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2019-12-15 42:38

2019/12/15:アドベント説教(3) 私たちのようになられたイエス・キリスト

2019/12/15 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 -23

00:00
みなさん、おはようございます。きょうも、今年のアドベント説教第3、聖実礼拝に、みなさんお越し下さって、ありがとうございます。
きょうは、お知らせしました、総理、大本、高尾兄弟が、受禅の恵みに預かる喜びの日、
天においては、信仰の先輩たち、あるいは御使いたちが喜ぶ、神の祝福の日であります。
みなさんの背後のお祈りに、心から感謝いたします。
すべては、神様が導いてくださって、神様が恵みを与えてくださって、神様ごくまで至るようにしてくださった、すべてのことは、神の恵みであります。
また、このように、クリスマスを前にして、一人一人、魂を救うために、人間となられた、このイエス様の御降下、
あるいは、この大光節のこのシーズンに、洗礼式が行われることには、また、もっと素晴らしい意味があり、恵みがあるというふうに思っております。
では、熱席の前に、いつものようにですね、周りの方と挨拶をしましょうか。よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。お祈りいたします。
身を、子女が身ごもっている、そして男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる。
訳しと、神は私たちと共におられるという意味である。神様、感謝します。
今日は、大光節、アドベントの第三聖日の三回目のメッセージになります。
私たちのようになられたイエス・キリスト。
前にして、神様、私たち一人一人に、イエス・キリストの御降下の正しい意味を、真意を、ここに集っている、私たち一人一人が、
心の目が開かれて、主の御言葉を謙遜に聞き、悟り、また双子信仰へと、あなたが至らして下さいますように、お願いいたします。
主よ、どうぞ、病んでいる人には癒しを、悩んでいる人には光を、不信仰の者には更なる信仰を、あなたの恵みを豊かにお与え下さいますように、お願いいたします。
03:17
感謝して、イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
アーメン、感謝します。
今年のアドベントも、第三聖日になっております。
一日中が早いなと思いますけれども、今日は三回目のアドベントの説教として、
私たちのようになられたイエス・キリスト、私たちのようになられたイエス・キリストというタイトルです。
今日は、この二十三節を中心にして、このイマヌエル、私たちと共におられるというこの意味を深く掘り下げて、
それがクリスマスのどういう意味があり正しい真理があるのかを見ていきたいと願っておりますので、
まず二十節を読んで、そのあと二十三節を一緒に読みたいと思います。よろしいですか。
二十節、一緒に読みたいと思います。
彼がこのことを思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れて言った。
ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
それから二十三節も一緒に読みましょう。
神よ、男の子を産む。その名はイマヌエルと呼ばれる。
略すと、神は私たちと共におられるという意味である。
私たちと共におられる主。
そこにまず今日の第一のポイントは、イエス様はただの偉い先生とか、人間の中で優れた聖人とか、そういうものではなく、神様ご自身である。
二十三節を見ると、その胎に宿っているものは聖霊によるのですとありますね。
06:01
ですから今、マリア様のお腹にいるこの命は、ヨセフから、あるいは人間から来たのではなく、天皇父から来た命であるということなんですね。
ですから、ちょっとわかりやすく言いますと、イエス様の本当の父は神様であるということなんです。
マリアは、ただ神様に用いられた一人の人にすぎない。
ですから私たちはマリアを信じるのではありません。マリアに祈ることでもないんです。
拝む対象では、それは私たちがモーセを信じないことと同じです。ヨセフを信じない、ケテルを信じないことと同じです。
イエス様は、この二十三節にありますように、私たちと共にいるためにおいで下さった神様ご自身であるということです。
インマヌエル、インマヌエル、訳すとどういう意味ですか?
神は私たちと共におられる。
つまり、礼なる神様が肉を持ってイエス様としてこの地においで下さったということです。
その目的は、私たちとあなたと私たちと一緒にいるためであります。
ところがこれは、信仰を持っていない人、あるいは持つまでの人には信じがたいことです。
礼の神様が人間になるの?そしたらイエスは人間なの?神なの?墓地なの?そんなことがあり得るか信じがたいことであります。
だから、ある意味で皆さん、キリスト教の最高の最大の奇跡は、イエス様の復活というより、礼なる神様が完全な人間になられて、同時にそのイエス様は完全な神であられるということが、キリスト教最大の最高の奇跡なんです、実は。
世の始めから、いや、もう永遠から永遠までおられる神様が、その方は礼なんです。私たちのように身体を持っていないんです。顔を持っていない。肉を、骨を持っていない。
09:00
でも、その礼なる神様が私たちと全く同じ人間となられた。その名前がイエスと名付けられたわけなんです。
ヨシエフの息子イエスは、全く神であり、同時に全く人間であるということなんです。
アメリカにジェームス・パッカーという先生がいますけれども、その先生のクリスマスの説教に、このジュニックというんですね、インカーネイション、神が人となったこと、それを日本語ではジュニック、受ける肉、英語ではインカーネイションと言います。
それについてこういう話をします。人々が聖書に書かれているイエス様が行われたあらゆる事実、あるいは癒し、あるいは死んだ人を蘇らせたこと、事実、あるいは災人等々、
それが信じ難い理由は、神様が完全な神でありながら同時に完全な人間となられたこと、この地に生まれになったことという真理に対する信仰が欠けているか、あるいは信じることができないからです。
このインカーネイション、ジュニックの事実を信じると、神様に、イエス・キリストにできないことはない、それを信じることができない理由はありません。
本当に神様はおられて、そしてこの方が私たちと同じ、寝て、食べて、トイレに行って、疲れて寝て、泣いて、笑って、同じ人間になられたということ、それが事実であるならば、その方が病気の人を癒すことができないわけではないでしょう。
罪人のために自分で全ての罪を背負って、十字架で死なれた、完全に人間が死ぬように死なれた、しかし、三日目に蘇られたことが信じられないわけではないわけなんです。
イエス様は完全な神でありながら、同時に完全な人間です。人間が50%、神が50%、たったして100%になったわけではないです。もう神、完全な神様、100%の神様であって、完全な私たちと同じ、全く同じ人間であるという神秘がここにあるわけです。
12:09
今日はその樹肉の話じゃないので、ここまでしまして。
二番目、イエス様が神様であられること、この事実は私たちに大きな希望を与えてくれました。
まずよく考えていきましょう。神様がこの地上に来てくださったということを考えるときに、神様は清いお方です。聖なるお方です。
神様はただ清いお方で、聖なる方で、その点において、聖なる方だから、清いお方だから、この地上の人間の世界の悪や罪や汚れがある、偽りがある、そういった汚れなところに、本当に聖なる方だけだったら、ここにおいでくださることはないでしょう。
そんなことはなさらないと思うんです。ただ、人間の私たちに、天で命令するだけです。みんな頑張って強くなりなさい。いい人間になりなさい。努力して、修行して、この天に近づけてきなさいと求めたかもしれない。
逆に、神様が何でもいいよ、何でも受け入れる。どんな人も何でもいいですよ。もうね、もう、そんな愛の、ただの愛の神様であったならば、この地上に来る必要もないんです。
その人が罪を悔やかめることをしようがしないのが、神様はどんな罪も悪も全部悔やかめなくても黙にしてくれる。罪であろうが何であろうが、もうね、もう構わない。ただ、何も問わない。もうみんな受け入れてくれる。そうしたならば、神様はこの地上に来る必要はないでしょう。
実はですね、今お話ししたこの二つのことは、神様を信じない、ただ学問的に宗教学をする、そういった人々が作り出した話に過ぎないわけなんです。
実は、現代の多くの少なくない教会で、こういうことを教えているんです。いわゆる理学というところ、日本にもそういうミッション作ると言われる、そういう学校の名前は言いませんが、そういうところで学んだ新学生が僕になって、教会に講談に行って、そういう話をするわけなんです。
15:04
でも皆さん、聖書ははっきりと二つを同時に語っていました。神様は無限なる聖のお方であります。聖なるお方であります。その方は罪を黙に、神様は必ず罪を裁かれるお方であります。
だから、この罪の問題を必ず解決しなければならない方であって、解説されるお方であります。まず、このハードル、私たちは乗り越えなければなりません。
同時に、神様は無限なる愛のお方であります。だから、私たちがいくら頑張っても、いくらすごい修行しても、いくら自分の目を砕いて砕いて、自分を清くしようと、もう努力してもしても、私たちは神にはなれない。自分自身で自分を清めることはできない。
だから、私たちが登ることができないんだから、神様が、そして、私たちにはできない、解決できない、我々の罪の問題を、イエス様が十字架で死んでくださって、その罪の問題を解決することによって、
神の罪に対する裁きと許しの愛を同時に浄土してくださった。それが十字架の恵みであり、そのためにおいでくださったのがイエス様の御生まれである。それが十字架の罪許しであります。
皆さん、神様が、神様御自身が来てくださったんですよね。皆さん、これを信じますよね。神様が代わりに大夫が起こったわけではないんですよ。神様がね、モーセ様があなたを添っておいてね、人間の罪の解決をしてくれる。それでモーセ様が来たわけではない。
あるいは天使を送って知らせは来たわけなんだけれども、天使が代わりに来たわけではないんですよ。神様は代理人を送ったわけではない。神様御自身が直接に我々を救うためにこの地においでくださった、御生まれになった、そして私たちを天に連れて行ってくださることがクリスマス。
それがイエス様のお誕生であるということなんですね。だからここに希望があるんです。罪を自分では自分で解決できない。神になることはできない。だから外から救いが来なければならないわけなんです。
18:14
さあここで戻ってこのインマヌエルの話をもう少ししたいと思いますけれども。インマヌエルは神は私たちと共におられるという言葉ですね。ここに三つの大事な真意が含まれているんですよ。
一つ目は、神はでありますからイエス様は神であるということ。イエス様はまことの神様であるということ。ここからキリスト教の信仰は出発するわけなんです。これを信じないとキリスト教の信仰は始まらないんですね。
二番目、神は私たちと共におられる人間になられたわけですからイエス様は人間であるということです。
三番目、私たちと共におられる。イエス様は神である。イエス様は人間である。イエス様は私たちと共におられる。この三つがインマヌエルという言葉に含まれている真意なんです。
でもね、私たちと共にいてくださるということは神様がね、神の御子イエス様がちょっとだけ授業に行ってしばらく一緒にいてくださるだけで終わるのではないんです。
マサイの福音書の始まりでインマヌエルで始まったでしょう。そしてマサイはこの真意をお知らせしたくて、マサイの福音書の最後の28章にもう一度インマヌエルのメッセージをみんなに語っているんですね。
気づきましたか。どこの始まりだと思いますか。マサイの福音書28章ちょっと開きましょうか。マサイの福音書28章の最後の20節。63ページですね。マサイの福音書28章の20節。よろしいですか。
もう一度読みたいと思います。また、私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。みよ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいます。アーメン。
インマヌエルのメッセージで始まったマサイの福音書はインマヌエルのメッセージで終わっている素晴らしさがここにあるんです。ところが、共におられるという言葉の意味をもう少し深く考えていきたい。
21:08
私たちが身近に感じられる言葉で一緒にいきたいと思いますけれども、そのためにもう一箇所聖書を開きたいと思います。マルコの福音書3の14節ですね。マルコの福音書3の14節。3章の14節。69ページですね。私の聖書では。
お友達もね、みんな聖書を開いて読んだりしましょうね。3章の14節一緒に読みますね。
ここでイエスは宙に入れしを任命された。それは彼らを身近に置き、また彼らを使わして福音を述べさせ。
ここにね、彼らを身近に置きとありますが、他の聖書あるいは言語を見ると、彼らと一緒に過ごすため、彼らと一緒に暮らすため、もう一本みたいな意味なんです。
みなさんよく覚えていますよね。イエス様がペテロ、アンデレ、ヨハネみたいな弟子たちを彼らを弟子にした理由は、彼らと一緒に過ごすためなんです。彼らと一緒にいるためなんです。
ここにイマヌエルの神秘があるんです。神様が、またように戻りますね。神様が、神なるイエス様が私たちと共におられるという意味には、こう言えるでしょう。
まず、もうわかりやすく簡単に言いますとね、神様が、神様のイエス様が私たちと共におられるという意味はね、子供たちね。イエス様が私たちと一緒に暮らすためだという意味なんです。
家族が一緒に暮らすように、夫婦が一緒に暮らしているように、一緒に暮らすために、一緒に生きるために来てくださった。
大人の言葉で話しますと、私たちがイエス様の臨在の中に留まっており、その方と話し合い、その方に教わり、その方といつも親しい、そして深い交わりを持ち続けること、そのためにイエス様が私たちのようになってくださった。
そこが皆さん、一緒にいること、一緒に暮らす、一緒に過ごすことの意味を、私たちの人間のことを考えてみましょう。
24:02
例えば、夫婦が同じ家で暮らして、同じ食卓で囲んで食事をします。同じリビングでテレビを見たりしますが、もしその夫婦が本当に人格的に交わって、深い会話があって、深い思想とコミュニケーションがあるならば、それを本当の意味で一緒にいると言えるでしょう。
ところが、そんな方はここにおられないと心配ですが、体だけが同じ家になる。会話もない。感動の共有もない。話し合いもあまりない。そしたらそれを一緒にいる、一緒に暮らす、一緒に生きる関係と言えますか。
言えないと思うんですよ。例えば、全然全く知らない人と同じ場所で右左に座っていても一緒にいるわけなんですよね。それは一緒にいるわけなんですよ。
でも、そこには何の人格的な関係性も、親密さも、分かち合いも、礼が通じることも何もないわけですから、清楚か一緒にいるという意味としては言えないと思うんです。
共におられるという意味はこういう意味なんです。神なるイエス様が人間になられた、私たちのようになられたということは、もうイエス様が私たちを会って、私たちと付き合いたいんです。一緒に暮らしたいんですよ。
そしてその関係は、何か親しいようで親しくないような関係ではない。何か知っているんだけれど、あまり知らない、知られない関係でもない。たまに会ったりする関係でもない。
本当にその礼と魂と体が一つになって、感情も礼も全て深い関係になっていること、それが一緒にいることだけ。それは一緒に暮らすことなんですよ。
そのためにイエス様が私たちのようになられた。それがインマヌエルの神様。私たちと共に生きるために、私たちと共に過ごすために、暮らすためにイエス様が来てくださったわけなんです。
生きる、歩むという言葉より暮らす、過ごすという言葉はもっとリアルに身近に感じるんじゃないですか。
27:07
でもここでインマヌエルの神様の前で、そのイエス様の前で正直に我々自分自身のことを少し変えりにしていただけたらと思います。
私たちは本当にインマヌエルのイエス様と深くて親しい関係を持っているのか。私たちは本当にインマヌエルのイエス様を深く知っているのか。私たちは本当にインマヌエルのイエス様を深く愛しているのか。という結論です。
これは自分で自問自答していただけたらと思います。
イエス様は神であられる。天の栄光を捨てられて、低くて悲しいこの地に、それをシンボル的に生まれたかもしれない。
私たちの中に、私たちと一緒に生きるために、一緒に暮らすために、交わりたくて、愛して愛されたくて、この地に来てくださったわけなんです。
だからイエス様は私たちの花婿であって、私たちは花嫁である。婚姻の関係と本当に似ている関係であります。
もう一つお話しします。神なるイエス様は私たちと一緒に生きるために、一緒にいたくて、私たちのようになられる。
それは私たちが花嫁にはなることができないからです。自力では強くなることはできないからです。
私たちのために一緒にいたくて、一緒に歩みたくて、人間になってくださったイエス様、これは何という大きな恵みなんでしょうか。
これがインマヌエルの祝福なんです。
どうか皆さん、イエス様と一緒に暮らしてください。
イエス様と一緒に食事をしてください。
イエス様と一緒に散歩をしてください。
イエス様と一緒に勉強をしてください。
イエス様と一緒に働きをしてください。
イエス様と一緒に時間を過ごしてください。
イエス様と一緒に話し合ってください。
イエス様と一緒に悩んでください。
悩んで下さい。
イエス様と一緒に喜んでいって下さい。
イエス様の話をよく耳を傾けて聞いていって下さい。
30:02
これが信仰生活じゃないでしょうか。
イエス様と今のイエス様と私たちの関係が本当にこういう
親密で深くて、本当にそういう関係であった。
そのためにイエス様がお生まれになったということなんです。
皆さん、信仰生活において誤解してはいけないことの一つがあります。
私たちが救われること、あるいは今日洗礼を受けられる大元巨大がいらっしゃいますけれども、
学ぶ時にも何度も私が話しましたけれども、
私たちがイエス様を信じることは、ただ、天国に行くためだけではないんです。
この地上においてイエス様を救い主として信じて、その方と一緒に歩む、一緒に生きるためであります。
では、イエス様はどのように、このインマヌイルの使徒、どのようにして一緒に暮らし、一緒に歩み、一緒に生きることができるのでしょうか。
例えば家庭において、夫婦の関係においても、このコミュニケーション、意思疎通が大事だと思うんですよね。
例えば、奥さんの方から、あるいはご主人さんの方から、もう一方的に喋って、相手はあまり聞こうとしない。
そしたら、とても素晴らしい健全な夫婦だなとは言えないでしょう。
両方、心を開いて話す、聞く。自分もまた話す、相手も聞く。
そして、悩みを共有する、喜びを共有する。一緒に悩む、一緒に喜ぶ。それが本当に素晴らしい夫婦関係じゃないでしょう。
一方的に喋って、相手が答えを出したら、もういいよと言ってしまう。
あるいは、奥さんの方が喋っているんだけど、テレビを見て、リモコンのチャンネルを回して、「え、何?」と言って、いい関係ではないでしょう。
イエス様と本当に深い関係を持つために、まず祈りが必要なんです。
それをイエス様が教えてくださった、イエス様インマヌエルの人と一緒にいる暮らし方のイエス様から教えられたことは、まずお祈りということです。
33:03
だから、イエス様と深くて親しくて、本当に人格的な関係を持ち続けている幸せなクリーチャーは、みな祈りの人なんです。
これは間違いないです。イエス様と親しくて、正直に話し合って、祈って、その方に自分の喜びも、あるいは悩みも、あるいは怒りも、
あるいは悔しさも、あるいは辛度さも、神様に申し上げる、時にはもう訴えるみたいなね。
そういうふうに、イエス様とこの交流というか、礼が通じるこのコミュニケーションが、まさに祈りということです。
だから、本当にイエス様と深い関係を持ち続けている幸せなクリーチャーは、祈るのが楽しみというか、嬉しいというか、幸せなんです。
イエス様と話し合う時間だから、それが幸せなんです。
いや、祈らなきゃいけないんだからじゃない。もう祈りたくない。
このために皆さん、今日も祈りのメッセージじゃないので、一つだけお勧めしたいと思いますが、
聖書の中の祈りの学びのためには、詩編をよく読んでください。よく黙想してください。
詩編の記者たち、ダビデとかね、多くの人々が報道しますけれども、
彼らが神様とどのように会話をして、どのように人格的で親しい関係を持っているのかを、もう詩編さえ読めばわかるんです。
それは歌でありながら、老人に祈祷文なんです。
そこには、神様への賛美があります。
そして、自分の罪の悔やらせの願い。願いを求める祈りがある。
時には、神様に訴えるかのような叫ぶ祈りもある。
ところが、また最後には、神を褒め称える賛美で閉じている、賛美でありながら祈りなんです。
どうか皆さん、詩編を、この年末年始、あるいは来年、詩編をですね、よく深く黙想して読んでいてください。
例えば、私が少しだけお読みしますね。詩編の27編にこういう言葉があります。
きらかなことでいいですよ。
聴いてください。
36:19
福祉の神という詩編である。まさに祈りじゃないですか。
イエス様と本当に深い話し合いができる関係でありたいですし、もちろん時間がかかるかもしれません。
夫婦であってもですね、私もこう話をして、ちょっと失礼ですかもしれませんが、今は皆さんよりは若いんですけれどもね、もう50になりますが、
結婚して23年になって、いどけですけれどもね、以前はもうだいぶ喧嘩していた夫婦でした。
まさにお互いの話をあまり聞かなかったんですね。
喋られても、私はそう思わない。もう言い返しだけど、深い関係になかなか捕まらなかった。
でも、この頃はね、この関係よりはだいぶ良くなっているんじゃないかなと思いますね。
この夜の家庭の礼拝で子どもたちに聞いてみたいですね。どう思うの?みたいにね、聞いてみたいなと思いますけどね。
子どもたちがそうよと言ったら嬉しいんだけど、あんまりねと言ったら、もっと反省しないとね。
もう一つは、家様との深い関係を持つための一つは、その方の声を聞かなければならないんです。
親子は家様と同じ人格的な関係は、母地下の一方的な関係では健全ではないんです。
そうすれば、家様の見声を聞くことが大事なんです。そのためにどうしたらいいのでしょうか。
聖書を開いてください。聖書を読むことであります。その中で家様の見声を聞いてください。
いろいろ話させてみたらね、ある方はね、朝6時に、必ずように毎日朝6時に起きて、
まず聖書を開いて、30分なりに、1時間なりに、毎日聖書を読んでいてくださるんですね。
だから去年はね、その方は聖書を2回収録の方と話を聞いて、私は本当に感謝をしましたね。
また、雨の日も雪の日も、いつも朝6時になると教会においてくださって、
39:03
早天気とかいいで、毎日インストレスだけですけれども、その御言葉を敷いて祈っておられる方々もおられる。
あるいは、教団のベラカを黙祖される方々もおられる。
両方される方々もおられますけれども、大事なのは皆さん、大事なのは、主を愛していれば。
その方の見声が聞きたくて、聖書を開いて、読んで黙祖すること、どういう意味なのか迷うことがあったとしても、
そのすべてを主が今の世の家様が喜ばれるということなんです。
一緒に生きること、一緒に暮らすことはどういうことですか?
家様が喜ばれることを、私も喜んでそれをするということなんですよね。
家様が嫌われることなら、私もそれをしないことなんです。
夫婦関係も同じなんでしょうね。
本当に幸せな夫婦は、お互いのことをある意味では配慮というか、喜ぶことと一緒に喜ぶ、嫌うことを、それをしないようにする。
ある意味で、やり方はそんなに大事じゃないかもしれない。
例えば、家様の時代、あるいはエイリー100年、200年、300年、あの時代は、今のような聖書の旧冊みたいな解説書もありませんし、
まともな新学校もありませんし、聖書の学び方も、インターネットも、漫画、聖書みたいなそういうものも、何もない時代。
ただ、聖書を手に持っている人も、本当に稀な時代でしたから、それを聞くだけで、あるいはそれを覚えるだけで、
そこで神の恵みを十分悟って、味わって、主を愛することができたんじゃないでしょうか。
私たちが愛するイエス様、インマヌエの神様は、私たちと共に生きるために、共に暮らすために、私たちのようになってくださった。
その方と本当に親しくて深い、人格的に、霊的に良い関係を持ち続けてきました。
そのために祈りが、そのために神の聖書を開くことが、本当に大切であります。
結論を持ちますとお話したいと思います。
神なるイエス様が、神様が、私たちのようになられた目的は、私たちと共に生きるため、共に、そして私を、
42:00
後にイエス様のシャイリンによって成就される、新しい天と新しい地に連れて行くためでありましょう。
どうか皆さん、インマヌエルのイエス様と共に生きていてください。
そしてその方と本当に深くて、本当に親しい霊の関係、人格的な関係の中で、
この不思議な関係から来る幸せを、恵みを、喜びを、豊かに味わっていただきたいと切にお祈り申し上げます。
お祈りしましょう。
42:38

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