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2019-12-08 50:17

2019/12/08:アドベント説教2 かけだらけの人々とイエス・キリスト

2019/12/08 アドベント第二聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 1:1-6,16-17

00:01
今日は、この大変な国書の見言葉から、アドベント対抗説2回目であります、説教題は、かけだらけの人々とイエス・キリスト、かけだらけの人々とイエス・キリストでございます。
それでは、メッセージの前に、隣の方と挨拶の時を持ちましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。それでは、一言お祈りいたします。
ヤコブニマリアノオットヨセフガウマレタ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。アーメン。
神様、感謝いたします。神なるイエス様が癒やすところにおいでください。
私たちを罪と徒悔のゆえに死んでいた私たち、神の敵であった私たち、こんな私たちを救うために、この日にお生まれになさいました。
主よ、このイエス・キリストを真摯に救われ、この地上においても天においても、神の子として日々歩みをさせてくださいますように、お願いいたします。
主よ、この場に集っている全ての人々の上にイエス・キリストの救いが届き、そして本当に誠の神に出会い、恵みのうちに、祝福のうちに歩むことができるように、どうぞ主よ、憐れんで恵みを与えてくださいますように、お願いいたします。
主よ、感謝します。イエス・サマの皆によってお祈りいたします。
アーメン、アーメン、感謝いたします。
先ほどお話ししましたけれども、水曜日にですね、皆さん祈ってくださって、また多くの方に誘ってくださって、レディースクリスマス会が行われましたけれども、
03:06
普通でですね、ランプが煙が出て壊れてですね、7年ほど使いましたから、その機会も大変苦労しましたのでね、10秒がなく終わったなと思いました。
それで今日ちょっとね、画面はないんですけれども、だいぶ天気も寒くなって、冬らしくなっていますけれども、
今日はアドベント対抗説の2回目のメッセージになります。
今年も先週からクリスまで4回にかけて、クリスマスシリーズ説教を今させていただいているわけですが、
今日はカテラだけの人々とイエス・キリストです。
この4回が全部つながってシリーズのメッセージになりますので、それが信者の皆さんにも、あるいは中道者や異信者の皆さんにも恵みになるメッセージになるのではないかなと思いましたので、
もし皆さんで、このイエス・キリストによる福井を誰かにお伝えしたいと思っておられる方は、お願いしてですね、フィーディー4枚を用意してですね、それをまたプレゼントしたりね、
そうするとそれも有効な伝道になるのではないかなと思いますので、それをぜひですね、皆さん遠慮なく活用してください。
安いですよ。何枚もしないのでね、本当にね。
さあ、今日は、よく新約聖書を最初に開く人にとっては、聖書ってこんなものなの、日本人も読みづらいカタカナの名前がもうびっしり書かれていてですね、
ドミミなのとね、あんまり面白くないし、退屈さを感じるかもしれないような、この経図で始まっていますけれども、
実はここにはですね、今日一日中話しても時間が足らないほど、とても奥深い、
そしてたくさんの意味が、この第一章のこの十七節で終わっている経図に含まれているんです。
その中で今日は全部で話し切ることができませんので、三つの話としていきたいと思います。
ぜひこれをですね、皆さん覚えていただいて、クリスマス、イエス様の御幸さんが果たしてどういう意味があるのか、
06:10
特に、なぜマサイはこの福音書というイエス様の物語を書くにあたって、こういう経緯から始めたのか、
そしてこの中にこういう人々の名前をなぜあえて意図的に入れたのか、
そして神様はこれを通してマサイ博士に何を語ろうとしておられるのか、
それをぜひ皆さん掴んでいただいて、そしてそのイエス様の御幸さん、クリスマスの本当の意味を、
クリシャンだからこそ本当の意味を知っていただきたいんですよね。
ぜひですね、皆さん掴んでいただいて、自分自身のものにしていただけたら嬉しいなと思います。
まず第一、この経図には出てくる一人一人の名前を読んでいくときに、
特に旧約聖書を知っているこのユダヤ人、それから私たちに、
この経図こそイエス・キリストは歴史的人物であるということを表明している、その記録であるということなんです。
さあ、まずこの大印の福音書はマタイというイスラエ人、ユダヤ人がこれを記録したわけなんです。
いつ記録したのかは、はっきり何年何月何日のかわからないんですけれども、
イエス様が天に引き上げられたあと数年経って、だいたいAD60年から70年の間に書かれただろうと推定されています。
ですからイエス様がAD0年にお生まれになって、33年で十字架で亡くなられて、その年に天に引き上げられたならば、
だいたい30年後にこのマタイの福音書が書かれたわけです。そうですか。そうですよね。
さあ、そしてそのマタイはイエス様の弟子です。弟子が自分の恩師のイエス様のいわゆる授業伝と言いますか、その偉人伝みたいなものを書きたかったとすれば、
あの自分の本当に尊敬している恩師の経図をね、さかのぼって、そこにある、いやこの人の名前はちょっと抜きましょう。恥ずかしいね、こんなあの昔のこういうことはもう入れなくていいんじゃない。
いいことを生かして、素晴らしい人物に本当に偉大だったそういう話だけを書こうとしたならば、自分できたかもしれない。
09:08
実際に皆さんどうでしょうか。小学生たちが読む歴史書とか、因人伝とか、そういう何かの人物の話を見ると、大体言い放しばかりじゃないですか。そうでしょ。
あまり読んだことないですか、皆さん。あの話っていうのを顔を皆さんにしてますけど。大体そんな話なんですよ。
まあその人の書籍の中に本当に脅迫案があったり、こういう本当に大変大きな罪のああいう犯罪歴をね、全部書く因人伝はないんですよ。そうでしょ。
あるいは皆さんが、どこの会社に皆さんの履歴書を出しますよ。自分の履歴書を出してですね。そこに求められてもいない自分の履歴書に自分の履歴書の中で本当に悪いことを言った人の名前を全部書く人はいないわけなんですよ。
もしこれが架空の人物の話を書こうとするならば、それをあえて書く必要はないんです。何の話かというと、実はこの経図の中に何人かの人物は、もう賭けだらけであって恥ずかしくて、もう道徳的に見ても性的に見ても法律的に見ても本当にもう犯罪人なんです。
聖者という言葉を柔らかくして使ってはいませんが、そういう人々が誰の祖先ですか?イエス様の祖先にいるわけなんです。それをマタイは隠さないで、あえてその人が誰の妻なのかまであえて意図的に書いてあるわけなんです。
マタイは偽りなく正直にイエス様は油物子孫で生まれになりましたけれども、油物子孫の子孫の子孫の子孫の中に本当にもう恥ずかしい、隠したい名前をもう書きたくないような賭けだらけのそういう人々がいたんですよと、もう天下のもとにね、それを公にね、もう笑っているわけなんですよね。
どんな人がいたんでしょうか。この名前の一人一人に似てきました。まず3節ご覧ください。3節にユダに、ユダはヤコブの息子なんですよ。ユダにタマルによってパレスとザラが生まれてありますが、
その旧約聖書のストーリーを知らない人々には、タマルはユダの奥様だのかなと思うかもしれませんが、ユダヤ人は聖書、旧約聖書を全部知っているわけなんですよね。そして真珠の朝霞も知っているわけなんですよ。
12:11
このタマルはどうでしょうか。ユダの妻ではないんですよ。嫁なんです。しかもそれは、もうユダがね、もう本当にそういう、子供はいるから言葉はちょっとね、あのせんめくしないとならないんだけれども、もうお嫁さんと仕事さんが、それで生まれた子供がパレスとザラがある、それがイエス様の祖先の中にいるわけなんです。
道徳的に受け入れ難い人々なんです。一般の皆さんの周りの人が、そういう人々がいたならば、もうね、その人はもう人々が相手にしてくれないかもしれない。そういうタマルとユダがイエス様の祖先の中にいる。それだけで終わっていないんですよね。この次はどうでしょうか。
サルモンにラハブによってボアズが生まれたとあるんです。ラハブはどうでしょうか。ヨシスは当時常の人々がこのカナーに入ろうとしているときに、そのときに偵察隊がそこに泊まっていたエリコマ氏のこの宿屋をしていた遊女だったんです。まあ聖女、遊女だって、まあ意味は大人の皆さんがわかるんでしょうね。
子供がいるからちょっと言葉避けますけれども、そういう遊女がボアズを生んだわけなんです。そしてその子供の子供の子供の中で誰が生まれたんですか。ダビデ王が生まれたわけなんです。
たぶん皆さん、私はそんな求めはしませんが、皆さんの祖先の形状をちょっと書いてもらえませんかと言ったらね、もし皆さんの祖先の中にこういう人がいたら、たぶん書かないでしょう。ユダは歴史的な事実をそのまま、もうありのまま書いているわけなんです。
しかもこのタマルとラハブは、ユダヤ人が犬どもに扱っていた違法人であります。ものすごい国々の差別をしていた彼らにこって、イスラエ人、ユダヤ人、アブラムの子孫ではない人々は、もうちょっと言葉洗いますけれども、人間ではないんです。もう犬どもとしているわけですからね。
そういう人々の名前がここに入っているんですよ。まだどうでしょうか。ダビデはどうでしょうか。6節のコラムだ。エッサイにダビデの王が生まれた。その次ですよ。
15:00
または、もうね、神の霊観によって書きましたけれども、伊藤的にダビデにパテシェバによってソロモンが生まれたと記憶していないですね。実はウリアの妻の名前がパテシェバなんだけれども、なぜパテシェバというラハブとかタマルのように名前じゃなくて、あえてパテシェバは実はダビデの妻ではなく、ウリアの妻ですよと書いてあるわけなんです。
皆さん、ウリアは誰ですか。ダビデがサウロ王に追っかけられて避難して統合しているときに、もうダビデのそばでいつもダビデを支えてくれたもう友人であって、戦友であって、もう仲間だったんですよ。
でもどんな歴史があったんですか、ダビデは。その戦友のあのウリアの妻を自分の妻にしてしまった。強引。そして子供がもうできてしまった。その事実を隠すために、あのウリアを先祖の一番先に立たせて、間接的に自分のあの戦友を殺したわけなんです。
そのダビデがイエステキリストの祖先の中の律法にあるわけなんですよね。ダビデはこの経緯にそういう人々の名前を書かなくてもよかろうにそれを書いて、そしてまるでこのマタユノ君主を呼んでいるイスラエルの人々、
そして私たちにあの昔の失敗だらけで賭けだらけで恥ずかしくてそういう人々をあえてここに載せていて思い起こしているわけなんです。それは苦しめるためではないんです。苦しめるためではない。何が言いたいんでしょうか。
神様はイエステキリストをその人がタマルであろうがラハブであろうがパテシャバであろうがダビデであろうがどんなに道徳的に法律的に性的に悪いことした人であろうが人殺しであろうが神様にイエステキリストに受け入れられない人はいない。
どんな人も神様は受け入れてくれる。そしてそれを歴史的にあったわけですからこれを書き潰しているわけなんです。ですから皆さんこれより歴史的な証拠がどこにあるんでしょうか。これは本当に事実そのものであるということなんです。
クリスマス。イエス様がベスレムにお生まれになったこと。神様が人間としてお生まれになったことは私だけの頭では理解し難いかもしれませんがそれは歴史的事実である実話であるイエスキリストは歴史的人物であるということであります。
18:19
2番目。先ほど少し触れましたけれどもイエス様はこのような賭けだらけの人々。この人々いやもう恥ずかしいと言ってもう相手にしたくないじゃなくて彼らを恥ずかしいと思わないで彼らの中においで下さった。
そして彼らを受け入れて下さった。ここに私たちに向かうイエスキリストの憐れみがここに溢れているんです。
イエス様は何の問題もなく本当に賭けもない聖人みたいな偉人みたいな人々ばかり。金持ちばかりイスラエ人ばかりそういう人々ばかりを受け入れる自分の祖先にすることもできたわけなんです。神様はできるわけですからね。
でもそうなりません。
皆さん私たちも同じなんです。
イエス様の子供になるために血統や国籍や財産や過去の記録やあるいは自分の祖先の履歴は職業やあるいは我々の外貌も性格も何も実は何も重要ではない。
ただ自分の罪を悔やかめてイエスキリストの救い主として信じて受け入れさえすればイエスキリストの父親の恵みがまるで油断と溜まるあるいはラハブあるいはパセシェバあるいはダビデのその罪を覆って下さったようにその通りに私たちの全ての罪も穢れも
あるいは自分の祖先の中にあったそういった全ても主は覆って下さって凶悪して下さる。二度と思い起こさない。
21:06
死が来たら遠くあるようにもうそれを映して下さるということです。
皆さん世の中にどこにこんな恵み許しがあるんでしょうか。私はないと思うんですよ。
世の中は何かうまく仕事ができなかったり、会社や社会で求める基準に達していない人はのけものにされるんですね。
以前少しお話したかもしれませんが私が大学卒業してすぐに恵みの家に就職できたわけですけれども、丸三年年度は四年間アパレルの会社で仕事をさせていただきました。
でも一生懸命やりましたよ。私は朝5時起きてもう7時まで出勤して時々10時11時にもう家に帰って結婚して新婚でしたけれども月曜日から金曜日まで韓国の全国を出張してもう本当に一生懸命やりましたけれどもその実績は良くなかったんです。
それでいつもリストラリストの上位にいつも私の名前は載っていました。あえてクビはしないんですね、法律的にあるから。もう自分で辞めるようなそういうムードがあるわけなんです。
もう実績が良くないから。悪口を言っているわけではありませんが、私はそれで25、6、7歳の時に社会はやっぱりこういうものなんだ。給料をもらっているからその後働かなければいけないし、その給料の2倍3倍の利益も出せなくならない。
その仕組みはわかるんだけれども、頑張ってもできなかったから、ある意味でどうしようもないです。社会はこういうものなんです。まるで子供たちが好きなドラえもんあるよね。ドラえもんにできすぎくは何でもできすぎるんですよね。でも伸びたらどうですか。
ダメダメなんですよ。もうダメでみんなもいじめられて、バカにされて、ムケ物にされてですね。これが実はこの世なんですよ。
でもどうですか。イエス様は恵のゆえにどんな人も、それが伸びたくんであろうが、私のようにもううまく仕事ができない人であろうが、健康な人であろうが、病弱な人であろうが、金持ちであろうが、固執であろうが、賢い人であろうが、バカな人であろうが、有名大学の出身の人であろうが、無学の人であろうが、男性であろうが女性であろうが、アメリカの人であろうが、アフリカの人であろうが、
24:22
誰でもイエス様の前に近づいて救われるに妨害される要素はないんです。罪は悔やられたね。イエスキリストを救い主として受け入れされせれば、すべての罪はすべては許され、民の前にみんな等しいなんですよ。
皆さんそう思いますか?そう信じますか?民の前にはみんな等しいんですよ。日本人であろうが、中国人であろうが、アメリカ人であろうが、太平洋の何か島のそういう人々であろうが、みんな民の前には等しい。
だから聖書はこう言ってますね。四編の三十二編の一節、幸いなことよ、その背きを許され罪を覆われた人は、まさに背きを許されて罪を覆っていただいた人が誰ですか?私とあなた、皆様です。
だからイエス様は、マサイノ国教九章十二十三章にこういうことが語られました。聖書面白かったら開きましょうかね。すみませんが。マサイノ国教九章十二節と十三節。
本橋も開きましょうか。マサイノ国教九章十二節と十三節。十五ページですね。新約聖書の十五ページ。マサイノ国教九章の十二節十三節。十五ページですよ。一緒に見て。
さあ読みますね。十二節と十三節。では一緒に読みましょうか。これ合わせて読みましょう。
私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。アーメン。皆さん本当にそうなんです。イエス様は正しい人も罪人も賢明な人も愚かな人も貧しい人も、
27:11
何かを始めてもうまくできない人であろうが、何でもうまくできる人であろうが、どんな人も主は受け入れてくださる、愛してくださる、救ってくださるというメッセージが、この経図のメッセージであって、イエス様の御口談の前のメッセージであります。
だから皆さん、こう言えるんじゃないでしょうか。イエス・キリストの恵みが必要でない人は誰もいないです。いくら立派な人であっても例外ではありません。あるいは逆にイエス・キリストの恵みを受けることができない人もいないんです。
いくら悪い人間であっても、その人が悔い改めをさえすれば、信じさえすれば、皆救われる。まるでイエス様の祖先の中に、友情も人殺しの人も、詐欺師のような人であっても、違法人のような人であっても、全ての人は皆イエス・キリストにあって等しい。
同じ失われた罪人であって、皆イエス・キリストの十字架の愛のゆえに、罪許しのゆえに受け入れられた。その受け入れられた者の中に誰が入っていますか。私たちが入っているわけなんです。
いつまでも、いつも、いつまでも待っていて下さる。罪を悔い改めれば、いつでも許して下さる。受け入れて下さる。本当に神の国観は、本当に世の価値観と全く違うんですよね。
皆さん、イエス・キリストを救いの手として信じて、その方につながって生きるということは、世の価値観、それがアメリカの価値観でもなく、日本の価値観でもなく、韓国の、アフリカの、イギリスの価値観でもなく、神の価値観によって、イエス・キリストの価値観によって、その上で立って生きるということを意味するわけです。
さっきも申しましたように、世の価値観はどうでしょうか。たくさんありますけれども、この世の中は、血統や人類や国家を大事にしていますね。そしてそこに何かランクをつけるわけなんです。
自分の民族が世界最高だ、もう世界一だ、優秀だ、そういうふうに教えて宣伝して、教育して、そうします。それは逆に言いますと、他の国はダメですよ、他の国は悪いですよ、衰てますよ、もうアホですよ、みたいに差別意識をもたらしているわけなんですよ。それが世の価値観であります。
30:22
またどうでしょうか。お金に関しては、その富が、財が、お金が、その人の価値を決めるわけなんです。
例えば、金持ちがある。今日めっちゃ金持ちである。でも、その人が実際どんな人であろうが、あんまり関係ない。お金さえあればVIPで待遇を受けられる。でも世の中はどうでしょうか。貧しい人は、銀行にいても並んでいなくならないんですよ。銀行にお金をたくさん預けた人は、はい、どうぞ、VIP室に案内してもらいます。
レパートにいても、ミスボラシー、こういう服を見て、例えば高いブランドの前にうろろったら、誰も会いに来てくれないんです。でも、毎日みたいに毎月に買っている人は、駐車場から別の駐車場に車を停めて、停めるのも自分で停めないんですよね。
パーキングしてくれて、1000円のエレベーターで1000円を増やしてお金を見に行く必要もないんです。全部持ってきてくれて、これはいかがですか。専属のコーディネーターみたいに全部やってくれる社会。
お金がその人の価値を決めつけてしまうのが、実は世の価値観なんです。しかしどうでしょうか。イエス・キリストはこの世のすべての価値観を、もうね、全部ひっくり返してくださったわけです。
イエス・サマーは、だから、このまたにのクリスの子の啓示を持って、私たちにこう語っておられるんですよ。あのね、あなた方が世の中で大事に、これは大事だ、これは最高だ、これは重要だと思っていることは、教会の中に持ち込んではいけない。
神の前には、そういう世の全ての価値観は、ゴミのようなものなんだ。キリストの前には、みんな受け入れられ、みんな等しいと、私はこのまたにのクリスを持って宣言しているわけです。何でしょうか。
当時のユダヤ人にとっては、さっきも申しましたように、ユダヤ人ではない他の国の人々、罪人はもう人間ではないんです。受け入れられない、受けることをしない、相手にしない、もうすごい差別をしていた彼らなんです。イエス・サマーの当時のあの人々。
33:06
その人々に、なんともう直撃に爆弾みたいに、イエス・サマーの自分たちが待っていた油の子孫から来る飯屋のその刑事の中に、こういう人々もいるんですよ。イエス・サマーの前には、みんな等しいですよ。
キリストの福音の中に、こういう人種差別とか、そういう世の価値観を持ち込んだらいけませんよ。神はみんな受け入れてくださるんだから、あなたも受け入れられるんだから、これが福音なんです。だから福音が良き知らせなんです。誰も受け入れられる。誰も許される。悔やかにされていれば。
だから私たちはここにいるんじゃないでしょうか。そう思いませんか。
最近、聖典において神明の御言葉をずっと黙祖して、今お仕置きに入っていますけれども、毎朝御言葉を黙祖して分かち合う中で、この頃強く教えられたことがありますね。
本当に神の恵みは、考えられないほどの大きな恵みだな。こんな私、失態だらけで、何かまともに仏会ができるわけでもありませんし、すごい結果が出ているわけでもありませんし、性格を見ても人格を見ても、そんなに模範的なものでもありませんし、
どこを見ても賭けだらけで、どこを見ても本当に無力なものである。罪の多いものである。
でも神様は憐れみを持って、こんなものでも、僕として、宣教師として、いつか用いてくださっておられること、その恵みを噛み締めて覚えるたびに、もう神様の大きな恵み、他には何もないんですよね。
もし自分が本当に頭も良くて、理工で賢くて、何でもできる、何をしてもすごいよね、何かが起きたら、自分でやっぱりできるからなと思うかもしれませんが、そんなものは一切何もない。本当に愚かで悪くて、だめなものなんだけれども。
36:05
でも神様は、ミスティス、出ることを持って、持って行っておられる。
それが、イエス・キリストの恵みであり、それがこの、マタイノクニチョ大義書の経図の大事な良き知らせのメッセージなんです。
イエス様はこう語っておられます。
私と私の家には、世の中であなたたちが大事だと思っていることは一つも大事ではないんですよ、と。
イエス様は貧しい人も、金持ちも、才能のある人も、ない人も、賢い人も、賢くない人も、平凡な人も、だめな人も、素晴らしい親を持っている人も、そうでない人も、元気な人も、病気の人も、みんなイエス様の前には等しい、対等である。
なぜなら、みんな神の恵みによって歩まなければならないんだから。みんなに福音が必要だから。これが福音で良き知らせなんですよね。
皆さん、ぜひですね、この福音を、この良き知らせを、このクリスマスに一人でも多くの人々に会うたびに、皆さんお疲れになっていただけないでしょうか。
皆さん、こういう話を聞くと失礼になるかもしれませんが、我々にはそんなに時間がたくさん何十年も何百年も残っているわけではないんですよね。
少なくとも皆さんが、十年前より、二十年、三十年前よりは、この地上での時短は、分かりませんけどね、昔よりは短くしか残っていないんです。
それは事実です。誰に、十年が残っているか、五年が残っているか、一年が残っているか、あるいは一日が残っているか、誰にも分からない。
私たちにも、私の周りの人々にも。だから一日も早く、この良き知らせを、この地上でイエスキリストを信じて救われて、この地上で神の恵みを味わって生きるように、お伝えしようではないでしょうか。
三番目、この経図は、神様の約束は、その御言葉を必ず成就するということを、この経図が証しているわけなんです。
39:05
さあ、イエス様は、このマサイの福音書は、アブラハムから始まっているんですね。アブラハムから始まっているんです。
さあ、一括、聖書を開きたいと思います。創世紀の十二章、三節ずつと開きましょう。旧約聖書十二章の三節。旧約聖書十七ページです。
旧約聖書の創世紀十二章三節です。よろしいですか。十二章の三節、十七ページ。
十七ページ、ご一緒に読みたいと思います。
あなたを祝福する者を、私は祝福し、あなたを呪う者を、私は呪う。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される雨。
これはここにね、イエス様がメシアが生まれるという言葉はありませんが、旧約聖書を学んだら、これこそイエス・キリストの予言の言葉であると、もう既にアブラハムのほかの旧約の御言葉の中にも、たくさんその約束の御言葉がありました。
アブラハムの子孫の中にメシアが生まれ、そのメシアによってこのすべての人々は信じる者は、祝福を受けるようと約束の御言葉が誰に?アブラハムに。
ところが皆さん、それで何千年も経ったわけなんですよ。
制度的な学者によりますと、このアブラハムが十二章のこの時にウルを離れて、そしてハランを絶つ時が約BC2108年頃だろうと、
政府に働いている人々の年齢を遡って計算すると、この時が、だからアブラハムが生きていた時代はBC、紀元前2100年代なんですよ。
そうするとイエス様はアブラハムの時代から何年後?2100年後に生まれたわけなんです。
そうすると、この約束がアブラハムに神様が語ってくださった、あの約束の御言葉は何年後に生じたわけ?2100年後にそれが生じたわけなんですよ。
とても長くかかったわけなんですよね。ありえないことです。
例えば、私が子孫にクリスマスのプレゼントで任天堂スイッチ買ってあげるよ。いつ?2000年後。例えばの話だよ。笑われるでしょう。
42:05
でも実際に神様はそうなかったわけなんですよ。アブラハムの約束したことが、2年後でもないんです。20年後でもない。2100年後に成就された。
神様は何でこんなに長く時間がかかってイエス様をお使いになったんでしょうか?
天使の御使いがマリアに、「あなたは子供を産む。その名をイエスと付けなさい。」と言われた時に、あのマリアはこのように神を賛美していました。
私を読みますね。
主はその憐れみをいつまでも忘れないで、その子供でイスラエルをお助けになりました。
私たちの父祖たちアブラハムとその子祖に語られた通りですと、マリアは天使から言われて神を賛美しているんです。
これはすごくないですか。マリアは自分の父祖たちアブラハムに神様がなさった約束は、今自分にそれが成就されようとしていることを見て聞いているわけなんです。
神の約束は実は2100年も長くかかりました。
しかも皆さん、成就にはないんですけれども、旧約成就の最後の書がマラキ書なんですよね。知っていますか。マラキ書です。
そのマラキの時代とイエス様がオマになる時代までのこの空白があるわけなんです。
だいたい400年の時間があったんですね。この400年の時間は預言者もなくて、聖女もなくて、だから政府発表者たちはこれをもう沈黙の時代、暗黒の時代と言われる、そういう400年もあったんです。
イエス様がお生まれになるクリスマス前の直前の400年ですよ。
そう見ると、イスラエルの人々にとっても、私はもうみんな結果を知っているからね、私は。
彼らから見れば、神様はあの2000年前のアブラムになかった約束を神様は忘れているんじゃないかと。
何も起きていないんじゃないか。誰も来ないんじゃないかと。
本当に飯は来るの?何も起きていないのに?と思われかしたんです。
本当に沈黙と、もう闇の時間のような時間だけが流れていたんですよね。
皆さん、ところがどうでしょうか?
2100年が経ちましたけれども、必ずアブラムになった神の約束は、マリアとヨシエブの時代に必ず成就されました。
45:09
皆さん、お手を打ち上げられることがあります。
私たちの時間表通りに神様が動いてくれるわけではないんです。
あるいは、我々の時間表を持って、タイムスケジュールを持って、神様は判断することはできないということなんです。
自分の時間表を見て、タイムスケジュールを見ても、もう遅れているんじゃないかな。
滞っているんじゃないかな。何も起きていないんじゃないかな。
皆さん、そういうふうに見えても、思われても、どうですか、神様は決して約束を忘れておられない。
時には神様が働かれる、神様の皆さんのスピードがね、上手なされるスピードが、あまりにもゆっくりでゆっくりでゆっくりで昔かもしれません。
私たちの頭でね。
神様、もうちょっと早くしてくださったらいいんじゃないんですか、と思えるかもしれません。
でも、我々の目で判断がそう見えても、決してそうではないんです。
神様は必ず、神の時にその約束を成就してください。
そして、その約束が成就される時にはいつも、我々の想像を超える、もう超越する神の見方がなされることを信じていただきたい。
皆さん、神様のお働きは、私たちのせっかちさによって、神様が早く早く早くしないと、そう動かれる方ではないんです。
逆に神様が、私たちのもんきさにね、神様がもうもんきでね、ゆっくりゆっくり一歩をこの二百年かかる、そういうふうに動かされる方ではないんです。
神様には、神の時がある。
それが、実は、この値の文書、大書のこの経緯であるわけなら、その中には油も必要だった。
あの油団も必要だった。
たまるも必要だった。
ラハブも必要だった。
あのバテシャバも、ガビデも必要だった。
神様は約束を忘れていません。
私たちに対するこの聖祖の約束、神様は必ず、神の時に、我々の想像を超える素晴らしい形で成就してくださることを信じてください。
でも私たちは、そう言われても、でも神様約束を守ってくださるかもしれませんが、でも私は、私の過去は本当に恥ずかしいです。
48:11
何の希望も見えません。
と思う方が、もしもいられるでしょうか。
大丈夫。
なぜ大丈夫でしょうか。
ただの慰めの秋山さんの話ではない。
神様が自分の目的を、身形を成して、成し遂げておられることも証してあります。
時には自分の祈りを、自分の存在を、自分の希望が忘れているのではないかのように見えるかもしれませんが、
でも神様は、今もあらゆる方法、手段を用いて、素晴らしい約束を成就してくださるお方であることを信じていてください。
最後に、ペルソビトへの手紙の3章20節に、こういう言葉があります。
どうか、私たちの家に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて、豊かに施すことのできる方に。
どうでしょうか。
このクリスマスにお祭りになったイエス・キリスト。
そのキリストを送ってくださった神様は、その働くすごい力によって、私たちの願い、思いよりすべてを超えて、豊かに施すことのできる方が誰ですか。
我々のイエス・キリストです。
その方を信じるこの恵みは、なんと大きな幸いなんでしょうか。
メッセージをあります。
イエス・シャマは、かけだらけの私たちを救うために、受け入れて、罪を悔やらされてイエスを信じる者は、誰でも等しく愛してくださるために、この地に御招きになりました。
あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。お祈りします。
50:17

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