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それでは、お祈りを致します。
天の父なる神様、尊い皆を心から賛美を致します。
私たち一人一人のすべてをご存知で、
私たち一人一人を憐れみ、愛し受け入れて下さっている主が、
今日も私たちをあなたの御前へと招いて下さいました。
主もべを聞きます主をお語り下さいと、ただ神戸をたれて、
あなたの身元にひざまずく者とならして下さいますように。
あなたは限りない愛をもって私たちを愛し抜いて下さいました。
ニコイエスキリストの流された血汁により、神のことし、
それだけではなく三日目に甦えられた復活の命を私たちに与え、
永遠なる日と共に生き、この世界を新しくするという使命へと、
私たちを招き入れて下さいました。
神様どうか、私たちの全てを御存知でいて下さいますから、
あなたが私たちを今日も御言葉をもって慰め励まし、
ここから勇気を持って立たせて下さいますようにお願いを致します。
あなたを仰がせて下さいますように。
御徳に祈られました、本当にこの気候の中で体を崩しておられる方々、
大勢いらっしゃることを覚えます。
お一人一人を主が顧みて下さいますように。
特に藤林兄弟のことを祈られていましたが、
本当に主よ、兄弟の体を主がお支え下さいますようにお願いを致します。
また、世界の平和のために、あなたが異星者たちに働きかけ、
あなたの知恵を与えて下さいますように。
人の命をどうか主がお守り下さい、お願いを致します。
これからの時を御手にゆだねします。
御言葉を開き、あなたがお一人一人に必要な悟りをお与え下さい。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
先週の水曜日のことですけれども、
私たちの教団、日本イエスキリスト教団の第74回の教団総会が
神戸中央教会で開催されました。
私自身は大議員として、先生は保守者として参加をさせていただいたのですけれども、
私個人の感想として言わせていただくならば、
とても勇気が与えられる総会だったのです。
なぜかと言いますとですね、
教団総会の中では、平たく言うならば、
もう課題を先延ばしにはしないぞという、ある種そのような覚悟であったり、
思いがあふれた総会だったからです。
それに準ずるような議決が取られていったように思います。
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皆さんよくご存知のとおり、私たちの教団、教会というのは、
どこも強制の問題、財政的なところ、
検診者の減少であったり、少子高齢化の波が押し寄せてきています。
この課題に対して、誰かが明確に答えを持っているわけではないのです。
こうすればいいということがわかっていたらみんなそうするのですが、
誰も答えはわからないわけですし、
そしてまた、どこから手をつけていいかもわからないということがある、そのような状況です。
しかしながら、答えがわからないからといって何もしないのであれば、
状況は好転はしないということも言えるでしょう。
ある種、どこかで踏ん張って腰を据えて、
具体的にことを考えて進めていくということをしなければならない。
ただ、同時にそのようなことを始めるとき、一番エネルギーを消耗するわけです。
ただ、今総会は、それを主導する教団員の先生方を含め、
ある種そのような覚悟を決めているような、そのような総会に私の目に移りました。
そしてそれはとても心強いものでしたし、私自身は勇気をいただいたのですね。
私たちの、自分のことに含めてもそうですけれども、問題は先延ばしにしたいわけですよ。
けれども、やはりどこかで腰を据えなければならないときというものがある。
そして同時にそのときに、私たちは力を必要とするわけですね。
じゃあその力は一体どこから与えられるのか。
総会の開会礼拝で井上義美先生が面白い言葉を紹介してくださっていました。
これは神戸生田教会の初代牧師竹田俊造先生が、
ゼカリア書の四章六説、
「見性によらず能力によらず、我が霊によるなり。」と言われた、
あの言葉を竹田先生がこういうふうに言い換えたそうです。
どれ一つ下手ばって担ぎ出そうか。
どれ一つ下手ばって担ぎ出そうか。
見力によらず能力によらず、私の霊によってと言われるときに、
私たちは、私たちのそのときの姿というのは、
主の前に下手ばっていると言いましょうか。
でも主に担ぎ出されると言いましょうか。
でも結局のところ、私たちの力というのは、
そこじゃないかということを先生が確認されていました。
確かに思うんです。主がお求めになる人ということを考えるときに、
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有能な人なのでしょうか。才能にあふれた人なのでしょうか。
力がある人なのでしょうか。
それがないとも言いませんが、しかし、
でもその力や才能や能力を根幹として支えているものは何なのか。
結局は主の御前に下手ばっている。下手ばっている。
そのような存在を求めておられるのではないだろうか。
なぜなら、今日白の聖日をお迎えいたしましたが、
イエス様がこのエルサレムに入場されて行かれるときに、
イエス様がお求めになられたのは群馬ではなくて、
コロバ。コロバなのです。
今日は主がお求めになられたこのコロバの姿に注目をしながら、
主がお求めになる人というか、
ものはいったい何なのかということを一緒に覚えたいと願っています。
さて、今日はエルサレムに入場の箇所を読んでいただきましたけれども、
読んでいただいた通り、イエス様はコロバを連れてきなさいと弟子たちにお願いをしました。
これはなぜかというと、去年ちょっとお話をしましたが、
旧約聖書の予言の成就が第一的な意味にあります。
ゼカリア書9章9節の言葉ですけれども、ちょっとお読みしますが、
娘シオンよ大いに喜べ。娘エルサレムよ喜び叫べ。
みよ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で勝利を得、
乳話な者でロバに乗って、メロバの子であるロバに乗ってと、
ゼカリア書9章9節にあります。
この予言の成就としてイエス様はエルサレムにロバに乗って入ってこられた。
それは軍馬のような力を誇示する王様ではなくて、
まさにご自身が乳話の王であることを示すためにロバに乗ってこられたということを
去年お話しいたしました。
余談ですが、私この教会で一番最初に礼拝をお捧げしたのが
ニッシュロの主日礼拝からでしたので、私もちょうど一年経ちます。
本当にありがとうございます。
ここにはまさにイエス様がそのように頃場に乗られたその意図があるわけですけれども、
イエス様が頃場を選ばれた人というのはそれだけではないと思います。
ここには主がこういうものをお求めになるんだという、
その姿が表されているのではないかと思うんです。
じゃあ頃場とは一体どういう存在なのでしょうか。
二つのことを見ていきたいと思いますが、
一つはこの頃場というのは未成熟なものだったということです。
未成熟であった。
今朝読んでいただいたこの三十節というところにイエス様がこのようにおっしゃられました。
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向こうの村へ行きなさい。
そこに入るとまだ誰も乗ったことのない頃場が繋がれているのに気がつくでしょう。
それをほどいて連れてきなさいとイエス様は言われました。
まだ誰も乗ったことのない頃場をお求めになられた。
これは言わば仕事をしたことがないということです。
まだ物を乗せて運んだことがない、仕事をしたことのない頃場でした。
けれどもイエス様はこの頃場をお求めになったのですね。
これは言い方を変えるならば、ある種この頃場の未成熟さを用いるとでも言いましょうか、
足りなさが残っているものを主はお求めになられたということだと思うのです。
けど個人的に思いますが、クリスチャンの信仰生活において足りなさが残っているというのはとても大事なことではないでしょうか。
足りなさが残っている。
私はクリスチャンの成熟、キリスト社の成熟ということを考えるときに
いつも思い浮かぶのはパウロの晩年の言葉なんです。
第一手もての1章の言葉、1章の12節から15節の言葉です。
ちょっとだけ読ませていただいてよろしいでしょうか。
第一手もての1章の1節から12節というところを読ませていただきます。
第一手もての1章の12節から15節というところ。
お読みしますので聞いていただければと思いますが、こういうことを彼は書いています。
私は私を強くしてくださる私たちの主キリストイエスに感謝しています。
キリストは私を忠実なものと認めて、その務めに任命してくださったからです。
私は以前には神を謀得する者、核害する者、暴力を振るう者でした。
しかし信じていない時に知らないでしたことだったので哀れみを受けました。
私たちの主の恵みはキリストイエスにある信仰と愛と共に満ち溢れました。
キリストイエスは罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人の頭ですと彼は書きます。
注目をしたいのはこの15節の私はその罪人の頭ですと彼は自分のことを指して言うんです。
パウロのこの罪人の頭であるという自分の自覚の言葉ですよね。
私は罪人の頭だと言っているこの言葉というのは、どこかで話したかもしれませんが、
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これは変遷をたどっているんです、彼の歴史の中で。
例えば、いちいち開かずにちょっとだけ説明をしますと、
例えば彼が比較的初期に書いたであろう第一コリントの手紙の15章というところでは、
15章の9節というところに彼は自分を指して、私は使徒の中で最も小さいものだと自分を指して言うんです。
私は使徒の中で最も小さいもの。
イエスキリストの使徒たちですよね、12人の使徒たちの中で、後から入った私は一番小さいものだと彼は自分を指して言いますが、
しかしその後に書かれたとされる、例えばエペソビトへの手紙の3章の8節というところでは、
彼は自分を指して、全ての生徒の中で最も小さな私ということを言うんです。
全ての生徒の中で最も小さな私だと、その後表現が変わるんです。
そして裁判年、彼は自分を指して、私は罪人の頭だと言います。
使徒の中で最も小さい、いや違う、私は全ての生徒の中で最も小さい、いや違う、私は罪人の頭だと、
ある種イエス様と共に歩んでいくその道のりが長くなる中で、彼自身の信仰がある種成熟を果たしていく中で、
彼は、私は、いやあの人よりもあの人よりも罪深いものであり、ある種種の見舞いに私は足り得ない存在なんだということ、自覚が深まっていくんです。
このような流れを見るときに、私たちは何か何かわかるような気がするような気がするんですよね。
パウロは種と共に歩む中でいろんなことができたでしょう。できたしできるようになっていったでしょう。
けれどもいろんなことができるようになって、いろんな影響力を持っていたのだけれども、彼自身の根幹にある自覚というもので深まっていったのは、
種の見舞いに種がおられなければ私は足り得ないという自覚です。私は足り得ない。
種の助けがなければ私は足ることのできないものなのだという自覚。
これは実はイエス様の姿とも一緒ですね。
ヨハネの福音書の中でイエス様は、父が成さること以外、私は自ら成すことができないと言われましたよね。
それと同じです。
こういうことを聞きますと私たちは何か卑屈なものだなと思ってしまうかもしれませんけれども、これはそうじゃないんです。
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聖書の話で言うならば、これは創世紀の神の形に戻っているんです。
神と共に生きる存在として作られた私。神がいなければ足り得ない私。
でも信仰が深まっていく中で、私はこのお方がなければ立ち得ないということを、むしろ深く固くしっかりと握るようになっていったということ。
そしてつくづく思わされることは、聖書が語る主と共に歩む喜びであったり、主と共に歩む幸いであるというのは、何かいいことがあるということもそうかもしれませんが、
基本になるのは主の御前に、主がいなければ私は足り得ないという自覚の中で感じるんです。
主がいなければ私は足り得ない。主との愛の関係が中心にある。その中でこそ私たちは、主と共に歩むということの喜びを知っていくんです。
そしてこの足り得ない私を認め、この主は真実であるみ深いと証するパウロの言葉、先ほどもありましたが、キリストイエスは罪人を救うために世に来られたという言葉は真実である。
これはパウロの証ですけれども、このような自覚を持つ人の証は強いんですよね。
ああ、主がおられないと本当私はダメなんです。見せかけの謙遜ではなくて、そう思っている。
キリスト社の成熟というのは、あれもこれもできるようになった、祈りが深くなった、信仰が強くなった、あるんです。
でもその根幹の足らなさを知っているということですよ。
何もなくてキリストなく私は教会でも外でもキリスト社らしく振る舞えます。成熟じゃないです。そういう人は危険です。私はキリストがいなければ。
キリスト社の初期衝動とでも言いましょうか。私たちが救われた時というのはきっとそういう思いが純粋にあったわけです。
イエス様がおられなければ、この方がいなければ私は神の前に立ち得ない。私たちの帰る場所というのはまさにいつもそこなのではないでしょうか。足りなさを知っているということ。
そして同時に私は足りない、下手ばっているけど、キリストは私に対して常に十分である。そのことを知り続けていくということではないかなと思うんです。
そういう意味においては、主は足りなさの残るものを用いようとされる。そのなんかロバの姿に私は学ばされるような気がいたします。
そしてもう一つ、このコロバは未成熟であり無力であったわけですけれども、それだけではなかった。
このコロバというのはイエス様をお乗せした、お乗せしお運びしたということです。
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35節、二人はそのコロバをイエスのもとに連れてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけて、イエスをお乗せしたと書いています。
ある種、働いたことのないロバでしたから、彼ができたのは、彼と言いますか、このコロバができたのは、それしかできなかったのかもしれません。
イエス様をお乗せして運ぶということしかできなかった。けれども言い換えるならば、それだけが必要とされていたとも言えるのだと思うんです。
主をお乗せし運ぶすることだけを求められていた。
そうではないかなと思うのです。
私たちも思うのは、妙谷教会もそうですし、妙谷教会である私たちもそうですが、求められるのはイエス・キリストをお乗せすることだけ。
究極的にはそう言えるのではないかなと思うのです。
昨日の総会の中で、閉会礼会で横田邦路先生が、副委員長なのでお話しされましたが、こういうお話をされていました。
まさに、総会が結構チャレンジングな期日が多かったので。
しかしこういうことを言っていたんですね。
チャレンジに取り組むため、どうしても必要なのは、心を一つにして祈ることなんだと。
私たちは心を一つにして祈っていきましょう。
けれども同時に、心を一つにするという言葉は簡単かもしれないが、事実は簡単じゃない。
教会も教団もいろんな人がいる。心を一つにすることなど難しい。
けれどもその時に、心を一つにしていくための一つの鍵というのは、
イエス様を中心とする祈りなのだということをお話しされたんです。
イエス様を中心とする祈りなのだ。
二人三人我が名によって集まる場所に、私もその中にいると言われるイエス様は、祈りの共同体の真ん中におられるのだ。
このイエス様を、実は私たちは交わりの隅に追いやってはいませんか、ということでした。
交わりの隅に追いやらずに、イエス様を中心に据えなければならない。
けれども教会はいつしか、牧師や誰かが真ん中に座って、キリストを隅に追いやってしまうことが多い。
そして追いやってしまった結果、分断が起きてしまうのではないかということをお話しされていました。
実にその通りだなと思って聞いていました。
イエス様を中心として祈るのであれば、私たちはイエス様の御心を求めていくんです。
誰が何をしたいではなくて、イエス様の望まれることをしていく。
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そしてイエス様の御心を皆で求めていく祈りとなる。
イエス様の御心を求めて従う中に、一人一人がそれに従う中に一致が生まれていく。
そのような祈りが教会で捧げられる時に、神様は素晴らしい御業を起こしてくださるのだと横田先生はお話をされていました。
それを聞きながら改めてこの転ばの姿を思ったのです。
教会の頭はキリストである。
そして私たちに求められるのは、このイエス様をおのせすることだけである。
もしもそう言えるのであれば、私たちはこの部分だけが、もしもずれてしまったら全部ずれてしまうということです。
イエスキリストが中心にある。
そしてそれは教会という交わりだけじゃなくて、きっと私たち一人一人の個人の人生においてもそうなんです。
イエス様は私に何を望んでおられるのか。
あるしイエス様をのせたロバのことを思うならば、このロバはイエス様が進まれたい方向へと向き、イエス様が進まれるところへと行くのです。
必要なのはそのようなイエス様を仰ぎながら歩いていく歩みではないでしょうか。
もう終わりますけれども、今週は私たちはジョナン州をお迎えいたします。
ジョナンの歩み、また木曽書を入れましたけれども、ジョナンの歩みというのは、イエス様が様々な痛みを負いながらいろいろなものを失っていくという歩みです。
弟子たちを失い、そしてイエス様自身は偽りの裁判にかけられ、鞭打たれて、丸太を担がされ、ゴロゴタの丘で手足を釘で打ち抜かれて、十字架にかけられます。
皮膚が裂け、骨が砕かれるという痛みには、気が狂ってしまうほどのそのような激痛が走ったと言われます。
そのような最中でイエス様が十字架にかけられるわけですけれども、聖書を見ていきながら一つ気づかされることは、先ほどのお祈りの中にもありましたが、
イエス様がただ一つ失わなかったのは、父なる神の御心を中心とするという姿勢です。
塩、杯を取り除いてください。しかし、あなたの御心がなりますように。
イエス様はそれだけを乗せてあの十字架へと行かれました。ある種、それはこの転ばの姿と同じようにです。
私たちはある種、未完成、未成熟であってもいいんだと思うんです。
ただ、思わされるのは、それ故にイエス様をお乗せしているのだろうか。
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このお方が教会の真ん中にあるのだろうか。
あるんだと思っています。宮谷教会は本当にそのような素晴らしい教会だと思っていますけれども。
私たちは色々なことで、体も心も弱ってしまうお互いです。
あれもこれもできなくなった。あれもこれも足りない。課題が先延ばしになっている。色々なことがあるでしょう。
けれども、最初公約数と言いましょうかね。
一番、やっぱり外してはならないのは何なのか。
今、私はイエス・キリストを仰いでいるか。私は主の前に下手ばっているかということです。
主が御入りようなのは、イエス様をお乗せすることのできる頃場ですね。
私たちもこの受難所に静まりながら、ある種、この一時を確認をさせていただきたいと思うんです。
私は今、弱っているけれども、本当にこの一時を据えているだろうか。
私たち、私も含めて、次回も含めてそうですけれども、主の御前に下手ばるこの一週間をお過ごししたいと願っております。
一言お祈りをして、メッセージを終わります。