1. 名谷教会
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2024-11-24 32:32

2024/11/24 そこに王はいた

2024/11/24:聖日礼拝

加藤満牧師

士師記 17:1-6


サマリー

このエピソードでは、礼拝や祈りを通じて神の愛や祝福を求める重要性が強調されており、吉脇詩式からイスラエルの民の状況と神の導きがどのように影響を与えたかが説明されています。特に、レビビトの物語を通じて、神明記が語る祝福と呪いの道について考察されています。また、レビビトと女性がギブアの町での惨劇に直面し、その後のイスラエルの内戦の背景についても語られています。事件が引き起こした悲劇や、神から離れたイスラエルの民の道徳的破綻についても考察されています。さらに、神様の沈黙とイスラエルの愚かさについて深く考察され、特に暗闇の中で光を灯す神様の力が強調されます。そして最終的には、イエス様を通じた回復のメッセージが語られます。

礼拝と神の愛
急に寒くなりまして、本当に体が大変な方、体調が優れない方もいらっしゃるかもしれません。
本当にそれぞれが支えられますように、また楽な姿勢をとって、礼拝に参加していただけたらと思います。
一言お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、尊い主の皆を賛美をいたします。
今日も私たちをあなたの御前へと招いてくださり、
あなたの御声を聞くようにと、このところにいさせてくださることを感謝をいたします。
あなたは限りない愛をもって、私たちを愛し抜いてくださいました。
その永かれた父王により、私たちの罪が許され、
それだけではなく三日目に甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる主と切っては切れない、結びつけられた命を与えてくださり、
あなたと共に御国を築くという使命を与えて生かしてくださっていることを覚えてありがとうございます。
しかし、内なる人は強くても、外なる人は弱いとあなたが語られるように、
私たちは本当に礼に燃えていてもけれども、体も弱くなるそのようなものです。
どうかしを憐れんでください。
その日々の中に、けれどもあなたがそこに生きて立っていてくださって、
あなたの恵みの御業によって、私たちの日々を支え導いていてくださることも覚えて感謝をいたします。
どうか生ける主を仰ぎます。
どうかこの礼拝の時にも、あなたが御声を持って私たちの耳を開き、目を開き、心を開き、
ここから立ち上がる時になおも主を仰いで生きるものとならしてください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいらっしゃいます。
自宅で礼拝を守っておられる方、施設におられる方、
神様、お一人一人をあなたを覚えていてくださいますから、
どうか共にそこに御臨在くださって、お一人一人を主が慰め、励ましてくださいますようにお願いいたします。
多くの方に祈っていただきました。
平和のことを主を願っています。
どうかあなたが異性者と共にあってください。
あなたの知恵を表してください。
お願いいたします。
そして本当にこの寒さの中で、家がない方や熱い方々がいらっしゃることも覚えています。
どうかお一人一人をお支えください。
慰めてください。
これからの時を見てに委ねます。
どうか主が御言葉を開き、私たちにあなたの御声を聞かせてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
吉脇詩式の解説
今朝で、9月から順に見てまいりました。
吉脇詩式というものは最後とさせていただきます。
9月から吉脇詩式と順に見てまいりました。
その時にお話をしましたのは、吉脇詩式というのは神明記の続きであるということが大切ですよとお話をいたしました。
神明記は何を書いている書かといいますと、
簡単に言うならば、私たちの前には主に従う祝福の道、命の道と、主に逆らって歩む呪いの道、死の道と2つの道がありますよと。
あなたはどちらを選びますか。
けれども神明記が語るのは、あなたは命を選びなさいということを語っていました。
吉脇詩式といいますのは、その祝福と呪いがそれぞれの文書で実現していっているという話でした。
吉脇というのは、カナンに入っていくイスラエルの民が、神様に従ってカナンの地を占領していくという祝福の歴史でした。
けれども一方、詩式に入ったら、吉は死後、民はだんだん神様から離れていって、そして彼らがだんだんだんだん下り螺旋状に状況が悪化していく。
状況が悪化するというか、彼らが神様を愛し隣人を愛するという立法を忘れていく。
それによってだんだん呪いの状況に陥っていく、そのような書だと見てきました。
そして今朝お読みするのは17章を読んでいただきましたが、これは17章から21章を扱いますが、これはその詩式の最後になります。
いわば呪いに陥っていく民の状況が、最後どこに行き着くのかということを描いているのがこの箇所です。
大まかに、ちょっと長い箇所を扱いますので、どういうことを言っているのか。大まかに言いますと、ここには2つのレビビトの話が書いてある。
2つのレビビトの話を通して、このイスラエルの呪いの状況というのが一体どれほどひどいのかということを語り、
その結果起きるのはイスラエルの内戦です。内戦が始まってきます。
そしてそのような中で、民はなぜこんな悲劇が私たちに訪れるのかということを言うのですが、その理由を指し示すかのように何度も何度もこの中で語られる言葉があります。
それが今日読んでいただいた17章の6節の言葉です。
レビビトの物語
その頃、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目によいと見えることを行っていたというのです。
この言葉が何度も何度もこの後出てまいります。
それが一体どういうことを指すのか。
史識の最後というのがある種、人間の闇とでも言いましょうか。
けれどもそこで何が起きて、そこで神様はどのような眼差しを民に向けていたのか、
そのことをご一緒にこの箇所から見たいと思っています。
さてですね、まずこの今朝は17章の1節から6節を読んでいただきました。
この箇所というのは、当時のイスラエルの状況を端的に言い表しているような、ギュギュッと言い表しているような話なんです。
読んでいただいたので簡単に流れを話しますと、ミカという人がいました。
この人は母親から銀1200枚が盗むわけですよね。
彼はそこで母親がその泥棒に対して呪いをかけている状況を見て、
ミカはそれを見てお母さんに告白するんです。
その銀を盗んだのは私ですと。
すると母親は、なんと私の子は正直なんでしょうと叱るどころか息子に祝福を祈る。
そしてその息子を称賛して、その銀で息子のための守り紙を作ろうとしたということが書かれている。
皆さんどうでしょうかね。
これは良い話なのでしょうか。
私たちは神明記から順に見ていくときに、この家族には問題が起きているということに気づくわけです。
簡単に言えば、実際と照らし合わせて考えるならば、ここに問題がどれほど起きているかわかります。
まず息子は親から銀を盗む。第8回の盗んではならない違反ですよね。
そして母親は息子の過ちを叱れないんですよ。
よく正直に訴えまねしようか、彼を祝福してくださるように。
でもそれは第5回にあったあなたの父母親前にある親子関係がすでにがかえしているということではないでしょうか。
そして母親はその息子のために像を作ろうとする。
これは第2回の偶像を作ってはならない違反ですね。
この後息子のためにエポテトートも作ろうとしてありますけれども、
違反とするところは、実はすでにイスラエルの民の中では実戒や立法が完全に忘れ去られているということです。
忘れ去られてしまっている。
いわば実戒立法というのは、神様を愛し隣人を愛する方法ですよね。
けれどもそれが忘れ去られている。
そういうイスラエルの中で一体何が起きるのか、ここから2人のレビビトの話が出てまいります。
1人目は17章、18章に書いてあって、2人目は19章。
ちょっと長いので、かいつまんで2つの話をさせていただきたいと思いますが、
実はこの歌詞は旧約聖書の中でも屈指の残酷な歌詞です。
なのでちょっとしんどい方は聞き流していただいてください。
1人目のレビビトの話が出てまいります。
彼はこのミカの家に旅の末にたどり着くわけです。
ミカはこの人がレビビトだと聞いて喜ぶ。
本来祭司というのはレビビトしかなれませんから、
だからあなたレビビトなんですか、じゃあ私の家の祭司になってくださいよとお願いをするわけですね。
そしてこのレビビトもそれを承諾をいたします。
これも立法に照らせばおかしなことなんです。
けれどもそれを承諾をいたします。
18章ではその頃イスラエルの中で、
イスラエルの部族の一つ男族というのが、
自分たちの安住の地を求めてさまよっていたということが書いてある。
実はこれも詩式の伏線回収ですけれども、
詩式の1章の34節というところ、また見ていただいたらいいと思いますが、
十二部族が地を占領しているときに、男族はそれをしきれなかった民なんです。
だからその部族がさまよいながら安住の地を探している。
男族は神様の定めた所属地を取れませんでした。
その道筋で男族の精鋭がこのミカの家に寄って、
そこに立派な神の像と、この人の家は像だけじゃなくて、
自分の家のお抱えの祭祀もいるじゃないかということを見て、
この男族はミカの家を襲い、ミカの家の偶像を強奪し、
そしてミカの家にいる祭祀も、あなたはたった一つの家の祭祀でいいんですか。
民族の祭祀にならなくていいんですかということを、
そういう甘い言葉をかけてですね、
このレビビトの祭祀、部族の祭祀になるように賠償をします。
そのことが書いてあるのをちょっと読みましょう。
18章の19節20節というところに、そのことが書いてあります。
18章の19節20節。
彼らは祭祀に行った。黙っていなさい。
手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭祀となりなさい。
あなたは一人の人の家の祭祀となるのと、
イスラエルで部族また種族の祭祀となるのと、どちらが良いのか。
祭祀の心は踊った。
彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入っていったということが書いてあります。
暴力ですね。暴奪というのは暴力ですし、そしてこの祭祀が囚われたのは地位と富という名誉でしょう。
しかしそのような欲望がイスラエルだけではなくて、イスラエルの祭祀の心までも支配しているというのがこの最初の話です。
まさにそれぞれが自分の目に良いと思えることを行っていたという17章6節の言葉その通りですね。
そしてもう一人のレビビトの話が19章に出てまいります。
これは何かと言いますと、あるレビビトのところにそばめというか、そばめと聖書は書いていますけれども女性がいて、その女性がこのレビビトを裏切って実家に帰る。
このレビビトはその女性を追いかけて実家まで行くわけです。
ギブアの惨劇
ただその実家で父親がすごく寛大して、なかなか予定通り家に帰らせてくれない。
予定外のところで彼は自分のその女性と一緒に家から出て帰ろうとするんですが、帰り道の途中、ベニヤ民人の地域にあるギブアという町に泊まろうとします。
そのギブアという町で、町の人たちはなかなか彼らを寛大してくれなかったわけですけれども、ある農夫がこのレビビトと女性を受け止めてくれて、彼の家に泊まるのですが、その夜事件が起きる。
ギブアの町の横島な者たちがこのレビビトを襲いにやってきます。
19章の22節というところを少し見てみますと、こういうことですね。19章の22節。
彼らが楽しんでいると、なんと町の男たちで横島な者たちがその家を取り囲んで戸を叩き続け、家の主人である老人に言った。
お前の家に来たあの男を引き出せ、あの男を知りたい。知りたいという言葉はこれは正直そのまま読むと、性的暴行を加えたいということです。
そしてこの家の主人は、この旅人であるレビビトを守るために、なんと自分の娘とこのレビビトが連れてきた女性がいるから、彼女たちで我慢してくれと言って、この女性たちを外に追い出そうとするんです。
その結果、外に追い出された女性たちは一晩中この横島な者たちから暴行を受け、死んでしまうのですね。
レビビトはその亡くなっている女性に、さあ起きなさいと言うけど返事がないから死んでいた。
その女性の遺体を家まで持ち帰って、彼は家でこの女性の体を十二に切り刻んで、イスラエルの各部族に送った。
19章の30節に送られたのを見た人たち、19章の30節。
それを見た者は皆、イスラエルの子らがエジプトの地から登ってきた日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ見たこともない。
このことをよく考え相談し、意見を述べよと言ったということです。
立法が失われ、神を恐れることなく隣人を愛する術を失った人間たちがどうなるか。
男は野獣のようになり、女性はその餌食となる。
そしてこの歌詞をじっくり読んでいくと実にひどいのは、レビビトの女性への扱いを自分の保身のためにこのレビビトは差し出す。
19章の25節というところ、この主人がこの女性たちで勘弁してくださいと言ったときに25節。
しかし男たちは彼に聞こうとはしなかった。
そこでそのレビビトは自分の側目をつかんで外にいる彼らのところへ出した。
彼らは彼女を犯して夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるときに彼女たちを離した。
ただこのレビビトは20章の5節を見ますとこう言います。
するとギブアーの者たちが私を襲い夜中に私の家を取り囲み、私を殺そうと図りました。
彼らは私の側目に暴行を加えました。それで彼女は死にました。
微妙な表現ですが、いや、この女性を差し出したのはあなたでしょうというのがきれいに隠られている。
私はこの歌詞を見るときに、あのアダムとエヴァのアダムの罪を思い出します。
私じゃない、この女が私にやったんだ。
でも出てエジプト以降見たことがないほどひどいことが起きている。
いや、振り返るならば、あの現象の人間の罪にまでも戻ってしまっているというような、そういう表現が見とれます。
この悲惨な事件に対してイスラエルの民族は侵犯するわけですね。
そしてギバーの民ユルスマシと全民族を引き上げて40万人の戦士たちが集まって、ベニヤ民族に戦争を仕掛けるというのが20章で書いてあることです。
一方ベニヤ民族もやられるだけではいられないわけです。
そこで初めて、ここでイスラエル民族の中での内戦が起こります。
民同士での喧嘩、喧嘩というか同行同士の戦争が始まります。
ここでの主式の表現というのは非常に皮肉に満ちています。
例えば20章の17節から18節を読みしますと、こういう言葉が書いてあります。
兵士たちが集まって、さあベニヤ民族に戦争を仕掛けようという時に、17節。
イスラエルの人々はベニヤ民を除き剣を使う者40万人を召集した。彼らは皆戦士であった。
イスラエルの頃は立ち上がってベテルに昇り神に伺った。
私たちのうち誰が最初に昇って行ってベニヤ民族と戦うべきでしょうか。主は言われたユダが最初だと。
でもこの言葉をご覧になられて思い出される方はいらっしゃるかもしれません。
これは主式の1章1節と2節の全く同じ言葉なんです。
主式の1章1節2節を読みますと、こういう言葉があります。
主式の1章1節2節。
ヨシハの死後、イスラエルの頃は主に尋ねた。
誰が私たちのために最初に昇って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。
すると主は言われた。ユダが昇って行くべきである。
みよう私はその地を彼の手に渡したと。
何を言っているのか。
主式の始め、彼らは神様の約束に信頼してカナンの地を占領しようとした。
その時ユダが最初に昇って行くべきであると主は語られた。
けれども、この神様から離れて立法ががかいして、
彼らが自分の好きな道に歩んでいく中で、
今や敵はカナンの住民ではなくて同胞となってしまった。
互いに愛し合うために与えられた兄弟姉妹であるはずなのに、
敵になってしまった。
おおよそ8万人近くのベニヤ民族がこの戦争で命を失います。
いやそれだけではなくて、部族としての存続の危機に陥るまでベニヤ民族は徹底的に戦われます。
神から離れたイスラエル
この戦争を民も嘆くんですね。
21章の3節をお読みしますと、
21章の3節。
彼ら、イスラエルの民ですね。
彼らは言った。
21章の3節。
イスラエルの神主よ、なぜイスラエルにこのようなことが起こって、
今日イスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。
主よ、なぜこんな悲劇が私たちに訪れたのですか。
しかし、死式を見てきた私たちには理由は明白です。
イスラエルの民が神様から離れたからです。
そして死式の最後の言葉はこう締めくくられます。
21章の25節。
その頃、イスラエルには王がなく、
それぞれが自分の目によいと見えることを行っていた。
さてですね、このようなある種悲惨な状況に陥っているイスラエルの状況、
真っ暗闇であるイスラエルの状況を見てまいりました。
これにどのような光を見え出すことができるでしょうか。
私たちがやはり一つ考えなければならないのは、
この中で何度も繰り返されているこの17章の6節。
最後の言葉もそうですが、
イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目によいと見えることを行っていたというこの言葉ですね。
このことは4回も繰り返されて語られますが、
確かにイスラエル民族には指導者ヨッシュアであったり、
数々の戦争の指導者であるサバキツカサは立ちました。
けれども王様は確かにいませんでした。
そのため、真ん中で権威を持ってみんなを治めるような王様がいたらよかったのに、
というのもうなずけるかもしれません。
けれども、イスラエルに本当に王はいなかったのでしょうか。
そこが問題だと思います。
そうではないのです。
イスラエルの王は、アレノデ・サキンジで彼らを導き、
マナを降らせ与え、
カナンの地でも敵とサキンジと戦ってこられた、
神様ご自身がイスラエルの王として立っておられたのですね。
ですから、この後、第一サムエル記に行きますと、
サウルがこのイスラエルで最初の王様として立てられようとしますが、
その時に神様がこう言われます。
ちょっとごめんなさい、後になりますと。
第一サムエル記の8章の7節というところを読みますと、
こういう言葉があります。
第一サムエル記の8章の7節を読みますと、こういう言葉です。
主はサムエルに言われた。
民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。
なぜなら彼らはあなたを拒んだのではなく、
私が王として彼らを治めることを拒んだのだから、というのです。
イスラエルには王がいたし、彼らをずっと治めてきたけれども、
そのことを彼らが拒み続けたのだと。
そして神明記17章というところには、
仮に王様が立つならば、こういう王様じゃなきゃダメですよ、
ということも既に書いてあります。
読むと長いのでギュッとまとめていますと、
王様というのは、自分のために馬や馬を増やさず、
軍事力を強くせずに、自分のために多くの妻や富を持たずに、
ただ神様の律法、神様の言葉に聞き続け、
死を恐れなければならない、ということが書いてあります。
それは当然でしょう。
どんな王様がそこに立とうといえども、
イスラエルの王様はただ神様お一人だからですね。
さかのぼって思識になりますと、
イスラエルの問題はじゃあどこにあったのか。
それは、神様が王であることを、
彼らは知りながらもそこに跪かなかったということです。
その見声を聞くこともしなかった。
いいえ、言い換えるならば本音のところ、
私自身が王でありたかった。
イスラエルには王がなく、
それぞれが自分の目によいと見えることを行っていた
という言葉はそういうことではないでしょうか。
私が王でありたかった。
その結果、神様を愛し隣人を愛する律法というのを捨てて、
自分の都合を優先できる偶像の神を自分のために作ってしまいました。
そして互いに愛し合うべく与えられた家族のような同胞と、
愛争うことしかできなくなってしまった。
ただ、この状況というのは現在もさほど変わらないと思います。
人間の欲というのは決して悪いものではないでしょう。
ただ、神様を恐れて互いに愛し合うために
それを抑えるという自制がなくなってしまったら、
そこには暴力と法従が現れてきます。
誰かを生かすために生きるということよりも、
自分を生かす富と地位が私たちの喜びになることがあります。
私の中に偶像があります。
神様の沈黙と愚かさ
そして、自分自身の、そして誰かのそのような自己都合であったり、
肥大化した欲望であったり、
私は悪くないという自己欺瞞に振り回されて、
それを自分の力ではどうしようもない、
そういうのに振り回されながら生きていく、
それがおそらく現在、今の世界であり、
人間であり、私たちなのではないかなと思うのです。
神様は、このイスラエルをヤヒイと言うならば、
この世界をどのように見ておられたでしょうか。
実はこの17章から21章というのは、
神様の言葉が極端に少ないんですよ。
ほとんど語っていません。
民が愚かなことに手を染め、
神様神様と叫ぶけれども、
そのありさまを沈黙して見ている、
そのような光景です。
その眼差しに怒りと悲しみを浮かべながら、
しかしあなた方が聞かなければならないことは、
もう私は語ってきた。
あの死死たちを通して何度も何度も語ってきた。
けれどもあなた方はそれを聞かなかった。
あなたたちは結果そうなった。
子供に裏切られ続けて疲れ切ってしまった親のように、
神様は沈黙される。
世界は真っ暗に包まれていってしまう。
ただ神様はこのイスラエルを、
この世界を諦めてしまわれたのでしょうか。
そうではないのです。
神様は暗闇に包まれた世界を、
それでも諦めることができない神様なんですね。
なおも愛し、癒やしたいと願われる神様です。
そのために、暗闇の中に光を灯されます。
そしてその光は、思いもよらないところから現れるのです。
例えば、先のことを言って申し訳ないですが、
意識の闇を照らすきっかけとなったのは、
ルツというモアブの女性です。
モアブ人というのはイスラエル民族以外ですよ。
でもそのモアブの女性を立てて、
神様はイスラエルの民を回復へと向かわせる。
この後サムエル記を見ていくと、
神様の言葉はほとんどなかったということが言われる。
でもそのほとんどないと言われる神様の言葉を最初に聞いたのは、
少年サムエルです。
そしてその後イスラエルを立てた王は、
羊飼いの末っ子ダビデですね。
それもおもんじられるような存在ではないのです。
けれども神様はそこから再び光を起こされる。
ダビデの王国はその後また腐敗していって、
南ユダ王国は崩壊して保守に囚われました。
けれどもそのような囚われのところから再び光を起こしたのは、
神の巫女イエス様ですね。
神の巫女イエス様はガリレーの辺境ながれですよ。
そこから何のいいものが生まれるのかと言われた。
けれども思いもよらないところから光が灯る。
神様は何度も何度もこの世界に暗闇に陥っていく。
神様から離れていく。
でもそこに何度も何度も暗闇に光を灯すために立ち向かわれる。
神様はこの世界、私たちの暗闇を照らすことを諦めない神様なんですよ。
光の復活
そしてそれを思いもよらないところから起きるというのは、
神様はどこからでも光を起こすことができるということです。
主の力にかかっている。
詩式を見ました。
私たちはいつもここまでイスラエルの民の愚かさというものを見ていくときに、
それは人事だなと見れた人もいれば、
いや人事じゃないなと、これは私のことだなと思った方もいるかもしれません。
自分の愚かさを知り、いや本音のところでは私が王である。
確かにその通りだ。
ただそのように生きる限界も私たちは身に染みているのかもしれない。
今朝私たちが互いに思い出したいのは、
私たちには王がいないのではないということです。
すでに私が埋めくその場所に立っておられる王がおられるということ。
イスラエルに王がなくそれぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。
しかし私たちが取るべき応答はこの言葉の真逆を生きなければならない。
私たちには確かに王がいるんだということ。
そして私たちは自分の目に良いと思うこと以上に、
この方の恵み深い見ての御業こそが私たちの最善なのだということ。
だからこの主に跪こうと私たちは互いに応えることを望まれているのではないか。
次週から私たちはアドベントを迎えます。
主の御前に跪きましょう。
その最中に光である主がそこにいることを私たちが知ることができますように。
そしてそれぞれが抱える暗闇の中に主だけが灯すことのできる光が灯されますように。
私たちは生きる主にこの季節また出会うそのことを願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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