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2023-11-13 34:07

2023/11/12:天の故郷(ふるさと)に憧れて

2023/11/12:召天者記念礼拝

加藤満牧師

ヘブル人への手紙 -16


サマリー

『天の故郷に憧れて』では、教会で行われる商店舎記念礼拝の情景や信仰によって生きる人々に焦点が当てられています。彼らは地上の故郷よりももっと良い故郷である天の故郷に憧れ、信仰によってその道筋を歩んでいます。彼らはこの地上を旅人として自覚し、天のふるさとを信じています。旅人であり既留者の存在や旅人としての居場所、そして天のふるさとへの憧れについて考察しています。最後の一人一人が天のふるさとに帰っていく中で、地上にいる私たちはどこに向かっていくべきなのでしょうか。娘が最後に天の故郷への信仰を与えてくれたことを私たちは力強く信じています。

商店舎記念礼拝と互いの慰め
それでは一言、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、今朝もまた私たちを、あなたの見舞いへと集わせてくださってありがとうございます。
昇天した記念礼拝を今朝は覚えて、あなたの前に礼拝を捧げています。
神様がお一人一人の命を愛し、愛しぬいてくださって、
お一人一人のために十字架に御自身を捧げてくださり、
その流された血潮によって罪許し清められたものとして、
お一人一人をあなたの身元へと迎え入れてくださったことを覚えて皆をあがめます。
そして、死から甦えられた復活の命を今、死を信じる私たちにも与えてくださり、
私たちもまた、この信仰の生徒たちが生まれたその道筋に倣って歩んでいく、
そのことを思わされて感謝いたします。
神様、私たちの地上の歩みには様々な悲しみがあります。
特に愛する人と別れた悲しみが私たちにはあります。
どうかこのひとときを主が祝してくださり、
お一人一人にとって慰めのとき、
また、あなたにある主の約束によって導かれている希望を見るときとなさしてください。
御言葉を通し主が語りかけてくださいますようにお願いいたします。
施設におられる方々、また、今家で礼拝を捧げておられる方々もいらっしゃることを覚えますが、
お一人一人の歩みを主が支えてくださいますように。
また、今私たちは戦争のことに心を痛めています。
多くの人たちが命を失っています。
神様、その痛む心、痛む世界に主がなおも働いていてくださいますように、
あなたが平和を実現してください。
そのために私たちにできることを教えてください。
どうか、あなたにあって、この世界に一人一人が理不尽に命を奪われない、
そのような世界が成り立ちますように、主が助け導いてください。お願いいたします。
これからの時を見てにゆだねます。御言葉を開き、私たち一人一人に教えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
商店舎記念礼拝にようこそおいでくださいました。
年に一度、教会では先に天に帰られた兄弟姉妹と教会では言いますが、
その方々を覚えて礼拝を持ちます。
この礼拝の目的には、おそらく二つほどその目的があると思うんです。
一つこの礼拝の目的、それは私たちがまず互いに慰められるためです。
商店舎記念礼拝というのをいろいろな教会でしますけれども、
こういうふうに前に写真を並べるんですよね。
お一人一人の顔を思い出します。
私たちはお一人一人の記憶というものは確かに胸の中にあるんですけれども、
写真を見て改めて思い出すありし日というものがあると思うんです。
中にはもしかしたら、まだお顔を見るだけで胸が痛むという方もいらっしゃるかもしれません。
私たちは互いに天国の希望を仰ぐわけですが、
しかしそれで私別の痛みがなくなるということではないと思っています。
ですからこそ、ぜひ礼拝が終わった後ですね、
写真を皆さん手に取ってといいますか、写真を囲んで
この人こうだったねということをこの後ぜひ語らせていただけたらなと思うんです。
そのことを通してまた何かそこに慰めがあるようにと願っております。
信仰によって生きた人々
そしてもう一つこのような礼拝を持つ目的は、
この先に歩んでいかれた生徒たちお一人一人は進んでいった先を私たちは覚えたいということです。
どこへ向かっていったのか。
それは今朝読んでいただきましたこのヘブル人への手紙の11章の
特に15節16節を読みしますと、こういう言葉が書いてあるわけです。
ヘブル人への手紙の11章の15節から16節。
もし彼らが思っていたのが出てきた故郷だったなら帰る機会はあったでしょう。
しかし実際には彼らが憧れていたのはもっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。
ですから神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。
神が彼らのために都を用意されたのですと聖書の言葉にあります。
聖書はこの地上の生涯を終えた一人一人は地上の故郷地上のふるさとを後にして
天の故郷へと帰っていくのだと語ります。
それは出てきた故郷すなわちこの地上においてそれぞれ私たちには故郷があるわけですが
しかしこの私たちの地上の故郷よりも
聖書の言葉をそのまま感じたならばもっと良いですね。
もっと良い故郷、天の故郷があるのだと聖書は語ります。
一人一人はそこへ帰っていったのだと言うんですね。
それは地上の故郷よりも良いと語られます。
そのような場所に今一人一人が置かれているということをまず覚えて
私たちはその事実に少し安心をしたいなと思うのです。
この聖書の言葉、特に16節の
しかし実際に彼らが憧れていたのはもっと良い故郷すなわち天の故郷でしたという言葉
これはよく私たちの国籍は天にあるというフィリピシャの言葉もありますが
教会の農骨堂に掘られている言葉なんですね。
私もいくつか教会の農骨堂に行かせていただきましたけれども
このような私たちは天の故郷に憧れていたんですという言葉がその農骨堂に掘られていると
なんといいますか、お墓なんですけれども少しほっとするんですね。
それは、愛するあの人はこれまでよりも確かに良いと言われる場所へ行ったのだ。
そしてまた私たちはまだその天の故郷、天のふるさとを垣間見れていないのだけれども
私たちもまたこの天のふるさとに帰っていくという道筋の中に
確かに立っているんだということを覚えるからです。
なんて言ったらいいんでしょうか。
私たちは必ず互いに死というものを迎える時があるわけです。
聖書というのは死に対してや死の先にあるものに対して知らないでいてほしくないと語るんです。
知らないでほしくはない。
なぜなら私たち人間にとって死というのはある種望みがないもの
そしてまた悲しみだけで終わることが多いものかもしれません。
でも事実はそうではないからです。
死は終わりでもなければ決して悲しみだけで終わるものでもない。
そう語ります。
今朝は先に天に召された方々、その方々のことを覚えながら
私たちもまたある種天に憧れて歩んでいくその道筋の中にあるという意味を
ご一緒に考えたいと願っております。
地上を旅人として
さて先ほど読んでいただいたのは
このヘブル人への手紙の11章というところを読んでいただきました。
この箇所は新約聖書でも
お読みになられた方はわかるかもしれませんが
新約聖書でも有名な信仰者列伝なるものが書かれている場面なんですね。
先ほどの言葉はこのある種信仰者たちの名前が並べられる
その真ん中に置かれている言葉なんです。
例えばこの読んでいただいたページの前をめくると
人の名前だけを見ても
アベルであったりカインであったりエノクであったりノア
そして11章の8節からアブラハム、イサク、ヤホブ、サラ
そしてまたこの後もヨセフであったりマタビテであったり
いろいろな人の名前が出てまいります。
こういうのを見ると創世紀の人たちだなと思いますが
しかしこの聖書の11章では
この一人一人の人の人生を短く述べながらも
ただそこで重ねて何度も繰り返される言葉があるんです。
それはこの人たちは信仰によって生きたという言葉が繰り返されるんです。
信仰によってこの人たちはこういうふうに生きた
こうだったという言葉が繰り返されていく。
信仰によって
信仰って何か説明しがたい言葉かもしれませんが
ヘブルビトへの手紙の11章の例えば1節というところには
その信仰って何ですかという言葉の説明がなされています。
信仰とは11章の1節に
さて信仰は望んでいることを保障し
目に見えないものを確信させるものですと
またもっと難しくなるような気がする言葉ですね。
信仰は望んでいることを保障し
目に見えないものを確信させるものですと
一体何を言っているのか難しい表現です。
ただ何となくが大事だと思うんですけれども
この後に出てくる信仰者烈伝
信仰によって生きた人たちの歩みを見ていくと
何となくこの11章1節の言葉の意味が分かってくるという
そういう構成です。
この11章1節以降の人たちはどういう人たちだったか
信仰によって一人一人は生き
そして信仰の人として死んだと語られている。
この地上においては約束のもの
つまり願った通りのものを得られたわけではないわけです。
この地上の生涯をある種苦しみとともに生きてきた人たち
その苦しみに十分な報いがあったわけでもありません。
しかしこの苦しみの最中にあって
この信仰によって歩んだ人たちというのは
この地上の人生だけを見ていた人たちではなかったということなんです。
この地上の私が生きている、目に見えているこの地上の生涯だけを見て
生きていた人たちではなかった。
彼らはむしろ今は目には見えないけれども
確かに神様が約束をなさった救いが
神様が約束をしてくださったふるさとがある
そのような神様が私は天に場所を備えに行くと
あのイエス様が言われたように
そのような場所があるんだという約束を信じていた人たちである。
そしてそれは目には見えないんです。
目には見えない。実感があるわけでもないかもしれません。
ただその神様がこう約束されたというこの約束を
この約束の場所を確かに遥かに遠くに仰ぎ見ていた
そのような一人一人であったと聖書は語るんです。
信仰は望んでいることを保証し
目に見えないものを確信させる。
そしてこのような人々は
このまさに神様が約束をされる天のふるさとに
自らの本当の居場所があるということを自覚をしながらも
とても興味深いのは13節の言葉なんですね。
そのように天のふるさとに本当に自分の居場所があるということを
自覚をしながらもこの地上においては
自らが旅人であり既留者であることを告白していたと
13節の言葉にあるんです。
この地上にあっては私は旅人であり既留者であると自覚をしている。
どうでしょうか皆さん私たちは人生においては
私は旅人だよなと思われることがあるでしょうか。
これは何かこのヘブルビートへの手紙とか
健康者烈伝に書いている人たちが特別そういう人たちだったという話では
おそらくないんです。
聖書はおそらく私たち人間は誰しもこの地上においては
旅人であり既留者であるということが言いたいのです。
旅人であり既留者の存在
私たちは誰しもが旅人であり既留者である
そういう存在なのだと語られている。
この旅人であり既留者であるとはどういう人たちのことなのでしょうか。
いろいろ想像してみますとおそらく一つの特徴は
この人々には定住の場所がないということです。
定住の場所がない。
私たちはきっとそれぞれ生きる中で
居場所ってあると思うんですね。
私たちはそれぞれがこの地上においての居場所というものがあります。
ただちょっと想像してみていただきたいんですけれども
私が本当に安心できる居場所ということを想像するときに
私たちは特定のどこかの場所ということを思い出すでしょうか。
それもあると思うんですけれども
私はおそらく私たちの居場所って呼べるものは何かというと
きっとあの人と共に生きたこの場所なんですよ。
あの人がここにいてくれたあの場所なんです。
居場所というものを形作るのは何かといいますと
どこか特定の場所の力ではなくて
あの人と私はここに生きていたという場所なんです。
居場所なんですよ。
居場所というのは人と人とのつながりの中に生まれるんです。
そしてそのような場所が
おそらく私たち一人一人の中にはあるわけです。
ただですね、あなたがいるからここは私の居場所になった
そういうものだと思うんですけれども
ただその居場所というものも私たちにとっては
永遠のものではないということがあるのだと思うんです。
私たちはあの人が、あなたがいるからここは私の居場所になった
と思える場所があったとしても
あの人と別れるということを時折経験をいたします。
そして私たちはそこで深い喪失の悲しみを覚えるわけですけれども
深い喪失の悲しみを覚えながらも
生きている私たちはまた続けて旅をしていかなければならない。
ある意味、私たちはそうやって旅の先で誰かに出会って
そこで居場所を得て、しかしまたそこでの別れがあって
また次の居場所を探して旅をし続ける。
私たちの人生というのを大げさに言ってしまえば
旅人としての居場所
生きていくということは最後までその繰り返しと言えるのかもしれません。
ただもう一つ、旅人であり既留者という言葉の中には
もう一つ意味があると思うんです。
それは何かと言いますと目的地があるということです。
目的地がある。
既留者として所在無さげに生きてきたものが
ここにこそ私の居場所があった、ここにこそ私の平安があった
そう呼べる場所が存在をする。
それはどこなのか、最初に戻りますが
それは天の故郷、天のふるさとであると語られる。
神様によって私たちそれぞれの命が
この世界に、この地上に与えられたように
私たちは再び天の神のもとへと帰っていくということでしょう。
ただ、私は先ほど
居場所というのは人と人との繋がりであると申し上げました。
同じように天のふるさと、天の故郷もまた
それが聖書の中で彼らはそこに憧れていたということを
憧れに見せたものである。
それはなぜなのか。
天国が目白にもありますけれども
通りが金色ですごくきらびやかな世界だから
私たちはあそこに行きたいと天国を見て思うのか
いや、そうではないと思うんです。
どんなに美しくてもそこに誰も待っていてくれなければ
私たちはやはりつらいんですよ。
たとえそれがきらびやかな世界であろうとも。
でも、そうではない。
天の故郷というのは地上を旅人として
居留者としてある種喜び悲しみながら生きてきた
私たちが生きてきた人々が最後に行き着く場所。
そこで本当に待っておられる方に出会うための場所なんです。
そのお方に会うための場所なんですね。
それは誰でしょうか。
それは私たち一人一人を愛し
私たちにこの地上での命を与え
そして私たちが生きてきたこの地上の生涯を
それが私たち自身が知ろうと知るまいとも
我が子を抱くように抱きしめながら
最後までその憐れみを尽きさせない
父なる神様、神様ですね。
そして地上における一人一人のその信仰を受け入れ
天へと迎え入れてくださる神様。
このお方に会うために私たちは天へと向かっていく。
そのお方に私たちは出会うわけです。
天のふるさとがなぜ憧れるほどに麗しいのか
天のふるさとの憧れ
それはこのお方にお出会いするからです。
地上においては鏡で映すかのようにしか
そのお方を仰ぎ見ることができなかった。
しかし天に帰っていくときに
愛の神様にお出会いする。
そのとき私たちは本当に気づかされるんです。
ああ、こここそが私の本当の居場所だったんだということ。
どうでしょうかね。天国に帰っていくときに
あなたは神様にお会いするんですよと言われたら
皆さんどう思われるでしょうか。
もしかしたら私なんかちょっと緊張するなと思うんですよ。
緊張するしお会いして大丈夫かなと思うんですね。
私たちはきっと誰しも神様の前に誇れる人生を
歩むことなどなかなかできないわけですね。
賭けがある。
ヘブル人への手紙の例えば11章の6節というところ
これも有名な言葉ですがちょっとお読みしますと
こういう言葉です。11章の6節。
信仰がなければ神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は神がおられることと
神がご自分を求める者に報いてくださる方であることを
信じなければならないのです。
有名な言葉ですね。
神に喜ばれるには信仰が必要である。
神がその苦しみに報いてくださると
信じなければならない。
そう言われますとちょっと私みたいな人間は
プレッシャーを感じますね。
どうしよう信じれているだろうか。
この地上悩みというのは
決して楽なものばかりでは互いにないでしょう。
神ご自身が報いてくださると
信じきれない時が私たちにはあります。
神様に心を開けない時の方が多い。
そういうこともあるかもしれません。
しかし私は思うんですけれども
神様に喜ばれる信仰というのは
そんなに立派なものでなくても
よいのではないかなと私は思っているのです。
それはこの信仰者烈伝の11章を見ていても
確かにそう思うんです。
先ほども言いましたがこの11章の中には
様々な人々が出てきます。
一人一人は信仰によって生きたのだと
語られています。
信仰によって例えば出てくるのは
私たちの有名な話ですけれども
箱舟を作ったノアという人物が出てきますよね。
信仰をただ一つを握って生まれ故郷を出ていった
アブラハムという人物がいます。
信仰によって子供を見守った
サラという女性がいます。
これだけ挙げましたがしかしこれ以上にも
信仰によってと言われるのであれば
聖書の中で確かにあの人もあの人もすごいな
という人ばかりが並んでいるわけです。
しかし果たしてこの人々はみんな
優れた信仰者であっただろうかと言いますと
必ずしもそうでもないんですね。
例えばノアは箱舟を作った後
お酒に酔っ払って自分の醜態を晒してしまう
という事件がありました。
アブラハムは信仰によって出ていきましたが
その直後に自分自身の身を案じて
自分の奥さんを妹だと偽って
自分の命を守ろうとするんですね。
その後からアブラハム夫妻の亀裂が深まっていく
ということが書かれてあります。
さらに関しては彼女は神様が子供を授ける
という言葉を聞いた時
彼女はまさに信じることができずに
笑ってしまった女性なんです。
信じることができなかった。
実はそのようなことを思う時に
信仰によって生きたと言われる人々の人生には
実は破れがあったんです。
欠けもあった。問題もあった。
信じた時もあれば信じられない時もあった。
神様が大事と言われた時もあれば
神様のことなど考えられて
自分のことしか考えられないという時もあった。
しかしこのヘブル書の11章を見る時に思うのは
そのような欠けのある私たち一人一人を
あなたは信仰によって生きたんだと
主は認めてくださったということです。
あなたは信仰によって確かに
この地上の障害を歩み切ったのだということを
宣言してくださったということです。
今先に天に召された兄弟姉妹のことを思う時に
そこもまたそうだと思うのです。
確かに私たちは多くのことを
この方々からいただいたと思いますし
中にはもしかしたら
少しの欠けを思い出すことがあるのかもしれません。
しかしこの地上の障害というたぶちを
欠けがあろうとも
自分自身でそれが不十分だと見えたとしても
その一人一人を愛された神様は
いやもう十分だった。
あなたの歩みは十分だった。
あなたは信仰によって歩んできたのだねと
受け入れてくださるということです。
私たちは信仰というものを持つ時
すごく立派なものを想像しがちなんです。
そうじゃない。
からし種の信仰を主が受け入れてくださっているから
私たちは立っていけるのです。
そしてそれは
同じ旅路を歩んでいく私たちも同じなんです。
私たちもまた
あなたはそれで十分だよと
あなたは信仰によって歩んできたねと言われる。
その時に私たちはある意味
どれほど私という存在が
深く神に愛されていたかということを知る。
そして愛するここに
ある種並んでおられる
諸生徒の方々とともに
神様を礼拝するという時を
最終的には迎えるわけ。
ヨハネの目白くの五章の十三節というところに
短くお読みしますが
ヨハネの目白くの五章の十三節
これがある種
この世界の歴史のクライマックスと呼ばれる
一つの場面ですけれども
そこで書かれている言葉をお読みいたしますと
こういう言葉があります
ヨハネの目白くの五章の十三節
また私は天と地と地の下と
天の故郷への憧れ
海にいるすべてのつくられたもの
それらの中にあるすべてのものが
こういうのを聞いた。
身座についておられる方と子羊に
賛美と誉めと栄光と力が
よよ限りなくあるようにと
言われました。
これは天と地と地の下と
と書かれてあるのが大事ですね。
これは全非存物のことを言っているんです。
この世界が最後どういう光景を迎えるのか
天のふるさとに帰っていった一人一人
そしてまた地上にいる私たちは
どこへ向かっていくのか
最後みんなで一緒に
死を礼拝する場面に行くんです。
最後は私たちを形づくり
私たちを創造し
天へと迎え入れられた生徒たちと
私たちとともに
すべての民がともに死を礼拝する。
天も地上も地の下にあるものも
全非存物が神を賛美し
神を愛し礼拝をする。
それは私たちはまさに
今この地上の礼拝において
毎週私たちがしているように
私たちは天において礼拝をする。
それがこの歴史のクライマックスですね。
一つのお話を分かち合って
今日は終わりたいと思いますが
実は私の母教会でも
毎年この時期に
昇天した記念礼拝が行われます。
教会によってはイースターにやるところもありますが
私は11月にやっていた印象がすごくあるんですね。
毎年教会には写真が並べられて
その写真の多くが
ご年配の方々の写真が
並べられているわけですけれども
その写真の中に一つだけ
小学3年生の女の子の写真が置かれていました。
私たちの母教会は
昇天した記念礼拝が終わった後
一人一人がよければ
自由にお話くださいという時間があって
自由に出て行って
その写真を撮って
その方についてお話する時間があるんですね。
毎年小学生の娘さんのことを
お話しくださるご夫妻がいらっしゃいます。
私も小さいころから
お世話になっている方々ですけれども
その方は娘さんが息を引き取られたときの話を
毎年涙を流しながらなさいます。
小学3年生のときに
病気で娘さんを亡くされたんです。
娘さんが病気のために
もう意識も朦朧とし始めてきて
娘さんにつきっきりで
ご両親は看病なさっていました。
最後のときも
その娘さんのそばにご両親はおられた。
最後娘さんがですね
そのご両親に対して
お父さんお母さんありがとうと言われたわけです。
ご両親からするならば
もう本当に最後なのかと思って
愕然としそうになったそのときに
娘さんがこうおっしゃったんですね
お父さんお母さん天国が見えるよっておっしゃる
天国が見える
そのままそれを最後の言葉として
息を引き取られたということです。
その話を毎年
その方々が涙を流しながら話す話を聞いてきました。
毎年そのご両親は記念礼拝で
このヘブル書の御言葉を開かれるんですね。
11章の16節の言葉
しかし実際には彼らが憧れていたのは
もっと良い故郷すなわち天の故郷でした。
ですから神は彼らの神と呼ばれることを
恥とはなさいませんでした。
神が彼らのために都を用意されたのです。
信仰の旅路
娘は最後に私たちに
天の故郷への信仰を与えてくれました。
私たちは天国が本当にあることと
娘が今もその天国にいることを信じています。
そのご両親は毎年そのことを力強く語られます。
天国があること、そこに娘がいること
私たちはそれを力強く信じていると。
聖書の宣言です。
死は終わりではないということです。
私たちは墓を見つめます。
私たちは死を見つめます。
しかしもっと見つめなければならない場所がある。
彼らが憧れていたのはもっと良い故郷
すなわち天の故郷でした。
そこにあの人もいる。
そこにこの人もいる。
そして何よりも
私を愛してやまない神がおられる。
ああ、ここにこそ私の本当の居場所がある。
そう受け止められる時。
商店舎記念礼拝はこの御言葉の通り
憧れを持って旅路を歩み抜かれた
信仰の諸生徒の方々を心に覚えつつ
私たちもまた天に憧れながら
この道を進んでいこうということを
励まし合う時です。
イエス様は言われました。
私が道であり真理であり命なのです。
私を通してでなければ
誰も父の身元に行くことはできません。
私が道であり真理であり命である。
この方を私を通してでなければ
父の身元へと行くことはできない。
私たちはこのイエス・キリストの道を
歩み続けたいと願わされます。
どうか互いに支え合って参りましょう。
私たちは神様にあって
もっと良い、もっと良いと言われる場所へと
進んでいるのです。
神様の愛の懐へと進んでいるのです。
そのことを互いに励まし合う群れでありたいなと
願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
34:07

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