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それでは、ただいまから、あなたのためのクリスマスという説教題で、説教を取り継ぎさせていただきます。
今年も神様の恵みによりまして、今日は12月の22日、実際カレンダーの上では、
24日がクリスマスイブを、歴史上の過去を振り返りまして、24日の夜から25日の間に、
イエス様は、孫でお前ならなさということが、歴史的に記載されて、聖書の中に記載されております。
私たちも、今日が12月の22日で、あと10日ほどで、2019年も過ぎ去ろうとしているとき、
恵みの中に、一年間、皆さんも私たちも、すごくことができたのではないかと思いますときに、本当に感謝しています。
特に教会では、またユン先生もそうですが、僕氏も、役員の方も、信徒の皆さんも、修道者の方も、
教会で御子イエス様の生誕を祝うのがクリスマスのシーズンで、皆さんもずっと信仰歴の長い方々が、
今日お礼拝に出ておられますけれども、恵みのクリスマスのシーズンをお迎えになられます。
イエス様がこの地上に、神様ご意見が、いやしい人間の姿になって、この地上にお参りになられたんですね。
神の御子ですから、教会では、生誕、聖書の生と誕生、生誕、あるいは御幸誕、神が地上に生まれなさった、現れなさったんだということ、御幸誕という言葉でもって、
その25日、25日、あるいはクリスマスシーズンを過ごします。お祝いする時でございます。
今日、25分か30分ほど、礼拝ではだいたい、どこの教会でも、長い教会では40分とか、
短い教会では、牧師によっては20分、25分、短い説教、恵みのメッセージで取り付かれることがあるんですけれども、
お話しさせていただいて、私も40年間、新学校出てから伝道師、あるいは補強師、復牧師、また聖教師というか、
そういうことで40年間過ごさせていただいたんですが、2年前に40年間守られて、引退をさせていただいて、
そして素晴らしい仰山教会の礼拝に、多くの信徒の方、牧先生や役員の方々と共に礼拝できている。
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身の幸は覚え、引退してもいいものだなと。
最近、当初はですね、一昨年は、本格的で目標を失ってしまったんだ。何かこれでいいんだろうかと思った。
目標を失い、土台を失ったように、一丸無くしたように落ち込んでおりましたけれども、
最近は非常に引退というのは本当にいいんだなと、日々静かな年月を過ごさせていただいております。
聖教ですので、聖教、また今日はイエス様の生誕か誕生のことについてお話しいたしますけれども、
聖書の旧約聖書というのがございますが、1ページに開きましたらですね、
1ページ、皆さんも覚えていらっしゃる方がいられるのではないかと思うんですけれども、
創世紀1章1節に、はじめに神が天地を作り、文字訳で構えという文字訳では常に書かれてあります。
神様が天土地を作り、お作りになったと、新開発とか後部約聖書では記載されてあります。
聖書の最初のページ、他の本もそうなんです。オープニングというですね、一番最初の序論、はじめの文、オープニングなんですけれども、
ここで神様はですね、修道中の方、新しい方、牧師とか信仰を持っているクリスチャンホームの方もそうなんですけれども、
神様はあるときは私の謎を解いてみなさい。この人生の目的、この世界があること、そうしたことを君たち何の意味とか意義がわかるのかなと。
神様は私の謎を解いてみようと叫んでおられるわけですね。
それが一番、我々が生きているこの世界、見る世界、大空も私たち自身も、動物も、鶏も猫も、あるいは山山も、川も、みんなお作りになれたのは、
新書は神様がお作りになったと想像されたと聖書の中に書かれてあります。
神様は叫んでおられるんだ。私の謎を解いてみなさいと叫んでおられるわけですね。
このように言った人は、知恵あるユダヤの聖書仲介者のラビ・ラシの言葉なんですね。
私の謎を解いてみなさいと、そのようにおっしゃって、その方は本の中で記載されておられます。
この叫びはですね、現代の私たちも変わらなく響いているんですね。
知恵を呼んでおるときに、福音書を呼んでおるときに、ペトロやパウロや、あるいは他のマサイ、マルコという弟子たちが、
聖書を記して、皇帝の今日の私たちのことができるように素晴らしい日本語の聖書、英語の聖書、あるいはギリシャ語の聖書とか、
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ドイツ語の聖書とか、フランス語の聖書とか、いろいろあるわけなんですけれども、
そのラビ・ラシというユダヤの聖書学者ですけれども、私たちにもそのように私の謎を、
人生の意味とか、この宇宙とか世界、そういうことについてわからない。
だけど、お前たちは人間の道具の中で万物の礼儀を作っている、その謎を解いてみたらどうかと、神様が迫っているんだということを、
ラビ・ラシという人は本の中で書いておられます。
読むことは解釈することなんですね。理解することでございます。解釈しないで何かを読むことは不可能なんですね。
ですから、神は私たちの手、そして心、理性に解釈を呼んで、そのことを理解して、解釈することを委ねておられます。
どのように理解してもいいわけなんですけれども、解釈を委ねておられるんですね。
ですから私たちは、たとえよく神学とかそういうことを学ばなくても、
あるいはそういう研修会とかそういうことが出なくても、自分で読んで、自分の読解力で読んで理解して恵まれたらいいわけです。自由に任されておるんですね。
ですから解釈することを恐れる必要はないんですね。何かやっぱり牧師の話でなかったら、
神学を学んだものだけしか理解してはだめなんだという条件はない。誰でも読んで救いに至ることができるんですね。
精霊が働かれるときに、実際もう本当に神の御子なんだわ、と信じたら、そのときから信仰したとしてのスタートが始まります。
ですから、今日礼拝人数、多くの方が清明学園で礼拝に出て、そしてまた修学会に出られたりするので、ここでも七人八人というか小人数であります。
けれども、本当に皆さんお一人お一人が、私がどのように理解、雑貫的に思うが、あるいは神様は我々を罪犯していたら死んでしまうんだという悲壮に軽傷というか、
そういうことを書かれて、本当に嫌な本だなと、どのように理解してもいいわけなんですけれども、それは自由に任されておるわけですね。
もちろん聖書もそうですし、他の書物もそうですが、やっぱり一番最初のページから序文、そしてまた本論等を読んでいったらいいわけです。
その聖書を読むように、神様は私たち人間を招いておられるんですね。
そういうことであります。ですから、聖書も、私も、それは伝説家から当たり前です。
聖書の最初から最後までは、十五回から二十回ぐらいは二十回は読めない。
新学生書だけでいったら、百回以上ずっとまたによる福井書から最後まで、新学校入学するときに、そういう質問があったんです。
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また、新学校入って検診者なんだけど、聖書、旧約聖書を何回読んだのかね、新約聖書を何回読んだのかね、そういうテストがございましたけれども、
その当時、まだ私、今読んでいる十分の一ぐらいしか読んでいなかったんですが、旧約聖書は何回、新約聖書は何回と、その答案用紙に書いたことを思っております。
そういうことの聖書の承論で、今日のルカによる福井書の後単説の方に話を向けていくわけなんですが、
このルカの福井書と書かれてあります、皆さん手元、今日の開いております聖書箇所を開いて、手元においていらっしゃるわけなんですが、
このまたによる福井書もルカもヨハネもそうなんですが、神様がイエス・キリストの書は特に二章に書かれてありましたが、ルカの方ではですね、
誕生の知らせをですね、英語でよくグッドニューという良い知らせなんです。救い主が生まれながらという、
イザヤ人が長年、私たちの民族の中から、自分たちイクザエル民族の中から、世界の救い主、メシアが生まれられるんだということは、
イザヤやエレニアや、あるいは大きな旧約の預言者が数百年前から分ですね、そのように預言されておったことなんですね。
そういうことをですね、彼らはたとえ執事会であっても、自分たちの民族の中から、救い主メシアが生まれられるんだということを知っておったわけですね。
そして、一番最初の御子の誕生を、ごめんなさい、執事会たちにお知恵になったことが書かれてあります。
それで、今日のところにございましたが、十節ですが、御子会は彼らに言った。
恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。
今日ダブデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主はキリストですと、常に十節の中に、十一節の中に書かれてあります。
そして、ここのところ、神科学と以前、日本の言語を使っていた交互学の中では、ちょっと表現が、解釈が違いましてですね、十節の後半で、交互学聖書では、あなた方ということ、あなた方のために。
神様は、このユダヤの夜も寝ないで執事の晩をしている執事会たちに、一番最初のグッズニュースを届けられた。ユダヤ民族が待っている救い主が生まれられたんだという福音を、良き仕掛けを伝えたんですね。
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こういうことなんですが、その当時はですね、ユダヤという国は、宗教国家、ユダヤ教が非常に盛んでありまして、そして文化はですね、ギリシャ文明、文化って、そして政治はローマが地中海やあの周辺を全部占領して、自分たちの族国にしておりましたから、
政治はローマ帝国が支配して、宗教、信仰関係はユダヤ人、ユダヤ教、ユダヤ人が対等しておりましたですね。
そしてまた、文化は、ギリシャ文明文化、立派な文字もございましたし、そういう時代だったんですが、ユダヤではここのイエスが生まれられたのはユダヤのベツレヘムでしたから、ベツレヘムの人々で特に妻子とかですね、そういう見扱いする宗教家が対等しておったわけですが、
そのリーダーである宗教家や一般の人々は非常に執事界というのは阻害されておったんですね。本当に身分の低い者がしてですね、いやしい仕事をする者が執事界だと、そういう例点で見られておったわけですね。
ですけど、彼らは夜も寝ないでですね、今日の記事を見ましても、清書を書いたりを見ましても、執事を飼って育てることをしていましたけれども、人々からは執事界というのは不信者だ、汚れたものだ、不誠実なものだ、本当に人間でもないんだ、というような非常に蔑視というか悲劇に見られておりました。
ですけど、そのような中で神様は救い主の誕生、グッドニュース、一番最初の知らせというか、人間が言い始めている世界たちに届けられたんだということを、私たちは読むことができるわけですね。
良い知らせ、グッドニュースをお知らせになりました。阻害されていることですね。
人間は万物の霊長として非常に高いものとして作っておられるんですが、人間が先ほど言いましたように、執事界はいやし、もう人間ではない、というように非常に過言じておったわけなんですが、神様は神様から見られるときに、今も同じなんです。
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神様という方は彼らを大切な存在として見ておられてですね、阻害するどころか愛してたっ飛んでおられたんですね。
そのことが分かった。神様は執事界に目をとめて、彼らに一番最初の良い罪の許し、救いのメッセージを届けられたのであります。
そしてそのイエス様もですね、皆様ご存知のように、別殿の執事、地下にその部屋が牛とか、牛を飼ったり、執事を飼ったり、馬を飼う家畜小屋があったんですが、そこの貝場桶の中でイエス様、貝場桶をベッドとしてですね、イエス様はお馬になられたんだということを、皆様ご存知で聖書はそのように記しております。
神様のご計画の人々を考えましたらですね、現代でもですね、大企業が日産とか、大きな企業が合併したとか、提携事業者とか、よくそういうことが書かれてあり、このままICとかですね、そういう関係のことが非常に、サイバー攻撃という言葉が新聞とかテレビの方に出ておりますけれども、
次から次へと新しいことをして大企業が生まれていくんですが、新しい事業を計画しようと始めた時に、また小さな居所企業でもですね、非常に有能な経営者ができて、もっと大きい事業を大きくしようと思う時、発展して事業をしていこう、社会に貢献し、また収入もあることを考えて、皆さんやられるんですが、
その時ですね、経営者はやっぱり非常に有能な人物、適当な人材をまず探してですね、彼らに任せて相談しつつ、事業を推し進めていくわけですね、その仕事をしてくれるに相当する有能な人物、その人物によって事業が成功するかどうか決まってまいります。
で、クリスマスのこともですね、神様はここまで読む時に、皆様何度か聖書を読んでお読みですが、神様はいろんな人物を立てておらんですね、何人かの人たち、ザカイアとかエリザベス、あるいはイエス様の父上のお父さんお母さんになったヨセフとかマリア、あるいは今日出てくる七次会、また東宝の三人の博士たち、
彼らも登場して、彼らも募集されたんですね。ですから、神様がお選びになる人々はあまり見栄えがしない、能力はないというか、そういう人も、その他大勢というか、そういう人々をあえて選んで神様の事業をなさるんだということなんですね。
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クリスマスの拝啓とか、何度も皆様がクリスマをお迎えになって、聖書を読んだり、書物もお読みになりましたけど、私たちは当時まだ十代の年、十三歳か十四歳ぐらいではなかったかなと思うんです。
田舎娘のマリアに神様は白羽の矢を身に出して、そして聖書を読むならマリアのところに精霊が覆って、その体にこの赤ちゃんが宿った、精霊があなたを覆ってという言葉があるわけなんですけれども、田舎娘をお選びになって、そしてやがてミコジエス様が誕生なさいました。
考え始めましたら、十四歳か五十歳、まだ一般でその通りでも十七歳か十八歳、あるいは二十歳を超えて二十五、六歳、社会的にも女性としても男の人も外に出て仕事をするわけで、女性もやはり世の中のことや色々な仕方を学んでいく必要があるわけなんです。
でも女性としては未熟だったんですね。本当に母親になれるほど成熟もしておりませんでした。若い無垢な少女であったわけですね。
そのところに神様は現れなさい。天の力なら恐れることはない。あなたに神の霊が覆ってあなたは恵みをいただいて赤ちゃんが、男の子が生まれるんですよ、神の子が生まれるんですよということを受けたことを皆さんも覚えていらっしゃると思います。
ここにですね、やはり神様が選ばれると人間が選ばれるとだいぶ事情が違うんだということを覚えたいと思います。第一コリントの一章の十八歳十九歳、神様は賢いものを恥ずかしめるために愚かなものを選び、力のないものを恥ずかしめるために本当に無力なものを選ばれたという言葉があります。
神様の選び、私たちもなんでこんなものが、しばらく始めばいいのに三度受けて進学、こんなものが生涯進学で全能者になれるんだろうかと非常に恐れて呪文自動したことがあるんですけど、だけど神様の選びがあるんだという言葉がされて全能者の道に進んでいくんだという信仰を持ったときに勇気を持ってなお法師を続けることができたんですね。
ですから先ほど言いました、マリアが神様が与えられる大きな使命と責任を果たすに適当ではなかったにじくな女だったんですね。
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神様は先ほど言いました、ザカリアやエリス・カベツやそういう人々もそうなんですが、神様の恵みの愛とそして神様の精霊、神様の身力のゆえであると考える以外の方法はないと思うんですね。
彼らはどうすれば神様の御計画が行事するかは本人知らなかったのでもよかったんですね。知らなかったんですね。その技に本当に熟練していなくてもよかったんですね。現代も私もそういう信仰もしたいと思うんですね。
すべては御様がなさる、神御一心がなさる。私たちはその幽霊と同じ。神様を選ばれた、選ばれた神様が弱い、何もわからない私を選ばれたんだけど、神様の仕事で自分たちは自分の手を提供し、足を提供し、どことこ行きなさいと言ったらどことこ行く、従順に従っていったら、本当に神様の尊い技を私は通してなしてくださるわけなんですね。
すべて精霊がしてくださる、神御一心がしてくださるんですね。この原則は単にイエスが母になったマリアだけの話ではない。私たちもこの原則は変わらないんですね。こんなに愚かなものを選んで神様のための一員にしてくださったことを思うときに本当に幸せであります。
使いは聖空にありました。
精霊があなたの上に臨み、移動高き方の力があなたを覆います。それゆえ生まれる者は聖なる者、神のことを呼ばれます。
ですから一切は精霊なんですね。我々の日本のイエスは万事精霊、万事祈祷と言うんですが、本当に自分たちの努力、自分たちの力、一生懸命ご飯も食べないね、一生懸命産業復育をしてあげたら救われたんではないですね。
イエス様が十字架の上にかかって、私どもの皆さんの罪や徒がお死にと許さず、身がいの死を遂げて死んでくださった。そのことによって私が思っている死や、そういうこともね、みんな死んでしまっているんですね。私たちは三つ国に預かっておって、神様の国の四次にされております。
一つ、その昔、こういうことがあったことについてお話したいと思うんですけれども、北海道の浅井川市にですね、クリスチャンの作家であった、皆さんもご存知と思いますか、三浦彩子さんという方が、もうお腹になって天国へ外遷しておられますけれども、住んでおられました。
この三浦彩子さんのこの方が、子供さんは生まれなかったんですが、親戚の明吾さんが二人目の赤ちゃん、妊娠なかったんですね。そして年月が近づいたときに、産婦人科というか病院に行かれて、検診を受けられたらですね、異常がわかったんですね、体調に。
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明吾さんはどういうことか、本当に真剣に心配そうな病院から帰ってこられたんですが、その体に宿っている赤ちゃんは二番目で、上に女の子、お姉ちゃんが、三歳の女の子がおったんですが、三歳の子は、「ママ、何かあった?」と言ってですね、お母さんも暗い顔で、心配そうな顔でおりますので、
この三浦彩子さんの先のお姉ちゃんというか子供がですね、真剣に聞いたんですね。そのとき、お医者さんから聞いた、その母親、明吾さんはですね、「ママのお腹に今赤ちゃんが入っているのよ。しばらくしたら生まれてくるの。でもね、赤ちゃんは普通逆立ちしているのに、今度のお腹の赤ちゃんは逆立ちしないで起きているのよ。」
お医者さんに危険な状態で、出産のときちょっと困るようなことで起こるようなことで危険な状態なんですと言われたんですね。それを聞いた三歳の上の女の子はですね、「ママ、大丈夫よ。赤ちゃんね、長い間逆立ちしていたから疲れたのよ。ちょっと起き上がって休んでいるだけよ。また逆立ちするよ。」
と言ってですね、お母さんのお腹を一生懸命さすっている姿を見てですね、その明吾さんは、もし本当に人間の心に愛というものが神様が与えられて注がれているならば、三歳のようにでも本当に親である私の孫さんを産んでくれるとしてですね、非常に安堵したという出来事があったんですね。
非常な勇気を与えられて、そうだ、明吾さんの明吾さんですからクリスチャンなんで、また祈ろうという勇気が、信仰が湧いてきたということを明かししておられました。
で、このお母さんは三歳のお兄さんのお腹をさしてくれたおかげがどうかというと、本当に赤ちゃんは無事に出産されたそうです。
神が私たちに望んでおられるのは、皆さんもそう、私もそうなんです。私たちの知恵や常識や判断などを乗り越えてしまう、神様の方法、神様の助けの手、救いの手というか、それを神様の身胸身心がなされるんですね。
だから私は、私の努力はありません。神様、あなたの身胸身心がこの身になりましょうと。
本当に、御子の誕生を聞いたマリアが天の地下に、どうぞ好きなようにお使いくださいといざね切ったようにですね、私たちも自分が人間なりするのでそうではなしに、まず祈って、神様、あなたにおいざねしますといざねる必要があるわけであります。
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イエス様のことを聞いて増やされするのも、こういうことが必要なんですね。
ここで私たちは、最後のクリスマスの今日は聖なる月主イエス様がお前になられたことですけど、やっぱり私たちは時には不信仰になって、クリスチャンで信仰を持ったものであったとしても、
世の中の忙しい忙しいとかですね、いろいろなことばっかりに囚われて、聖地を開くこととか礼拝に出ることとかですね、そういうことはどうも忙しくなって遠ざかってしまう傾向があるわけなんですけども、そういう時に神様はお前に悔やさめて信仰を持ってできた。
また、そういうことはどういうことかということもですね、教会の僕、ここではユン先生が質問したらこういうことですと、いろいろなことを教えてくださるんですね。
ですから、キリストを信じる、改信するということは、そういうことに神様が来て、今までの生き方が変わって、生活態度が変わっていくわけなんですね。
最後になりましたが、我々はある意味の金石を十字架、ここにも十字架の飾りがあるわけなんですが、十字架、今日言われておるんですが、やっぱりイエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、
本当は私たちが罪のお腹を渡り死なりという言葉がありますが、私たちの罪の結果、滅びをかりとらない、死ななければならない、こういう運命を、神は十字架を通して方向転換してくださったんですね。
永遠に生きるものとしてくださったんですね。私たちのその罪とが滅びない、それを許してくださって、そして天の御国に入っていく、吉報を得ることができるのが十字架の大きな働きなんですね。
私たちは自己中心をして、自分が罪人である、その罪人の私の罪やとが許すために、身代の死を遂げてくださったんだということを覚えたいと思うんですね。
神の一人子が十字架にかかってお死になって、また私は死ぬのも義とするためによみがえられなさいました。
あるこういう出来事があったんですが、ある農家で火事が起こりまして、家も焼けたんですが、鶏を飼っておられた家畜小屋も燃えてしまったんですね。火事が起こったんです。
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その時、鶏が火事になった時、小屋ですから逃げられなかったんですが、羽を広げて、ひなを自分の羽毛の中に入れて、母鶏は死んでしまったんですね。
そして羽の下にひなは立ち上がったんですが、みんな助かったわけなんですが、母鶏というのはそうなんですね。
イエス様が母鶏のように十字架で身代に死んでくださったのは罪深い。
私の不信心や罪とか、神様のことなんかもう第二も第三でいい、本当に聖書なんかもどうでもいい。
正しい神第一、礼拝第一、主に従っていくのが人生の至福だというとわかる人は、主イエス様の足跡に従っていく、歩みをしたいと願って、その通りに進んでいくことができるわけなんですね。
イエス様は強いお方です。愛と強さと、そして恵みに富んでおられる方なんですが、この方に会うためにも、私は罪の中におったら、その罪の上に自分たちの体に両眼があって、自転車が走ってきている、あっち行ったら人にぶつかるとわかって選択できる。
それと同じように、もしもイエス様を信じていなかったら、私たちは信仰的、神様の目の前には盲目な神様の存在がわかる。
宇宙も世界も作って、美しい世界で人生を生きるようにしようとしているのですが、その世界のことも理解できない、人生の意味もわからない。
神様というのは本当に愛と強さと、光の神様ですが、この方のもとに立ち帰っていくときに、本当に幸せな日々の生活ができるようになります。
イエスキリストが、父よ、この罪人のために私は死にますと、イエス様は十字架に御一心を十字架という祭壇に御一心を捧げて下さいました。
そのことによって、我々は救いにあすかったんだということを覚えたいと思っております。
イエス様が私たちの罪を全部ひっかぶって、先ほどの面取り、お母さん取りが自分が犠牲になった範囲になって、自分の子供の雛取りを助けたように、死は私たちで生きるように、身代の死、贖いの死を遂げて下さいました。
父よ、彼らの罪を許し下さいと、死んで下さったんですね。
私たち、クリスマスのこの時、私たちは死を仰いで喜んで、死なる神が私たちの救いのために使わせてくださった、今はクリスマス礼拝でございますので、
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私たちはイエス様が本当に神御意志になったんですが、イヤシ、人間の姿になってこの地上に現れてくださった、イエス様の心の中に私たちは迎えて、自分の王として、自分の救いとして信じていきたいと思うんですね。
聖書の中にある言葉だけを言って、祈りを伝えていただきますが、こういう言葉を聖書の中にあります。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全なものは、上から天の地から下ってくるという言葉があるんですが、神様はクリスマスに自分の大事な外者に愛しを、イエス・キリストと一人を、この罪の世界に使わせてくださったのであります。
これに関しては覚えたいと思います。
それではお祈りを捧げさせていただきます。