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2018-12-02 34:02

2018/12/02:クリスマス・メッセージ(1) ことばは人となって

2018/12/02 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 -16
00:01
みなさん、あらためておはようございます。先ほどお祈りにもありましたけれども、先週まで3回のウェルカム礼拝が、めぐみの中で終わりました。
みなさんがね、熱心に祈ってくださって、あるいは一生懸命ですね、誘ってくださって、応援してくださって、多くの方々が来られて、とてもよかったなと思いました。
3週ですね、丸テーブルでエアラインして、元に戻ったら、何か変わったなという気持ちになりましたけれども、またメッセージとしても普段と変わってですね、音楽を、あるいは絵を用いてのメッセージでしたが、どうだったんでしょうか、みなさん。
よかったですか。3人同じいていますね。はい、ありがとうございます。
多くの方がですね、お見えになってですね、本当にめぐみの時が、みなさんの祈りと神様のめぐみによって行われたことを、これから感謝いたします。
またその方々がですね、礼拝に続いて来られて、またイエス・キリストを信じて救われるようにですね、また覚えてですね、みなさんが誘って来られた方々の顔、名前を覚えてですね、覚えてね、引き続き祈っていきたいと思います。
それでは周りの方とですね、ありがとうございました。あるいはメリークリスマスでもいいでしょう。挨拶しましょう。
はい、それでは一言お祈りいたします。
言葉は使徒となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
父の身元から来られた一人子としての栄光である。この方はめぐみと誠に満ちておられた。
主よ感謝いたします。神様のイエス・キリストの満ち満ちたその様が、私たちにも与えられ注がれて、主よ今日私がいること、主よ本当に感謝いたします。
今日も神様がこの時、ここに集っている私たち一人一人の魂の中に、霊の中に、神様御自身がお語りくださいますように。
イエス・キリストにお会いするめぐみの時とってください。
03:00
旧徒の方、あるいは久しぶりの方々の上にも等しく、イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れ、その永遠の命と喜びのうちに生まれるように、どうか主よ祝福してください。
神様御自身が語ってくださいますように。イエス・キリスト様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日から今年のアドベント、いわゆる大光節が始まります。
今日からですね、クリスマスのメッセージを4回にかけてお話をしていきたいと思います。
市内にはですね、もう12月になる前からクリスマスの派手なきれいなイルミネーションが飾られているんですね。
ある意味で教会よりこの世が早いなと思うほどですけれども、教会では今日からアドベント大光節が始まります。
大光節はイエス・キリストの降誕を待ち望む期間のことですね。
アドベントとも使いますけれども、アドベントという単語はラテン語からの言葉ですけど、意味は到来という意味ですね。
もともとの言語はラテン語のアドベンツスという言葉から来ましたけれども、いわゆるキリストの到来ということがアドベントということであります。
そういうわけでですね、クリスマスのメッセージを今日から4回にかけてお話をしていきたいと思います。
皆さんどうぞお祈りくださり、またそのメッセージによる礼拝による神の恵みを共にお受けしたいと思います。
今日は、A.D.180年頃のキリスト教の歴史のお話をしながら始めていきたいと思います。
A.D.180年のあの頃のことですが、フランスのリオンという町があって、そこにキリスト教がとても盛んでありましたけれども、
ローマによるまたフランスによるキリスト教に対する迫害がとても激しく起きました。
そしてですね、多くのクリシャンがその信仰のゆえに拷問を受けたり、投獄をされたりあるいは処刑されたりする時代でした。
180年ですから、イエス様がA.D.33年に十字架にかかわられたならば、そんなに長い時間が経っているわけではないんですよね。
06:09
何百年も経っていないわけなんです。
だからペペロの四代目の弟子ぐらいが活動していた時代ではないかなと思うんですね。
一代は30年ぐらいにする、二代ですよ。
四代目、五代目ぐらいの弟子の弟子の弟子の弟子がフランスにあるいはヨーロッパに宣教していた教会がとても盛んに福音が広がっていた時代でした。
そのリオンという町に教会の監督、今長老あるいは牧師と同じ役割ですけれども、教会の監督のポティヌスという人がいました。
あの180年頃、彼はすでに90歳のおじちゃんになっていました。
もう種族は悪い、体は弱っていて、なかなか体の動きも不自由である、病気も持っている高齢である。
しかし、彼の魂は生き生きとしていました。
そして何より、ローマによる迫害、あるいはフランスの中に起きたキリスト教に対する迫害を、もうちょっと恐れていませんでした。
ついにこのリオンの監督、ポティヌスも逮捕されました。
そして逮捕されたその彼を、90歳のおじちゃんですよ、監督たちは石を投げたり、足で踏みにしたりしたんですね。
にもかかわらず、ポティヌスこの監督は、そういった迫害にも屈服しませんでした。
妥協しませんでした。
それでこのポティヌスは、逮捕の2日後、復旧で殉教しました。
実は英語も異なります。
信仰を貫いたあのリオンの監督のポティヌスがいましたから、その街で彼のその素晴らしい信仰を見て見習おうとした人々がたくさん起こされました。
その中の一人の名前が、キリスト教の歴史の中でとても重要な人物のイレニウスという人であります。
どこかで聞いたことありますか、皆さん。イレニウス。
私たちが告白している基礎信条の基礎、土台のようなことを確立した、あのエイリー180年頃の人物ですけれども。
09:02
そのイレニウスがさっき殉教したポティヌスの次として、リオンの教会監督になった。
やはり素晴らしい信仰を持っている人の周りから、その素晴らしい信仰ぶりを見て見習って、知らずに自分も立派な信者になることが多くあるんじゃないでしょうか。
ところが当時は、今申し上げたように、あのヨーロッパにはローマによるキリスト教の迫害、それからもう一つは、いろんな異端が横行していました。
だからですね、外からはローマ帝国による迫害があり、またキリスト教の中からは、まあでもないですけれども、その異端からのいろんな攻撃が本当にはびこてしていて、神の教会が混乱な時代を通って、まるでトンネルを通っているような時代でした。
ところがこんな時に、イレニュース一人だけではありませんが、イレニュースはどうしたらこの混乱な時代を通り抜けることができるんだろうか。
教会が我々の信仰が揺さぶられることもなく、立派に貫いていくことができるんだろうか、祈って考えて研究をし続けていきました。
そしてこのイレニュースがたどり着いた言葉が、今日のヨハネノ勲教1教14説、それから16説でした。もちろん他の聖書も立派に散っていたわけですけれども。
そして彼がたどり着いたのは、イエス様が人となられてこの地にお生まれになったこと、それを教会ではジュニックと言いますね。受けると肉、英語ではインカーネーションと言いますけれども、そこにたどり着きました。
ああそうだ、神なるイエス様が人間となられたこの事実には、キリスト教の素晴らしい教えが、お国が現れている。
これさえはっきりと知って信じていれば、どんな迫害があっても、異端があっても、信仰立派に守り抜くことができると、そこに。
そしてこのイデニウスの本が今も残っていますけれども、その本の中でこういうふうに彼は話をしました。すごく簡単でわかせるような話なんです。よく聞いていてください。
まあ短いですけれども、彼はイエス様ですね。彼が我々のようになられたのは、我々が彼のようになるためであると言いました。
12:12
当たり前のような簡単な言葉です。イエス様が我々のようになられたのは、我々がイエス様のようになるためであるという、実はすごい文章を残したわけなんです。
何よりイエス様が人間としてお生まれになった事実は、その事実を信じる私たちの霊的身分についても、改めて考える機会を与えてくれます。
イエス様は人となられて、この地にお生まれになった。そのイエス様の誕生をお祝いするのがクリスマスじゃないですか。
このアドベント、クリスマスが近づいているこの時期に、イエス様のあのインカーネーション・ジュニク人として生まれた事、それが実はどんなに素晴らしい事が起きたのか。
そしてそれによって私たちに何が起きたのか。そうするなら私はどう生きるべきなのか。その話をしていきたいと思います。
もう一度今日の14節を大きな声で一緒に読みたいと思います。14節を一緒に読みましょう。
言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。まずイエス様の身分について考えていきたいと思います。
クリスマスになるとね、私たちはイエス様があの馬小屋で、ベスレームの馬小屋で、親とお生まれになった事を考えます。
ところがイエス様が人となられて、この地に私たちと全く同じ人となられて生まれた事。
ここには大事な事実、真理がそこに現れているんです。
第一はイエス様は人となられる前に、もちろん後にも変わりはありませんが、人となられる前には完全な神であるということなんです。
唯一の神であり、作り主の神である、永遠から永遠までおられる唯一の神様なんです。
その神様が、あの栄光を、天皇御座を、あのお生まれを、全てを負け捨てて、この地にお生まれになったということなんです。
15:16
これは皆さん大事件なんですよ。大事件なんです実は。
これをですね、イエス様のリコヒゲと言いますね。ヒゲはこのヒゲじゃないですよ、もちろんね。
自分をあえて低い位置に引き裂けて減り下ることですね。癒ししたという言葉なんです。
つまり、あり得ないとんでもない大事件が起きたわけなんです。
誰のためですか?私のために、あなたのためになんです。
イエス様は私たちを救うために、そのアザペの本当の愛を実践するために、本当の希望、永遠の命を与えるために、
イエス様はご自分の神としての全てを、地位も身分も栄光も富みも、全て投げ捨てられたんです。
全てを諦めてくれたんです。実はこれは凄すぎることなんですよ。
ここに神の愛、イエス・キリストの愛が現れているんです。
そしてここには徹底的に、人のため、他人のための犠牲が現れている。
全てを与えるほどの、与えて自分が残るわけではないんですよ。
全てを捨てた、全てを諦めたんです。
これが先ほどイデニエスが言った、そして今日の14節の言葉は人となった、この言葉はイエス様を指しますね。
彼が我々のようになられたということなんです。
次に一緒に考えていきたいということがあります。
イエス様のあの受肉を信じる私たちは、一体私たちは誰なのかということなんです。
イエス様の受肉が偉大な事実であると同時に、イデニエスが話したように、我々が彼のようになるためであるということなんです。
これが第二のポイントですけれども、皆さん、クリスマスになると町にはテロルが流れたり、ケーキ屋さんのケーキは早く予約しないと間に合わなかったり、この町は繁盛してそうするんですけれども、
18:00
まことの主を知る私たちは、イエス様が全てを投げ捨てられて、この地に癒やしくなられ、貧しくなられたこと、それによって私たちはどうなったのかということを知りたいんですね。
それで16節を一緒にですね、もう一度読みたいと思います。
16節を一緒に、私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの家にさらに恵みを受けたのである。
皆さん、14節を見ますと、私は見ますね、2行目のところから見てみたらですね、
つまりイエス様は恵みとまことに満ちておられる方である。
満ち満ちた豊かさがイエス様である。
その豊かさが満ち満ち溢れている豊かさがイエス様にありますけれども、その豊かさを、満ち満ちたさまを私たちにも同じく与えるためにイエス様が父となられたということなんです。
それで16節、私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から恵みの家にさらに恵みを受けたのであるとあります。
つまりイエス様の満ち満ちた豊かさが私たちの満ち満ちた豊かさになったということなんです。
イエス様が満ち満ちた豊かさのそのものであられるように、私たちもそうであるように、そのためにイエス様が人となられた。
それが先ほどイデニウスが言った彼のようになるためであるという話であります。
だから皆さん、クリスマス、イエス様の御好談を覚えるときに、イエス様の満ち満ちたさまが私たちの満ち満ちたさまになったということ、それをするためにイエス様が人間となってお生まれになったということ、これが素晴らしいことなんです。
この満ち満ちた豊かさを味わっていて悟った人がいます。
シト・パウルです。
彼はこれをこういうふうに語っています。
ちょっと開きましょう。
第二コリント、八章九節ですね。
新約聖書の第二コリント、八章九節、三百五十四ページですね。
新約聖書の三百五十四ページ。
21:03
聖書をお持ちの方は開いてください。
よろしいですか。
この第二コリント、八章の九節を、先ほどね、ヨハネの一章の十四と十六を覚えながら一緒に読みたいと思います。
あなた方は私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。
それは、あなた方がキリストの貧しさによって富むものとなるためです。
アーメン。
わかりますか、皆さん。わかりやすいんですね。
イエス様は富んでおられる方なんですよ。
富そのものの栄光を輝く方が、貧しくなってくださって、厭しくなってくださったんです。
なぜですか。
厭しい私たち、貧しい私たちを、富むものとするためなんです。
これは、クリスマスの本当の意味なんですよ、皆さん。
大事件が起きたんですよ、皆さん、実は。
意味がわかってくるでしょうか。
イエス様が厭しくなられて、貧しくなられたから、私たちが永遠の命を得て、富むものになったということなんですよ、皆さん。
例えば皆さん、私たちがですよ、私たちが少しのお金で誰かを助けてあげることはできるでしょう。
結構前ですけれども、東京にいたときにバスを待っていたら、あるおじいちゃんが来て、
仙台の家に帰らなければならないけどお金がないんだからバスタイをちょっともらえませんか、貸してくれませんか、
そんなふうに言われてですね、かわいそうに見えたから、何千円か覚えていませんが、何千円かあげたことがあるんです。
その方がたぶん帰らなかったでしょうね。たぶん私の顔が騙されやすい顔をしていたから、そういうふうに言われたかもしれませんが。
まあね、バスタイくらいあげることはできると思うんですよ。
でも家様がいやしくなられた、貧しくなられたのは、私が自分の財産でバスタイくらいあげる、そんなもんじゃないんです。
例えば、それもね、比べることはできないでしょうけれど、例えばですよ、
誰かに皆さんが、皆さんの全財産を誰かにあげて、代わりに皆さんは貧乏になることができるんでしょうか。
それを、しかも喜んであげるのでしょうか。
例えば、もっとリアルに話をしてみましょう。
24:03
誰かが皆さんにですね、あのね、うちの車がめっちゃポンコツだからね、あなたの車をくださいと言ったら、はい、喜んで大きにさせることができるんでしょうか。
あるいはですね、ある人がね、皆さんに言ってね、あのね、うちの家はね、わんけいだし、狭いし、しかも賃貸だしね、だからあなたのね、一軒家の素晴らしいところに、
明日から僕が住んで、明日からうちのワンルームに、あなたに住んでもらいましょうね。
そしたら、それは嬉しいことですね。喜んで大きにと言って、引っ越しすることができるんでしょうか。
多分できないでしょうね、皆さん。
イエス様の自己否定、人となられたことはまさにこれ以上の大事件なんですよ。
わかりますか、皆さん。
イエス様が徹底的にいやしくなられた、貧しくなられた、それは何のためでしょうか。
私たちが高くなるため、遠くなるため、遠物にするためなんですよ。
だからこれは大事件なんです。
それが私たちのために、でも皆さん、私たちにはそれは難しいでしょうと思うんだけれども、
実際に自分のものを差し出して、そして富むものが貧しくなる、貧しいものがものを、財を持つようになることがあったんですよ。
どこにあったんでしょうか。
初代教会、エルサレム教会にありました。
聖書を開きましょう。
使徒の働き、2章に行きましょう。
使徒の働き、第2章、44節、45節です。
新約聖書の231ページです。
よろしいですか。
使徒の働き、第2章、44節と45節を一緒に見たいと思います。
信者となった者たちは、皆一緒にいて、一切のものを共有にしていた。
そして資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
分かりますか、皆さん。
持っているものは、自分の土地や資産や持ち物を全部売って、それを持ってきて、それを共有して、分配していただきます。
例えば、財産が5億円持っていた人が、それを5億円持ってくる。
27:00
そしたら、100万円しか持っていない人が、それを一緒に分けて、皆同じように共有して分配していただくことはありえないことが起きたんですよ。
実際のこの実ですから。
でもね、なぜこんな風にしたんでしょうか。
しかも喜んでそれができたんでしょうか。
それは、イエス様のお誕生、その受肉がどんなに素晴らしいことなのか、その意味を知っていて、信じていて、分かっていたんだから、その意味を知る者としては、このままには生きるわけにはいけません。
そういう風になって、こんな素晴らしいことが起きたんですよ。
自分を癒やしくして、自分を貧しくして、私たちを尊くしてくださった。
高くあげてくださった。
なんと素晴らしい恵みなんだろう。
そして、あえて喜んで自分を貧しくする信徒たちが、自分を癒やしくする信徒たちが、起こされたんですよ、皆。
できないわけではないんですよね。
これがイエス様の、あのクリスマスの受肉の恵み豊かに味わい、その意味を知った信徒たちの生き方だったんです。
まさにイエス様は、天の家を、神の家を、神の御座を捨てられて、この地上で実際にイエス様は、家もない、金もない、頭多く枕一個すらない、ホームレスだったんです。
イエス様は、天の御座を捨てられて、この地上でホームレスになった。
なぜでしょうか。私たちを天に引き上げるためなんです。
尊い身分に、高い身分にするために、イエス様が徹底的に癒やしくなられ、なんと大きな恵みなんでしょうか。
私たちは、神に出会うまでには、本当にこの地上でホームレスのような人生だったんです。
神の家に入れない、帰る家がない、帝の家がない。
天のお父さんも知らないから、本当のお父さんがいない。
罪の奴隷だったんです、私たちは。
でも神様は、そんな私たちを癒やしい身分のままに放っておくわけにはいきませんから、イエス様が自分自身全てを捨てて、徹底的に癒やしく、眩しくなられた。
30:01
そして、その父を信じる者は、その霊の身分を、私たちを尊いものに、富むものに、高いものにしてくださった。
これがクリスマスなのです。感謝が溢れてくるでしょうか。
私の言う中では、なかなかそんなことないんですよ。
このように、イエス様の受肉の大事件によって、私たちの霊的身分が高く尊く、どれだけ感謝のことなんでしょうか。
クリスマスは、私たちにこの意味を知らせてくれる大事な、本当に素晴らしいことが起きたわけなんですね。
結論に入りたいと思いますけれども。
天の来た神様は、イエス様の受肉を通して、たった一人ごを失われましたね。
しかし、神様は同時に、一人ごを失われることを通して、空の星のような数多くの子供を得られました。
イエス様が使徒となられてお生まれになったことは、ご自身を癒やしい身分として、ご自身を貧しい身分として、私たちを高く尊いものにするためなんです。
これが恵みなんです。
それを今日のヨハネは一層、十六節に、私たちは皆この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのであると、何と感謝のことなんでしょうか。
最後になりますが、それで皆さんにチャレンジをあげたいと思います。
今年のクリスマスは、イエス様のように貧しくなろうではありませんか。
豊かに与えようではありませんか。
あるいは、神様に豊かに捧げようではありませんか。
だから、明日から先生、家を買いましょうかと言ってくれなくていいんですよ。
多分、そんな方はいらっしゃらないと思いますけどね。
イエス様が癒やしくなられ、貧しくなられたことによって、私たちが高く尊くなったのならば、
今度は、私たちが癒やしくなって貧しくなって、それを通して、我々の周りにいる人々を高く上げる、尊くする。
33:06
そして、その方をイエス・リストに導くならば、人生最高の、それは技ではないでしょう。
クリスマスは、イエス様が全てを捨てられて、癒やしく、貧しくなられたことを通して、私たちを高く、尊く物としてくださって、
恵みの上に、恵みが増し加えられた豊かさであります。
その信仰を持って、今年のクリスマスは、イエス様のように癒やしく、貧しくなって、福に仕え、死に仕えていこうではないでしょうか。
それを通して、イエス様の福音を告げ知らせる、私たちでありたいと、そういう風に願います。
お祈りします。
34:02

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