イエス様の祈りの目的
一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
死の御前へと私たちをあなたが招いてくださり、
あなたの御恵みによって私たちを生かそうと、
ここから立たせようとしてくださっていることを感謝をいたします。
私たちは限りない愛をあなたから受けています。
巫女の流された十字架の父よ、
それによって私たちの罪を許され、神のことされ、
三神に甦えられた巫女の出活の命、永遠の命を私たちに与え、
私たちも永遠の死と共に生きる、あなたに結ばれた命に、
あなたが生かしてくださっていることを感謝をいたします。
神様どうか、その恵みの豊かさを私たちは日々確認をし続けなければならないものです。
目を開き、耳を開いてくださいますように、
あなたを見ることができ、あなたの御言葉を聞くことができ、
初詣はここにおりますし、お語りくださいと、
あなたを仰ぐことができますように、
聖霊様がこの時を助けてください。
また、今日は気持ちのために来ることができない方もいらっしゃるでしょうか。
また、もしを受けている兄弟もいることを覚えます。
ここに来たくても来れない、体の今リハビリをしておられる方、
施設におられる方、
ご自宅で礼拝を守らざるを得ない方がいらっしゃることを覚えます。
神様がお一人一人のうちに臨んでくださり、
主は生きておられると、あなたへの信仰へとお導きください。
お願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます。
どうか御言葉を開き、あなた御自身が私たちに御言葉を教えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
先週はお祈りありがとうございました。
藍野先生と一緒に平方希望教会で奉仕をさせていただきました。
不思議な、不思議といったらあれですが、
皆様のお祈りに支えられているなということを実感をしました。
本当にありがとうございます。
また、この教会には鴨野直人先生が来てくださいましたね。
たまたまですが、翌日は福音主義新学会というところで先生に会うことがありまして、
先生が本当に懐かしい方々とお話ができて本当にうれしかったということをおっしゃっていました。
それぞれの場所を神様が祝してくださったことを感謝をしております。
さてですね、今朝は三密一体手術です。
昨年も説明をしましたが、改めて申し上げますと、
これは教会歴で言うならば、
イエス様の御降参を祝うクリスマス、
そして地難と復活、春に祝いましたイースター、
そして先週のペンテコステ。
これは神様の救いの御業を表しているそのような歴史なんです。
そのような小読みなのですけど、
そのペンテコステの翌日に、三密一体の神様がこの救いの御業をなしてくださったんだ、
そのことを覚えて、この三密一体の神様御自身へと目を止める、
この三密一体手術というものが備えられています。
ただですね、少し素朴に考えさせていただきますと、
ちょっと考えていただきたいのですが、
三密一体の神様を信じるとはどういうことなんでしょうか。
一人の神様がいて何かの御利益をしてくれる神様だったら、
なんとなくイメージがつくわけですけれども、
しかしキリスト教は私たちは三密一体の神様を信じている。
その姿というのはおそらく何か捉えにくいところがあるのではないでしょうか。
三密一体の神様というのは言葉の通りです。
三であり一であるということです。
どっち?というね。まさに論理的に破綻をしているわけです。
けれども、言い換えるならば私たちは、
人間の理性や論理では捉えきることのできない神様を信じている。
むしろ神であるならば人間の理性のうちに収まるわけがない。
そういう神様を信じているわけです。
ただ、そう言いながらも、
この三密一体の神様はどういう方ですかというときに、
一つだけ明確に説明することができるものがあります。
それは、三密一体の神、
それは愛と謙遜の交わりの神であるということです。
交わりの神であるということです。
神様は唯一の方ですね。
けれども同時に、父・子・精霊の三つの、難しい言葉でいうと威嚇と言いますが、
それをお持ちである。
父なる神様、子なるイエス様、そして精霊なる神様、
この三つのお方は交わりのうちに、
一つの救いの業を実現するために働かれた、
ということが聖書に書いてあるわけですね。
そしてその身業において、
父・子・精霊なる神様の間には分裂がないんですよ。
どこかで仲違いしたということは聖書に書いてないですね。
三密一体の神様を信じる意味
分裂がない。むしろそこに一つの愛と謙遜による一致、
簡単のない愛の交わり、
そのようなお方が私たちの救いを成し遂げてくださったというのが、
聖書が語るところですね。
そしてさらに、この三味一体の神様の姿というのは、
私たち自身と無関係ではない。
なぜなら聖書は、私たち人間はそれぞれ、
神の姿にかたどって作られたと書かれるからです。
神の二姿、神の形にかたどって人間は創造されたからですね。
箇所だけ言いますが、
創世紀の1章の26節というところには、
さあ、人を我々の形として、
我々の二姿に作ろうという言葉があります。
人間が創造されるシーンですが、
創世紀1章の26節には、
我々って書かれてるんです、ちゃんと。
これは三味一体の神様なんだということを、
教会は理解をしてきましたが、
まさに、我々。
ですから、人間というのは、
三味一体の神様のように、
互いに愛し合い、互いに調和しながら生きていくように、
そのような形にデザインされ作られた。
そういうことができると思うんです。
本来の私たちの姿はそうである。
だから余談ですけれども、
創世紀の2章からアダムが始めたのは、
パートナー探しですね。
それぞれの動物に名前をつけていって、
しかしアダムにふさわしいパートナーは見つからなかった。
神様が言われた、人が一人でいるのはよくない。
なぜなら交わりの生き物だからです。
だからエヴァが与えられたということが、
聖書に書いてある。
ただですね、
皮肉なことに、そのようにデザインされた
私たちの現実を振り返ってみるならば、
実は多分一番多く私たちを悩ませるものは、
人間関係の悩み。
そう言ってもいいかもしれません。
互いに愛し合い、調和を築く、
そのようなデザインが私たちのうちにもあるんです。
でも実際にそのように生きることはできない。
私のうちに、私の周りに。
そこに難しさを感じて、
いや、もしくはそこにどう修復をしたらいいのか、
糸口も見つけられないほど、
痛んでしまうことがある。
どうすればいいんでしょうか。
実はこれは、福音書を見ますと、
イエス様の弟子たちもそうだったんです。
言うまでもありません。
イエス様の弟子たちも仲悪かったですね。
けれども、イエス様は十字架にかかられる
その運命を自覚されたとき、
この最後のときに、
イエス様は弟子たちのことを思って祈られたんですね。
この今日開いていただいたヨハネの17章というのは、
イエス様が十字架にかかられる直前に
弟子たちのことを思って祈られた
大祭祀の祈りと呼ばれる箇所です。
今日は20節から読んでいただきましたが、
しかし17節全体を見ていただきますと、
ここにイエス様は何回も
一つにしてくださいという言葉を繰り返し祈られます。
一つにしてください。
この一つというのは、先に申し上げますと、
これは一致、愛の交わりのことです。
一つに、一つにしてください。
彼らが愛の一致を持つことができるように。
一つとなっていくというのは、
容易なことではないわけですね。
けれども、この大祭祀の祈りを見ながら、
主は何を祈り、どのように私たちを、
そしてこの弟子たちを一つにしようとされたのか、
そのことを今朝、ご一緒にお聞きしたい。
そう願っております。
さて、この今日の17章の祈りというのは、
一節を見ていただきますと、
これらのことを話してからイエスは目を天に向けられた。
父よ、時が来ました。
子があなたの栄光を表すために、この栄光を表してくださいと。
イエス様が祈られた時が来た。
それはご自身が十字架に架かられる、
その十字架の栄光に進まれる時が来た。
そしてご自身の受難を自覚されたイエス様は、
残された弟子たちを覚えて、
いくつかのことを祈られるわけです。
鳥なしの祈りですね。
だから大祭祀の祈りと言われるわけですが、
17章の11節というところもお読みしますと、
こういうことが言われます。
11節。
私はもう世にいなくなります。
彼らは世にいますが、私はあなたのもとに参ります。
聖なる父よ、私に下さったあなたの皆によって、
彼らをお守りください。
私たちと同じように、彼らが一つになるためですと。
そう祈られます。
彼らをお守りください。
後に見ますけれども、
弟子たちというのは戦いの中にこれからも置かれる。
彼らをお守りください。
ただその目的は、彼らが一つとなるためです。
一つとなるために主をお守りくださいと祈られる。
実はこの一つという言葉は、
新約聖書全体を通しての一つのキーワードになります。
一つになるための救いの歴史
ちょっとだけ、ごめんなさい、開きますけれども、
エペソ書の一章、
エペソ書の一章の十節というところにも、
一つという言葉が興味深く語られていますけれども、
エペソ書の一章十節、
ちょっと読みますが、こういう言葉です。
エペソ書一章十節。
時が満ちて計画が実行に移され、
天にあるものも地にあるものも一切のものがキリストにあって、
一つに集められることですということが言われています。
イエス様の救いの技というのは、
この世界を一つにするという方向に進んでいきます。
そしてこの一つというのは、私たちは馴染みがあるでしょう。
黙示録の五章の十三節というところには、
まさに天と地と地の下の民が、
共に主を褒めたたえ一つとなって、
礼拝をするという光景に至っていきます。
ですから、イエス様の救いの技というのは、
私たちを一つにし続け、最終的に一つに向かわせるという、
大きな救いの歴史の中に置かれている。
ただ、そういうことを少し確認をしながらですけれども、
では、なぜそこまで一つになることが大事なんでしょうか。
なぜ一つにならなければならないのでしょうか。
この後のイエス様の取りなしの祈りの内容というのは、
そのことを明らかにしてくださる、
そのようになっていると思います。
主にイエス様は弟子たちのために四つの取りなし、
神様にこうしてくださいと祈られた祈りが四つあると言われます。
先に箇所だけ確認しますと、
十五節に悪いものから守ってくださいとイエス様は祈られ、
そして十七節に、真理によって彼らを性別してくださいと祈られ、
そして二十一節に、
あなた方が私のうちにおられ、私があなたのうちにいるように、
イエスの祈り
すべての人を一つにしてください。
そして四つ目に、二十四節、
私がいるところに彼らも私と共にいるようにしてください。
四つ。ちょっと順にこのことを見ていきたいと思っています。
イエス様は何を弟子たちの取りなしとして祈られたのか。
第一にイエス様が祈られたのは、
父よ、彼らをこの世の悪いものから守ってくださいということが祈られました。
十四節から十六節をさらっとお読みしますと、
私は彼らにあなた方の御言葉を与えました。
よは彼らを憎みました。
私がこの世の者でないように、
彼らもこの世の者ではないからです。
私がお願いすることは、
あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、
悪いものから守ってくださることです。
私がこの世の者でないように、
彼らもこの世の者ではないからです。
イエス様は御自身の志望、弟子たちが続いて殉教をすること、
そのようなことを願っておられないですね。
取り去らないでください。
取り去るよりもむしろ、
この世から取り去るのではなく、
彼らがこの暗闇の世でなおも生き続けることができるように、
主を彼らを悪から守ってくださいということを祈るのです。
この世にとどまって彼らが生きることができるように。
なぜそのことを願うのか、
十四節、十六節に同じ言葉が二回繰り返されますが、
私がこの世の者ではないように、
彼らもこの世の者ではないからです。
つまり、イエス様が弟子たちに願われたのは、
イエス様と共に殉教することではなくて、
この暗闇の世界に、
この世の者ではないということをイエス様はやりました。
イエス様御自身がこの暗闇の世界に来られた光なんです。
ヨハネノ福音書の一章はそう語りますね。
この暗闇の世界に光溶きしてきたイエス様、
この世の者ではないイエス様が、
父なる神様の栄光を表して生きたように、
地上で弟子たちが神様の栄光を表して生きるようにと願っている。
ちょっと難しい言い方をしましたが、
私がこの暗闇の世界で光として生きたように、
弟子たちもむしろこの暗闇の世界の中で、
光として生かしてくださいということ。
そのことを願われるわけです。
当然イエス様はこの世の者ではありませんでしたから、
この世からは反対をされるわけです。
そしてこの世の者ではないから反対をされ、
このまま迫害を受け得るだろう。
だから悪い者から守ってください。
そう一つ願われる。
そして第二にイエス様が祈られたのは、
性別される祈り
彼らを性別してください。
つながりがあるように思います。
17節から19節。
真理によって彼らを性別してください。
あなたの御言葉は真理です。
あなたが私を世に使わされたように、私も彼らを世に使わしました。
私も彼らのために私自身を性別します。
彼ら自身も真理によって性別されるためです。
性別してください。
性別するというのは先ほど話したような内容かと思います。
この世の者で、イエス様がこの世の者ではなくて、
暗闇の中で光として生きたように、
弟子たちもこの暗闇の中で、
暗闇に染まってしまうのではなくて、
光として輝き続けることができますように。
しかもその光として輝き続けるために必要なものは何なのか、
真理の御言葉です。
真理と言われる御言葉。
御言葉によって彼らを性別してください。
神の者は神に。
まさにこの性別へと導く真理の御言葉を彼らが聞き続け、
光として歩み続けることができるように、
そう二つ目を取りなされました。
そしてこの二十節からは、
私はただこの人々のためだけでなく、
彼らの言葉によって私を信じる人々のためにもお願いしますと言われますから、
弟子たちだけではなくて、
ここではそれ以外のイエス様を信じた全てのイエスを告白した人たち、
その人たちと共にと祈りますが、
三つ目の取りなしは、
全ての人を一つにし、
彼らも私のうちにいさせてくださいというそのような祈りです。
一つにし、光として輝く祈り
二十一節から二十三節には、
父よ、あなたが私のうちにおられ、
私があなたのうちにいるように、
全ての人を一つにしてください。
彼らも私たちのうちにいるようにしてください。
あなたが私を使わされたことを、
世が信じるようになるためです。
また私はあなたがくださった栄光を彼らに与えました。
私たちが一つであるように、
彼らも一つになるためです。
私は彼らのうちにいて、
あなたは私のうちにおられます。
彼らが完全に一つになるためです。
またあなたが私を使わされたことと、
私を愛されたように彼らを愛されたことを、
世が知るためです。
一つという言葉が繰り返され、
しかも何かちょっと理解がしがたい聖書の言葉かもしれませんが、
まずここに二つのことが言われていると思います。
二つのことが。
一つは、弟子たちだけでなく、
全てのキリスト社を一つにしてくださいと、
まずイエス様が祈られましたね。
性別された民がバラバラに戦うのではなくて、
一致する愛の交わりを築いて、
共に歩むことができるようにしてください。
ただ、もう一つ書かれているのは、
彼らも私たちのうちにいるようにしてください。
21節の言葉です。
彼らも私たちのうちにいるようにしてください。
彼ら、いわば全てのキリスト社のその交わりに、
私たちのうちにいるようにしてください。
つまり、父・子・精霊の三味一体の神様が、
その交わりにいるようにしてください。
そこにいるようにしてください。
三味一体の交わりの中に、
キリスト社の群れが加わりますように、
そのようにしてくださいということを、
イエス様はここで祈られる。
これは、このヨハネの福音書で言うならば、
ちょっと前のページになりますが、
イエス様のブドウの木の例え話を彷彿とさせるものです。
せっかくですからお読みしますけれども、
ヨハネの15章の4節から5節というところ。
2ページ、3ページほど前にめくっていただくと、
ヨハネの15章の4節から5節。
こういう言葉ですね。
私に留まりなさい。
私もあなた方の中に留まります。
枝がブドウの木に留まっていなければ、
自分では身を結ぶことができないのと同じように、
あなた方も私に留まっていなければ、
身を結ぶことはできません。
私はブドウの木、あなた方は枝です。
人が私に留まり、
私もその人に留まっているなら、
その人は多くの身を結びます。
私を離れては、あなた方は何もすることができないのです。
つながれば身を結ぶ。
私から離れては何もできない。
ヨハネの福音書の中では実は、
イエス様ご自身が
父なる神様との関係を告白するときに、
そういうことを何度か言われます。
道から離れては私は何もすることができない。
道が語らせてくださらなければ、
私は何も語ることができない。
あなた方はそれと同じだよ。
神から離れては何一つ身を結ぶことができない。
そしてその通りに、
先ほども見ましたけれども、
この一つにしてくださいという交わりは、
すべての民が一つに。
だから横の水平の交わりです。
すべての民が一つとされ、
そして三味一体の神様の交わりがそこに加わって、
そこも一つの交わりになる。
そのような兄弟姉妹と三味一体の神様との交わりが
一つであるときに書かれている
二回繰り返し書かれている21節に、
あなたが私を使わされたことを
世が信じるようになるためです。
ああ、この群れは神が使わされた群れなんだと
世が知るようになる。
そして23節にもあります。
私を愛されたように彼らも愛されたことを
世が知るためです。
ああ、この群れは神に愛されている群れなんだと
いうことをこの世が知る。
ここで言われているのは宣教ですね。
まさに私たちが一つとなるということ、
そしてそれが神様との愛の交わりに
一つとなるということが宣教となっていく。
これまた後で読んでいただいたらいいと思いますが、
使徒の2章の43節から47節というのは
この実現のことが書いてあります。
一つとなった民のところに人々が加わっていった
という話が書かれています。
使徒の2章の43から47です。
そして第4の取りなしの言葉は24節ですね。
それは私がいるところに彼らも私とともに
いるようにしてくださいという祈りです。
それはイエス様が御父なる神様の栄光を表し
十字架と復活のその道に歩んだように
彼らがこのイエスキリスト、
イエス様が歩まれたその道に
最後まで歩み続けることができますように
私がこれから迎えに行くところに
彼らも共にいることができるように
そのことを祈っているわけです。
ちょっと長くしゃべりましたが
まとめますとこういうことですね。
イエス様の大祭祀の祈りというのは
弟子たちが暗闇の世界で
真理の御言葉によって生物された光として輝いて
神と隣人との愛の一致に生きることによって
このように明かしし
最後までキリストの栄光を求めて進めますように
そのようなことがぎゅっとまとめると言われている。
そう聞きますと実に
私たちがまさにこの地上で与えられている
教会の使命というものを
ぎゅっとまとめてくれているような気がいたします。
そしておそらく
父なる神様の右の座で今も
イエス様が取りなしてくださっている祈り
というのはそういう祈りだと思います。
今も取りなされている。
そして見てきていただいて分かる通り
やはりキーワードは一つ一つです。
17章では5回出てまいります。
一つという言葉が。
そして一つとなるということを
私たちは容易ではないということを確認しましたけれども
ただこの一つとなるための
鍵となっている言葉は
やはり22節23節の言葉だと思います。
22節23節。
また私はあなたがくださった栄光を彼らに与えました。
私たちが一つであるように
彼らはもう一つになるためです。
私は彼らのうちにいて
あなたは私のうちにおられます。
彼らが完全に一つになるためです。
23節の
彼らは私のうちにいて
あなたは私のうちにいますというのは
この17章の文脈を見てくるならば
おそらくこれは
栄光に関わることだと思います。
栄光という言葉に関わることだと思います。
22節にもあなたがくださった栄光を
彼らに与えましたという言葉があります。
17節を見ていくならば
こういうことが言われているのは
イエス様は
父なる神様と同じ
栄光を持ち
その栄光を私は
表して生きてきました
私たちの交わりと神様の栄光
ということを言うんです。
栄光と聞くと
なんかぼやっとするかもしれませんけれども
簡単に言うと
神様の栄光を表すというのは
その人の発言や行動や生き様を見れば
神様がわかるということです。
神の栄光を表して生きるというのは
その人を見たら
神様がわかる。
イエス様が
父なる神様の栄光を表して
イエス様を見たら
父なる神様がわかるということです。
ピリポがそう言いましたね。
道を見せてください。
いやいやピリポ
あなたは私を見てるじゃないか。
イエス様を見れば
父なる神様のことがわかる。
そして22節が言うのは
この栄光を今度
彼らが一つになるために
与えました。
それはイエス様を通して
もしくは8節には
イエス様が語られた見言葉を通して
彼らは父なる神様の
本当の姿を知り
そして
父なる神様が
どのようなお方であるかを知り
そしてそれを彼らも受け取って
彼ら自身も
父なる神様が
どういうお方であるかを
知って生きるようになった。
栄光を与えられた。
私たちは父子
精霊の神様の交わりに
その中でつながれて
神様の栄光
神様がどのようなお方であるかを知り
その神様の愛の交わりを通して
23節が言うには
完全に一つになっていく。
完全に一つと
それによってされていく
ということが言われる。
これも複雑な話をしているので
シンプルにまとめるならば
こういうことでしょう。
私たちは三味一体の神様と交わり
その栄光を知らなければ
決して一つにはなれないということです。
なれない。
一つになりたいと
私たちは願います。
互いに愛し合い
一致して
この境界が別に一致していない
ということは言いませんが
しかし分裂の中に一致が
互いに愛し合うことが
築かれるようにと
私たちは願います。
けれども
おそらく人を見れば
責めたくなります。
自分を見れば
愛のなさに
私たちは確然とします。
人間の愛というのには
限界があるわけです。
けれども
三味一体の神様のは
愛と謙遜の交わりの神様ですね。
その神様が
私たちを完全に一つにしたいと
私たちの内に働いてくださっていて
交わってくださるお方
三味一体の愛の交わりの神様を見なければ
私たちは境界も
私たち自身も
いや私たちの周りにある
分断された交わりも
実は一つにすることというのはできない。
神を知らなければ
ということではないでしょうか。
人間関係において悩む私たちにおいて
一つ
一致し愛し合うこと
神様との交わりを通しての一致
それは大事だということを
私たちはじゅうじゅう知っているわけです。
けれども実現困難な課題
私たちは
これは私自身がそうですけれども
この人を愛さなければ
許さなければと思いながら
でも結局最終的に見ているのは
自分自身の気持ちばかりですね。
相手の現実なんか
なかなか見ることができない
愛というのは
相手を見つめることから始まるのに
見つめることのできない
自分自身がいることを覚えます。
言葉や行動で失敗をしてしまうことが
私たちには往々にしてあります。
ヨハネの福音書で
イエス様が言われた大事な言葉の一つは
私があなた方を愛したように
あなた方も互いに愛し合いなさい
13章の34節
そう言われていますが
私たちの愛には限界があるということを
つくづく思わされることがあります。
でも
今日の歌詞を読みながら
私たちは
忘れてはならないことが
でも一つあるなあと思うんです。
それは
私たちもまた
イエス様と同じように
既にこの世にあって
この世のものではないものに
されているということです。
暗闇の中に輝く光と
私たちは既にされている。
イエスキリストの御言葉を聞き
真理の言葉によって生物されて
私たちは父なる神様の
栄光を知っているはずなんです。
だから変わっているんです。
罪人であったかつての姿から
私たちは今変わってきているし
変えられているわけですよね。
愛と謙遜の三味一体の神様
私たちがブドウの木につながれていること
そしてそのお方につながるならば
私たちに結べない実を
神様が結ばせてくださるという
その恵みの中に
私たちは生きているということを
どこかで忘れていないかなと思うんです。
私がよくする言い訳ですが
人間だからねと
これ私のことです。
人間だからねと
言い訳をしたくなります。
一致できない、愛し合えない
人間だからねと
そんなことをよくわかっているんです。
でも私たちは
救われた罪人です。
救われた、神のことされた罪人であるならば
せめて
私たちは分裂の狭間に立たされて
人間だからねしか言えないのではなくて
自分でもない、相手でもない
そこを見つめるのではない
分裂の狭間に立ちながら
神様の見前に哀れみを求めて
祈るものになりたい
その方につながって死を
私には無理ですが
あなたが身を結ばせてください
あなたが和解を与えてください
愛する力を私たちに与えてください
神を私たちを一つにしてください
そのようなことを祈るのが
おそらく私たちに課せられている
使命と言えるのではないでしょうか
私たちの交わりの中には
完全に三でありながら
一つであるほどの愛の交わりである神が
私たちの中につながってくださって
私たちを一つにしようと
働いてくださっています
そのお方にしか
その身を結ぶことはできません
どうかどうかというか
神様と一つに
私たちが一つになりながら
この世界に本当に
神様って素晴らしいお方なんだな
そういうことが伝えられていく
そのような働きが
私たちになることができればな
そう願っております
一言お祈りをして
メッセージを終わります