私たちを招いてくださった主
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
私たちを今朝も主の御前へと招いてくださって、
あなたご自身の恵みと祝福をもって、この時を導いてくださっていることを感謝をいたします。
何よりも、あなたは限りない愛をもって私たちを愛し抜いてくださいました。
イエス・キリストによって流された十字架の地震によって、
私たちの罪が完全に許され、それだけではなく三日目に甦えられた復活の命、
永遠の命を私たちに与えてくださり、
永遠なる死と結ばれ、永遠なる死と永遠に共に生きる、
その新たな人生を開いてくださったことを感謝をいたします。
神様、私たちはあなたの命の言葉によって立たされてまいります。
先週は本当に30周年記念礼拝、幸いなひとときをいただきました。
そしてまた主よ、31年目を刻んでいく私たちも変わらず大切なことを語っていただいたのは、
神の言葉によって私たちは立てられていくということです。
神様どうか、御言葉を私たちに語ってください。
心を開かしてくださり、所務部屋ここにおります主よどうかお語りくださいと、
あなたご自身に、あなたの言葉に、ひざまずく群れと鳴らしてください。
お願いいたします。
祈られたように、ここに来たくても来れない方々、
施設におられる方々、卒上の病によって、
本当にここに来たくて来れない方、いらっしゃることを覚えますけれども、
神様、お一人一人の命を支え、またあなたの恵みをその場にも注いでくださり、
どうかそのうちにも、あなたが共にいて下さいますようにお願いいたします。
これからのひとときを御手によだれます。
世界のうちに多くの戦争と、また痛みと混乱があることを覚えますが、
そのうちにも主が届いて下さいますように。
御言葉を取り継ぐ者をどうか主が帰りに来て下さい。御言葉を語らせて下さい。
お願いいたします。
これからの時を御手によだれて、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
先週は幸いな30周年記念礼拝を持つことができました。
生ける神様に従う姿勢
御奉仕くださった宇山先生とまた本原先生と明福先生との交わりであったり、
30年間の思い出を振り返る幸いなひとときをいただいて、
私たちも30年間の写真を集めていただいたのをさーっと見たんですけれども、
やっぱり30年というのは、やっぱりしかしたら歴史だなと思わされて、
本当にそこを振り返る機会がいただけたことも感謝していました。
ただそれにもまして、私自身が感謝して受け止めたことは何かというと、
先生を通して語られた神様の言葉でした。
先生は生きた信仰と題して私たちにお語りくださいました。
アブラハムが故郷ウルから未開の地に向かなければならないとき、
行くか帰るかそこが問われる中で、
生ける神様は神様の言葉を通してアブラムに再出発の機会を与えてくださったんだ。
神の言葉が私たちに再出発の機会を与えてくれる。
それだけではなくて、アブラムは神様に従い、そして神に従うものとして変えられていった。
まさに性別と祝福というポイントで先生は語ってくださいました。
私たちは自分自身の弱さを認め、生きておられる神様により頼んで、
神様が進ませてくださる道を31年目も刻んでいこう、
そういうふうな励ましをしていただいたと私は受け止めております。
生きた信仰、それは生きておられる神様、まさに生きておられる神様を仰ぐ信仰である、
そう言われたような気がするんですが、
しかし私自身が問われたことです。これはまさに私自身が問われたことです。
私の信仰は生きていただろうかということです。
そしてまた同時に思わされることは、だからこそ生きた信仰に歩みたいということです。
生きた信仰に歩みたいということです。
誤解がないように言いますけれども、私たちは生きた信仰、生きていただろうかということを言われて、
ああ、自分の信仰は生きていなかったんだ、だめなんだということを過剰に否定する必要はないと思うんですね。
私たちはそれぞれ生ける神様を信じています。
生ける神様ご自身が私たちを導き招いて、
巫女イエス様の十字架によって私たちを神の子としてくださいました。これは事実です。
それだけではなくて、私たちは神様のことをあば父よと呼びかけ、
神様から私たちはあなたは私の愛する子、私の喜びである、
そう語りかけ続ける、そのような歩みへと私たちは入れられているわけです。
ですからそういう点では私たちは神の子なんですね。
生きた信仰を持っていると言えるわけです。
しかしながら私自身が問われたことは、
この交わりがいかに容易に崩れてしまう自分だろうかということを思わされたわけです。
つまり神様は私たちへの言葉、私たちへ語られる御言葉、私たちに語ってくださる言葉は変わらない。
ずっと変わらずに私はあなた、あなたは私の愛する子なんだ、私の喜びなんだ、
そのように私はあなたを扱っている、そう言ってくださるのですけれども、
しかし私たちの周りで、それこそ嵐が起きるときに、
自分の心の中に自分自身の疑いの声がしめてしまうときに、
ああ、本当にどうなるんだろうか。
私はもっとこうしなきゃいけなかったんじゃないだろうか。
こうあらねばならなかったんじゃないだろうか。
そういう声が私の心の中を閉めるときに、
私は本当に神様の語りかけに耳を開くことができていただろうか。
いやむしろ、聞いては次の瞬間にかき消されるような声になってしまっていたのではないだろうか。
しかし再度思わされることは、神様が私たちに語りかける言葉、
それはその程度のものだったのだろうか。
そうではないと私は思いたいんです。
アブラハムは主の告げられた通りに出ていった、
創世紀の十二章の四節にありました。
アブラムは神様が語りかけてくださった言葉にある種、
人生をかけて、そのすべてをかけて従っていったということです。
そこには何か私はやっぱり見とれる姿があるんです。
すべてがそろっているわけではない。
問題がないわけではない。
一寸先が見えているわけでもなければ、
明日はどこへ行くかもわからない。
しかし神様が言われるんです。
私がいるよと、私があなたとともにいるんだと。
ここに確かに私はいる。
そしてアブラムは知っています。
神は良いお方である。
だから、すべてをすべて収めておられる神様に
自分をかけていく、神の言葉にかけていく。
そのようなアブラムの姿を
私は見せていただいたような気がいたしています。
そのような姿を私は今朝読んでいただいた
このステパノのうちにも見るような気がするんです。
以前少しお話をしましたが、
この使徒の働きのステパノというのは
初代教会で最初の殉教者となった人物です。
初めて死を信じ、信じ抜いて命を奪われた人。
これは当たり前のことではないでしょう。
命を奪われるに至るまで
神に自分自身をかけていった。
私自身を含めて命を賭してまで
神様、あなたの言葉に従い続けます。
本当にそう言えるのか。
そう言われると正直申し上げます。
私はあまり自信がないかもしれない。
そのぐらい実は揺さぶられることだと思うんです。
であるならば今朝見たいのは
なぜステパノはそこまで進んでいったのだろうかということです。
決して彼と同じように歩むことができるというわけではありません。
しかし彼が歩んでいく中で
見ていたものを私たちはやっぱり見ていきたい。
それがある種行ける信仰
そのようなところにもつながるような気がします。
先に少しだけ結論的なことを言ってしまいますと
彼は死を目前として死への恐れ以上のものを見ていた。
死を目前として死への恐れ以上に
彼を捉えて離さないお方を見ていたわけです。
今朝の中心聖句を先に読んでしまいますと
今日は中心に55節から56節を挙げさせていただきました。
7章の55節から56節
しかし精霊に満たされ
じっと天を見つめていたステパノは
神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て
見なさい天が開けて
人の子が神の右に立っておられるのが見えますと言ったと
生きているうちもこの地上の生を終える時ですらも
なおも彼はこのお方を仰ぎ見続けているということが書かれている。
今朝の歌書はそのようなステパノの姿を私たちに焼き付けるわけですが
今朝は今日読んでいただいた歌書から
二つのことをご一緒に確認していきたいと思います。
一つはステパノがこの7章で語っている
ステパノの説教と言われるものが
一体何を言っているのかということです。
そしてもう一つはこの説教を語り終えた
命をかけて語り終えたステパノ
死を前にするステパノが一体何を目にしていたのか
そのことから語りかけを聞きたいと願っています。
先に申し上げてしまいますと
ステパノの演説はとても長いです。
使徒の働きの中で最長のものです。
全てを細かく見続けることはできません。
ただ余談ですが
私は終始論文のテーマが
ステパノの演説というか説教だったんです。
後ろに一応お目覚ましですけど
私の論文を置いていますので
もしも関心があれば読んでいただければと思います。
さて一つ目、命に向けたいのは
ステパノのこの説教は一体何を語っているのか
彼は一体何を語っていたのか
そのことを見ていきますと
先ほど言いましたけど
ステパノの説教、使徒の7章の2節から53節まで
そこに至るまでの長い説教
これは使徒の働き最長のものですし
似たような形のものは
13章というところに
キシリアのアンティオキアというところで語った
パウロの説教があります。
ただステパノの方が長い。
お読みになられて
7章の2節あたりからステパノの言葉を読んでいただいて
お気づきになられるのは
おそらくこれは旧約聖書の話を延々と書いているんだな
ということです。
具体的に彼が挙げていくのは
アブラハム、ヨセフ、モーセといった
人物たちのストーリーを
彼はここで語り始めるんです。
ユダヤ人にとって大切な人たちですね。
なんでこんなことをいきなり急に話し始めるのか
そもそもそこから疑問だと思いますけれども
簡単に言いますならば
実はこれは当時の演説の技法の一つなんです。
言わんとすることはただ一つ。
それはかつてイスラエルの歴史において起きた
こんな悲惨なことがあった
そしてそれが今ここで起きているということを
彼は言おうとしています。
かつてイスラエルの歴史の中で
こんな悲惨なことがあった
そしてそれが今あなたたちの目の前で起きている
ということを彼は言おうとしているわけです。
全部を見ていきませんが
簡単にその概略を見ていきたいと思いますけれども
どういうことを言っているのでしょうか。
アブラハムの箇所が
この7章の2節から8節というところに書いてあります。
簡単に言うならば
神様がメソポタミアにアブラハムがいたときに
神様が現れて
彼に言葉をかけて
神様の民として彼は召されていった
その土地に移り住んでいったということ
まさに先週語っていただいた箇所です。
そのところで神様がアブラムにこう言うんです。
6節7節をちょっとお読みしますと
また神は次のように言われました。
彼の子孫は他国の地で起留者となり
400年の間奴隷となって苦しめられる。
また神は言われました。
彼が奴隷として仕えるその国民を私は裁く。
それから彼らは出てきて
この場所で私に仕えるようになる。
このアブラハムの箇所は演説全体の
簡単に言うと
枠組みを設定している場面だと思っていただいたらいいです。
この6節7節の言葉が演説全体で言いたいことの
枠組みを言っているんです。
要はアブラハムの子孫は
どこかにエジプトに奴隷になって
ステファノの大胆な演説
しかし奴隷となった民を再び帰ってきて
私に仕えるよということが言いたいわけです。
奴隷になって帰ってくる
そういう王冠のことを言っている。
そしてこの9節から16節にはヨセフのことが書いてある。
ヨセフの箇所で言いたいことは何か。
アブラハムの子孫がエジプトの奴隷になりましたよということが言いたい。
そしてこの17節から出てくるこのモーセの箇所は
モーセがまさに
イスラエルの民が
エジプトからまた神様のもとに帰ってきます
ということを書きたいわけですね。
ただ
イスラエルの民は
このモーセの箇所を見ていくと
エジプトからこの神様のもとへ帰って来れないんです。
帰って来れないということが書いてある。
その帰って来れないのはなぜだったかというところの問題を
問題が実はこの最高法院たちの問題と重なっているということから言いたい。
じゃあ一体何が問題となっているのでしょうか。
ちょっとだけ見ていきます。
モーセの箇所は一番長いんですけれども
3つの区分がされるんですね。
それは時という言葉で3分割されるんです。
17節に彼はこういうふうに書いています。
さて神がアブラハムになされた約束の時に従いと
約束の時の場面が
17節から22節まで書いてある。
そして23節にはモーセが40歳になった時と書いてあります。
40歳になった時の場面が1つある。
そして30節からは40年たった時
実はこの3つの時で区分されているんです。
約束の時、40歳になった時、そして40年たった時。
この3つの区分には何が書いてあるかというと
約束の時には約束の時神様が定められた指導者
モーセが生まれましたよということが書いてある。
40歳になった時の場面で何が書いてあるかというと
皆さんご存知かと思います。
出エジプト記の2章ですね。
モーセがヘブル人の喧嘩をしているのを仲裁しようとして
仲裁しようとして入っていってヘブル人を助けようとしたら
誰がお前を指導者や裁き人として私たちの上に任命したのかと言われて
モーセは救おうとするのだけど拒絶されてしまうんです。
そういう失敗をして彼はミディアンの地に逃れていくわけですが
40年たった時に何が起きたかというと
その拒絶された指導者モーセを神様が再び持ち上げる。
再び神様がそのモーセを用いて
イスラエルをエジプトから導き出す解放者として
使わされたということが書いてある。
7章の35節にこういうことが書いてあります。
誰がお前を指導者や裁き人として任命したのかと言って
人々が拒んだこのモーセを
神は芝の茂みの中で彼に現された見つかりの手によって
指導者また解放者として使わされたのです。
このように神様が一度拒絶されたモーセを
解放者として使わされた。
ご存知の通りこれがエジプトという出来事になるわけですけれども
しかしこの後見ていくならば何が書いてあるかというと
金の格子事件が書いてあるわけです。
そのように神様が立てた解放者指導者であるモーセを
民は再び拒絶をしてしまった。
そして再び拒絶する時に彼らは金の格子という偶像を立てて
金の格子を偶像としてそれで拒絶をしたということが書いてある。
神様よりもモーセよりも金の格子が神だと信じて
彼らはそれを拒絶した。
そしてその拒絶をした結果彼らはバビロンという地に捕らえられて
滅ぼされてしまったバビロン保守のことが
この42節43節のところで書いてある。
このような歴史が一体最高法院のこの状況と何が重なるのか
二つほどの接点を言いたいと思いますが
一つはステパノの演説では明らかに
このモーセとイエス様を重ねて彼は語っている。
モーセは一度拒絶されるんです。
同じようにイエス様も一度拒絶されるんです。
あの十字架によってイエスキリストは一度拒絶をされた。
しかしその拒絶されたモーセを再び神様は
ご自身の解放のためにまさにエシプトからその奴隷から解放するために
モーセをもう一度立てて用いた。
それと同じように神はイエスをよみがえらせた。
よみがえらせて天に昇らせて神この王とされた。
それはまさにこの罪の奴隷から
あなた方を解放するために使わされたわけです。
しかしもう一つの接点があります。
それはイスラエルの民がかつて金の格子を偶像として拝んで
モーセを拒絶したように最高法院
そしてそこの民は言ってしまうと
エルサレム神殿という神殿
前回ちょっとお話をしましたが
富を集めるシステム、彼らのお金のもとになっている
エルサレム神殿というものをあなたたちは偶像としてしまって
その結果よみがえり
今あなた方を悔い改めさせるために語られている
イエス・キリストを再び拒絶している。
二度同じようにあなたたちはイエスを拒絶している。
そういうことを語っている。
そのようなことが言われる。
そしてこのステファノの説教の中では
この偶像として偶像礼拝をした結果
バビロンによってこの民が崩壊すると言われますけれども
実はエルサレムはステファノの時代から考えるならば
30年後にローマ帝国によって破壊されます。
同じ歴史をあなたたちは繰り返している。
そして最高法院よ。
そしてこのステファノと語っているのは大祭司なんです。
天を見つめるステファノ
最高法院のトップなんです。
最高法院のトップである大祭司。
あなたたちは金の格子を偶像とした
イスラエルの民にとっては最悪の汚点なんですよ。
神を否んで金の格子を偶像としたというのは
彼らにとって最悪の失敗の歴史なんです。
でもそれに今あなたたちは陥っているということをステファノは言うんです。
これは厳しい違反です。
数列な違反。
でもこれは5章の29節から32節というところに
前回使徒の働きの歌詞を読んだ時にも見ましたけれども
使徒たちが最高法院の前ではっきりと批判をしますね。
人に従うよりも神に従うべきですと。
このイエスを神はよみがえらせて
イスラエルを悔い改めさせ
罪の許しを与えるために
このイエスを導きてまた救い主として
ご自分の右に挙げられました。
そのような批判をして
最高法院は使徒たちに対する殺意が芽生えたわけですが
ガマリエルによってとどめられる。
ガマリエルは言いました。
彼らがしている働きが
イエスの何よりしるしが
本当に神からのものならば滅ぼすことができないし
それを否定したら
私たちも神に敵対するものになってしまう。
でもステファノが語り直す。
同じことを批判する。
もっとさらに痛烈に批判する。
そして彼が加えていることは
イエス・キリストは神から出ているということです。
その結果一度とどめられた殺意がステファノによって実現をしてしまう。
ステファノは石打ちで殺されてしまう。
そのような流れがこの使徒の働きの言葉の中にあります。
7章の51節というところで
ステファノが最高法院に向かってこういうことを言います。
うなじを固くする心と耳に滑稽を受けていない人たち。
あなた方はいつも精霊に逆らっています。
あなた方の先祖たちが逆らったように
あなた方もそうしているのです。
ルカの福音書ではそうですけれども
神様の働きを主導されているのは精霊様なんですね。
精霊なる神様がこの福音書の物語を進め
そしてそれだけではない
私たちを勧めている精霊様
しかしあなた方はいつも精霊に逆らっていますと
一番精霊に聞き従わなければならない
あなたたちが精霊に逆らっている
そういう強烈な批判をここでなします。
このステファノの批判の大胆さ
ある種彼はミカオは天使のようだった
ということが書かれてあるわけですけれども
しかしその鋭さ
そこに驚かされます。
相手は最高法院なんです。
簡単に言うならば
手向かったらいつでもステファノの命を奪える人たちです。
しかしその人たちに
彼はこの上もない強烈な批判を加え
大胆に語るべき言葉を語り切った
まさに人に従うよりも神に従うべきですという言葉を
自で生き抜いた
それがステファノのこの姿に表されているところです。
さてちょっと長い説教の話をしましたけれども
この大胆さには大賞が伴いました。
最高法院をはじめその場にいた人々は
まさにこの54節を見ますと
腹渡が煮え返る思いでステファノに向かって
剥ぎしりをしていたという
この上ない怒りをステファノに対して向けていました。
そこにはいろいろな感情が混ざっていたでしょう。
憎悪であったり嫉妬であったり
妬みであったり
しかしながらステファノはそのような大胆な語りをした後
周囲から向けられる目線
周囲を囲んでいる彼への怒り
その中で彼は天をじっと見つめていたと言われるわけです。
天をじっと見つめていた
しかし精霊に満たされ
じっと天を見つめていたステファノは
神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見てと語られました。
じっと見ていたというのはこれは
元の言葉は本当にそういう言葉なんです。
じっと注意深く天を見つめ続けていたという言葉
なぜ彼は天を見つめ続けるのでしょうか。
それは使徒の働きの1章の9節に書いてあるとおり
天にイエスが昇られたからです。
イエスが天におられるからです。
いや、神の右に挙げられたイエスが
天においてその支配をなしておられるから
神の右に出して王となられたイエスがいる
この周囲を取り囲む最高法院が
自分に抑えかかってくる殺意が
実はステファノを支配する力ではない
天に私の王がいるステファノ
自分自身を支配できるお方はこのお方だけなんだということを
彼は言わんとするかのように
じっと天を見つめる。
しかしこの視線の先にある光景はもっと驚くべきことでした。
ステファノは言いました。もう一度55節を読みますと
精霊に満たされじっと天を見つめていたステファノは
神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見ていました。
立っておられるイエス、これはとても特殊なんです。
私たちは先ほど使徒信条で
神の右に座したまえりと告白をいたしました。
通常天に昇られて王となられた方は
神の右に座されるんです。
座られるんです。
王というのは座っているんです。
でもここでイエスが立っておられるのが見えると彼は言います。
この立っているというのはいろいろな解釈がある。
ただ一つ研究されているのはこれは大祭司の姿ではないか。
王だけではなく大祭司イエスの姿を表しているのではないか。
そう言われる箇所でもありますけれども
私はそれだけではないと思う。
ステパノが天をじいっと見つめたように
天におられるイエス様が王座から立ち上がり
身を乗り出して不殺意に囲まれるステパノを
今にも殺されんとしているステパノを
イエス様ご自身もまたじいっと見つめられた。
そういう光景ではないかなと思う。
イエス様もじいっとステパノも見つめている。
そしてステパノは言います。
見なさい。天が開けて
人の子が神の右に立っておられるのが見えます。
見なさい。見なさいと言います。
これはある種ステパノの最後の宣教です。
見なさい。周囲の人たちに言っているんです。見なさい。
見なさい。そこには復活し
神の右に天に登り上げられ
今も生きて世界を治めておられる
誠の王イエスがそこにおられるではないか。
見なさい。死をも打ち破り
私たちにも永遠に神と結ばれる命を与えられた
ステパノの目の前に現れた神
巫女イエスがあそこに立っているではないか。
見なさい。天を開いてまでして
地上にまで下ってきて
今もご自身の身業を必ず成し遂げる神
神から出たことは決して滅びないと言わしめる神が
あそこに立っているではないか。
見なさい。見なさいとステパノは
その周囲の人々に招くわけ。
私たちが普段目にするものって一体何でしょうか。
美しい景色や
麗しい人間関係、家庭、友人関係、職場
そうであればと心から願いますが
しかしそれだけではないはず。
生きていく中で私たちは見たくもないものを見ることがあります。
不条理に襲いかかってくる困難や
病というものがありますし
また見たくもないのだけれども
時に私たちは人間の根性に触れることがあります。
怒り、恐れ、妬み、恨み
そして暴力と殺人
私たちはそれを見ることがあります。
それを目にするときに私たちの心は痛みます。
そしてそのような嵐に私たちもまた振り回されます。
周囲に吹きすさぶそのような光景を見て
私たちは目に見るものに心が奪われます。
心が揺さぶられます。
ああ、私の人生もうどうしようもないんだ。
私たちはそう思うかもしれません。
しかし今朝はこの光景だけを
目に焼き付けていただけたらいいと思うのです。
ステパノは天を見上げていた。
天を見上げていた。
なぜなら天は開かれていたからです。
天は開かれていたから。
そこに主は身を乗り出して立たれているのです。
身を乗り出して立っている。
なぜならステパノはどうでもいい一人ではないからです。
神様からすれば。
どうでもいい一人じゃないんです。
私たち一人一人をそうですけれども
神にとってステパノは大切なこれは私の愛する子
私の喜びだからです。
ステパノはそういうふうに見つめられて
イエス様に身を乗り出されて
まさにこの今倒れんとしているところをじっと見つめられて
どうなっていくのかとイエス様が見つめておられる。
身を乗り出して立たれる主
それは私たちは安じる姿なのかもしれません。
大丈夫かと。本当に大丈夫か。
いや私がそれを助けると手を伸ばされることもあるかもしれない。
天が開かれていること
しかし同時に私たちが覚えなければならないことは
私たちは様々な嵐を通りながらも
いつかは互いにこの地上のせいを終えるということです。
確実に私たちはこの地上のせいを終えるということです。
しかしそのところにもイエスは立っておられる。
身を乗り出して見国の入り口で待ち構えるかのように
イエスは王座から立っておられる。
そこに主がおられるんですね。
この箇所から私たちは一つのことを覚えたいわけです。
それは天が開かれているということです。天が開かれている。
ステパノは見なさいと言いました。
見なさいと言ったときに周囲の人たちは手を見て何か見えたでしょうか。
いや見えてなかったかもしれない。わからないです。
ステパノにしか見えてないところがあったかもしれない。
神を仰ぎ神の語りかけを聞いているステパノにしか見えてない光景があったのかもしれません。
でもそれは死を知る者たちだけが見ることのできる光景なのかもしれない。
天は開かれている。
神が天を開いて私たちに語りかける言葉があるんです。
私の愛する子、私の喜びである。
そう天を開いていつも語っておられる神の姿がある。
その時に私たちがたとえ四方が囲まれていて
自分自身がわからなくなっていて
自分の支柱に収まらない問題に巻き込まれていたとしても
天は開かれているということを言っているのです。
天は開かれている。
それはあなたを怯えさせるそれらがあなたを支配するときに
その支配は偽りであると私たちに告げるのです。
あなたを支配できるのはこの世の恐れではない。
あなたを支配しているのはまことの王イエスキリストだけである神に握られている。
あなたは私の愛する子、私の喜びだと言われている。
そしてもう一つ天が開かれているのは
私たちが、私たちの誰しもがその命を尽きるときにも
私たちが天に、あのイエス様のもとに
イエス様を地上から見つめるだけだった
あのところに私もあそこに迎え入れられていくという確かな希望が
私たちはそこで主に相まみえる
そのことが言われている。
その場所に迎え上げられるために天は開いているのですね。
しかし精霊に満たされ
じっと天を見つめていたステパノは
神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て
見なさい天が開けて
人の子が神の右に立っておられるのが見えますと言った。
祈祷会でもお話をいたしましたけれども
宇山先生とちょっとだけ終わった後ゆっくりしゃべりまして
その中で私と先生の共通項の一つ
川原崎明という先生にとてもお世話になったということでした。
川原崎先生が私と宇山先生両方に教えていたので
よく言っていたのかもしれませんけど
信仰というのは視線だよと言われて
信仰というのは視線だよと
私たちの信仰それは清めもそうかもしれませんが
信仰というのは結局のところ
あなたは今どこを見てますか?ですよと
地上の恐れ心を奪うもの
そこから目を逸らすことは簡単なことじゃないでしょう
そんなことが簡単にできるならば
私たちはここまで悩まない
けれども忘れてはならないのは
天が開かれているということ
そしてこの地上の物事
地上の試みに目を奪われて
そこから目を離せなくなっている
私たちに今朝ステパノを通して神様が語っておられる
天は開かれている
だから見なさい見なさい
天を見なさい
天は開かれている
見なさい見なさいと
私たちは招かれている声があることに
ご一緒に聞かせていただきたい
天を見なさい見なさい
私たちが天を見上げることを忘れやすい
私たちをなおも憐れんで
なおも愛して
主は何度も私たちに言われるんです
天を見なさい見なさい
その言葉に私たちは聞かせていただきたい
願っています
一言お祈りをしてメッセージを終わります