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2016-12-11 32:35

2016/12/11:預言と成就(3)王の王、イエス・キリスト

2016/12/11 聖日礼拝

尹善鎬牧師

イザヤ書 11:1-5

00:01
みなさん、おはようございます。
ちょっと聞き込んでいますけれども、よくいらっしゃいました。
では、ステージの前に隣の方に挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。おはようございます。
それでは、一言お祈りいたします。
エッサイの根下部から新根が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
アーメン。神様、今年も主の恵みにより、このアドベントの日々を送らせていただいておる中で、
今日も第三の大公説、アドベントの聖実礼拝を主の御前にあって、
友々も集まって共に礼拝できます。この恵みを感謝いたします。
このアドベント、この日々の中で、私たちが、私たち一人一人のために、全人類のために、この世界のために、
神なるイエス・キリストが人間となられて、そして私たちを召して救ってくださるその恵みを覚えつつ、感謝しつつ、
そして日々主の御前に近づいて、主を礼拝できますように、どうか主よ、聖実礼拝だけではなく、
月曜日か土曜日まで毎日、毎瞬間が、主への礼拝の日々となりますように、時となりますように、
主よ、我らを強めて、礼拝として、主を立たせてくださいますように、お願いいたします。
今から、主の御言葉を待ち望みます。心を主を開けてくださって、
どうか主御自身が、一人一人に、主の御言葉と悟りと深き恵みをお与えくださいますように、お願いいたします。
一体になれて、イエス様の皆によって、お祈りいたします。アーメン。
はい。
預言と成就、その3。大門をイエス・キリストと委ねて、
今日は、イザヤー書第11章、1ページから5節を通じて、ともに御言葉の恵みを受けたいと思います。
御言の成就のシリーズメッセージをしておりますけれども、
イエス・キリストは、御言通りおいでになって、そしてその御言の言葉を、御言の御言葉を、その通りに成就されました。
03:13
それを、この文をもう少し具体的に申しますと、
イエス様は、自分自身だけではなく、イエス様の御言葉、
そしてイエス様がなされたこと、行いとか、席とか、日仏とか、
それから大事な十字架の救いと復活、
そして聖典がなさったこと、
それはすべてが、旧約聖帳の御言を完全に成就されたことです。
神様の考えの中には、イエス様の誕生、
復活、聖典、すべては神様のプランの中にあったわけなんですね。
それは旧約時代に、今日のイダヤ御言書とか、
あるいは他の人物、今日のダビデの話だとしますけれども、
ダビデとかモーセとか、あるいはヨセフ、
様々な人物を通して、様々な奇跡とか出来事を通して、
イエス様のすべてを、御言をして、
そしてそれがイエス様の時代に、イエス様を通して、
その御言葉を通して、すべてを通して成就されたということであります。
ですから皆さん、私たちが信じているイエス様は、
このイエス様は、御言と成就の主人公であるイエス・キリストを信じる信仰に位置するものであります。
そして、これより完全な神はいません。
今年は、このアドベントの時に、御言と成就の主人公であられる、
この救い主イエス・キリストに、
今までより深く交わりを持って、また深くその、
今日は大の大ですけれども、
大の大なるイエス・キリストに深くお会いして、交わりを深く持たせて、
そういったアドベントを共に過ごしていきたいと願っております。
今日は、大の大イエス・キリストです。
ですから、今日のポイントは、イエス・キリストが大であること、大の大であることが中心ポイントであります。
まず、今日の一節、成就活の一節を、文一と私が読みたいと思います。
これを読みます。
06:02
ここにですね、エッサイという人物の名前、人の名前ですね、エッサイは誰でしょうか。
ダビデの父親です。
旧約聖書に、新約にも出てきますけれども、
エッサイの子孫とか、エッサイの根下部とか、という言葉が出てきますが、
これは、ダビデ王を指します。
そして、ダビデ王だけではなく、彼の王としての権威、権勢、つまり王権を指します。
そして、ダビデと彼の権威だけではなく、
さらに、またダビデの子孫から大真似になれる、イエス・キリストと、そのイエス様の権威を指す言葉であります。
ですから、このね、エッサイの根下部から新芽が生え、その根から若枝が出て、
根を結ぶ、その上にバリン。
誰の上でしょうか。
ダビ、もちろんね、一時的な意味はダビデですけれども、
そのさらに指している意味は、イエス・キリストなんですね。
ですから、この今日の一節から五節は、もうまるまるですね、イエス様に対する諭言の言葉である。
つまり、イエス・キリストはダビデの子孫ではありますけれども、
でも、ダビデより勝る王である。
ダビデの王権より勝る王権を持っておられる王であることが、
今日の一節から書かれている、意味しているところであります。
イエス様が、まことの王、王の王として王院になられた、
そのことをですね、預言をしているもう一つの大事な数がありますけれども、
そこをですね、一緒にいただきたいと思います。
旧約のゼカリア書、旧書、旧節。旧約聖書の最後の部分ですが、
ゼカリア書、旧書、大旧書の旧節。
聖書のページ数は、1555ページですね。
1555ページ、ゼカリア書、旧書、旧節。
1555ページ、ゼカリア書、大旧書、旧節。
09:03
よろしいですか?
では、こいつを読みたいと思います。
シオンの娘よ、王院喜べ。
エルサレムの娘よ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王が、あなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜り、
ニューアでロバに乗られる。
それもメロバの子の頃ばに、アメン。
ここにですね、まさにイエス様が王様として、
エルサレム城に入城される時に、
それは、いわゆるパームさんで、狩猟の主人ですね。
その時にイエス様が、いよいよ十字架に向かって、
エルサレムに入られるんです。
その時にどんなことがあったんですか、みなさん。覚えていますか?
あのエルサレムにいた多くの人たちが、
イエス様を大歓迎しましたね。
四十の葉っぱをですね、こう振ってですね、
イエス様をさせて、こう言いました。
そこをちょっと調べたいと思います。
マサイの福音書、第21章です。
マサイの福音書、第21章。
九節、四十二ページですね。
新約聖書の四十二ページ。
九節をですね、その前に、
五節を私が読みますね。ご覧ください。
五節。
これはさっきのジェカリアとの旧書、旧節との言葉なんですね。
そして、フォーリン・イエス様はロバに乗って、
そしてエルサレムに入られました。
その時に行ったエルサレムの人々は何と叫べたんでしょうか。
それが旧節ですね。旧節を一緒に読みたいと思います。
そして文一郎はイエスの前を行く者も、後に従う者も、
こう言って叫んでいた。
ダビデの子に幼、祝福あれ。
主の皆によって来られる方に幼、糸高き所に。とあります。
ここにダビデの子とあります。
つまり、昨日の二言葉のエッサイのネカブカラ、
12:04
つまりダビデの子とダビデの子という意味であります。
そして同じですね、このエルサレム入土のことを知っている他の福音書は、
ヨハネの福音書、十二章、十三章です。
ちょっと多めに整数を開きますので、書きましょうか。
ヨハネの福音書、十二章、十三章。
二百四ページです。新約聖書の二百四ページ。
ヨハネ十二の十三章。
では、もう一章を読みたいと思います。
白の木の枝を掘って出迎えのために出て行った。
そして大声で叫んだ。幼、祝福あれ。
主の皆によって来られる方に、イスラエルの王に、アメン。
ここにヨハネはマタイと違って、イスラエルの王にと記していました。
どういうことでしょうか、みなさん。
今日のイザヤの言葉、それからゼカリアトの言葉、それからマタイ、それからヨハネの言葉、
実際にイエス様が入土されたことを全て合わせてみると、
イエス様は旧約聖書に預言された王の王である。
王としてお生まれになって、王としてエルサレムに入られる。
その言葉、その通りに一時も漏れることなく、間違いなく、その通りに成就されました。
イエス様が成就して下さいました。
みなさん、これより完全な神はどこにあるでしょうか。
もう一つ大事な課題をお開きしたいと思います。
マタイの福音書1課1説。
たぶん、みなさん、ご存知の方だと思いますけれども、
マタイの福音書第1課1説、旧約聖書1ページ。
もう一つ申し上げる歌詞を、文章でもいいですし、テートでもいいですし、
メモしていただいたら、このようにイエス様に対する予言の言葉が、
どういうふうに成就されたのか、もう聖書が表現をして、明かしをしていますね。
1説、1課の1説を一緒に読みたいと思います。
アブラムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストのケイズ・アミ。
15:04
ここにもちゃんと出てきました。
ダビデの子孫、イエス・キリスト。
イエス・キリストは王の王として預言されて、そしてその通りに王までになりました。
そして、クリスマスのメッセージでよくあげられる御言葉ですけれども、
同じタイノンク2章、2章の2説を見たら、東洋の博士たちがエルサレムにやってきて、
こう言いました。2章の2説を私がお読みします。
ユダヤ人の王として王までになった方は、どこにおいでになりました。
私たちは東の方でその方の星を見たので、オガミに参りました。
この時に、全然関係のない遠くフェリシア、多分今のイランやイラク、あるいはサウジアラビア、
そこら辺の国から来た博士たちですよ。彼ら何と言っていますか。
ユダヤ人の王としておいでになった方と言っています。
もう全然関係のない遠くから来た人々も、人々もイエス様のことを、王であることを表現をしていました。
つまり、当時のイスラエルの人々は、イエス様を王として、ユダヤ人の王として受け入れていなかったんですね。
認めていなかったんです。
しかし、神様はこの東方の博士たちを使わせてでも、イエス様がユダヤ人の王であることを、
それを神様はこの東方の博士たちの口を通して、神様に告げ知らせたことではないでしょうか。
そしてイエス様は、生まれる時だけではなく、そして生きている時だけではなく、
十字架に置かれる時にも、神様はすべてを相働いてくださって、
イエス様がユダヤ人の王であることを宣言してくださいました。
もう一箇所開きたいと思います。
大の福音書27条11節、新約聖書の59ページです。
私も読みしますね。11節をご覧ください。
18:01
これはイエス様と、イエス様を審判、裁きをする総督ピラトとの会話です。
11節、さてイエスは総督の前に立たれた。
すると総督はイエスに、その時の言葉をよくご覧ください。
あなたはユダヤ人の王ですか?と尋ねた。
イエスは彼に、その通りですと言われた。
皆さんもお読みでしょうか。
神様は総督ピラトの口を通して、彼が聞くようにして、
あなたはユダヤ人の王ですか?
そしたらイエス様が、その通りです。
私がユダヤ人の王であるということを明かしできるように、
神様はこの状況を、神様は用いてくださったということであります。
そしてまた、実際にイエス様が十字架に架かられた時に、
その十字架の上には、台書きと言いましょうか、
そこにユダヤ人の王イエスと書かれていました。
つまりこれはアイロニでもありますし、パラドクスでもあります。
総督もユダヤ人も、イエス様はユダヤ人の王として認めない。
しかし、アイロニに、あの十字架の上にユダヤ人の王イエスと台書きを書いて、
イエス・キリストは、ダビデより勝る王としてお生まれになって、
そしてダビデより勝る王家を持っておられる、完全な活発の王様であります。
そして、そのイエス・キリストは、あの2000年前の時だけではなく、今はどこにおられますか。
天の神の右の座についておられて、そこで上の王として、
私たち二人一人、全世界を王として通しておられる、
導いておられる、治めておられるということであります。
そこから皆さん、イエス様が三年間、イエス・キリストとして大崖峠の中に教えられた御言葉、
それは御国の王様として、私たちに教えられた御言葉であります。
そして、その御言葉は、御国の市民はこんな生き方をしますよ。
21:01
御国の民はこんな風に歩みますよ。
御国の民はこのように考え、このように言いますよという、
この御国の市民、御国の民の生き方を教えられた。
もちろんなら、イエス様が御国の天の国の王様であるから、
私たちはその民でありますから、その関係において教えられた、
イエス様の御言葉、その大優的な御言葉が、
マサイの五章、六章、七章に出てくる、三道水訓の御言葉ではありません。
ですから皆さん、考えてみたら、当時のヨダヤ人たちは、
イエス様の教えは、わかりにくいんですよ。
理解するのが難しいんですよ。なぜでしょうか。
イエス様の話は、この事情とは全く離れている、感じのないような、
宙に浮いているような御国の話を語られたわけですね。
原則も価値観も考え方も生き方も、
全てはこの事情のものではなくて、御国のものを教えられたわけですから、
人々はわかりにくいんです。いや、受け入れにくいです。
違和感が感じる。抵抗感があるわけなんです。
声を打たれたら、他の方を打ちなさい。
5キロ一緒に歩かせられたら、10キロ一緒に歩いて叫びなさい。
それはある意味で当然かもしれない。
地上にいる当時の人々だけである今日の私たちも、この地上の価値観、
日本人の価値観、生き方、今まで皆さんが、
20年、30年、40年、50年、あるいは70年間身についている考え方、生き方、
全てのものはもう既に慣れて慣れて慣れているわけなんですよね。
その中で神の御言葉は、それとはある意味で遠く離れているような、関係のないような、
そういった価値観や生き方を破るような、
科学的な御言葉が実は家様の教えなんです。
だから当然かのようにですね、当時の人々は家様の教えられるその生き方や、
王なのに十字架で死んでくださいと、
あんなやり方はもう王として認めないといったことでしたから、
採石されて断られて、そして殺されてしまったわけなんです。
皆さん、こうですね、慣れていること、何か皆さん慣れているでしょう。
24:06
皆さん何に慣れているんでしょうか。
福、生徒福に慣れているかもしれません。
あるいは冬はこういうふうに過ごすのが慣れているかもしれません。
それぞれですね、何かの生き方や考え方や、そういったものが慣れているんです。
いいかもしれませんが、ところが一方、他の角度から考えたら、慣れているものは変えにくいんです。
そうでしょ。慣れて慣れていたら、なかなか変えにくいんですよ。
同じ家にですね、例えば20年30年40年50年住んでいたら、
引っ越したのが大変なことになって、もう引っ越したくない、そう思うんですよね。
何かのものに、あるいは目に見えないものに、慣れて慣れきっていたら、
新しい変化を起こすとか、変えるとかに対する違和感や抵抗感、あるいはめんどくさい、
というふうな思いをするのが、実は人間の考えなんです。
ところがイエス様のお言葉は、イエス様が王様として語られて語られた二言葉は、
その殻を、その袋を、その枠を破りなさい。
そして憎みの民としての二言葉に従ってあげなさい。
それがイエス様の教えでした。
ところが、慣れていることから離れるの、それを変えるのはなかなか難しい。
私のことですけれどもね、数えてみたら、結婚して20年になりましたけれども、
引っ越しをですね、韓国で日本で合わせて10回しました。
そしたらですね、平均的に2年に1回引っ越しをしたわけなんです。
ある意味、引っ越し自体も慣れていますけれども、逆にも、今ですね、引っ越しするのが怖いんです。
めんどくさいこともありますし、疲れていることもありますけれども、
でもですね、神様が行きなさいと言ったら、もうね、パッと出ていきますけれども、
皆さんの形は、この地上での生き方に慣れています。
この地上での人々が持っている価値観に慣れています。
日本人の価値観、日本人の生活習慣、文化、考え方に慣れています。
ところが、皆さん、私がイエス様を王の王として扱って二言通りに生きるということは、
27:04
その価値観すべてを持った上で、その上に何かをかぶらせるものではありません。
それを脱いで、捨てて、離れて、未国の価値観、未国の文化、未国の考え方を新しく切ることであります。
それが実は信仰なんです。
ですから、イエス様を王の王として私が扱って従っていくということが、実は、大きな変化を私に求めておられるということであります。
この地上の価値観ではない、この地上の価値観ではなく、未国の価値観に生きるのだ。
この地上の考え方に生きるのではなく、未国の考え方に生きるのだ。
それがイエス様を演じる信仰であります。
ですから、私がこの地上の考え方や価値観や生き方やそういったものからどんどん変えられて、変えられて、変えられて、
未国の考え方、未国の価値観、未国の生き様に変えられていくなら、それこそイエス様は私の王であります。
しかし、あまり変わっていない。
そしたら、まだ神様、イエス様は私の王になりきっていないかもしれない。
そしてイエス様は、やがて主の主を王の王として支配になさいます。
それは当然のことです。
王として王子になった方は、王として王の御座に変えられて、そして王として完全な統治をするために再び来られるということであります。
聖書はこれを明かしています。聖書をちょっと開きたいと思います。
ヨハネノムクシロク、新約の最後になります。
ヨハネノムクシロク、まずは11章、15節です。
新約聖書、ヨハネノムクシロク、11章、15節。新約のね、488ページです。
15節、一緒に読みたいと思います。
第七の御使いがラッパを吹きならった。すると天に大きな声のえが起こっていった。
30:02
この世の国は私たちの主及びそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。
ヨハネノムクシロク、ヨハネノムクシロク、もう一箇所、同じヨハネノムクシロク、17章、14節です。495ページです。
17章の14節、ここも最後の部分になりますけれども、一緒に読みたいと思います。
この者どもは子羊と戦いますが、子羊は彼らに討ちかけます。
なぜならば子羊は主の主、王の王だからです。
また彼と共にいる者たちは召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。
この子羊は家様のことです。家様は主の主、王の王だから最後の勝利をおさめられる。
そして私たち召された者は、選ばれた者は、忠実な者は、その子羊なる、王なる家様と共にいるということであります。
そしてその主は最後の日に来られて、私たちはこのように主はお問いになるでしょう。
あなたは御国の民らしく歩んできたのか?
あなたは御国の市民らしく生きてきたのか?と問われるんです。
ですから日々、家様を主としてお仕えして、
そして私たちのあらゆるところすべてを、王なる家、キリストにおさめていただく。
導いていただく。
そして私自分自身はその王の子供であることを、
いつも受託して、また観察して、世の終わりまでですね、
王なる家と共に歩む。
神の選ばれた者、忠実な者、そしての生き方を共に歩んでいこうではありませんか。
お祈りします。
32:35

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