00:00
みなさん、おはようございます。
今日も寒い朝ですけれども、礼拝にようこそいらっしゃいました。
それでは、周りの方と挨拶しましょうか、みなさん。おはようございます。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。
愛のある者は、みな神から生まれ、神を知っています。アーメン。
主よ、神様、私たちは罪人であって、死んでいた私たちよ。
主が世の始めから選んでくださって、定めてくださって、
主の時に私たちを召してくださって、救ってくださって、
主に愛される者、また主を愛する者へと、
私たちを新しくしてくださった救いの恵みを覚え、感謝し、また確信し、心から感謝いたします。
主よ、クリスマス、この時期を過ごしておりますが、
このクリスマス、イエス様の降誕を覚え、感謝し、
また、私たちがどう生きるべきなのか、神の心を知り、またそれを実践する者へと、
私たちを、主よ、日々新たにしてくださいますように、作り変えてくださいますように、お願いいたします。
聞くものだけではなく、聞いて、そしてそれを実践する、行える、心の力、霊の力を、主よどうぞ、
天から上から降り注いでくださいますように、お願いいたします。
神様どうぞ、あなたご自身が語ってくださって、
私たち、この回収が、神様の御顔を拝見する時となりますように、主よ、祝してください。
神の御心を受け入れられる、主よ、謙遜かつ謙虚な心も、お与えくださいますように、
このものがこうして、神様ご自身だけが現れますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
アーメン。感謝します。
クリスマスシリーズメッセージをさせていただいています。
今日は、イエス様と愛です。
イエス様のイエス様と愛。
3回目ですけれども、第1回目のタイトルは覚えてますか、皆さん。
03:00
イエス様と救い。
それから第2回目は、イエス様と命でした。
これはですね、来週までシリーズですから、もちろん連続的な内容になります。
ちょっと考えていただきましょう、皆さん。
一人の魂がイエス様を信じて救われたら、その魂はイエス様の命、永遠の命をいただくことになるんですよね。
そして、イエス様の命を持ったものは、イエス様の愛がその魂の中に移植されるように宿るわけですから、
神を愛して、隣人を愛して、また自分自身を愛するものへと変えられていくわけなんですね。
皆さん、この流れが大事です。
そして、これはすべて1、2、3、4がチェーンのように結ばれているわけなんですね。
何か一つだけ取って個別的に得られるものではないんです。
例えば、救いなしにイエス様の愛を得られるんでしょうか。
得られないんです。
救いなしにイエス様の命、永遠の命を得られるでしょうか。
ないんです。
すべてがチェーンのように結ばれているんです。
そして、このように、それが進むことが信仰の本来の姿でもあります。
救われれば永遠の命を得、永遠の命を得ればイエス様を愛するようになる。
イエス様を愛するようになれば、その魂の中には、まことに喜びのうちに生きられるようになるということであります。
さあ、今日はイエス様と愛ですから、イエス様の愛を考えるときに、また私たちがぜひ覚えていただきたいことがあります。
そして、また実践していただきたいことがあります。
まず第一は、イエス様と親しいお交わり、イエス様との親密な交わりの関係であります。
これをまず覚えていただきたいです。
さあ、皆さん一つお聞きしましょう。
皆さん、イエス様と親しいですか。
簡単な質問です。
イエス様と皆さん親しいですか。
イエス様に何でも心を打ち明けて話し合っているでしょうか。
イエス様が皆さんのすべての事情をすべて知っておられるでしょうか。
また、皆さんはイエス様の気持ちや心をよく知っていますか。
06:05
イエス様が皆さんと、皆さんの本当に親しいお供なんでしょうか。
これ簡単な質問ですけれども、考えていただきたいことですね。
イエス様とあなたは親しいですか。
イエス様を信じて救われたい人は、イエス様の霊が自分の内に宿っておられます。
そして、永遠の命を得ているわけですから、当然イエス様と親しい関係なんです。
とても親しい友達関係であって、そういうふうにイエス様を信じれば、自然にそうなるはずなんですね。
ここに一つ大事な事実があります。
それは、イエス様は私たち一人一人と交わること、親しくなること、親密な関係を持つことをとても熱く切に願っておられます。
イエス様は皆さんお一人お一人ととても親しく過ごしたいと願っておられるんです。
イエス様のその気持ち、熱さが皆さん伝わっていますか、感じていらっしゃるでしょうか。
このお交わりと親密さというもの、あるいは親密なお交わりというものは、これこそイエス様の品性だからです。
そしてイエス様のこのお交わりと親密さは、私たちに向かうイエス様の愛がその根源であるからです。
一箇所、聖書を開きましょうか。
ヨハネノ福音書15章、開いていただきましょう。
ヨハネノ福音書15章、13から14節です。
15章の13から14、よろしいですか。
ご一緒にお見せしたいと思います。
3、よろしいですね。
15章の1、2、はい。
人がその友のために命をしているという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。
私があなた方に命じることをあなた方が行うなら、あなた方は私の友です。
09:02
アーメン。
ここに14節にイエス様が最後に何と語られたのでしょうか。
私があなた方に命じることをあなた方が行うなら、あなた方は私の友なんですよ。
イエス様は私たちと本当に親しい友達になりたいんです。
イエス様は私たちを奴隷と呼ばれません。
奴隷の関係、主人と奴隷の関係ではなく、友達の関係なんですね。
しかもたまに10年に1回、1年に1回、たまに連家族来が起こる、そんな関係じゃなくて、いつも一緒にいる親しい友の関係であります。
主人と奴隷は交わりを持ちません。
命令と服従の関係だけがあるわけなんです。
しかし、友の関係は愛の交わり、親密な関係、また信頼の関係なんです。
皆さん、イエス様はいつも描いておられますよ。
私たち皆さん、お一人お一人とのこの関係が心の奥底を、腹をね、打ち明けて、本当に親しい、親密な友の関係、夫婦のような心も体も全てを知り尽くす、そういう知り合う関係をイエス様はいつも描いて願って、また求めておられるんです。
三味一体の神様が私たちとどれだけ親密な交わりを願われるのか、それを私たちが知ることができる一箇所、聖書があります。
開きたいと思います。
第2コリント13章13節です。
第2コリント13の13、362ページです。
ご一緒にお見せしたいと思います。
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方全てと共にありますように。
これは祝祷なんですね。
ここにね、イエスキリストの恵み、神の愛、その次なんですか。
お答えいただけますか、皆さん。
聖霊の交わりなんです。
12:00
これがあなた方全てと共にありますようにと祈りなさいと教えられているんですね。
私たちは礼拝が終わるとき、この祝祷をいただきます。
イエス様の恵み、神の愛、聖霊の交わりがありますように。
これこそイエス様の切なるお心ではないでしょうか。
皆さん、イエス様は、もう一度申しますが、皆さんと本当に親しい関係を願っておられる。
持ちたいんです。
私は皆さんが教会においでになる以外のとき、
お家で、会社で、学校で、あるいはどこで何をどういうふうに過ごしておられるか私は知らないんですね。
ところが主はご存知です。
皆さんが、いつもイエス様がそばに共におられることをいつも信じて覚えて、あるいは感じてですね。
例えばですよ、朝起きたら、イエス様、今日も起きました。
ちょっと疲れています。
新しい力をくださいと。
今日はちょっと嫌なことをしなくてはならないんです。
イエス様、心の中に喜びを与えてください。
イエス様、昨日からちょっと腰が痛いんです。
腰をイエス様の身手で触って癒してください。
イエス様、実はあの人とちょっと関係が難しくなっています。
どういうふうにこれをやっていけばいいんですか。
イエス様、知恵をください。
あるいはですよ、あるいはイエス様、昨日ハーバランド行ってみた、あの服が気に入ったんだけれど、買っていいんですか。
イエス様、今日も昨日も最近この誘惑が本当に私を苦しめています。
勝てる力をください。
私を守ってください。
イエス様、今日もイエス様の言葉を読みましたけれども、これを守れる力をくださいと。
イエス様、あなたの心を知る者としてくださいと、いつも祈って会話していらっしゃるんでしょうか。
イエス様がいつも皆さんのそばにいてて、日常生活において、イエス様といつも会話して、いつも相談して、イエス様にお尋ねして教えてもらっている、本当に一体になって、そういうふうに過ごしていらっしゃるのでしょうか。
皆さん、誠実礼拝時間、あるいは寄届会時間だけがイエス様との交わりの時間ではないんですよね。
普段の日常生活、それがイエス様との交わりでなければならないんです。
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イエス様をいつも感じて、イエス様といつも会話をして、イエス様と愛を、イエス様と私と愛をギブアンドテイクをするわけなんです。
皆さん、私たちがなおなおさらに回復しなければならない課題があるならば、それはイエス様との本当に親しい親密なこの交わり、この関係ではないでしょうか。
ある説教集を読んで、そこにあったちょっとネガティブ的なジョークみたいな、でもずっと刺されるようなユーモアですけど、礼拝が終わって、みんな帰りますよね。
帰ったらイエス様がついて行こうとするんです。
そうしたらある人が、イエス様がついて来たら困りますよ、あなたは教会にいてくださいね、私は一人で出るからね、もう来週お会いしますから、安心してくださいね、はいさよならって、どうでしょうか。
イエス様と私たちの関係は夫婦の関係とよく似ています。
本当に親密で人格的な夫婦関係、それはお互いの悩みを打ち明けて、話し合って、会話をして、受け入れて、許し合って、認め合って、励まし合って、愛を与えてもらう関係でありますね。
でも、もしも夫婦の関係が、奥さんは普段何もしてあげない、ただ給料日だけは待っている、旦那さんは奥さんに何も話はしない、帰ってきたら食事を頂戴、それで口にジャックをかける、こういう関係であれば、これは本当に悲しい関係であります。
でも、イエス様と私たち一人一人の関係はどんな関係なんでしょうか。
イエス様は皆さんお一人お一人を愛しておられます。
でも親しい関係というものは、一方的な関係は、それは愛の関係ではないんです。
イエス様から愛をいただいたら、私もイエス様を愛することであります。
会話をする、相談をする、祈り合う、イエス様の心を知る、いつもイエス様は私のことを知ってほしい、これをください、あれをください、祈るだけで、イエス様の心をどれだけ私たちは知ろうとするのか、それはもう大事なことではないでしょう。
皆さん、覚えてください。
そして、この質問をいつも皆さん自分自身に問いかけてください。
私はイエス様と親しいのか、私はイエス様と本当に親しいのか。
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一番親しい人は誰ですかと言ったら、一番がイエス様になってほしい。
2番目に行きましょう。
イエス様の愛を体験した人は、本当の愛を知ります。
以前、札幌にいたときにあるアメリカの選挙史、今はもう長くなられて、日本語を日本人のように上手ですけれども、
この先生が結構昔、日本に来たばかりのエピソードです。
日本語を学んで、まもなくバスに乗って買い出しに行くところで、ところがバス停を過ごしてしまって、
それで運転手さんにこう言うつもりでした。
あのおじさん、ここでおろしてくださいと言うつもりでしたが、しかし、あのおじさん、ここで殺してくださいと。
え、何ですど、殺してですか。
はい、そうです。早くここで私を殺してくださいと言ったそうです。
また別の日のことです。
もっと日本語がちょっと上手になって、ようやく日本語で説教するようになりました。
テーマはイエス様の愛でした。
この先生はこう言うつもりでした。
皆さん知っていますか。
イエス様の愛は永遠不変の愛ですよというつもりでしたけれども、皆さん知っていますか。
イエス様の愛は永遠不変の愛ですよって。
皆さん不安心ください。
イエス様の愛は永遠不変の愛ではありません。
永遠不変の愛です。
イエス様の愛、神の愛を指して、アガペの愛とよく言われますね。
でもアガペという言葉は、キリスト教が新しく作った言葉ではないんですね。
その当時、イエス様の時代に、ギリシャでは普段使う言葉であります。
その意味を借りたわけなんですけれども。
それは永遠不変の愛であって、そしてそれは新約だけではなく旧約聖書を見ますと、
神様はずっと私たちに語りかけておられる一つのメッセージがあります。
それは、私はあなた方の神である。
あなた方は私の民であると。
それが創世紀から、スエジプト紀、ミンス紀、シンメ紀、マラキショまでずっと貫く大事な神のメッセージです。
そしてその関係を確かなものにするために、
そして神は私たちを愛することを定められて、それを必ず実践するために、神様が成し遂げたことがあるんですね。
それは契約であります。契約を結んでくださりました。
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それは愛の契約です。
愛すること。裏切りをしない。
何がどうでも、永遠に私はあなたの神であって、あなたは私の民である。
だから私はあなたを愛する。
これを神様は契約してくださった。
それほど私たちを愛しておられるということであります。
ところが皆さん、大事なのは、一番でお話しましたように、毎日イエス様を愛して、
イエス様との本当に熱い深い愛の関係にあって、
イエス様の愛、父なる神の愛、聖霊様の愛を熱く深く豊かに、
それをまた美しく体験させていただくことが大事であります。
愛というものは、頭で知ることだけではないです。
知ること、そして胸でそれを感じること、そして全人格的にイエスの愛を味わうこと。
それが必要であります。
一箇所聖書を読みましょう。
旧約聖書の新元です。
新元8章17節。
私の聖書では1067ページです。
一緒に読みたいと思います。
私を愛する者を、私は愛する。
私を熱心に探す者は、私を見つける。
アーメン。
皆さんここにありますよ。
私を愛する者を、私は愛する。
皆さんイエス・キリストを愛していますか?
神様は、イエス様は、あなたを愛してくださいます。
そして、私を熱心に探す者は、私を見つけるとありますから、
私を探せば、私はあなたを見つけられます。
イエス様は、あなた自身を表してくれないわけではありません。
だから、ある意味でこれを逆に言いますと、
私たちが熱心に探していないから、イエス様を見つけていないかもしれません。
皆さんがイエス様を愛して、またイエス様が皆さんを愛しておられるから、
その愛を感じられないわけではありませんし、知らないわけではありません。
24:02
イエス様が願われる、本当に美しい、
麗しい信仰生活とはどういうものなんでしょうか。
イエス様の愛を知って、胸で感じて、目で見て、体で体験することではないでしょうか。
そして、私たちの内側にある愛のタンクが、イエス様の愛でいっぱいになることであります。
そうすると、自然に神様を、イエス様を、精霊様を愛せずにはいられない。
愛せずにはどうしようもなくて、もう少しでもイエス様の考えをしないと、もういられない。
だから、愛するのです。
そういう関係でありたいんですよ、皆さん、イエス様と。
そして、そのイエス様の愛が、私の内側で熱くていっぱいになってあふれるから、
その愛があふれ出てあふれ出て、
夫を愛し、妻を愛し、子供を愛し、親を愛し、友達を愛し、兄弟姉妹を愛し、隣人を愛して、敵を愛するように変えられるのです。
本物の愛であるイエス様の愛を、日々深く豊かに味わおうではありませんか、皆さん。
そして、皆さんの内側にあるその内側に、イエス様の愛があふれ出てほしいのです。
そして、その愛をもって、隣人を愛し、自分自身を愛し、もちろんイエス様を愛せることももちろんのことです。
皆さん、神なるイエス様がなぜこの地上においでになったのでしょうか。
いや、神なるイエス様がなぜ人間にならなければならなかったのでしょうか。
そして、そのイエス様がなぜ十字架で死ななければならなかったのでしょうか。
答えは一つです。それは、皆さん、お一人お一人を愛するからです。
愛するからです。
あがぺの愛、永遠不変の愛、変わらない愛。
その愛をもって、愛するために、その愛を示すために、イエス様が別れもの、お孫やの会話を受けてお招きになりました。
だから、クリスマスが喜びの日であります。
聖書を開きましょう。ヨハネの福音書3章16節。
皆さんよくご存知の、覚えておられる箇所であります。
ヨハネの福音書3章16節。
聖書をお持ちの方は、177ページですね。
27:02
ご一緒に読みましょう。
神は実に、その一人ご綿になったほどに、よう愛された。
それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
この御言葉を上手にするために、イエス様が、2000年前に御割れになったんですね。
そして、今日の第1ヨハネの4の10節も一緒に、もう一度一緒に読みたいと思います。
第1ヨハネ4の10節。
ご一緒に。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの備え物としての御子を使わされました。
ここに愛があるのです。
アーメン。
ここに愛があるのです。
この御言葉を成就するために、イエス様がこの地に御割れになったのです。
そして、その日を記念する日が、クリスマスになったわけですね。
愛する皆さん。
まず皆さんが、皆さん自ら、イエス様の愛を深く豊かに味わっていただきたいのです。
体験していただきたいのです。
そして、なおなお、さらにさらに、愛するイエス様と一番親しい友達になっていただきたいのです。
そして、そのイエス様の愛を受けて、その愛が皆さんからあふれ出てほしいのです。
そして、皆さんのそばに行けば、イエス様の愛の香りが香るクリスチャンでありたいのです。
3番目に移りましょう。
互いに愛し合うことこそ、主を喜ばせることです。
互いに愛し合うことこそ、神を、主を、イエス様を喜ばせることです。
皆さん、私たちみんなは、愛して愛されるように作られました。
神の愛は、みんなに必要であります。
クリスチャンだけではないでしょう。
皆さんの周りの友人の方々、知人の方々、隣の方々。
その方々も、みんな実は、愛して愛されるように作られたから、愛が必要であります。
イエス様の愛が、みんなに必要なんです。
ところが、神を知らない方々が、どうやって、イエスの愛を知ることができるのでしょうか。
それは、皆さんを通してです。
皆さんの愛を通してです。
皆さんが、隣人、友達、知人の方、友人の方を愛するときに、
30:00
皆さんがパイプ役になって、通り受け管になって、イエス様の愛が流れて、その方々に伝わっていくわけなんです。
だから、今日の御言葉、4章の7節ですね。
一番最初の7節も、もう一度一緒に見ましょうか。
7節、第1ユファネ、4の7節。
ご一緒に、愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は、神から出ているのです。
愛のある者は、皆、神から生まれ、神を知っています。
アーメン。
皆さん、聖書は私たちに教えています。
互いに愛し合いましょう。
教会の本質、クリスチャンの本質は何でしょうか。
それは、イエス様が死なれるほどまで、私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合うことであります。
大安倍だけの愛ではない。
心から愛し合うことであります。
これが御言葉の情図であって、イエス様の今しめの実践であります。
コリントピトの手紙、第1、13章からは、愛を実践することを私たちに確かに教えていますね。
ちょっと開けましょうか、皆さん。
第1コリント13章1節から、愛についてよく引用される箇所ですけれども、新訳の336ページです。
私が1節から読みます。
たとい私が人の意見や見つかりの意見で話しても、愛がないなら、やかましいドラやうるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が予言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。
また、たとい私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。
この4節からは8節まで一緒に読みましょうか。
愛は寛容であり、愛は親切です。
また、人を妬みません。
愛は自慢せず、傲慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
33:02
すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して耐えることがありません。
予言の賜物なら捨たれます。
意見ならばやみます。知識ならば捨たれます。
その後から私がお読みいたします。
というのは、私たちの知っているところに一部であり、予言することも一部分だからです。
完全なものが現れたら、不完全なものは捨たれます。
そして最後に13節、一緒に読みましょう。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番救われているものは愛です。
アーメン。
そうです。
皆さん、私たちがイエス様を愛して、
そしてそのイエス様の愛を常に溢れるほどいただくときに、
その愛が自分自身から溢れ出て、
その愛をもって兄弟姉妹を愛する、
受け入れる、家族を愛する、
夫を妻を親を子供、兄弟を姉妹を隣人をあがぺの愛をもって愛せるように変えられるのです。
その根源が乾かないためには、イエスの愛を常にいただくこと。
満たされることなんですね。
そして満たされたならば、その愛をもって、
皆さん、まず親子の兄弟姉妹方を愛してください。
愛をもっておもてなしをし、愛をもっておつかえし、
愛をもって互いの必要を満たして捧げてください。
また、そのイエス様の愛で満たされて、
その愛によって家族をイエス様が愛されるように愛してください。
夫を愛し、妻を愛し、子供を愛し、親を愛してください。
イエス様が愛されるように愛してください。
それが難しいでしょうか。
その時に私たちは覚えなければならないことがあります。
それは、私たちが何かとても優れた資格があるから、イエス様が愛してくださったわけではありません。
私に本当に素晴らしい何らかの価値があるから、
イエス様が十字架で死なれるほど愛してくださったわけではありません。
聖書は語っています。
私たちが罪人であった時、イエス様はその私のために愛して死んでくださった。
36:07
そして愛を示してくださったわけですね。
ですから、その愛が私のうちに満たされておれば、
そしてイエスの愛を本当によく知って体験しておれば、
愛せない人はいないでしょう。
メッセージを終わりたいと思います。
愛は救いの感性であります。
愛はイエス様の御言葉の上手の身であります。
みなさんお願いします。
愛して、愛して、愛して、また愛してください。
これがイエス様を喜ばせる最高の信仰の行いであります。
お祈りしましょう。