始まり始まり
それでは、一言お祈りをいたします。
御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が、いよいよ限りなくあるように。アーメン。
愛する天の父なる神様。
アドベントの第二週を、私たちは共に迎えています。
今日もまた主ご自身が、この場所へと一人一人を招いてくださり、
あなたの恵みを受け取るようにと、この時を備えてくださっていることを感謝いたします。
主よ、私たちの世界は、暗闇に覆われています。
そして、どこに光があるのかと、私たちは嘆いています。
多くの戦争を見ていますし、その戦争の現実は形を変えて、私たちの周りにも、私たちの内にもあることを覚えます。
主よ、どうか光を見せてください。
この季節に、あなたが備えてくださっている希望を、私たちが見ることができますように、
あなたが御言葉を通し、お一人一人に語りかけてください。
あなたは変わりなく、私たちのために、あの十字架において限りない愛を示し、
三日目に甦えられた命によって、今、死と共に歩む命を与えてくださいました。
どんな暗闇の中にあろうとも、私はあなたと共にいると、あなたは語ってくださいます。
どうか耳と目とを開いてくださり、あなたを賛美し、あなたへと祈る唇を開いてくださり、
この朝また、あなたからの励ましをいただいて、勇気を持って立ち上がることができますように、私たちを導いてください。
神様、ここに来たくても来れない方々、施設におられる方々、家で礼拝を守っておられる方々がいらっしゃいます。
どうかお一人一人の心と体と霊とを支え、
主を見ることができますように、お一人一人を慰め守ってください。
お願いいたします。
これからのひとときを期待いたします。
お一人一人に主が届いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
アドベントの第二週を迎えております。
今朝は皆さんとご一緒に、イエス様の再臨について覚えたいと願っています。
ご存知の方も多いかもしれませんが、
ご存知の方も多いかもしれません。
アドベント、対抗節というのは、キリスト教会の伝統において、
目視録とは
イエス様のご降誕を待ち望む季節と、もう一つの意味として、
再び来られる主イエス様の再臨を覚える、そのような季節として備えられています。
なので、個人的にはアドベントの中で一回は、再臨についてお話をしたいと願っています。
そして、今朝はヨハネの黙示録を読んでいただきました。
どうでしょうか、皆さん。黙示録はお得意でしょうか?
実に特殊な書物だと思います。
福音書は、おそらく初めての人が一読しても内容がなんとなくわかるんですが、
このヨハネの黙示録というのは、初めて読んでみると、
何が言いたいのかよくわからない書簡であると、思います。
このヨハネの黙示録というのは、初めて読んでみると、何が言いたいのかよくわからない書簡であると思います。
それはおそらく読んでいただいたら分かる通り
中にいろいろなイメージが出てきます
蜂であったり馬であったり巻物であったり
竜であったり大インプバビロンであったり
いろんなものが出てきますから
それが読んでいて実際に私たちの現実に
どう結びつくのかが分からないということが
一つあるでしょう
そしてまたヨハネの目視録というのは
よく私たちが生きているこの世界の
これからがどうなっていくかということを語っているという
ある種予言の言葉をあらかじめ語る
予言の言葉として理解されることがあります
なので世界情勢が分からないと
正しく読み解くことができない
そういうように思われることもあります
ただそういう解釈を私は否定はしませんが
まず最初に皆さんとこの本を読む上で
確認をしておきたいことがあります
それはこの書物は
これから起きる未来のことをこと細かに示すことを
目的として書かれた本ではないということです
そうではないんです
ヨハネの目視録が書かれた目的は何かたった一つです
教会を励ますためです
それは言うならば
今これを読んでいる
私たちを励ますために書かれた言葉です
未来のことも書いているんです
書いているんですけれども
一番の目的は励ましの言葉なんですね
読む上で2つほどポイントがあります
2つ前も言ったかもしれませんが
確認をしておきますが
まずこの目視録
私たちが読んでよくわからないのはなぜかというと
これは当時の目視文学という文学形態を持って書かれた書物だから
特殊な文学形態で書かれて
ただ目視という言葉は何を意味するかというと
隠れて今目に見えていないものが見えるようになるということを意味するんです
隠れて見えていないものが見えるようになるということを指して
目視文学目視録と言います
なのでこの本で言いたいことは
今あなたたちの現実には全く見えていないかもしれないけれども
裏ではこういう事実が起きているんだよということを
示すために書かれた書物です
あなたたちの現実には見えていないことでも
目には見えないけれども
真実として起きていることがある
それを一緒に見ようというのが目視録です
そしてもう一つは先ほども言いましたが
これは未来予言ではなくて
教会への励ましであるということです
未来予言の解釈を否定はしませんけれども
天上と地上のつながり
でも本来当時の
著者が意図していない読み方を正しくしすぎるのはどうかなと
個人的に思います
目視録と言いますのは
ですから厳しい現実の背後に
目には見えずとも確かに存在する現実を示すことによって
教会を励ますための手紙です
なんとなくわかりますか
目の前の現実は厳しいんですよ
光がないように見えるんです
でも目には見えていないけれども
あるものがあるんです
それを見て励まされようという手紙が目視録です
実は余談かもしれませんが
目視録であったり
もしくは再臨待望信仰というものが
一番燃え上がるのはどこかというと
厳しい国家で一番燃え上がると言われます
厳しい現実です
どうそれを変えていいのかがわからない
この暗闇の現実に
どのように手を加えていいかがわからないんですよ
どのように手を加えていいのかがわからないんですよ
どのように手を加えていいのかがわからないんですよ
そのような国で実は目視録って
すごくちゃんと読まれるんです
それはなぜかというと
どんなに光が見えない
暗闇に見えたとしても
それを励まし得る言葉が目視録にあるからです
では目視録は一体どのような励ましを
私たちに与えてくれるのか
今朝はそのことをご一緒に読みながら
励ましをいただきたいと願っています
さてですね
読んでいただいたのは目視録の5章でした
この箇所を読んでいただいたのは
読んでいただくとまさに
なんとなくわかるかもしれませんが
天上での礼拝の光景というのが
記されていくわけです
天の上での礼拝の光景です
ただこの5章で言っていることを
理解をするために
めんどくさいかもしれませんが
ちょっと1章から4章の文脈を
簡単に確認をさせていただきます
1章は何を言っているかというと
序章です
始まり始まりですね
始まり始まり
2章3章には何が書いてあるかというと
アジアの7つの教会への手紙ですね
この目視録はこの7つの教会に向けて
書かれている手紙です
4章からただこの始まり始まりで
2章3章ではアジアの教会への手紙があった後に
4章から場面が変わるんです
それは何かというと
読んでいただいたら
4章から
この復活したイエス様に導かれるヨハネは
天に引き上げられるんですね
地上で見ていたところから
彼は天へと引き上げられる
そこには不思議な幻が始まっていくわけです
まさに目視なんですけれども
隠れている現実が
彼の目の前で明らかになっていく
その幻とは一体何なのでしょうか
それは
この地上の現実
真っ暗な地上の現実の
背後にある天上の現実を
彼はこの4章から見始めるわけ
目視録が語ろうとしていることは
実は私たちの世界というのは
目に見えているものだけではないということです
そしてアドベントの季節に
この言葉を読む意味は何かというと
アドベントの季節に私たちは
目に見えているものだけではないものに
目を向けるように招かれるんです
その背後にあるものが
目を向けなさいと招かれる
そして目視録は
この天上の世界にある現実と
私たちの地上の世界にある現実というのは
切り離されているわけではなくて
どこかでつながっているんですよ
ということを言いたいわけです
目視録が書かれた時代というのは
真っ暗闇だと言いましたけれども
少しだけ説明をいたしますと
目視録というのは
新約聖書の中で最後の方に書かれた
書簡なんですね
どういう時代かというと
ローマ皇帝ネロという人が
すごい迫害をキリスト社にしたのは
ご存知かもしれません
そのネロ帝の再来と言われる
ドミテアヌスという皇帝が
またキリスト社を迫害したんです
いわば小アジア
今のトルコですけれども
トルコ地方にある教会を激しく迫害をしました
多くのキリスト社が拷問をされ
殺されていきました
2章3章に書かれてあるのは
その迫害を受けている
アジアの7つの教会に向けて書いています
この目視録の幻を書いたヨハネ自身も
1章にはパトモス島にいると書いてますが
パトモス島というのは
ローマ帝国の労働刑務所です
彼もまた刑務所に入れられている状態だった
地上の教会は激しく苦しんでいる
イエス様を信じ神の民とされました
けれども神の民とされたからこそ
彼らには苦難が押し寄せてくる
一体これは何が起きているのかということです
しかしこのヨハネのもとに現れたイエス様は
ヨハネを天に引き上げるのです
イエスが勝利を収め、裁きを始める
この苦しみの背後で一体本当は何が起こっているのか
ということを明らかにするために
ちょっと話が止まりになりましたが
4章からの天上で彼が目にした光景では
じゃあ一体何が起こっていたのでしょうか
まず彼が目にしたのは4章の2節です
たちまち私は御霊に捉えられた
すると見よ天に御座があり
その御座についている方がおられた
まず彼は天上の玉座王座を見るのです
そしてそこについておられる方を見た
3節以降にはその姿が実に美しく描かれていますが
これは神様
キリスト社が信じていた神様
キリスト社がその神を信じたがゆえに迫害をされた
しかしその神様
その神が天上の玉座に座しておられるという光景を
まず彼は見るのです
地上においてはローマ皇帝が
まさにローマの王座からですね
教会を迫害しているわけです
しかしそれと対比して
天の王座には全世界を治めておられる
私たちが信じる神が座しておられるという光景を彼は見るのです
またその神様
父なる神様は
この地上の迫害の背後にいる
サタンの存在に
裁きをすでに始めようとしているということが
この4章のところに書かれています
そしてそのサタンへの裁きというものが
具体的に何を意味するのかというと
実は今日読んでいただいた
5章の巻物を開くという
行為につながるのです
これは地上において迫害して
ドミティアヌスの背後にいるサタンですね
でもそのサタンに対して
天上の神が裁きを始めようとしている
そしてその裁きの始まりとして
巻物を開こうとしている
さあ巻物は開かれるのかというのが5章なんです
じゃあ5章を見ていきますと
5章にはまさに
密会 強い密会がですね
5章の2節を読みますと
また私は一人の強い密会が
巻物を開き封印を解くのに
ふさわしいものは誰かと
大声で告げているのを見たと言います
この巻物を開き
まさにこの裁きを始めるのは
誰かということですね
しかし3節以降を見ますと
天でも地でも地の下でも
この巻物を解くに
ふさわしいものが見つからなかった
4節にはヨハネはそれを見て
私は激しく
激しく泣いたと彼は書いています
この涙は理解ができるでしょうか
背後に主の支配がある
地上のキリスト社 教会
そしてそのまた
聖書の中によくありますが
善人がなぜこんなに苦しむのかというね
世界の理不尽と言えるでしょうか
そのようなところに対しての激しい悪
残虐非道 理不尽な迫害
その元締めにいるサタンに対し
誰も裁きを始めることができないのか
そのような嘆きです
この理不尽な現実への救いは
どこにもないのか
どこからも始まらないのか
しかしこの目視録を読んでいて分かる
5節に書いてあるのは
すると長老の一人が私に言った
泣いてはいけません
ご覧なさい
ユダ族から出た獅子
ダビデの音が
勝利したので
彼がその巻物を開き
7つの封印を解くことができますと
言われるのです
見つかりが
長老がですね
長老が告げるのは
この獅子ダビデの音が勝利をしたので
巻物を開くことができる
この人は誰でしょうか
それはイエス様
イエス様ですね
ダビデの音が勝利をした
イエス様
勝利は何で表されるのか
これは十字架と復活でしょう
それによって勝利があり
そこから巻物が開かれるということが始まった
このイエス様の表現は
ユダ族から出た獅子
獅子というのを王権を指すわけです
力強い王様を表現します
またダビデの音
エッサイの音と先週見ましたが
まさにダビデ王朝の子孫であり
王となった方
そのようなお方が勝利をし
その巻物の封印を解いたんだ
解くことができるんだということを彼は言う
ただここがこの目視力の面白いところですが
ユダ族の獅子
ダビデの王の音
そう聞いてヨハネが
その目線を上に上げたら
そこにいたのは獅子ではないんですよ
六節を見ますと
また私はみざと四つの生き物の真ん中
長老たちの真ん中に
ほふられた姿で子羊が立っているのを見た
それは七つの角と七つの目を持っていた
その目は禅地に使わされた
七つの御霊であったと書いてある
ヨハネがそこに獅子が立っていると思って
見上げたところにいたのは
ほふられた子羊
血を流す子羊の姿でした
しかしそれがイエスキリストの姿
そしてそのイエスキリストには
七つの角と七つの目が
あった
七つの目というのはここでは
御霊のことが言われます
七というのはユダヤ人で完全数ですから
御霊に完全に満たされていて
そして角というのは
完全な力です
しかしその力というのは
獅子みたいに怖くて威圧する力として
書いてないんです
傷つけられ人々に使い切った結果
傷ついて血だらけになった
あの姿が
完全な力だとして
ここで表されている
キリスト教は力の概念が他と全く違います
力というのは人に使えていく力です
そして血だらけの子羊を見たわけです
ここでまず目視録のメッセージを
確認をしておきたいと思います
実は私たちの現実には
このような背後があるということを
目視録は言いたいわけです
私たちの現実は
目に見える事柄が全てではありません
実は目視録は語るのは
地上の私たちの現実の背後には
目には見えないけれども
真実がある
地上が闇に包まれて
どこにも希望が現れないと思ったとしても
背後にあるのは
この世界を支配しているのは
なおも神なのだということを
目視録は語る
そして私たちはそれを
全く私たちの現実に見ないかといったら
そうでもないわけです
私たちはどこかでそれを見ることがある
ここに光が現れたということを
世界のどこか思考で
どこかで見始める
そして何よりもこの神は
私たちが信頼をする神様なのです
主に頼ったものがどうなるか
それはまさにこの天上の現実が
地上の現実に介入をしてきて
それをどこかで私たちは見るということです
どこかでこんなところに救いが
ないだろうと思う
その中に神様のご支配が
ここに現れたんだということを
私たちは見る
そして
精霊なる神様が
そのようなことを通して
この地上に
神の国を実現されていく
御国が来ますようにという祈りは
そういう祈りです
主がこの現実の中に力を持って
教会がイエスの王国として地を治める
働かれるのだということを語ります
地上にある私たちというのは
理不尽な現実を目の当たりに
いたします
それに巻き込まれます
その中で私たちは幾度も
信仰と不信仰を生きかえます
ただその時
私たちがこのアドベントに招かれているのは
真っ暗な現実に
全てがあるんじゃないということです
背後に主が立っておられるということ
主がそこを治めておられるということ
主がすでに勝利をして
王座についているということです
主がすでに勝利をして
主がついていて
そしてサタンに対する裁きは
すでに始まっているのだということ
そこに希望があるんだということ
ヨハネの福音書の中で
イエス様は言われました
しかし勇気を出しなさい
私はすでに世に打ち勝ちましたと
ヨハネの16章の33節というところに
書かれています
しかし勇気を出しなさい
決して奪われることのない
希望を持っておられること
希望が私たちの目には見えていないだけで
事実として存在をしているから
さて続けて読み進めていきますと
この目白くの五章
目白くの作りというのはちょっと複雑でして
五章で一回クライマックスの絵を見せた後
そのクライマックスに至るまで
またどういう風な道取りをたどるのかというのが
六章以降に書いてあるんですけれども
ただ五章で書かれている一つの光景というのは
クライマックスです
九節と十節の中で
十節を読みしますと
このような子羊が巻物を開いた後
彼らは新しい歌
そこにいる人たちが新しい歌を歌い始めます
九節十節
あなたは巻物を受け取り
封印を解くのにふさわしい方です
あなたをほふられて
すべての部族 言語 民族 国民の中から
あなたの血によって人々を神のためにあがない
私たちの神のために
彼らを王国とし 妻子とされました
彼らは地を治めるのですと書いてあります
ほふられた子羊によって
すべての部族 言語 民族 国民から
あがなわれた人々が集い生まれる
これは何を言っているのかというと
教会のことを言っています
教会です
そしてその教会というのはまさに
イエスの王国 イエスの支配
イエスが教会の頭ですから
イエス様のご支配がここにあり
そしてそこからそのご支配が広げられて
まさに妻子とされましたとありますが
この世界との和解の務めを担うということが書いてある
ただこれ面白いのは
10節の妻子とされましたという言葉と
彼らは地を治めるのですという言葉は
これは言語で見ると時制が違うんです
妻子とされましたというこれは過去形なんですが
詳しく言うとアオリスト系といって
一つのこの時点というのを指す過去ですね
継続性がなくてこの時に妻子となったということを示す過去形です
10節の彼らは地を治めるのです
神の民の使命
これは未来形で書いてあるんです
未来形というのは現在の先から継続して未来
未来の一点から継続してその先に続くというところを指しますけれども
彼らは地を治めるであろうので
これは現在と将来に対する約束です
神様とともに神の民は地を治める
将来的に地を治めていく
それはこの地上を好き放題にするのではなくて
まさに創世紀の最初のアダムたちに委ねられたこの地を治めなさい
御国が来ますようにと私たちが祈っている全てがつながりますが
それはこの世界を神様に
神様の愛をもって治めていく
そのような使命が私たちに与えられていく
そして続けて見ていくと
天上の御使い長老と四つの生き物が子羊イエスを礼拝する
その後継が11節12節に続いていきます
そしてそれに重なるように
天と地と地の下にある
13節にありますが
私は天と地と地の下にある
地の下と海にいる全ての作られたもの
その中にある全てのものがこういうのを聞いた
聖書において天と地と地の下というのは何を言っているかというと
全非造物ということです
全てのものが漏れなく
神を礼拝をする
御座に座す父なる神と子羊イエス様を礼拝をする
先ほど読んでいただきましたが
御座についておられる方と子羊に
賛美と誉れと栄光と力が
いよいよ限りなくあるようにと言われる
ここでまさに天と地と
本来分かたれているものが
一緒に礼拝をしているということ
これは何を言っているかというと
目白くの最後の神天神地が天上から降りてきた
その時に天の現実と地上の現実が混ざり合う
天と地と地の下と全てのものが
その時に神様を礼拝をする
それがまさにこの歴史のクライマックスだということを
目白くは語ります
主が再臨をされるですから
主が再臨をされて
神天神地が降りてくるということが書いていますが
神天神地が降りてくる
その時に聖書は私たちが朽ちないものを着て
その礼拝に加わるのだということが書いてありますが
主の再臨と礼拝
想像したことあるでしょうか
イエス様が再び来られた時
私たちは何をするのでしょう
天に積んだ宝で楽しむ
そういうこともあるかもしれませんが
しかし何をするかというと
礼拝なんです
変わらず礼拝です
ええと思うかもしれませんが
新たな世界で私たちがすることは
実はこの世界で私たちが日々していることの完成をするんです
完成形を行うんです
それは
神様を礼拝し
世界を正しく神様の愛によって治めること
それは言い換えるならば
毎週神様を礼拝し
その愛を受け取って
私たちが帰っていく日常の中で
職場の中で家庭の中で
少しでも神様の愛がそこに表されますように
そう願ってコツコツコツコツと生きていく
それを完成されるし
それを私たちは神天神地でもやっていくんです
神天神地の歩みは
私たちの日常の延長にあるということを
ぜひ覚えておいていただきたいと思います
でも終わりますが
アドベントの季節に覚えるのは
先ほども言いました
目に見えている現実が全てではない
背後に既に神が王座に座しているという現実がある
これは決して揺るがないということ
希望がある
そして主の再臨はいつ来るかということは
私たちには分かりません
分かったという人たちはだいたいいたんです
でも主が来られるとき
今は部分的に神様のご支配が私たちの周りにある
それはうまくいかないなと思うことはあるかもしれません
神様の愛を表したいな
キリスト社として生きたいけれども
うまくいかないということが
私たちの現実にあるかもしれません
でも最終的には主が完成させてくださるんですよ
分からないんですよ
分からない
私たちにはそれがどうなるか分からない
けど最後の最後には主が完成させてくださるんです
だから私たちは勝利が先にあるのだから
天上につながる歩み
天へとこの先の天へとつながっていく歩みを
忠実に歩んでいきましょうと私たちは招かれるのです
泣いてはいけないご覧なさいと
今朝は中心成功を挙げさせていただきました
私たちは今朝この言葉を励ましとしていただきたいと思うのです
五節泣いてはいけないご覧なさいと
泣くな見ようということです
泣くな見よう
何を見るのでしょうか
私たちの現実にはサタンが力を及ぼして
どこにも救いがないと見える
でも目に見えるものではなくて
目には見えずともそこにある真実を見なさいと招かれる
泣くな見よう
泣いてもいいのだけれども
しかし涙で終わらない現実が
目に見えないところにあるんだ
そのようなことを私たちは語られる
それはこの世界の王座に出しているのは
サタンではなくて真っ事の神であるということ
私たちを愛し今も生きておられて
我らを支えるほふられた子羊イエスであるということ
今もこれからも天井に立つ子羊
見えないのだけれども
しかし
そこに立つ子羊イエスを仰ぎなさい
私たちはそのように招かれる
どうか励まされたいのです
光が見えない現実を私たちはいくつも経験をいたします
しかしだから絶望する必要はない
必ずそこには主の御計画と
王座として立ってあなたを愛しておられる
主の良き業が必ずどこかで始まっていく
私たちはそのようなことを覚えながら
泣いてはいけませんが
ご覧なさいという慰めを
今朝はご一緒に受け止めたいと思います
一言お祈りをしてメッセージを終わります
ご清聴ありがとうございました