はどういうことかというと
すべての言葉を発することができる状態だということを
ギリシャ語では言うわけです。
いわば言いたいこと
自分の言うべきこと
言わなければならないこと
それを恐れずにすべて言うことができるという状態のことを
ギリシャ語では大胆であるということです。
人たちはまさに大胆だったわけです。
15:00
恐れずに言わなければならないことを
彼らは言っていた。
まさに彼らの使命はこの点に集約されていたと言ってもいいでしょう。
彼らは言わなければならないことがあったんです。
伝えなければならない使命があった。
じゃあ彼らは一体何を言わなければならなかったのか
少しだけいくつか聖書の歌詞を見ていきますと
例えば先ほど見ました4章の20節
4章の20節に
私たちは自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません
と言っていますよね。
もうちょっと進んで
例えば4章の29節
主を今彼らのおびやかしをご覧になって
しもべたちに
あなたの御言葉を大胆に語らせてください
あなたの御言葉を語らせてください
ちょっと飛んで31節も
今日の中心聖句ですが
彼らが祈りを終えると集まっていた場所がゆる動き
一度は精霊に満たされ
神の言葉を大胆に語り出した
彼らが語っていたのは神の言葉であるということが言われる
そしてもうちょっとごめんなさい
飛んでしまいますけれども
5章の20節
隣のページの下の段にありますけれども
5章の20節というところにもこういうことがあります
行って宮の中に立ち
人々にこの命の言葉を全て語り尽くしなさい
ということが言われているわけです
いろいろな表現がここで書かれていますけれども
すべておそらく同じことなんです
彼らが語るべきこと
それはイエス・キリストのことを語らなければならなかった
この大胆に彼らが語った行為
それはイエス・キリストを語ることであった
ただし2つの側面にまとめることができると思うんです
彼らが語ることによっておそらく2つのことが起きていた
まず彼らはイエス・キリストについて語ったんです
イエス・キリストについて語りました
それはわかりやすいかもしれませんね
彼らはずっと何度も
このイエス・キリストが死から蘇られたメシアである
それだけではなくて
このイエスは蘇られただけではなく
天に昇られて王になられたということが
使徒の働きで書いてある
このことは今日読んでいただいた25節から27節も
それに関連することが言われているわけです
ダビデの言葉が引用されている
引用箇所だけを読みますと
25節の後半から
なぜ違法人たちは立ち騒ぎ
諸々の国民は虚しいことを企むのか
知能たちは立ち消え
君主たちは愛ともに集まるのか
主と主にあふらそそがれた者に対して
18:03
これは四辺の二辺の引用です
四辺の二辺は何を書いているかというと
この世界には諸国
いろいろな王様がたくさんいるでしょうと
でも神はその諸国の王を見て笑うということが書いてある
なぜならその諸国の王の王は私だ
ということが書いてあるのが四辺の二辺です
神は王の王である
イエス・キリストは王の王である
そのことがここでも書いてある
ですから彼らはそのことについて語りました
しかしそれだけではなくて
彼らの語り口というのはもうちょっと
はだみに近いところですよね
彼らは二十節に言うんです
四章の二十節でさっきも言いましたが
私たちは自分たちが見たことや聞いたことを
話さないわけにはいかない
この王でありメシアであるイエス様を
私たちは見たし聞いた
これはお聞きになられて
あっと思われたかもしれませんが
これは第一ヨハネの一章と
まったくほぼほぼ同じ表現が使われているんです
ちょっと開いていいですかね
第一ヨハネの手紙の
ヨハネの第一の手紙の一章の
一節から四節というところに
まさにこのペテロが語った言葉と
似たような表現をヨハネもしています
新約聖書の478ページ
新科学2017では478ページになります
お読みしますとこういうことが書いてあります
はじめからあったもの
私たちが聞いたもの
自分の目で見たもの
じっと見つめ
自分の手で触ったもの
すなわち命の言葉について
この命が現れました
みちちと共にあり
私たちに現れたこの永遠の命を
私たちは見たので
明かししてあなた方に伝えます
私たちが見たこと
聞いたことをあなた方にも伝えます
あなた方も私たちの交わりを持つようになるためです
私たちの交わりとは
みちちまたみこイエスキリストとの交わりです
これらのことを書き送るのは
私たちの喜びが満ちあふれるためですと
第一ヨハネの1章の1節から4節に書かれてあります
ヨハネはそれはペテロもそうですが
私が語るイエスキリストというのは
私自身が経験したお方を語っているというんです
見て聞いて触れた
そしてこの方は今聖霊様によって
わかるのはこの方は命であった
21:01
永遠の命であった
言い換えるならば命に満ちあふれていた
この生きておられるイエス様が
私たちの交わりにいてくださり
そのことを思うときに喜びがあふれてくる
そう語っているわけです
使徒の働きにも
5章の42節というところにパッとだけ読みますと
彼らは毎日家や宮で
イエスがキリストであると教え
述べ伝えることをやめなかったわけですから
彼らが口を開き語ることは
イエス様はイエス様だったということです
この方こそが私たちの伝えるべきお方であり
この方こそが今を生きている私たちの中心にいる
そういうことを言わんばかりにです
彼らは後にキリスト者と呼ばれるようになります
これは差別表現というか悪口なんですね
キリストバカということです
あいつらキリストキリストばかり言ってということです
でもそのぐらい彼らは
イエス様一色だったということでしょう
ちょっとだけお聞きしますが
私たちは皆さんは
イエス様を見て触れて経験されたでしょうか
そのようなことをおそらく
自分自身にも問うていいのではないかなと思わされます
思われるかもしれません
2000年前の方をどういうふうに触れるんですか
どういうふうに見るんですか
2000年前に死んだお方
それは蘇られたと言うけど
今を生きている私と一体何の関係があるのですか
思うかもしれません
ただ一つ希望は
聖霊様真理の御霊は
イエスキリストについて
証をするということが
ヨハネの福音書に書いてある
聖霊様によって私たちは
今もイエス様を見て触れて
聞くことができるということでしょう
そしてまさにそのことに関連して
もう一つこの人たちが語る中で
起きたことは何かと言いますと
イエス様について語った彼らですが
ここで起きていたことは同時に
イエス様ご自身が語ったということです
イエス様ご自身が語られた
注目をしたいのは
五章の二十節にあります
人々にこの命の言葉を全て語り尽くしなさい
という言葉です
命の言葉と聖書は
神様の言葉は言われている
この命の言葉という表現にも
おそらく二つほどのニュアンスがあるんです
命の言葉
24:01
それは生きている言葉であるということです
それは単なる言葉ではなくて
その言葉を通して生きておられる
イエス様が語られる言葉だということです
この言葉は生きているということです
そしてもう一つこの命の言葉というのは
私たちに命を与えることのできる言葉だということです
命の言葉というのは
私たちに命を与えることのできる言葉です
彼らは御言葉を語りました
それはイエス様について
しかし宣教の優弁さ
宣教が進んでいった
その彼らの宣教の優弁さというのは
決して彼ら自身の弁説の上手さだとか
そういうことに左右されているわけではないんです
ペテロは無学な人なんです
じゃあ一体何がこの宣教を進めたのか
それは神の言葉が広がったと
使徒の働きが書くんです
神の言葉が机に広がっていった
使徒の働きの中にいくつか書かれている表現を引っ張ると
例えば使徒の六章七節には
こうして神の言葉はますます広まっていき
エルサレムで弟子の数が非常に増えていった
同じような表現が十二章の二十四節にも出てきます
神の言葉はますます盛んになり広まっていったと
神の言葉という言葉が主語なんですね
普通は使徒のペテロの働きが広がっていっただとか
教会のこの働きが広がっていったという風に書くべき箇所かもしれませんけれども
聖書はそう書いていません
神の言葉が広まっていった
それは言い換えるならばこの使徒たちの言葉を通して
神ご自身がここで働いて
宣教を進めていかれたということ
そして今でもそれは変わらないわけです
神の言葉は生きている
それは神様の言葉
私たちでいうところの聖書の言葉ですね
今でも私たちが聖書を開くときに
神様はこの言葉から私たちに語りかけ
そして今なお私たちに命を与えることができる言葉が
それが神の言葉
使徒たちが述べ伝えた言葉だということです
私自身は聖書は本当に命の言葉だなと思わされます
少しだけ救いの証をさせていただくならば
以前この教会で少しだけお話しましたが
私は中高生時代内心がすごく荒れていて
キャンプに行ったときにある先生に
しっかりと話を受け止めてもらって
27:00
その先生の前であるとき
本当にそのときにはっきりと本音を言って怒ることができて
先生にイエス様が君の傷を癒すことができると祈ってもらって
そこで何か心が落ち着いたという話を以前させていただきました
そのアフターストーリーをちょっと話すならば
キャンプから帰ってきた後
母教会の足立博士先生と土曜日の夕方に
一対一で先例の学びをもう一回やり直そうということになったのです
先生は多分キャンプで私の話をいろいろ聞いたからだと思います
もう一回学び直そうと
ただ先例の学びを先生と一対一でやり直すのですが
大体の内容は耳にタコなんですね
教会なりに解禁症なりに十数年間教会に行っているものですから
聖書が一体何を言っていて
何が救いと言われているのかということは
もう頭ではわかっているわけです
でもそれだけで全然自分の心は満足できなかった
あるとき先生にちょっとこれは苛立ちながら聞いたことがありました
先生、聖書の内容はもう頭ではわかっています
でも私は2000年前に死んだイエスという人物が
今の私と一体何の関わりがあるのかということがわかりません
どうすれば救いの確信を得ることができるのでしょうかと
訴えたことがあります
そのときに足立先生に言われたことは一言でした
みっくん、それは僕がどれだけ君に丁寧に説明しても
君に確信を与えることはできない
それを与えることができるのはイエス様だから
だから祈って聖書を読みなさいと言われたんです
祈って聖書を読みなさい
私はその言葉にうんざりしました
またイエス様、また聖書と
それしかないのかと思いながら
大学受験を終えて無事に大学生になって
私は教会のお兄さんやお姉さんに勧められて
大学の聖書研究会というところであったり
また刑事系というところの交わりにつながるようになりました
そこには同年代で本当にイエス様を信じている
真剣に聖書を読んで祈る人たちがいたわけです
そのような交わりに触発される中で
私はあるときに足立博之先生に言われていた言葉をふと思い出します
祈って聖書を読む
私は一人で祈って聖書を読み始めるということを始めました
最初はこう祈りました
神様、あなたが本当におられるのであれば
私にあなたを示してください
それだけを祈って聖書を読み始めました
読み始めていくとですね
私はマタイの1章から始まったんですけれども
30:00
不思議な経験をします
何かというと
聖書の言葉が私の胸をグサグサ刺すという経験をするんです
聖書の言葉がグサグサ私の胸を刺していく
時にはわけもなく涙が流れるんですね
不思議な光景、不思議なことが起きている
何が起きているんだ
何が起きているかわからないけれども何かが起きているということを思って
私は聖書を貪るように生むようになりました
大学の授業もあまりいいことではないですけど
サボって図書館の地下でずっと聖書を読むということが始まりました
読み進めていく中で
私はルカの福音書の23章というところに行き着きました
イエス様の十字架の場面なんですね
何度も何度もその箇所を読んできたわけですけれども
この時読んでいるときに私の中には
イエス様の十字架の光景がありありと頭に浮かぶということが起きたんですね
その中でいつもならば読み飛ばしていたある人たちに目がいきました
それはイエス様が十字架にかけられるときに
イエスを十字架につけろと叫んだ群衆たちの姿です
私はその人たちの箇所を読んだときに
ものすごく心の中に嫌悪感が湧いたんですね
ああ見にくいと思ったんです
この人たちはイエス様がエルサレムに入るときには
バンザイと言っていたのに
自分たちの期待通りのメシアでなければ
あいつを十字架につけると言ってしまうような
すごく利己的で自分勝手で
まさに人間の醜さが集約したような人間だな
そういうことを思いながら読んでいたときに
ふとそこで問う声が聞こえたんです
じゃあお前はどうなんだと
お前はどうなんだと
兄と姉が私にはいまして
今はとても仲良くなったんですけれども
当時すごく仲悪かったんですね
私は一方的に彼らのことをとことん軽蔑をしていましたし
家が荒れていたのも原因は彼らのせいだと思っていたので
心のどこかで思っていたんです
あんな奴らいなくなればいいのに
それは私の中に残っている一つの怒りだったわけですね
でもいざ聖書を読みながら思わされたことは
じゃあお前はここにいる人たちと一体何が違うのか
お前だって自分の都合のために
彼らがいなくなればいいと思っているじゃないか
何が違うのかということを思わされて
ものすごくつらくなったんですね
33:01
聖書を読んでいて
でもその後の箇所
ルカの福音書の23章の34節というところ
その続きです
イエス様が十字架上で言われた言葉がありました
ルカの23章の34節
その時イエスはこう言われた
父よ彼らをお許しください
彼らは自分が何をしているのかが
分かっていないのですという言葉
この聖書の言葉は私は何度も暗唱して知っている言葉です
これまで何度も聞いてきた言葉です
しかしこの時初めて私は
この言葉をイエス様が私に語ってくれている言葉
として聞こえたんですね
ああ私のためにイエス様が十字架で血を流し
私のためにこの言葉を言っているんだということを
その時に痛感させられたわけです
父よ加藤光を許してください
自分自身がどれほど醜く愚かで利己的であるかすら
気づけないそのようなものなのですと
血を流して私が本来流すべき血をイエスキリストが流して
キリストが涙ながらに父に訴えてくれている
いいや訴え続けてきてくださっていた
そのことを知らされる時に
私はその時は部屋で一人でスタンドライトで
聖書を読んでいたんですけれども
涙が止まらなくなったですね
涙が止まらなくなって
一人でそこで
イエス様私のこの罪を悔い改めるべきお方はあなただったんですね
ということを言って
主よ許してください
主よ感謝しますと
そう祈りました
私にとってはこれが私の救いの確信をいただいた時でした
私にとっては救われた時
イエス様が生きておられると知った時
でもこれは別に言い訳ではありませんけれども
私はあんまり個人伝導がおそらくうまい方の人間ではないんですね
本田先生みたいにバッと魂を掴むみたいなことは
多分できるタイプの人間ではなくて
それは私が誰かの導きの下でパッと救われたという経験を
持っている人間じゃないから
イエス様を信じたいとそう言ってくだされば
私はイエス様のことを伝えますし見言葉を語ります
でも私が何よりも私自身が確信を持って
皆さんにまず勧められるのは何かというと
祈って聖書を読んでみてくださいということです
本当にそうしてみてくださいということです
それは誰かが語ってくれなければ分からないだとか
36:01
そういうことあるでしょう
でもそれよりもまずとりあえず何でもいいから
神様って祈って聖書を読んでみてください
今も神様は語ってくださるんですね
それは私自身が命の言葉を通して
命を得たという経験があるからです
私はこのことを証しできると思っています
それが私がイエス様を見
イエス様の声を聞き
イエス様に触れたという経験を
聖書の言葉から私はしたから
そして今も変わりません
聖霊様は今も生きて働かれて
聖書の言葉神様の言葉を通し
イエス様について証ししてくださるんですね
これは今も変わりません
なので私が皆さんにお勧めしたいことは
ぜひ一緒に聖書を読みましょうということです
どこかでまたそういうことができたらいいなと思いますが
一緒に聖書を読んでいきましょう
一緒に祈っていきましょう
神様が私にあなたご自身のことを教えてくださいと
聖書は命の言葉です
本当に命を与えることのできる言葉です
私はそのことは証しできるなと自分自身で思っています
さてもう終わりますけれども
最後に一つだけ確認をしておきたいことがありますけれども
人たちはこの命の言葉を
聖霊様に満たされて語ったということが
今日の中心聖句として挙げたところに書いてありました
一度は聖霊に満たされ
神の言葉を大胆に語り出したと
聖霊様に満たされるということに関して
実は多くの人たちがたくさんのことを言っています
なので一つにまとめて言うことは不可能だと思っていますけれども
一つの見方を今日は紹介して終わりたいと思いますが
ロイド・ジョーンズという人がこういうことを言っていました
聖霊に満たされるということを考えるときに
私たちが気をつけなければならないポイントは
おそらく二つだということです
一つは聖霊様というのは
何か非人格的なエネルギーというか
ものというかそういうものではないということです
よく聖霊様に満たされるというときに
古塔で電気がなくて
回線をつないで電気が流れてくる
そういうふうに電線がないとまずいでしょうという話を
時々されることがあります
全く間違いだとも思いませんけれども
ただ純粋なエネルギーのように考えてしまう
でもそうではない
聖霊様は人格的なお方です
人格的なお方で
39:00
聖霊様は私たちのうちにおられる
そして人格なお方ですから
私たちに語りかけられる
どのように語りかけられるか
聖霊様が何かを教えてくださる
導いてくださる
そういうこともあるかと思いますが
しかし聖霊様が私たちに語りかけるのは何かといいますと
先ほども言いましたが
真理の御霊はイエス・キリストについて明かしをするわけです
それは言い換えるならば
イエス様のお心を
そしてイエス・キリストにおいて表された
父なる神様の愛を
私たちのうちに明かしし続けてくださるということです
私たちは聖霊様がうちに住んでおられるんですね
そして聖霊様は御言葉を私たちに響かせて
新しい命を与え
私たちにイエス様の愛を教えてくださる
それはあたかも
あたかもそれはイエス様の愛を
私たちのうちに教え続けることによって
私たちの心が水が器からあふれて流れ出ていくように
そのように聖霊様は
私たちにイエス・キリストのことを教えてくださる
ロイド・ジョーンズはこうも言っています
もう一つは満たされるというのは
満たすという言葉のもともとの意味は
これは影響力のことを言っているのだと
影響力
それは言い方を変えるならば
その人のことを考えると
心の中がいっぱいになるという状態のことを
満たすということを言っているわけ
私たちは聖霊様に満たされなきゃ
満たされなきゃということを思うわけですけれども
頑張って満たされる
そういう側面がないわけではないでしょう
でももっと大事なことは何かと言いますと
聖書はイエス・キリストを通して
神が私たちに愛を示してくれたということを
言っているわけです
これは事実なんです
大事なことは
いや、そんなわけがない
私は神に愛されているわけがないだとか
私なんかが神様に愛されるわけがないだとか
私はダメでこうでということを
いろいろ言うんだけれども
大事なことは
聖霊様によってその事実を認めなさいということです
神はあなたを愛している
神はあなたは私の目にあって
効果でたっといと言っている
その事実を認めなさい
これは事実なんです
私たちが頑張ったから
そう思ってもらっているわけではないんです
事実なんです
それを私たちが素直に認めるということです
心の中には様々な
私たちを否定する言葉があるでしょう
42:01
でもあなたがどれほど
自分自身を否定し
神様を否定したとしても
神様があなたを愛する愛を
一ミリも減らすことなんてできないんです
聖書はそういうことを書いているんです
一度は聖霊に満たされ
神の言葉を大胆に語り出した
人たちは満たされて
大胆に神の言葉を語ったといいます
神の言葉それは聖書の言葉であり
またイエス・キリストの愛に味付けされた言葉
あなた自身の言葉といってもいいかもしれません
大胆にという言葉はパレスや
先ほど言いました
言いたいこと自分の言うべきことを
恐れずにすべて言えるということです
今朝ご一緒に問われたいのは
私たちにはきっと
お互いに言わなければならない言葉というのがあるんです
言わなければならない言葉
言うべき言葉
言いたいけれども口にすることのできてこなかった言葉
それは誰かに対してかもしれない
それは自分自身に対してかもしれません
でも言わなければならなかった言葉というのがおそらくある
大胆にそれを語ることができればと願うのです
私たちは拒絶ということを
そういうことをするときに経験します
拒絶というのは人の心を傷つけます
人たちもこの歌詞を見るならば
たくさん拒絶されているわけです
でも彼らが大胆であれたのは何か
世界のどんな人が私を拒絶したとしても
私を受け入れているという事実があるのです
世界の何が私を否定しようとも
神が私を受け入れている
神が私を愛している
その事実は変わらない
だから彼らは語るべきことを語るという使命を果たすことができた
私が言うべき言葉
言わなければならない言葉とは一体何でしょうか
誰かに対して自分自身に対して
言わなければならない言葉とは何でしょうか
それを一人一人が言うことができるようにと
精霊様の導きを願っています
一度は精霊に満たされ
神の言葉を大胆に語り出した
二言葉の前に跪かせていただきましょう
お祈りをいたします