00:01
みなさん、おはようございます。
おはようございます。
今日も、礼拝にようこそいらっしゃいました。
神様がみなさん、お祈りお祈りを豊かに祝ってくださるように、これからお祈り申し上げます。
それでは、メッセージに入る前にですね、隣の方と挨拶したり、そういうふうに交わると思いましょうか。
ようこそいらっしゃいました。
それでは、一言お祈りいたします。
天皇父神様、今日も主が私を、我らの魂を、身体も主が生かしてくださって、
主の御前に私たちを一人一人名を呼んで集めてくださって、
また共に、主の御前にこのように幸いな礼拝を捧げることができる、この恵みを本当に私を心から感謝いたします。
どうか主よ、今から神様の御声に耳を傾けたいと願っております。
ここにいる一人一人に、主よどうぞ、あなたの光のお言葉を、命のお言葉を、
どうぞ主よ、あなたが溢れるほどにだしてお語りくださいますようにお願いいたします。
そして帰る際には本当に希望に満ちて、祝福に満ちて、あなたの礼に満ちて帰ることができますように、
どうぞ主よ、豊かに祝福してください。
このものは隠して、神様、あなた様御自身だけが現れ、本当に主御自身がお語りくださいますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は続けての、しこの働きの第六回目のメッセージになります。
先週のメッセージ、皆さんもち覚えていらっしゃるでしょうか。
忘れられても結構ですけれども、
聖霊様は私たちを生かしてくださる命の霊であると申し上げました。
いかがだったでしょうか、皆さん。
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一週間、人を生かし、魂を生かす一週間だったでしょうか。
そのような歩みだったでしょうか。
今すぐ働きですね、第2章を見ていますけれども、
聖霊様が御尊節の日、いわゆる天手越してといわれるその日にですね、
そこにいた一人一人の上に、聖霊様が望まれました。
聖霊様が望まれたということは、皆さん言い換えますと、
聖霊様は神様の霊ですから、神様が一人一人の上に、
そしてその群れ全体の上に望まれたということなんですよね。
ですから皆さん、今見ているこの人の働き第2章は、
人の働き全体がそうなんですけれども、
これはシリアスの教会の出発なんですね。
教会の出発、その出発がどのようにして始まったのか。
それは聖霊様と共に始まった。
つまり神様の御臨在と共に出発したということなんですよね。
ところが皆さん、私たちは皆ですね、それぞれ教会に対するイメージを持っているかと思うんですね。
ある方は愛に満ちた教会こそ、理想的な教会だと言います。
ある方は弱い人も受け入れられる教会こそ、理想的な教会だと言います。
ある方は若者も子供もお年寄り方も全世代が集まる教会こそ、理想的な教会だと言います。
ところが皆さん、私たちがですね、教会に対する正しいイメージは、
実は私たちが作り出して自分が好むイメージをこれが教会だと当てはめるというより、
聖書が語っている教会の正しいイメージをまず正しくした上で、
その上で私たちは正しい信仰生活をしていくことができますし、
また、イエス様の心にかなった教会を立て上げていくことができるわけなんですよね。
ここで申し上げている教会は、この教会と建物ではなく、
イエス様を信じる私たちのこの群れ、目に見えない教会を意味するわけです。
例えばになったとおりだったらどうでしょうか。
たぶんですね、皆さん30年、40年前、あるいは最近ですね、
06:01
お家を建てて新築して、そこにたぶん今までお住みになっていらっしゃると思うんですね。
皆さんが新しくこだてを新築なさろうとしました。
それで設計会社に自分が望む設計を頼むわけなんですね。
庭は日本庭のように緑豊かな庭が欲しいと、こういう形で作ってください。
小さな椅子も作ってくださいと。それから壁の色はこういうペンキで塗ってくださいと。
そして家の中の壁紙はこんな色がいいでしょうとか、レイアウトはこういう色にしてほしいと。
設計会社に、建築会社に頼みました。
それで1ヶ月間楽しみにして、自分が好む家ができるだろうと楽しみにして、
そして1ヶ月経って行ってみたら、なんと自分が望んでいた家と全く別の家が建てられていた。
それでびっくりして聞いてみました。
そしたらですね、お庭を作る人は、それより自分が好む家、庭を作った。
壁にペンキを塗る人は、自分の奥さんが好きな色でペンキを塗った。
壁紙を貼る人は、自分の子供が好む紙を貼った。
作る人がですね、オーダーした人の要望ではなく、
作る人が自分が好む、自分が好きな家を作ってしまったとしましょう、皆さん。
しかも皆さんのお金がですね、5000万円もかかったとしましょう。
そしたらどうするんでしょうか。
はい、ありがとうございますと、そのままそこに入りたい人一人もいないでしょう。
訴えると思うんですね。これは一体どういったことでしょうか。
私が頼んだことはこれじゃないでしょう、と言うでしょうね。
皆さん、私たちが今習っているこの人の働きは、
新約時代に初めてスタートした教会の素晴らしい模範の原型のその姿を私たちに教えていくわけなんですよね。
教会とは何なのか。
生徒とは何なのかを、私たちにその答えをですね、正解を教えていくわけなんです。
ですから、今日も読んでいただきましたこの人の働き第2章、そしてこの人の働き全部はですね、
イエス様が私たちにこのように頼んだわけなんです。
あなたたちが今から教会を建て上げていくときに、
教会とはこのような姿だから、このように建ててほしいと教えてくださったわけなんですね。
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さあ、そしたら私たちはどうしたらいいでしょうか。
さっきの家の天気を自分が好きな色を塗った人のように、自分が好きな教会を建てればいいんでしょうか。
いえ、そうではないでしょう。
イエス様が教えられた通りに、イエス様が望まれた通りに教会を建て上げていきますと、
その教会こそ誠の教会であって、幸せな教会と言えるのではないでしょうか。
教会とは何でしょうか。
神の臨在に満ちたところ。
神の礼である聖霊様の全く支配を受けるところが教会なんですね。
それをこの人の働きがあらかじめ教えているんですね。
ですから皆さん、この人の働きをずっとこれから学んでいきますけれども、
このようなパラダイムをもって教会とは何なのか。
聖書で何と教えているのか。その答えは何なのか。
それを学んで、主が望む教会、主が私たちにオーダーした教会、
こう建て上げてほしいとおっしゃった教会をその通りに
共に一つになって、共に建て上げていきたいと願うのであります。
今日の第二章の二言葉は、あの先手越した時に、
ペテローという人が、この終わりの時代に来ている私たち神と一人ひとりが、
教会がどのような姿勢を持って一日一日を過ごすのが立派な信徒なのかを私たちに教えているんですね。
その第一つ目は、健全な週末感を持つことです。
週末は一日、五日じゃなくて、終わりのその週末ですね。健全な週末感を持つこと。
皆さん、もし今から一日間後、正午十二時に、
イエス様がもう一度来られるんだったら、皆さんはそのようなお気持ちでイエス様をお迎えしたいと思いますか。
イエス様、もう来るんですか。いや、駄目です。来年に来たらどうでしょうと言いたいでしょうか。
あるいは、やっとイエス様は来られますか。思っておりますか。
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イエス様をお迎えする準備ができていますと、喜んでイエス様をお迎えしたいと思います。
皆さん、週末論的な信徒、健全な週末感というのはですね、
今日、もしイエス様がもう一度来られたとしても、喜びをもってイエス様をお迎えすることができる信徒をもって生きるということなんです。
イエス様をお迎えする信徒の準備、清めの準備、心と身体の準備をすることなんです。
それでですね、イエス様が来られたら、まだです、じゃなくて、大丈夫です。
死を来てくださいと言いながら、賛美しながら、イエス・キリストを迎えることができるクリスチャンになりたい。
ですから皆さん、信徒の準備ができている人、清めの準備ができている人、心も身体の準備ができている人はですね、
イエス様が来られても、今日来られてもですね、恐れまして、叫まして、喜びまして、ドキドキワクワクするんですね。
もう寝れないほど、明日イエス様が来るんですね、ドキドキワクワクするんです。
それを楽しみにするんですね。楽しみにするんです。
皆さん、先週、うちの子どもたち、各校で休館試験が終わったんですけれども、皆さんが学生のときのことを、試験のときを考えてみてください。
1週間勉強して、よく準備ができている学生はですね、1時間30問としましょう。
そしたら、30問解くのは簡単です。30問解いてですね、時間が10分、20分余るんです。余裕なんです。全然余裕なんです。
ところが、あんまり勉強もしてなくて、準備もしていない人はですね、先生があと5分が、え、もう5分ですか?まだ20問も残ってるのに。
準備ができているか?どうか?どういうこと?
皆さん、終わりのときというのは、神様を信じて、唯一の神様を信じて、その信仰を全うした者ばかりに関しては、神様がその救いの約束を完成してくださる祝福の日であって、祭りの日であって、喜びの日ですよね。
ところが、神様を信じないで、自分の生きたい道を歩んだ罪人に関しては、裁きの日、恐れの日になるわけです。
今日のメッセージにですね、ペペロたちが立って、張り切って語っています。
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ですから、このペンテコステから世の終わりが始まっていると彼らは見ているわけなんですよね。
ですから、今日、私たちはこの新約の時代が始まって2000年経っているんですよね。この人の働き、この時代から約2000年が経っています。
だから、終末の時代はもうすでに始まって、私たちは終末の時代、終わりの時代に生きていることを否むことはできないと思うわけなんですよね。
そして、この終末が完成するのは、イエス様がもう一度来られて、神の国を完成する時が来るということです。
皆さん、終わりの時代はもう始まっていません。
その完成は、イエス様の再臨をもって完成する時です。
ところが、その終わりの日がいつなのかは誰も知りません。
今日なのか、明日なのか、一年後になるか、百年後になるか、神様だけが知っておられて人間は知りません。
ですから、健全な終末期間というのは、今日一日を自分の人生において最後の日だと。
今日のこの礼拝が、2015年5月31日のこの礼拝が、自分の人生において最後の礼拝だと。
そのような心をもって、礼拝に臨む。
そして、神の再臨を待ち望みつつ準備するということではないです。
皆さん、イエス・キリストは救い主として、ある人には救い主として、ある人には裁き主として、必ずもう一度おられます。
どうか皆さん、信仰の準備を、強めの準備を、心と体の準備をしてですね、喜びをもってイエス・キリストを再臨の日をお迎えしようではありません。
今日のセッテルの石教を見ますと、その終わりの日に神様は聖霊様を注いでくださると語っています。
17節をですね、ご覧いただきまして、私が読みたいと思います。
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このようにフェテロは語っていました。
神は言われる。終わりの日に私の礼を全ての人に注ぐ。するとあなた方の息子や娘をゆげにし、青年は幻を見、老人は夢を見る。
終わりの日に私の礼を誰にですか。全ての人に。皆さん全ての人に。そしてどれくらい与えてくださるんでしょうか。
一滴、二滴でしょうか。いや、注ぐと話です。
皆さんお家でですね、もしシャワーを浴びているときにですね、シャワーを浴びてから水が一滴トントン落ちたとき、シャワーしたことありますか。むかつきますね。
韓国の男は文大に行くんですけどね。
私、今から20年以上の前なんですけれども、たまに山の山中に奥に行ってですね、訓練をするときがあって、そしたら洗う水がなかなか少ないんですよね。
分量が決まっているんですね。12に決まっている。そしたら先輩から順番通りに洗うんですね。
一番上の先輩が多めに浸かってしまうんですね。どんどんどんどん多めに浸かってしまって、一番下のものにですね、このコップぐらいでですね、髪も顔も全部洗わなければならないんですよね。
皆さん、終わりの日に神様が私たちにご自分の身様様の力とご人材を与えてくださるときに、コップ一杯ぐらいじゃなくて、一滴二滴ぐらいじゃなくて、
あふれるほど、あふれてあふれて周りの人にも影響を与えるほど、多く注いでくださるという方。
ご存じの日のように、生理の見た日を経験した人々が今まで数え切れないほど多くありました。
一人の人物を紹介したいと思いますけれども、皆さんもよくご存じのジョン・ウィスレー先生ですね。イギリスの有名な牧師でありました。
書いてあるようにですね、メソディスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したとても素晴らしい人物の先生でした。
この運動から生じたのが、メソディスト派、日本にもありますよね、フリーメソディストとか、あるいはウィスレーやホーリネスとか、
そういったプロテスタント教派の創始者といえる一つ。このジョン・ウィスレー先生に2回目の生理の見た日の素晴らしい経験がありました。
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その次の1回目はこういうことでした。私が読ませていただきますね。
738年5月24日、ウィスレーはロンドンのアルダス・ジエイト河で行われたモラビア派の集会で不思議な経験をします。
ルーターが書いたローマ人への手紙公開序文を司会者が読んでいると、心が怪しく熱くなるような感覚があり、
その瞬間、キリストが自分を罪から救ってくださった確信が与えられました。
それはウィスレー先生が自分の戒心だと、あの時に生理の見た日が自分にあって、
早く思われるほど心が熱くなったその生理の見た日をジョン・ウィスレー先生は語っていました。
それから頃、一回かけりゃなくもう一回ありました。それは1年後なんですね。1739年でした。
1月1日、元旦でしたね。同じくロンドンでした。
フェッタ公示で朝の3時に祈っていた人々が特別な精霊体験をしました。
ウィスレーの日記にはこう記されています。
神の力が強く私たちに望んだため、多くの者が非常な喜びをもって叫び、また多くの者が死に倒れた。
神の威厳ある臨済に対する恐れと驚きから少し我に返ると、私たちはすぐに一つの声で叫び出した。
神様、あなたを賛美します。あなたがしてあることを認めます。
その後、ジョン・ウィスレー先生は勢力的な研究活動によって、
イギリスだけではなく、本当に記録によりますと、馬に乗って約総計36万キロメートル余りを走馬して、
4万回以上説教して、50冊以上の本を書いた。
その素晴らしい働き、その素晴らしい人生は、その精霊の見た目の経験でした。
皆さん、私たちがその精霊の臨済の現象を求める必要はありません。
いや、現象ばかり求めてはいけません。
心が危く、熱くなることとか、倒れることとか、幻を見ることとか、その現象ばかり求めるのは健全な信仰ではありません。
24:09
それは本末転倒なんですよね。
ところが、今日の一の働き二の生徒たちが受けたあの精霊の見たし、
ジョン・イスレス先生が受けた精霊の見たし、
神の力が強く求まれる精霊の見たしそのものは、私たちが求めるべきのことではないでしょう。
皆さん、これが教会なんです。
これが教会の命なんです。
これこそイエス様が望まれる、こうなってほしいんだよと望まれる教会の在り方ではないでしょう。
私たちもペテロのように、あのパオロのように、ジョン・イスレス先生のように、
いや、信仰の先輩たちのように、精霊の見たしを受けて、
そのイエス・イスレス先生が示す馬によって三十六万キロ走られたように、
四万回のメッセージができたように、私たちもそのように素晴らしく歩みたいと皆さん思いませんでしょう。
信仰生活も一つだと思います。
自分の力でそれをしようとするのなら、疲れますね。
傷つきやすいし、傷つけやすい。
しかし、精霊の力によって、神のご臨在の見たしによって働きますと疲れます。喜びます。
信仰生活が楽しみなんです。
ある人が富士山に登りました。一番下から頂上まで登りました。
歩きですよ。約二十時間かかってですね、かろうじてかろうじて頂上まで登っていくことでした。
とっても辛かったです。
喉が渇いて、足は棒になって疲れてですね、もう早く帰りたい。
もう疲れてですね、心余裕もなくてですね、周りを見るそんな暇すらもないんです。
それでですね、少女にほぼ着いたところですね、そこからヘリコプターの音がきます。
そして、こう見たらですね、ある人がヘリコプターの中に乗ってですね、あの富士山を観光しているんです。
彼は歩く必要はありません。疲れることもありません。
ヘリの中にあるエアコンの中でですね、冷たいミーチやサイダーを飲みながらですね、楽しそう楽しそうですね、富士山を楽しんでですね、観光しているんです。
27:00
自分は登ってばっかりしていて、辛くてしんどいです。
皆さん、信仰生活もこれと同じだと思いませんか?
ペペロやジョン・エスレイ先生のように、精霊に目指された人、精霊の力によって生きる人は、
信仰生活も、職場生活も、家庭の生活も、いや子供たちにも、
全てがですね、まるでヘリコプターに乗って富士山観光しているように、
いつも疲れることはありません。
ヘリがですね、行きたいところに連れて行ってくれるんです。降りたいところに降ろしてくれるんです。
もう楽勝なんです。
ところが、自分の力で、信仰生活も、夫婦生活も、働きも、何もかもしようとするんだったら、
みんな頑張りますね。頑張ることが悪いことではないんですけれども、
疲れ果てて、倒れてしまって、そうなりがちだと思うんですよね。
どうか皆さん、私も皆さんも、自分の力で頑張って頑張って、
ああいうものではなく、精霊の力によって、私たちを生かしてくださる精霊の力、
私たちに希望を満たしてくださる精霊の力、
その力をいただいてですね、皆さん一人一人が、
明太に教会が、精霊の満たしを受けた教会になりたい。
そしてその力によって歩む一人一人、教会になりたいと願ってこのものであります。
20節と21節、今日のその働きですよ。2章の20節と21節をもう一度読みたいと思います。
聖書のお持ちの方は、どうぞ開いてお読みください。
20節、21節、3、はい。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇となり、月は日に変わる。
しかし主の名を呼ぶ者は、皆救われる。アーメン。
この主の大いなる輝かしい日が来る前、終わりの日が来る前に、どんなことが起こるんでしょうか。
それは絶望のメッセージではなく、希望に満ちた。
それが21節なんですね。このペテロのメッセージは長いんですけれども、
そこの中でこの21節はもう一つの重要なポイントなんです。
それは、主の名を呼ぶ者は、皆救われるということなんです。
30:05
皆さん、この御言葉は真意です。この御言葉こそ。
この御言葉は、今私たちが生きているこの時代は、終わりの時代ですから、
神様は救われるべき人、救われてほしい人を必ず救ってくださるという約束の御言葉です。
ですから皆さん、この終わりの時代に、私たちが関心を持って注目してほしいのは、
魂の救いという言葉です。
皆さんは、この頃最近何かにハマっていますか?
皆さんの最近ハマっていることは何でしょうか?
皆さんの最大の関心は何でしょうか?
恋愛ですか?あるいは健康ですか?
あるいはダイエットですか?あるいはお育てでしょうか?
それが意味です。
ところが、こういう考えをしたことは何でしょうか?
私たちの神様は何にハマっていらっしゃるんだろうか?
私たちの神様は何に注目して、神様の最大の関心事は何なんだろうか?
そう皆さん考えたことはないでしょうか?
それは皆さん、言うまでもなく、魂の救いではないでしょうか?
神様の最大の関心事は、それが魂の救い、私たちの救い、周りの人々のこの人類、世界の救いだとするならば、
私たちはどうしたらいいんですか?
私たちも神様がハマっていることに、神様は関心を持っていることに、神の目が整っていることに、
私たちも関心を持って注目すべきではないでしょうか?
私たちが信じる神様の最大の関心はですね、昔も今も変わることなく、
魂の救いであって、この人類の救いであって、この世界の救いなんです。
ですから皆さん、私たちは神様の子供であって、神を恋愛する神であるならば、
神様は何に関心を持っているんだろうか?
神様の大事なのは何なのか?
神様を愛する人はそれを考えるわけなんですよね。
33:04
例えば皆さん、若い人もいますけれども、皆さんが恋愛しているときに、恋しているときに、
彼氏が好きな食べ物は何なのかとか、欲しいものは何なのか、それを考えるんですよね。
例えば旦那さんがですね、仕事をされて、新婚したら旦那さんが一番好きなバンゴアのおばけを作って、
あなたが好きな焼き鯖を作っておきましたよとか、
そういうふうに相手が好きなことを作ったりしてあげたりするんですよね。
愛するから。同じなんです。
私たちは神様を愛しています。
だから私たちが愛している神様が何を願っておられますか?
何を望んでおられるのか?
それを立ち止まって考えていただきたい。
そしてそれを察していただきたいと願うものであります。
神様は魂の救いに備わっています。
神様の最大の関心事は、我々のまだ救われていない人々の救いなんです。
回復なんです。
喜びに満ちて本当に幸せな人生を送ることを、神様は私たちよりはるかに強く強く願っておられるわけなんです。
ですから皆さん、終わりのときに、神様は本当にもう迅速に魂を救ってください。
聖書を見ますと、私たちが黙っていると、神様は意思に叫ばせて、救いの伝えをさせるとおっしゃるほど、宗は真実に願っておられるんですね。
皆さん、終わりのときです。今は終わりの時代です。
この時代に神の救いは起こりますよ。
全ての家族が救われ、救われるとき、魂が救われるその日が来るんです。
どうぞ皆さん、その救いの希望をお持ちいただくことはありませんか。
そしてこの終わりの日に、宗がどんどんどんどんですね、この人の働きの、この持力のように、次から次へ魂を救ってくださることを祈りましょう。
そしてそれを楽しみにして、皆さんお一人お一人を通して、この領団に教会を通して、日本の教会を通して、宗が多くの人々、
あの海辺の砂の数のように、砂の星のように、多くの魂を救ってくださることを信じようではありませんか。
36:05
この救いの希望を持って、この一周も歩んでまいりましょう。お祈りです。