1. 名谷教会
  2. 2023/12/03:根株から新芽が生..
2023-12-03 40:33

2023/12/03:根株から新芽が生えて


2023/12/03:第一アドベント礼拝

加藤満牧師

イザヤ書 11:1-9


サマリー

彼らはアドベントを覚え、礼拝をして、待ち望まれる季節について考えています。彼らはイザヤの時代の混沌とした状況や、神の御業によって平和を実現することについて話しています。イザヤ書の6章で、イザヤは神殿で幻を見て、神様の偉大さと支配力を示されます。しかし、その後もキタイスラエルとミナミユダの民は悔い改めず、神様が剪定し、新しい命を生み出す選別をすることが示されます。このエピソードでは、根の強さと新たな成長、そして神の霊の注がれることについて語られています。ウィンフリッドが神ではない樫の木の祭壇を小さなモミの木に変え、村人に福音を語り始めたことによって、クリスマスの祝いが広がり、ヨーロッパではモミの木が選ばれるようになりました。

アドベントの始まりと待ち望む季節
それでは一言、お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、今朝もまた私たち一人一人を、あなたの見舞いへと招いてくださってありがとうございます。
今朝から、礼拝ではアドベントを覚えて、礼拝をいたします。
主が私たちのもとに来てくださった、その荒誕までを待ち望む季節です。
神様、この季節を豊かに祝福してくださいますように。
一人一人が御言葉によって養われ、そしてまた光として来られる主の光が、
私たちそれぞれにとって必要な光が、それぞれの内に与えられますようにと願います。
神様、何よりもこの季節に知りたいことは、あなたの愛の大きさ、広さ、高さ、深さです。
御子を十字架にまで捧げてくださった、その愛の深さ、それによって罪が許され、復活された命を与えられて、
私たちも永遠なる人と共に生きる、その意味を与えられ、神のものとされ、
私たちもまた今、主の恵みによって生きるものとされています。
本当にただ、私たちはなおも目が開かれる必要が、耳が開かれる必要があります。
主、御自身が望んでくださり、御言葉を通して、
私たちにあなたの、本当に御自身の姿を、この季節に見させてくださいますように、お願いをいたします。
特に、ここに来たくても来れない方々、施設におられる方もいらっしゃいます。
家で礼拝を守っておられる方もいらっしゃいます。
また、心が向かなくてここに来れない方もいらっしゃいます。
神様、お一人一人の魂を主が捉えてください。
この季節にまた、共に顔を合わせることができますように、
あなたが導きを与えてください。お願いをいたします。
これからの時、御言葉を開きます。
どうか主、御自身が御言葉を開き、私たちに光を与え、悟りを与えてください。
御手に上種をして、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
アドベントが始まってまいりました。
教会にもクリスマスに向けての飾り付けがなされました。
個人的にはこの季節が本当に好きです。
何かこの赤と緑を見るとワクワクするような気がしています。
もう説明するまでもないかもしれませんが、
アドベントといいますのは対抗節と日本語で呼ばれます。
それは後端、イエス様の御後端を待つ、文字の通りですが、待ち望む季節です。
ですから、巷では結構クリスマスシーズンになっているのですが、
厳密に言えばクリスマスはまだ来ていなくてですね、
このアドベントというのは、ある種待ち望む季節なんですね。
ですから、今朝から3回とも、私は待ち望むということに注目をしながら、
イザヤの時代の混沌とした状況
少しメッセージをさせていただきたいと願っています。
どうでしょうか、私たちは日常の中で待ち望むということが多いのではないでしょうか。
私みたいな若造が言ってもあれですが、人生の中にはきっと様々な痛みがあるのでしょう。
頭を悩ませる問題があります。
癒されない体の、心の痛みがあります。
何かわからないけれども、自分の存在が不安ついて足がおぼつかない、
漠然とした不安というものが私たちにはあります。
そのような闇から、ある種解き放たれたい、
闇に囲まれながらも、ああ光が欲しい、そのことを仰ぎ望みながら生きている、
そういう姿がお互いにあると思うのです。
もしかするならば、私たちは人生においては、
ここに光があると言って喜べることよりも、
待ち望む期間のほうが長いということも言えるのかもしれません。
待ち望むということについて、これ帰島会でも話しましたが、
ヘリナウエンという人がこういうことを言いました。
待ち望むというのは積極的な動作です。
それは私たちのいるところで、何か大切なことが起こっていることを確信しつつ、
そこにとどまることを願い、今この時を大切にすることを意味します。
そしてその人は結果に対して開かれた態度を持ちます。
自分の願望を手放し、神に希望を置いて生きるのですと、
一回読むだけでよくわからない言葉かもしれませんが、
簡単に言うならば、待ち望むというのはただただ待っているのではなくて、
今ここに主が生きて目には見えないのだけれども何かをしておられると信頼をすることです。
そして主が何かわからないけれどもやっていることに信頼をして、
そしてその結果に対して開かれた心を持つということ。
それがどういうふうになったとしても、
これは主がなされたことなんだと心を開くということだと言われました。
それは大事だなと思うんですね。
私たちはきっと平和を望んでいるんです。
今戦争だからというわけではありませんが、
ただ平和というものを常に望んでいます。
闇の中に光が来るようにと望んでいます。
世界の平和を望みます。
しかし世界平和と漠然とした言葉ではなくて、
もうちょっと最小単位に削っていくならば、
それは一人一人の人間にとっての平安です。
それが脅かされているから戦争が始まるわけでしょう。
であるならば、実は私たちは本当に私の平安を待ち望んでいるんです。
私の心の中に、私の存在自身に平安があるように。
そして聖書が語ることは、神様は平和の神だということです。
神様のご目的は、平和を築くことにあります。
この世界に、そして私たちの中に。
そのように私たち自身のうちに平和を築きたいと願われる神様が、
目には見えずとも今も生きて働いておられる。
そう言えるのです。
神様はすでに平和を築くために働いておられる。
なおへの言葉を借りるならば、私たちは心を騒がせずに
ある種、種の宮沢を静かに待ち望んでいましょう。
その希望を持ちましょうということが、待ち望むということだと言われるのでしょう。
思うのですが、混沌としたと言いましょうか、
私たち自身のこの人生の中、ある種混沌としている私たちの人生の中に
神様はどのように平和を実現されるのでしょうか。
ある種、今朝はご一緒に見たいのはそういうことなんです。
平和の神様が平和を実現される方法というものがあるときに、
神様はどのように平和を実現されるのでしょうか。
平和を実現する神の御業
その道筋を今朝はご一緒においたいと願っています。
そのために開いたのは、予言者イザヤの言葉です。
イザヤ書と言いますのは、実に混沌とした時代の中で予言者は語った
そのような言葉です。
今日読んでいただいた11章の6節から9節というものも、
これは旧約聖書の中では珍しい旧約聖書の中に書かれている
平和の青蛇神と言われるところです。
6節から9節の後継というのはまさに平和そのものですよね。
このような平和な世界へと神様はご自身の御業を進めていると
イザヤは語りました。
イザヤが生きた時代も混沌として闇に包まれています。
けれども彼はその闇の中、その闇の時代の中で
真摯に神様に聞き続けた予言者でした。
そしてイザヤは神様はこのように平和を実現されるのだということを語ったのが
この予言者イザヤの言葉です。
今朝はそのことを少しご一緒に見ていきたいと願っています。
さて入っていきますが
予言者イザヤが活動した時代というものは
どういう時代だったでしょうか。
簡単に言うならば実に混沌として闇に覆われていた時代
激動の時代と言えるでしょう。
イザヤが活動した時代というのは
イザヤ書の一章一節に書いてありますけれども
彼が南ウダの王様ウジヤから
ヒゼキヤの時代に活動した予言者だと言われています。
この時代というのはまさに激動の時代でした。
少しだけこの時代にあったことを簡単に確認をしますと
南ウダという国があってそこにイザヤが仕えていました。
その当時はまだ北に北イスラエルという国があったわけです。
その北イスラエルの上にはアッシリアという帝国がありました。
この時代に一つ起きた問題は何かというと
この北イスラエルが南ウダを裏切るという事件というか
歴史的な問題が起きました。
もともとこの二つはご存知の通り同じ民族なんです。
けれどもアッシリアが北から攻めてきた。
イザヤ書9章に先にはゼブルンな二人の地が
恥ずかしめを受けたということが書いていますが
何が起きているかというと北からだんだん侵略をされてきたわけです。
北から侵略をされてきてこの北イスラエルという国は
東にあるアラムという国と同盟を組んで
北を攻めれないので南にある南ウダを侵略し始めたという事件が書いてあります。
簡単に言うならばもともと同じ民族であった国が敵対し始めたのです。
決してそんなことあるはずないと思っていたのにそういうことが起きた。
このことは第二列王旗とイザヤ書という二つの歌詞に書いていますから
とても大きな出来事だったのでしょう。
そしてこの北イスラエルという国はちょっと説明ばかりで申し訳ない。
北イスラエルという国はアッシリアの新軍によって
ヒゼキヤ王という王様の時代に壊滅してしまいます。
壊滅した後このアッシリアという国はそのまま南下を進めて
南ウダという国を要は侵略し始める。
まさにイザヤがいた南ウダは
敵国の侵略を受け続けるようになってきました。
国は常に侵略の危機にさらされ
同じ神の民であった北イスラエルと南ウダが分断し
そして北イスラエルがついに崩壊して
大国の脅威が今なお迫ってくる。
これがイザヤの生きた時代です。
今よりもよほど厳しい時代に彼は生きていました。
そして彼は外交問題がそういう状況でしたけれども
南ウダの国の内政も乱れていました。
国内には神様を信じる民であるはずの南ウダが
神様に逆らい続けて敗進を繰り返し
国家の中には搾取と暴力があふれていた
そういうことが書かれている。
何と言いましょうか、イザヤが生きた時代
予言者でしたけれども実に絶望的な時代なんです。
中には争いが絶えないし
外にはいつ自分たちを倒そうとする国が迫ってくるかわからない。
しかし不思議なもので
イザヤの神殿の幻
このような危機の時代の中にあっても
むしろイザヤ書を見ていくと
イザヤはより深いと言いましょうか
危機の時代だからこそ彼は
より深い神様からの証明体験をします。
それがイザヤ書6章というところに書いてあることですね。
もうご存知かもしれませんが
イザヤ書6章に書いてあるのは
彼が神殿に行くと幻を見るわけです。
神殿というのはエルサレムの神殿というのは
神様の住まわれる場所と思われていましたが
彼が見た幻というのはまさに
神殿に行ったら
神様が王座に出しておられる足元の裾の
服の裾が神殿にあふれているという幻を見るんです。
神殿に入ったら
あまりにも大きい神様の姿を彼は見たんです。
そしてその周りにはケルビムが飛んでいる。
何を言っているのかというと
この時に神様はイザヤに対して
あなたの周りの国の争いが
どれほどのものであろうとも
それはあなたの国を左右するのか
アシリアだと思えたとしても
この世界の王は私だということがはっきりと示されたんです。
この世界の王は私で
私はこの宇宙を支配している。
栄光は全地に満ちるという
そのようなある種偉大な神様の姿を
イザヤは見たわけです。
この世界を支配しているのは
アシリアではなくて
私であるということを示されて
そしてイザヤはご存知の通り
誰が私のために行くだろうかと言われて
この神に従いなさい。
ある種世界がどうなろうとも
国家の精髄とか目の前のことに何が起ころうとも
私が治めているのだから私に従いなさいと言われて
その預言者の働きに再証明をされます。
よくご存知のことかもしれません。
そのイザヤですけれども
このイザヤに対してしかし神様が
その後語った言葉は実に不思議でした。
キタイスラエルとミナミユダの未為改心
6章の9節から
13節というところに書いてあることを
最初だけ読みしますと6章の9節から13節
すると主は言われた
言ってこの民に告げよ聞き続けよ
だが悟るな見続けよだが知るなと
この民の心を声にぶらせ
その耳を遠くしその目を固く閉ざせ
彼らがその目で見ることも
耳で聞くことも心で悟ることも
立ち返って癒されることもないようにと言われる。
何言っているかよく分かりませんけれども
簡単に言うならば
預言者として再び神様に召し出された
イザヤにある種任されたのは
語るんだけれども悔い改めないという
現実の中で語れということを言われるわけです。
語っても語ってもこれは別に
彼らを悔い改めさせるなということを言っているわけじゃなくて
悔い改めを語るんだけれども
語っても彼らは声にぶっていくということを言っているわけです。
決して心を変えない民に対して
語り続けなさいということから言われるんです。
それはなぜかと言いますと
キタイスラエルとミナミユダという国が
それほどまでに預言者が語ろうとも
決して悔い改めないということを神様が見ておられるからです。
決して悔い改めない。
そして神様は一つのことを決断をなさります。
それはキタイスラエルとミナミユダ
いわばエッサイの根ですね。
ダビデから始まった
ダビデ王朝と言われるあの国
それを一本の木とするのであれば
ダビデ王朝から始まったその一本の木を
神様は切り倒すと決められるんです。
切り倒す。伐採をされる。
そう神様は決められる。そして伐採をされた後
13節に書いてありますが
自分の位置が残るがそれさえも焼き払われる。
しかし切り倒されたテレビや枷の木のように
それらの間に切り株が残る。
この切り株こそ聖なる末と語られる。
ちょっと複雑な話をいろいろとして申し訳ありませんが
実はこの伊勢谷書の前半には
この内容が何度も繰り返されます。
神は木を切り倒される。
それは語り続けてもなおも悔い改めない
そのような民に対して
神様がその裁きを決定されたということです。
そしてその木は切り倒される。
そしてその切り倒されるという内容が
剪定と新しい命の始まり
実は今朝のこの11章のところにつながってきます。
先ほど読んでいただきましたが
11章の1節に伐採の根株から新芽が生え
その根から若枝が出て実を結ぶとあります。
私たちは先ほど栄菜の根織りという曲を賛美をいたしました。
これは確かにイエス様御自身についてのことを
予言している詩篇
予言者の言葉なのですが
しかしこの栄菜の根株というのは
これは切り倒された根株なのです。
切り倒されて残った株のことを言っている。
神様は平和を築くために
新しいことを始められるのです。
新芽というのはその表現でしょう。
しかしその新しいことを
新芽として新しいことを導く誠の王が立つ
ということが11章に書いてありますけれども
しかしある種そこから新しい命を始める
その前に神様はある種の伐採
もしくは選定をなさる
ということです。
これは伊豆谷書の1章から11章にも繰り返されていますし
また直前の10章の33節からもそういうことが言われます。
10章の33節
三王万軍の朱が恐ろしい勢いで枝を切り払われる
竹の高いものは切り倒され
そびえたものは低くなる
朱は林の茂みを鉄の斧で切り倒し
レバのものは力強い刀によって
倒されるという言葉があります。
神様は選定をなさる
そしてその先に残るものから
新しい命を始め再び平和が築かれる
そのような歴史の流れを伊豆谷は書いています。
私たちのイメージもそうですが
良い実をその木にならせるために
やはり選定作業というのは必要となることがあります。
新しい命を生み出すために
不要なものが切り取られるという作業が
やはり必要となってくるのでしょう。
この選定というものを聞きますと
実に怖いなと思うわけです。
これは選定作業というのは
本物のクリスチャンだけが残って
そうじゃない人は滅びるんだ
そういう話ではない。
後でもちょっとそのことは話しますけれども
ただ選定という言葉が意味するこれらの内容は
一体私たちに当てはめるならば
どう理解するべきなのでしょうか。
それはおそらく
私自身の中にそびえ立っている傲慢が
砕かれるということなのではないでしょうか。
これは皆がお忍べてそうです。
牧師である私自身も当然そうですが
神様を恐れその前に
跪くべきである私が
いつの間にか丈が高くなってしまった
そびえ立ってしまったということが
お互いにあり得るわけです。
そしてある種その高くなってしまった枝自体が
主御自身との平和というものを
かばんでしまっているということが
私たちにはあり得るわけです。
しかし剪定された木には
豊かに実が結ぶように
新しい命というものが始まってまいります。
神様との平和、平安がそこから始まっていく。
神様が剪定をされるというのは
ですからイメージとするならば
私たちにとってはきっと
傲慢が示されるというタイミングなんです。
ああ、これは私自身も最近あって
すごく砕かれたことなんですけれども
御言葉を読んでいて本当に思うわけですよ。
あの人のことは許せないだとか
なんであんなことが
ということをバーッと思い浮かべるときがあるわけですけれども
ある種そのときに御言葉を通して
傲慢が示されるときに
ああ、これは私の問題だったんだな
ということに気づかれる。
主をお許しくださいと
私は何と偉そうだったのでしょうか
ということを教えられて
そこから砕かれて
悔いを改めていく。
そうすると何か心に平安があるということを
私たちはきっと経験するのではないでしょうか。
私たちの心の平安
私たちの心の平和を
見出しているのは
確かに外の要因というものは大いにあるでしょう。
あの人がこの人が
それは大いにあるでしょう。
しかしながらおそらく
外だけに要因があるわけではないはずなんです。
私は今、主の前に
そして人の前に
どうであるのか
そうではないかなと思うんです。
厭罪の音と言われた
ダビデの歌に
このような歌があります。
詩編の51編の17節
有名な言葉ですが、読みいたします。
神への生贄は砕かれた霊
打たれ砕かれた心
神よ、あなたは
それを下げすまれません
という言葉があります。
詩編の51編の17節です。
私たちにとって
高くなっている木は何なのだろうか
生えている枝は何なのだろうか
ある種静かな
このアドベントの季節に
そのことを思い巡らすというのは
とても意味があることだと
私は思います。
悔い改めるということは
自分がダメだダメだと思うことでは
決してありません。
逆です。
いつでも自分の傲慢が
気づかされたときに
そこで神様の御前に
跪くということです。
私は神様の前に
こんなに大切な存在なのに
なんでこんなくだらないことで
私は自分の心を騒がしているのだろうか
そうではない。
そういうことなのではないでしょうか。
さて、もう少し進んでまいります。
私たちにとっては
根の強さと新たな成長
もしかしたら
私の中の
このそびえ立っているものが
倒れてしまったら
私の全てがダメになるのではないかと
考えてしまう人も
いるかもしれません。
そういうことってありますよね。
私はこれだけやってきたことは
別に悪いわけではないのですけれども
ただ
ここを折れと言われたら
心がすごく苦しくなるということが
きっとあるかもしれませんが
けれども
大事なことは
私たちはすでに
下に根を張っているということです。
神様はこのエッサイの根株から
新芽が出ると約束をなさいました
11章の言葉です。
そしてまたそこに主の霊が注がれた
まさに主の霊を注がれたイエス様を
私たちに与えてくださいました。
そしてイエス様を通して
私たちを
イエス様は神の子供としてくださいました。
先ほども祈られましたが
本当に十字架の
イエス様の十字架の救いによって
私たちは
確かに今神の子とされているわけですよね。
私たちの根というのは
ここにあります。
私は神の子なのだということが
何よりも私たちの根です。
私たちが打ち立てた
私を規定しているのは
自分が打ち立てた何者かではありません。
むしろ私たちは
神の子として何々をしてきた
私たちは神の子として
何々を今持っている
なんですよね。
私たちの土台となる根は
すでにしっかり根付いているわけです。
だからある種私たちは
私の中に打ち立てる何が倒れようとも
本当はそれで何かがなくなることなどないのです。
神の子であるならば
その通りですよね。
そして私たちが何かを失い
何が倒れてしまおうとも
神様にあって
神の子とされているという事実は
決して変わらない。
だからですよね。
そこに私たちの根拠と土台があります。
霧株から新芽が出て
そこに種の霊が宿ると
この箇所では書いてあります。
切り倒された霧株だからこそと言えましょうか
切り倒された霧株だからこそ
神の霊の注ぎ
種の御霊とともに歩むことができるものと
されているということも
ここから読めるのだと思います。
この種の霊というのは
メッシアであるイエス様に注がれている霊のことを
言われますが
しかし同時にこれは
私たちに注がれた
精霊様のことを言っていると
とてもいいんだと思います。
種の霊というのは
この2節に書いてありますが
種の霊がとどまる
それは知恵と悟りの霊
資料と力の霊
種を恐れる知識の霊であると
語られています。
知恵と悟りの霊
まず知恵と悟りの霊ですね。
ある先生はこの知恵と悟りというのは
単に近視眼的なものを見るのではなくて
その天末をいつもその視野に入れて
現在の物事を判断していくというのが
知恵と悟りの霊だと述べていました。
なるほどと思います。
私たちは結構目の前のことに
だいぶ揺るがされる
これは私も例外ではありませんが
そういうお互いかもしれません。
しかし私たちは神様が進める大きな歴史の中で
そして私たちがこの先にどこに行くかということを
ある種知っている中で
私たちは今を生きています。
そのような中である種私たちは
今の現実を判断していくということが
必要なのではないでしょうか。
私たちにはそれはなかなか難しいんです。
難しいのですけれども
ここでは種の霊が注がれると言われ
とどまると言われている。
大事なことは
精霊様がイエス様をそう導かれたように
精霊様は私たちをもそのように導くことができる
ということを信じなければならない
ということではないでしょうか。
また種の霊というのは
資料と力の霊です。
資料という言葉
これはもともと口語訳では神霊でしたけれども
カウンセルという言葉ですね
よくよく考えて物事の成り行きを見極める
ということの意味です。
そして力というのは
そのように深く考えたことを実行する力です。
考えるだけでやらない
でもなく考えなしにするということでもない。
考えて実行する。
そしてそれは自分の考えているよりかは
むしろ種の見心は何なのかということを
探り求めながら
それをじっくり考えて行っていくということでしょう。
精霊様はイエス様をそのように導かれました。
私たちをもそのように導くことができるお方です。
そして最も大事なのは
種を恐れる知識の霊という言葉です。
これは三節にも出てきますけれども
三節以降もお読みしますと
この方は種を恐れることを喜びとし
その目の見るところによって裁かず
その耳の聞くところによって判決を下さず
正義をもって弱い者を裁き
公正をもって地の貧しい者のために判決を下す
口の鞭で地を打ち
唇の息で悪しき者を殺す
正義がその腰の帯となり
真実がその胴の帯となる
種を恐れなさいという言葉は
決して神様を怖がりなさいということではないですね。
むしろそれは神は神であり
非営利団体としての活動
私たち人間はどこまでも人間であるということを
謙遜に認めなければならないということでしょう。
種の前に跪いて
神様を中心に歩むということです。
三節にはここには
種を恐れることを喜びとしまで書いてあります。
この調べましたら喜びという言葉は
ちょっと特殊な言葉でして
これは動物が匂いを嗅ぎ分けるという意味の言葉なのだそうです。
種を恐れることを嗅ぎ分けるといいますか
つまりほとんど人間にとって本能的な
なんか嫌な気がするなということです。
なんかこれはイケそう
なんかこれは嫌な気がするなと
でもそのようなある種根本的な基準で
これは神様が喜ばれるのか喜ばれないのかということを
パッと匂い分けるということです。
そのように正しい裁きが
正義がわかるということです。
ここに書いてあるのは種を恐れる霊という
ここまでの霊というのは全て
まさにメシアであるイエス様に注がれた霊である。
そして種を恐れるこの誠のメシアである王は
正しく裁くことができるということが五節まで書いてある。
このような霊をイエス様にも注がれた神様は
私たちをもそのように導くことができる。
このような霊に生かされる一人一人によって
六節九節の平和が築かれていくという
そのような流れになるのでしょう。
本来相対する動物が狼と子羊であったり
さまざまな相対する動物が
共に生きるようになっていくも実に象徴的ですね。
でもこれが平和だということが言われる。
狼だけが生きる世界にすることじゃないんです。
羊だけが生きる世界にするのではない。
いろんな動物がいる。相対する動物がいる。
でもそれが共に生きることができるというのが
平和というものだと書かれているわけですね。
そしてそれらは全て種を知るというその一つ。
神様を信じそして神様との交わりに生きる一人一人によって
築かれていくのだ。
だから神にひざまずいて神様を信じるって大事なんだということです。
神様は暗闇の中に光を
混沌とした世界に平和を築かれると言われる。
しかし平和というのはどこから始まるのでしょうか。
私たちは本当に闇の中に光が灯ることを待ち望んでいますが
しかし平和が始まるのは周囲の環境が変わればということは当然あるのでしょう。
しかし平和が築かれていくのはそれだけではなくてきっとそれは
私の中からです。
あの人が変わればこの人が変われば
でもそれはきっと私の中から始まっていく。
今朝ご一緒に問われたいのは
御言葉を通して私たちは本当は
何を待ち望むべきかということです。
もしかしたら私たちは私が待ち望む平和のために
神様に枝を刈り込んでいただく必要があるのかもしれません。
もしかしたら私たちは今こそ
精霊様に導かれて死を恐れるということを
学ぶことを待ち望まなければならないのかもしれない。
平和のために世界が変わればと願います。
しかしもしかしたら平和というのはいつでも
私たちの中から始まっていくと言えるのだと思います。
最後に一つの話をして終わりたいと思います。
クリスマスツリーが玄関に飾られています。
ツリーというのは本来モミの木だと思います。
なぜクリスマスツリーがモミの木ではなければならないか
皆さんご存知でしょうか。
一つお話をしたいと思います。
紀元の700年頃に今でいうイギリスにいた
宣教師のウィンフリッドという人がいました。
この人が海を渡ってドイツの森の奥
ザクセン地方の森の奥に宣教に行くのです。
ドイツの森の奥に進んでいくと
そこにはケルト神話を信じている
要は村人たちがいるわけです。
そこで陶磁祭をしていた。12月24日のことです。
彼らは北欧神話に出てくる雷の神トールに犠牲を捧げるために
例年であればその陶磁祭のときに
祭壇の上に祭師が馬を捧げるのです。
でもその年は貴金というか作物の実りが少なくて
捧げる馬がなかった。
するとその村の祭師は
その村の子供を祭壇に捧げるようにと指示をしたそうです。
けれどもまさに祭師が刃物を振りかざして
ウィンフリッドの説教とモミの木
その子供を捧ごうとしたときに
ウィンフリッドが間に合って杖でその刃物を叩き落とした。
そして彼はこう言ったそうです。
その祭壇というのはその村の中央にある
大きな樫の木、真木ですね。
その真木に向けて捧げられようとしていたけれども
この木は神ではなくてただの材木です。
誠の神イエスキリストのために
ここに教会を建てましょうと彼は言うんですね。
ウィンフリッドはそこで聖書を開いて
人々に福音を語り始めました。
そして語っている中で
倒した樫の木のその大木の横に
小さな青々としたモミの木が見つかったそうなんです。
それを見てウィンフリッドが村人に言ったそうです。
みなさい、このモミの木は青々として生きている。
これこそがあなた方の新しい信仰の証ですと
言ったそうです。
村人はその言葉に感動をして
その小さなモミの木に語りつけをしました。
そしてそこでウィンフリッドから
イエス様のご好談の話を聞いて
その村で初めてクリスマスが祝われたそうです。
このお祝いが広がって
ヨーロッパではモミの木が
アドベントの季節と新しい信仰
ツリーとして選ばれるようになったということが
これはいろいろ諸説あるのでしょうが
一つこういう物語が残っています。
私はこの話を聞きながら
実にいいなと思うわけです。
新木となっている菓子の木が切り倒されて
その横に小さいけれども青々と生きている
モミの木が立っている。
みなさい、これこそがあなたたちの
新しい信仰の証であると言っている。
私は今朝の説教を思い巡らせる中で
アドベントを過ごす私たちの姿は
どういうふうであるべきであるのか
ということをいろいろと思い浮かべました。
その中で一つ思わされたのが
この一節の言葉だったのです。
エッサイの根株から新芽が生え
その根から若枝が出て実を結ぶと。
エッサイの根株から新芽が生え
その根から若枝が出て実を結ぶ。
ある種、この霧株の光景を思い浮かべながら
この季節を過ごせればいいなと思ったのです。
私が木だとするならば
私はこのような霧株でありたいなと思わされたのです。
この根株というのは切り倒された根株です。
種は枝を切り払われます。
私という木はでは一体何を切り払われる必要が
あるだろうかと思い巡らせる必要があると思わされています。
そしてこの根株にこそ新たな新芽が芽生え
新しい若枝が実を結ぶと書かれている。
ある種、切り倒された跡の底から
私たちの新しい命が、新しい信仰が始まっていく。
神様は精霊様を通して
そのようにしてこの世界に
そして私たちのうちに平和を築かれると
そう言えるのではないでしょうか。
先ほども申し上げましたがもう一度言います。
私たちがこの待ち望みの季節に問われるのは
種にあって私は本当は何を待ち望んでいるか
いいえ、それは本当は何を待ち望むべきかということです。
私たちはあれがこれがということを
待ち望むお互いですら別に悪くないのですが
しかし大事なことは種にあって
私は本当は何を待ち望まなければならないのか
アドベントの第一週です。
この静かな季節に神様が
それぞれに必要なものをお示し下さいますように
そしてみんなが切り株になれたらいいなと思っております。
エッサイの根株から新芽が生え
その根から若枝が出て実を結ぶ。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
40:33

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