名谷教会での初めての経験
皆さま、おはようございます。
懐かしい名谷教会と呼ばせていただきますけれど、
初めてお会いする方もいらっしゃいますので、
今日の最初に自己紹介から始めさせていただきたいと思います。
実はですね、私は今、女性牧師として名田教会で
牧会をさせていただいておりますが、
以前は西名正人という夫がおりまして、
そして牧師夫人という形で主に仕えさせていただいておりましたが、
11年前に主人が天に帰っていきました。
そしてそこからまた私の新しい献身が始まって、今は女性牧師としているわけです。
名谷教会にはですね、ちょうど21年前になると思います。
1年半ほど礼拝に出席させていただいておりました、
小山先生の時代です。
なぜかと言いますと、ちょうど大見八幡にありました本部事務所を神戸に移転するというプロジェクトがあり、
そこに主人が関わるという事例を受けました。
それがどういうことかわからないんですが、
もう教会総会を終えた2月の一番最終週に電話がかかってきていくようにということを伝えられたんですね。
神戸に、神戸じゃなくてその時は東京にいたんですけど、
長女はその4月に入学をする、長男はその4月に幼稚園を入園する、
そして次男は隣結を迎えるという、そういう時に急遽引っ越しなさいというふうに教団の方から事例がありましたので、
とても驚きましたけれども、主の導きならということで、お受けすることにしました。
でも主人はまだ大見八幡の本部事務所にいる、すぐに引っ越してくるだろう、本部事務所が移動してくるだろうという予想だったので、
じゃあ私は先に神戸に移って、出産を控えて、子供を産んで待ってますということで、
どこの教会で礼拝を捧げさせていただこうかということを祈っておりまして、
当時は今もそうですけど、本部主人は担任許可を持たないということでしたので、
お山先生が私の新学校の等級生でしたから、お山先生そしたら担任で礼拝を持たせてくださいというふうにお願いして、
ちょうど赤ちゃんの出産と同時にこちらで礼拝を出席させていただいたという1年半がありました。
とても懐かしいです。
ちょうど今白石さんが座っていらっしゃる場所が私たち家族の定位置で、
今思い出していましたけれど、主人は担任牧師ではなかったので、
日曜日になると夫婦揃って2人で礼拝に集うことができました。
並んで礼拝を捧げることができるという、本当に大きな恵みの時代を、
私はこの明丹教会で過ごさせていただき、
今ここで前に座らせていただきながら、当時のことがよみがえってきて、
目頭が熱くて泣いてしまうくらいの、本当に懐かしい場所に教学をさせていただいております。
ちょうど21年前なので、その時に生まれた次男は21歳になります。
大学生で、今は藍名先生にお世話になって、
青年選挙大会で色々と関わっていただいたという、
そういう息子に成長しました。
一番上は27歳、そしてその次が25歳、
そしてもう一人生まれた子が今19歳と4人の子供を育てながら、
シングルマザーというか、新ママと言うそうなんですけど、
子供を育てながら、今は牧家に育てていただいております。
長くなりましたが、そういう私が今日ここに立たせていただいております。
ちょっと早口なんですけど、マスクしてますし、聞き取れなかったら、
藍名先生もうちょっとゆっくりとか、バーッとなさってください。よろしくお願いします。
それでは最初にお祈りを捧げいたします。
恵み深い天の神様、この礼拝を心から感謝いたします。
愛する皆様方とともに、主を見上げ、
そしてあなたから御言葉をいただけることを心から感謝いたします。
今捧げました礼拝の賛美もまた祈りも、
あなたが私たちのその思いを受け止め、
そして心からの賛美をあなたが喜んでくださっていることをありがとうございます。
私たちのこの歩んできた旅路は、傷つき苦しみ、
とに自分の弱さ足りなさに悩んでいるような、
またとに力のなさに舌を剥くような一週間だったかもしれません。
しかし主はそれでも大丈夫だよと今日を招き、
私たちに精霊を与えてまた使わそうとしてくださいます。
神様どうぞ私たちに今日いただける御言葉が私たちを生かしていくように、
そして精霊に満たされた私たちが主の恵みをお伝えしていくことができますように、
どうぞ主を守っていてください。
今日は講談交換でそれぞれの教会で、
兵庫教区の先生方が講談を守っていらっしゃいますが、
良き交わりのとき、恵みのときとなりますように、
加藤先生が御奉しなさる神戸大石教会も主が豊かに祝してくださいますように、
このものは御言葉に語るにふさわしくないものでありますが、
主が精霊によってこの唇を清め、
あなたの御言葉を大胆に語ることができますように、
不要なことは語ることがないように、主をあなたが守っておいてください。
あなたに期待して、イエス様の名前によってお祈りいたします。
主の祈りの意味と重要性
アーメン
今日はマタイの福音書の主の祈りの箇所を開かせていただきました。
主の祈り、よく開かれる箇所かもしれませんので、
何回も聞いたことあるなと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
10節の憎みが来ますようにというところを中心にお語りいたしたいと思います。
主の祈りはキリスト教の小さな学校と言われるんですね。
この祈りにイエス様の生き方や歩みが凝縮されています。
今祈りました言葉も文語で祈りましたね。
教会学校で覚えたとか、
知らない時から暗証できているという方もいっぱいいらっしゃると思います。
今まで主の祈りを何回祈ったでしょうかね。何十万回。
本当に口から出てきやすいというか、
他のことを考えていても祈れるお祈りの方もいらっしゃると思います。
今日お昼何食べようかなということを考えながらでも祈れるかもしれないし、
矢西田先生久しぶりに見たらちょっとおばさんだったなって思いながらでも
祈れる祈りかもしれないんですね。
私たち個人の祈りは神様どうぞあの方をどうぞこの病を治すと
本当に熱心になって祈る言葉が出てくる祈りを捧げることができるかもしれないけれど
主の祈りにおいては平坦に覚えたことを振り返すというような
祈りになってしまいやすいお祈りだとは思いませんか。
だけれど、このお祈りはね。
弟子たちにイエス様がこう祈りなさいと教えてくださったお祈りなんですね。
口移しという口伝えの祈り。
よく信仰を導いてくださる先輩のクリスチャンやら牧師先生が
はいじゃあ私の後に同じ言葉で祈ってねってよく祈ってくださいますよね。
私たちが同じ言葉で応じて祈るということをよくやりますよね。
天皇お父様ってその方が言ったら天皇お父様っていう
お互いのこうする祈りといいますか
あの祈りをする時っていうのは本当に信頼できる方が
私たちのために祈ってくださる。
そして私たちもそれに応えて祈るっていうような
熱い交わりをしながらの祈りじゃないですか。
主の祈りはイエス様が2000年前に弟子たちに
こう祈りなさい。
天にいますお父様。
これ日本語なんですけど
ギリシャ語では父よっていうその
お父さんというかね
親父みたいなそういう親しい言葉から祈り始める
その口伝えの祈りを主の祈りとして
私たちが2000年続けて祈ることができるんです。
これすごいことですよね。
天国へ行ったら
十二弟子たちと主の祈りを
言葉は違うかもしれないけれど
精霊でつながることができたら
一緒に祈ることができるお祈りを
イエス様が私たちに教えてくださったんですね。
海外の礼拝行って
宗教何言ってるか分からない
サンビ言ってるか何言ってるか分からない
という時でも
主の祈りは言語が違っても心一つにして祈れる
天国を味わうような祈りなんですね。
私たちはこの口伝えのイエス様の祈りを
本当に大切に祈っていかなきゃな
というふうに思わされています。
その中で今日は
御国が来ますように
ということについて考えていきたいのです。
私たちの生活
誰が王様になるかで
大きく幸せ感が違います。
日本は王国制ではないので
言葉としては感覚が違うかもしれませんが
政治家によって非常に私たちの生活は変わりますよね。
例えば前の赤城市長
非常に子育ての政策をたくさん打ち出してくださいました。
おむつの宅配とかね
それから子どもの施設をいっぱい作るとか
子育てということに人と金をかけてくださったので
子育て世代がいっぱい集まってきた
ということを私たちは見るときに
やっぱり誰がトップになってくれるかということで
幸せになりたいと思って
子育てについて幸せになりたいという人たちが
集まってきているということを見るとき
私たちがどんな国に住むのか
ということによって生活が変わってくる
そうなるとこの御国という言葉が
イエス様がどんなふうに私たちを教えてくださっているのか
ということを深く知らないといけないなと思います。
神の国の見えない性質と意味
マタイの福音書にはこの御国という言葉と
天国とか神の国という言葉が
同じような意味で表されています。
私今日ちょっと言葉
私今日ちょっと汲めたね
私言葉の言い回しがちょっと
なんていうのかな
思っていることとか口に出ることとかが
ちょっと一致しないときがあって
御国と言いたくても神の国と言ってしまったりとか
そういう言葉の
聞きにくいところがあるかもしれませんけれども
同じ意味として聞いていただけたらと思います。
天国というのも同じ意味なんですけれども
天国といえば死んだ後に行く場所と
連想してしまいますけれども
御国が来ますようにというこの御国はやがて
私たちが行く天国という意味だけではなく
イエス様がいらっしゃったときに始まった神の国が
今度もう一度いらっしゃるときまで
イエス様がいらっしゃることを待ち望みながら
この地上に神様の支配が及んでいきますように
ということを祈っている御国が来ますようにということ
言い換えれば神様から委ねられた
イエス様から始まるこの世界を私たちが正しく管理して
完成の日、イエス様がやがて来られる日が
一日も早く来ますようにということを
祈っている言葉が御国が来ますように
ちょっと前置きが長くなりましたが
このことについてポイントを三つで語ります
まず最初のポイント一つ
神の国は見える形ではないということです
中世のクリシャンたちは
神の国の拡大を実際の土地の拡大だと思っていた
信仰の人たちがいました
それで十字軍であるとか
その思想をもって植民地を拡大していく
というような時代がありましたね
しかしイエス様は実は聖書ではこう言われています
神の国は見える形ではない
ここだとかあそこだと言えるものではない
という言葉であったり
子供のように受け入れるものでないと
入ることができないと言われたり
誰でも水と霊によって生まれなければ
神の国に入ることはできないとおっしゃったり
神の国のいろんな性質について
イエス様の言葉と神田教会の守り
イエス様はいろんな言葉で語ってくださっています
いろいろ組み合わせて
総合して考えてみて
私が言い換えたとしたら
イエス様を受け入れて洗礼を受けた
私たちの集まりこそが神の国なのではないか
共同体自体が神の国というふうに言えるのではないか
神の国はあなた方のお腹にあります
もうすでに始まっているんですと
イエス様はおっしゃいました
福音が説教され
聖三式が行われて
御言葉に従って生きようとしている
私たちが集まっているこの教会こそが
神の国なんだ
もう始まっているんだと聖書を教えています
抗断効果何年ぶりか覚えていらっしゃいますか
どうですかね
教区の抗断効果
いろんな先生が明沢教会にいらっしゃったと思うんですね
このコロナの期間もどうでしょうか
4年ぶりなんです
3年間は教区の抗断効果というのはできなかったんです
このコロナの間
皆さん礼拝ご苦労なさったんじゃないでしょうか
集まっちゃいけないと言われるんですよね
教会は集まって交流する
こういうのにやが本当に大切な基盤であるにもかかわらず
集まっちゃいけない
今も教会って一体何だろうかということを
もう一回再構築
改めて考えていかなくちゃいけない時代に入っているのかもしれません
今までの当たり前が
本当にそれでいいのかということを
考え直す時期
神の国というものが何なのかということを
考えていかなくちゃいけない時期なのかもしれません
そしてこの三保谷教会の皆さんにとって
ゆん先生のご病気
これは本当に
涙と
試練の中の通された
いろんな苦しみの時代を通られたのではないでしょうか
そしてまた一年間定住牧師が不在だというような
厳しい状況の中も
皆さんがさまざま祈りながら乗り越えてこられたということを
私は知っていますと言ったら
ちょっと高慢なので
祈りながら心を寄せていました
戦いと葛藤とその試練を通られた愛する兄弟姉妹の皆さん
そこでさまざまな試練の中で
強められたこと
苦しんだこと
分かったこと
乗り越えたこと
いっぱいあったと思います
その共同体こそが神の組みなんですね
試練を通ることでしか発見することができない神様の部閉格があります
見つけることができない神の奥義があります
皆さんが十字架を背負って通ってきたからこそ
御国が分かった
到達した御国があると思います
空で御国が来ますようにと皆さん祈りましたよね
何万回祈りましたか
みたいなことをさっきさらりと言いましたけれど
この祈り神様に届いていないことはないですよね
私たちが空で祈ったようなこの祈りであっても
何十万回何万回と
何千万回
一億何万回かわからないけれども
一人一人が祈ったこの神の祈りが
神様の前に積まれてないはずがないんですよ
皆さんが御国が来ますようにと祈ったその結果
神田に教会が守られてきましたし
皆さんがこの試練をくぐり抜けた後
こうやってまたもう一度教会って一体何だろうかと考えながら
それぞれが御法所なさっていく
愛の共同体に成長していかれたのではないでしょうか
御国が来ますようにと祈った祈りを
主が叶えてくださっているんです
ルカの福音書にも主の祈りの箇所がありますが
その前にはどんなことが書いてあるかというと
弟子たちがイエス様に祈ることを教えてくださいと
尋ねたところが書いてあります
弟子たちが尋ねたのでイエス様がお教えになった祈りが
主の祈りなんですね
なんで弟子たちはイエス様に祈ることを教えてくださいって
聞いたのかなと思い巡らしましたが
まあ想像ですけれど
イエス様の働きが身を結ぶものであるということ
人を癒していくということであること
あるいは多くの身を結び力強い選挙がなされている
この秘訣は祈りなんだっていうことを
弟子たちが気づいたんでしょうね
だからその秘訣を私にもくださいと思ったので
弟子たちは祈ることを教えてくださいと
イエス様に聞いたんです
自分教への誘惑と神の国への優先順位
それが主の祈りなわけであります
ではポイント2つ目
私たちがも神の国の民であるということです
この憎みが広がっていくところが教会だということを
お話ししましたけれども
私たちも神の民であるという自分自身について
考えてみたいと思います
私たちの最大優先って一体何なんでしょうか
クリスチャンとして日曜日の午後の午前中
神様にお捧げしているということと思います
ある先生がこんなふうに言いました
世界で最も巨大な宗教は一体何でしょう
三大宗教ってありますけど
この三大宗教よりももっと大きな宗教があると
その先生おっしゃるんですね
その宗教は自分教だそうです
自分が一番
自分の大切なものが神様以外にあるという
自分教に私たちも足を突っ込みやすいんじゃないでしょうか
このマタヤの福音書を続けて読んでいっていると
宝のことが出てくるんですね
あなたの宝のあるところに心もあります
とイエス様は続けて話されているんですけど
お金の使い方 時間の使い方
優先順位ということを宝を表現して
イエス様はお話になっています
私たちは神の国につながっているものとしていながら
私たちの心は宝の場所は
全然神の国と違うところに置いてきていないでしょうか
マタヤの十三章の44節 開けてみましょうかね
マタヤの福音書13章
2017では27ページ 新約聖書
マタヤの福音書13章44から46
読んでみますね
ここも天の御国のことが書いてあります
天の御国は 畠けに隠された宝のようなものです
その宝を見つけた人は
それをそのまま隠しておきます
そして喜びのあまり
一手持っているものすべてを売り払い
その畠を買います
天の御国はまた
良い真珠を探している商人のようなものです
高価な真珠を一つ見つけた商人は
一手持っていたものすべてを売り払い
それを買います
天の御国はもう何をも捨てて
もう捨ててでも私たちは手に入れなくちゃいけないものなんだ
そういう言い方をする
私たちが天の国のためなんだ
ということを
イエス様はお教えになってくださっています
でもなかなかそうではない
自分たちがいます
天の国に片足入れながら
半分なしは自分共に引きずられてしまっている
みたいな弱い私たちではないでしょうか
その祝福を全部受け入れずに
私の大切な優先順位のものは捨てられません
外に埋めさせておいてください
というような私たちなんですね
もちろん私もそうです
そういう弱いところあります
だからこそ主の祈りで私たちは祈るのです
御国が来ますように
この引きずり込む誘惑から
自分が大事だという
その誘惑から神様の方へ
神の民に生きれるように
御国が来ますようにと
祈り続けるわけです
さてポイント3つ目
使わされている私たちの場所も
神の国の支配が広がっていくように
神の国が来るようにと
祈り続けるんです
教会から御言葉を受け取って
私たちはこれから1週間
私たちの持ち場立場に
使わされていきます
今の世界は神様を見失って
いっている時代ですよね
クリスチャンとして
この少数の人数の
私たちが清さを実践して
生きていくことには
本当につらく苦しく
御言葉を頂いて恵まれたけど
御神社の家族に
はいお片付けでよ
ご飯何
本当に恵みが
たたさがりになってしまうような
家族に使わされていったり
あるいは
働いている場所で
主の御心を歩いていきたいと
思いながらも
何か不正を働くかのように
それを要求されるような
ブラックなところに
勤めないといけなかったり
あるいは病であったり
いろんなことに
私たちは戦いながら
この社会の中で生きていっています
他人をさばえたり
また自分の弱さに
落ち込んでしまうような
私たちですけれど
しかし
自分中心に生きたいという
その心の傾きに
逆らい特別な道に
進行の道に
歩ましていただけるように
私たちは御国が来ますようにと
祈り続けるわけです
傲慢になりがちな
他人をさばきがちな
私たちを解放して
癒してくださるのが
主の祈りであります
そうしていきたいと思いながら
それが実践できないで
出口のない葛藤に
うずくまって苦しんでいるような
私たちに対しても
イエス様が
あなたが祈っている
その祈りに応えて
私も一緒に
あなたが使わされている場所に
一緒に行くよと
言ってくださる
祈りであるわけなんです
使われる場所と主の祈り
この説教録画されて
配信されたりします?
やっぱり
どうしようかな
配信されてもいいように語りますが
実はそれは何かというと
今年の大阪基軸コンベンションの
お明かしをちょっとここで
皆さんにお伝えしたいと思って
私のお明かしではなく
他人の先生のお明かしなので
間違って言うと申し訳ないな
ということがあるので
今そんな風にお聞きしたんですけど
基軸コンベンションの
YouTubeの説教
お聞きになった方も
おられるかもしれませんけれども
少しお話しさせてください
大島茂則先生のメッセージの中の
お明かしです
福音自由教会の牧師先生である
大島先生は
京都の福知山の出身であります
代々浄土神宗の
隠宗が強いお家に
大島先生は長男として
お生まれになられます
その隠宗が強い長男に
とついだお母さんが
クリスチャンだったんですね
子供さんは3人生まれるんですけど
その3人の子供には
聖書を信じて生きていてほしい
ということで
小さい時から子供さんを
教会学校に連れて
信仰を守っておられたそうです
福知山の地方の
浄土神宗の隠宗の
強い長男の嫁
クリスチャンとして生きていく
ということが
どれほどの戦いであるのか
想像することで
大変なお母さんの人生だったんだろうな
ということを私は思います
本家の嫁がキリスト教徒ということで
幾度もつらい思いをなさった
ということでした
あるとき
本当につらくてつらくてどうしようもなく
ご自分の車に子供さんを乗せて
家を出ようとなさった
十字架を見たお母様と父親の送り出し
ということでした
出ようとしたときに
車に乗せて
そして家を振り返ったとき
今出て行こうとした
ご自分のお家の屋根に
十字架が見えた
お母様に
どういう形か分かりませんけれど
十字架が見えたということでした
そのときにお母様はこう感じたそうです
仏教の隠宗の強い
この家の家族のためにも
イエス様は十字架にかかってくださったんだ
いやかかってくださっているんだ
ということが分かって
子供たちを車から下ろして
家に戻ったというお話をされておられました
小さかった大島先生は
それから大学に進学なさって
そして大学生伝導に
謹慎なさることになるんですね
そのことを大学卒業のときに
ご両親に報告に
福島に帰られるんです
お母さんは信者さんですけど
お父さんは未信者
長男ですよね
お父さんも長男
そして大島先生も長男
継がないといけないんですけれども
そのときにお父さんは
息子が帰ってくると聞いてから
幾晩も幾晩も眠れない夜を過ごした
ということをおっしゃっておられました
そして食事のときに
お父様がこう言われたということなんです
正直おめでとうとは言えない
だけどお前が帰ってくる家でありたいから
よかったなと言って
お前を送り出すと言って
右手を差し出されたということなんですね
未信者のお父さんです
自分の息子が牧師になるということは
正直喜べないけれども
握手をして送り出してくれた
大島先生はこのお話
お分かりをしながら
こんな風におっしゃってます
自分の父親は
そんなことを言うような父親ではないけれど
御国が来ますようにと祈る私たち
この家の主が神様であるからこそ
父はこんな風に僕を送り出してくれたんだ
神様の支配
私たちは目に見えません
神様の愛も目も耳に見えません
けれども
私たちが今まで主の祈りを
毎回毎回
御国が来ますようにと祈り続けた
その祈りを神様は応えてくださっていて
私たちが今使わされようとしている
未信者がいる家庭
あるいは難しい上司
あるいは友人関係
病に中に戦っている家族
いろんなところに主はもうそこに十字架を立ててくださっていて
御国がそこに始まるようにと
祈りに応えてくださっている
見えないけれども
神様はもうそれを実行なさっている
私たちの祈りに
応えてくださらない神様じゃないじゃないですか
私たちの祈りをいつも
どうしたんだ
あなたは何を願っているんだと
本当に全て受け取って
御心のままに叶えてくださる神様じゃないですか
私たちの今まで祈ったその祈りの答えとして
神様は静かにことを運んでくださっています
そして大島先生の後日なんですけれど
それから20年ぐらい経って
お父様はふくわれるんですね
それがお母様が見られた
家の上の十字架の証の
幻の答えなのではないでしょうか
私たちは自分の信仰の弱さや
いろんなことがうまくいかないとき
何のために信仰しているのか
何のために祈っているのか
何のために自分が生きているのか
本当に悩んで絶望に陥ることがあります
そして自分に問いかけます
あなたはなぜ信じているの
でもそのときに
御国が来ますように
神の国が実現しようとしている
そのことのために私は生きていきます
と答えるものにならせていただきたいです
何歳になっても
体の機能が衰えて
機能できたことがきょうできなくなったり
私は本当に視力が悪くなって
実は白内障の手術をしたという
もう眼鏡かけなくなってよくなったんですけれども
そうやって老化していっている私ですけれども
問題があっても
病の中にあっても
私たちはどんな中にあっても
御国を立て上げていくという
使命の中に生かされています
さあこれから皆さん派遣されます
その家庭に職場に
自分が行くだけではなく
もう既に神様が御計画を持って
先に行って待っていてくださりますから
私たちは安心して出かけていきましょう
だって主の祈り今まで何回も祈ったじゃないですか
御国が来ますようにって祈ったじゃないですか
神様は答えてくださって
働き続けてくださっています
その場所にあなたを
今から使わせてくださいます
ある方が言われた言葉で
私はとても大好きな言葉があります
天地を作られた神様
この世界は神様が創造されたのだから
この世界に神様の力が及ばない場所なんて
これっぽちもないんだ
私たちは
目には見えない問題の中に
突入していくかもしれませんけれども
そこにも必ず神様の力を及びます
そして
自分が神の御国から引き離されようと
誘惑に負けようとなるような弱い私たちであっても
御国が来ますようにと主の祈りで祈った私たちに
神様は御国の儲物として
作り変えようとしてくださり続けます
安心して使わされていきましょう
共に行くよとイエス様は
口移しで祈りを教えてくださいました
私たちはこの主の祈りを心から大切に
そして主の計画の中に神の民として歩む歩みを大切に
今週一週間も歩んでまいりたいと思います
御国が来ますようにと
今日も語ってくださいました
御言葉に感謝してどうぞ皆様
ご自分の言葉でお祈りをその場でお捧げください