1. 名谷教会
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2025-11-16 37:20

2025/11/16:恵みに貫かれた友情

2025/11/16 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第一 -17


サマリー

このエピソードでは、ダビデとヨナタンの友情を通じて、神の恵みが人間関係に与える影響について考察しています。恵みにあふれた友情の重要性や収穫感謝礼拝との関連にも触れています。ダビデとヨナタンの友情は、困難や敵対的な状況にもかかわらず、神の恵みによって支えられています。さらに、ヨナタンがダビデに対する忠誠を示し、感情深いやり取りを通じて友情が人間関係において持つ意味を考察しています。また、イエス様のアガペーの愛を通じて、友情の重要性と神の恵みについて語られています。孤独に苦しむ人々に対して、イエス様が真の友であり続け、彼らを愛していることが強調されています。

祈りと感謝の重要性
それでは一言お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、
尊い皆を心から賛美をいたします。
主よ、今日は収穫感謝礼拝を迎えています。
あなたが私たちに与えてくださっている恵みを、
共に覚えるときです。
地の産物が前に並びましたけれども、
あなたは私たちをこのような地の産物によって
養ってくださる主であり、
また、このような農作に関わっておられる方々を
支えてくださる主であり、
そしてまた、私たちにあらゆる恵みを持って
望んでくださっている主であることを覚えて、
心から感謝をいたします。
あなたの恵みは計り知れません。
ああ、恵みと賛美をいたしました。
あなたの恵みは、この農作物だけではありません。
私たちの罪を知り、
しかし私たちを白くするのに、
イエス・キリストの血潮が流されたという、
あなたご自身の災害のその恵み、
憐れみを覚えて、改めて心から感謝をいたします。
私たちは罪許され、神のことされ、
復活の命を与えられ、
永遠に主と共に生きる者とされました。
計り知れない恵みです。
どうか主よ、そのような恵みの現実に、
あなたの恵みのご支配の中に生きているその豊かさを、
今一度私たちに教えてくださって、
私たちには様々な戦いがあり、
足元の抜けるような経験をいくらでもいたしますけれども、
しかしそこに主の恵みの御手が確かにあること、
あなたがどんな時にも私たちを愛し、支えてくださり、
共に歩んでくださる主であることを、
今日も見出すことができますよう導いてください。
お願いいたします。
祈られたようにここに来たくても来れないお一人一人がいることも覚えておりますが、
どうか主がお一人一人と共にいてくださいますように、
疲れて休んでおられる方も聞いております。
どうかその心と体に主の慰めを注いでくださいますよう、
お願いいたします。
神様、祈られたように世界の平和は、
常に緊張関係にあることも覚えております。
お前の王である主御自身が、この世界を治めてくださいますように、
人々が自分の利益だけではなく、
あなたの恵みによって治めるということの知恵を知ることができますように、
導いてください。
お願いいたします。
これからの時を見てによだれます。
御言葉を通し、私たちを励ましてくださいますように。
期待して、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
ダビデとヨナタンの友情
私たちは収穫感謝礼拝を迎えております。
改めてこの礼拝は、1620年、
信仰の自由を求めてアメリカ大陸に渡った
聖教徒、いわゆるピューリタンですね。
その人々が、新しい新大陸の厳しい環境を
先住民の助けによってその冬を乗り越え、
豊かな収穫を得たということに由来する、
そのような礼拝です。
彼らは神に感謝したのです。
様々な支えによってこの冬を乗り越えることができた。
ああ、神は恵みの神であるということ。
そして、私たちは目の前に
木の産物を豊かに並べましたね。
改めてそのような種の豊かな収穫を与えてくださる
恵みの神であるという種のことを覚えて。
そして、収穫というのは食べ物に限りません。
それは私たちの命、健康、また家族や友の存在。
私たちに与えられるあらゆるものは
種の恵みによるのだということ。
改めてその一つ一つを覚えて感謝をしようということですね。
今朝は特にご一緒にその中で
友情というものに目を向けていきたいと思っております。
問いますのも、私たち人間にとって
得がたい友との出会いというものは
かけがえのない人生の収穫であります。
神言というところに
鉄は鉄によって尖れ
人はその友によって尖れるという言葉があります。
神言の27章の17節ですが
私というある種堅くなな人間を
それでも削り研ぎ成長させてくださる
大切な神様の恵みは友の存在ですね。
そのような友が一人いることは
私たちにとっての得がたい収穫ですし
もしくは私たちもきっと
誰かにとっての幸いな収穫になるようにと
招かれ召されているお互いではないかなと思います。
聖書の中で最も知られた友情というのは
今朝のダビデとヨナタンの姿でしょう。
彼らの友情に注目するときに
ただ一つそこには注目する特徴があります。
それは恵みです。
恵みに貫かれている
そのような友情であることを見ることができます。
ご一緒にこの二人から
ダビデとヨナタンの友情ということを
ちょっと学んでいきたいと思っております。
さて一つ目のポイントです。
友情の契約と試練
二つのポイントでお話ししますが
一つ目は恵みに貫かれた
ダビデとヨナタンの友情であるということです。
改めてですけれども
恵みって一体何でしょうか。
恵みというのはヘブル語では
憐れどという言葉で表現されます。
これは日本語訳清書では
憐れみとも訳される言葉です。
憐れみと恵み。
その意味は契約に基づいた忠実な愛という
ちょっとややこしいモハの言葉ですけど
契約に基づいた忠実な愛という意味なんですね。
神様が恵みの神と言われるのは
どういうことかというと
神様はご自身の民と契約を結ぶのです。
神様はその契約に忠実なんですね。
でも時に契約というのは
片方が破ることがある。
ご自身の民が神様に逆らって
神様を傷つけてしまうことがある。
けれども神様はご自身の民に対して
忠実であり続けるということです。
神様はご自身の民が逆らった時であるにも
かかわらず神は契約に忠実であり続けます。
そこから転じて恵みという言葉は
何々にもかかわらずの善意
何々にもかかわらずの愛
というふうに言い換えることができます。
そう考えるならば
実はダビデとヨナタンの友情というのは
何々にもかかわらずの友情であるということが
少しずつ出てくるんですね。
外しますね。
第一にダビデとヨナタンの友情というのは
ダビデが羊飼いであるにもかかわらず
王子ヨナタンは友情を結んだということです。
二人の友情の始まりというのは
ダビデがゴリア手を打ったその直後から始まります。
思い出していただきたいのは
第一サムエル記の17章で
ダビデはゴリア手と戦うときに
これは主の戦いだと彼は言いました。
そのように少年は
これは主が戦ってくださると信じて
巨人と立ち向かって勝利をするんですね。
まさにその姿はヨナタンからすれば
ああ、彼こそ神の器
神と共に戦う戦士だという姿に映ったでしょう。
一方でヨナタンの父サウルは
人を恐れて人に頼っていました。
その姿は明らかに主の戦いから
かけ離れた姿としか言いようがありませんでした。
息子であるヨナタンは
そういう父親に対して早いときから
疑問を抱いていたんですね。
14章の29節というところでは
父はこの国を悩ませていると彼は言います。
父はこの国を悩ませている。
ですからこのダビデがゴリアテに勝利した後の
18章の1節から4節
その直後の18章の1節から4節に
こういうことが書いてあります。
ちょっとお読みしますと
ダビデがサウルと語り終えたとき
ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。
ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
サウルはその日ダビデを召しかかえ
父の家に帰らせなかった。
ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛したので
ダビデと契約を結んだ。
ヨナタンは着ていた上着を脱いで
それをダビデに与え
自分の鎧、兜、さらに剣、弓、帯までも
彼に与えたというのです。
繰り返されるのは
ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
そしてここで特徴的なのは
ヨナタンの心はダビデの心に結びついたという言葉です。
この結びついたという言葉は
ニュアンスとしては
一本のロープで二つの心が固く
ギューッと縛りつけられたというようなニュアンスの言葉です。
ギューッと結びつけられたということです。
だから一つになるようなそういう表現ですね。
ヨナタンはここで
自分の持ち持ったものをダビデに全て与えてしまうのですね。
四節を見ていただくと
上着も鎧も武器も全部与えます。
でもこれは実に象徴的ですね。
上着というのは王族の地位と名誉と言えるでしょう。
鎧や兜というのは
彼の持っていた軍事的な指導力と言えるかもしれません。
鎧や弓や帯というのは
彼の戦士としての力でしょう。
しかしヨナタンは
その全てをダビデに与えてしまうのですね。
そしてこれはここに書いてある通り
契約なのです。
単に仲良く
なんか仲良くなりましょうねではなくて
契約でした。
すなわちダビデに全てを与え
ダビデを自分の王として
受け入れるかのような行動なのです。
いきなり。
ヨナタンはダビデに忠誠を誓い
そして当然ダビデは家臣ですから
ダビデもヨナタンに対して忠誠を誓った。
そのような互いに責任を負い合うような
関係、友情がこの時から始まっていきました。
そして第二に
ダビデとヨナタンというのは
最終的には立場が相対するにもかかわらず
互いに恵みを求め合う関係になったということです。
この後の話を少しだけ見ていくならば
ご存知の通り
ダビデは快進撃を続けていきます。
そしてそれに
オーカーのように
サウルはダビデの殺意に燃えていきますね。
そして19章の1節というところでは
サウルがこのように書かれています。
サウルはダビデを殺すと
息子ヨナタンや全ての家来に告げた。
しかしサウルの息子ヨナタンは
ダビデを非常に愛していた。
サウルの殺意は公のものとなります。
私はあいつを殺すってみんなに言うんですね。
この19章以降
サウルはダビデを何度も殺そうとします。
たてごとを引いているダビデに対して槍を投げたりだとか
ダビデの夜の家に忍び込んで
暗殺者を送ろうとしたりだとか
様々なことをしていきます。
定期を逸した行動です。
しかしサウルはダビデにとって主君です。
だから彼は主君を立てながら
逃げ回ることしかできない状況に追い込まれていくのですね。
しかしいつまでもその生活は続けられません。
ダビデは一刑を案じます。
それが今朝の20章です。
ダビデが図ったことは
ヨナタンを通じて
父親王であるサウルの真意を探ろうとするのですね。
ちょっと長いです。
20章の5節からダビデの言葉を読みたいと思いますが
20章の5節でダビデはこのように言います。
明日ちょうど新月帯で
私は王と一緒に食事の席につかなければなりません。
でも私を行かせて3日目の夕方まで野に隠れさせてください。
もし父上が私のことを咎めたならおっしゃってください。
ダビデは自分の町ベテルヘムへ急いでいきたいとしきりんに頼みました。
友情の誓い
そこで7節に入れます。
もし父上がよしとおっしゃれば
あなたの下辺は安全です。
もし激しくお怒りになれば
私に害を加える決心をしておられると思ってください。
どうかこの下辺に真実を尽くしてください。
主に誓って下辺と契約を結んでくださったのですから
もし私に戸賀があれば
あなたが私を殺してください。
どうして父上のところにまで私を連れ出す必要があるでしょうか。
ダビデが図ったことは
新月帯のその食事の席を私はあえて休みます。
そのところでサウルがそれを許してくれるならば
大丈夫でしょうけども
それを受けて激しくその王が怒るならば
王の真意はもうわかったようなものです。
王は私を殺そうとしている。
ただその中で
もし私ダビデに落ち度があるようなことを見つけたならば
あなたが私を殺してください。
これはダビデのヨナタンに対する忠誠ですね。
私に悪いところがあるんだったら
もう私の命は取られてもいいし
あなたが私の命を取ってくれたらいい。
そのことに対してヨナタンは答えます。
今日読んでいただいたこの12節からのヨナタンの言葉ですが
こういう言葉ですね。
ヨナタンはダビデに言った
イスラエルの神主にかけて誓います。
明日とあさっての今頃までに
父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。
寛大でなければ必ず人を使わせてあなたの耳に入れます。
もし父があなたに害を加えようと思っているのに
それはあなたの耳に入れず
またあなたを無事に逃がさなかったなら
主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように
主が父と共におられたように
あなたと共におられますように
もし私がこれ以上生きるべきでないのなら
あなたは主の恵みを私に施して
私が死ぬことのないようにする必要はありません。
ここまでにしますけれども。
このヨナタンの言葉は実に不思議なのです。
ちょっとじっくり見るならば
13節の主が父と共におられたように
あなたと共におられますようにという言葉
これはサウルを守ってきた神の臨在が
今度はあなたと共にありますようにと言っているのは
もう王としての資格はサウルではなくて
ダビデに移っていると彼は認めているのです。
あなたと共に主がおられますように
そしてもしもサウルこそが
神に敵対するような存在であるならば
サウルの息子ヨナタンも
その対象の例外ではない
当時において新しい王朝が立つときには
前の王朝の家族や子供は通常皆殺しです。
当時の常識なんです。
だからサウルが神様から退けられて
ダビデが王になるということは
サウルの息子であるヨナタンも
当然殺されるのです。
14節の言葉はそういう言葉ですね。
もしも私がこれ以上生きるべきでないならば
そのときは恵みによって
私をかばうなんてしなくてもいいです。
あなたが私を殺してください。
父サウルの責任は私の一家の責任であって
それを私も共に神の前に恐れて受けようというのです。
ただです。
15節にしかし当時の常識から言えば
はずれた言葉をヨナタンは言います。
15節
しかしあなたの恵みを
私の家から常しえに立たないでくださいというのです。
あなたの恵みを。
ヨナタンはダビデに対して恵み
これはまさにヘセドという言葉です。
を私の家から立たないでくださいとお願いをします。
本来ならばヨナタンの一族老党は
皆殺しの運命です。
しかしそうであるにもかかわらず
私の子供や一族に
どうか善意を施してくださいとダビデに頼むのです。
それは私とあなたの間が
神の恵みによってその友情が保たれてきたように
私が死してなおも
あなたは神の恵みを私に表してください
私の一族に表してくださいと彼は頼む。
そして16節
ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。
重ねて17節でもう一度誓った。
サウルの怒り
ヨナタンは自分を愛するほどに
ダビデを愛していたという言葉が繰り返されます。
ぎゅっと一つになっていたということです。
そして新月祭の夜
ダビデが食卓にいないのを見て
サウルは烈火のごとく怒ったというのが
この20章の後半で書かれてあります。
20章の30節からそのことが書いてあるので
ちょっと流れを読みますと
20章の30節から
サウルがヨナタンに怒ったシーンが出てきます。
サウルはヨナタンに怒りを燃やしていった
この邪悪な気まぐれな女の息子め
これヨナタンのこと言ってるんですよ
お前がエッサイの子に堅入れをし
自分を恥ずかしめ
母親の裸の恥を晒しているのを
この私が知らないとでも思っているのか
エッサイの子がこの地上に生きている限り
お前もお前の王位も確立されないのだ
今人を使わして
あれを私のところに連れて来い
あれは死に値する
ヨナタンは父サウルに答えて言った
なぜ彼は殺されなければならないのですか
何をしたというのですか
するとサウルは槍をヨナタンに投げつけて
打ち殺そうとした
それでヨナタンは父がダビデを殺そうと
決心しているのを知った
ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり
新月祭の二日目には食事を取らなかった
父がダビデを侮辱したので
ダビデのために悲しんだからである
ヨナタンは友のために本気で怒り本気で泣く男です
いい友情ですね
そしてヨナタンはダビデと再会するにあたり
ダビデが戻れるかどうかの合図を
槍をどこに飛ばすかで決めていました
そしてそのことは35節から書いてありますけれども
槍が子供を越えていくならば
もうそれはここから越えて帰ってきちゃいけないという合図だったのですね
そのところでこういうことが書かれてありますね
37節
子供がヨナタンの放ったようなところまで行くと
ヨナタンは子供の後ろから叫んだ
いやはお前よりもっと向こうではないか
ヨナタンは子供の後ろからまた叫んだ
早く急げ立ち止まってはいけない
その子供は矢を拾って主人ヨナタンのところに来た
子供は何も知らず
ヨナタンとダビデだけにその意味がわかっていた
二人にだけわかっていた意味とは何か
それはこの時にダビデはサウルの宮廷での戦士として築いた地位も
ヨナタンとの親友としての生活も
そして将来多い継承者候補としての立場も
この時にすべて失ったということをこの二人は知っていた
40節41節を読みしますと
41節読みますと
子供が行くとダビデは南側から出てきて地にひれ伏し三度礼をした
二人は口づけし抱き合って泣いた
ダビデは一層激しく泣いた
号泣の理由はあらゆるものを失ってしまったということ柄もそうでしょう
しかし恐らく大きな理由は
ヨナタンとは今後敵になることが明らかになったということです
そして根性の別れを予期しての涙ではないでしょうか
この後ヨナタンは逃亡生活を続けるダビデのところに
真実な友情
一度だけ会いに行くということは書いてあります
23章の16節からそういうことは書いてあります
しかしそれが最後です
第一サムエル記のこの一番最後のところで
ヨナタンはペリシテ人に打たれて死んだということが書かれてあります
ダビデがヨナタンの死を受けて嘆いて歌った歌が
第二サムエル記の一章の25節からというところに書いてあります
ちょっとそこだけお読みしますと
サムエル記第二の一章の25節からこういうことをダビデは歌っています
お読みしますと第二サムエル記の一章の25節から
ああ勇士たちは戦いの最中に倒れた
ヨナタンはお前の高きところで殺された
あなたのために私は痛く悲しむ
私の兄弟ヨナタンよ
あなたは私を大いに喜び楽しませ
あなたの愛は私にとって女の愛にも勝って素晴らしかった
そして皆さんよくお存知でしょうヨナタンの死後
彼が死んだ後であるにも関わらず
ダビデはこの後ヨナタンの息子のメフィボシェテという人物を探し当てて
奪われていたサウル一家の土地を回復させ
王宮の食卓にメフィボシェテを招くようになります
しかしそれはヨナタンとの近い故にということが聖書には書いてあります
死してなお続いた友情でありました
この二人の友情の中に私は真実なものがあるなと思います
それは身分が違うにも関わらず
敵となったにも関わらず
すでに死んだにも関わらず
二人の友情は貫かれた
けれどもそうでしょう
真実な人間関係真実な友情というのは
何々だからの愛ではないんですよ
あの人がこういうことができるから愛しそうとか
あの人がこういうものを持っているから仲良くしようとか
真実なものではないですね
真実なものは何々にも関わらず
相手を友と呼べなくなりそうな状況苦難にも関わらず
友であり続けること
そこに真実なものがありそこに恵みがあるんですね
私たちにそのような友はいるでしょうか
いえそのような友に私たちは慣れているかということが
今朝互いに問われるようなことかと思います
ただ二つ目のポイントです
愛に貫かれたイエス様の友情というのが
私たちにはありますよということを
今朝ご一緒に覚えたいと思います
愛に貫かれたイエス様の友情がありますよということです
私たちにそのような恵みにあふれた友がいるでしょうか
いればそれは最大の収穫ですが
ただそうでなかったとしても
私たちにとって幸いなことは
私たちの主イエス様は
私たちを友と呼んでくださったという事実です
神は私たちを友と
イエス様を友と呼んでくださいました
そのことはちょっと違和感が出て申し訳ないんですが
新約聖書のヨハネの福音書の
15章の13節から15節というところに書いてあります
ヨハネの福音書の15章の
13節から15節というところですね
新約聖書の216ページというところです
有名な箇所なので
聞いていただいてもいいと思いますが
ヨハネの福音書の15章の13節から15節
お読みしますとこういう言葉です
人が自分の友のために命を捨てること
これより大きな愛は誰も持っていません
私が命じることを行うなら
あなた方は私の友です
私はもうあなた方を下辺とは呼びません
下辺なら主人が何をするのかを知らないからです
私はあなた方を友と呼びました
父から聞いたすべてことをすべて
あなた方に知らせたからですと
イエス様のなされた身業
そしてそれを知りながら
イエス様と共に歩む一人一人を
友と主は呼んでくださる
特に13節の言葉です
これ友情のことを言っていますが
それ以上のことでしょう
人が自分の友のために命を捨てること
これよりも大きな愛は誰も持っていません
人間的な友情
アガペーの愛と友情
しかしそれにも勝った優れた愛
人が自分の友のために命を捨てる
そのような愛を
イエス様は私たちに対して
抱いてくださっているということです
そしてその証拠は
揺るがない証拠は十字架ですね
私の罪のため
十字架にご自身の命を投げ出してくださった
その事実に
この言葉は真実であるという
確たる証拠があります
聖書はそのように
友を自分の命以上に愛する大きな愛
そのことをギリシャ語では
アガペーというんです
アガペーの愛ですね
ここで使われている13節の大きな愛という言葉
ギリシャ語ではアガペーという言葉です
これは相手の価値や魅力に関わらず
与える側の一方的な意思や決断によって
注がれる愛のことを言うんです
アガペーというのは
イエス様が私たちに向ける愛というのは
そのようなものですね
ヨナタンは自分自身のように
ダビデを愛した
しかしイエス様の愛というのは
自分自身を自してでも
相手を愛しているという愛なんです
先ほど
神は恵みの神だとお話をいたしました
ヘセド
恵みというのは
神様がご自身の民に対して表す
何々にも関わらずの愛
常に神は民に対して
誠実であり続けてくださるという愛です
ヨナタンとダビデの間には
この愛が通じていました
しかし
神の恵み
神のヘセドというのは
イエス様の十字架の愛という形で
最大限に発揮されたんです
それは何か
その愛は全ての人に向けられ
無条件で完全な愛として
そこに完成したんですね
ヘセドとアガペーの関係を言うならば
私たちの
神が私たちを愛してくださったアガペーというのは
ヘセドの最終的な成就した形
そういう風に
言うことができるようなものです
孤独とイエス様の友情
そして改めて互いに覚えたい恵みは
私たちの主イエス様は
私たちを友と呼んでくださっている
それは
アガペーの愛で私を愛してくださっている
友であるということです
私たちの矛盾も弱さも知りながら
自らの命以上に
我々を愛してくださる友
それがイエス様の友情
イエス様の愛ですね
私は
もう終わりますか
ごめんなさい長いですね
私は今
新学校のお手伝いをしています
数ヶ月に1回
新海市の港川伝道館というところで
新学生の実習がありまして
そこでは伝道館の前で賛美したり
チラシ配ったりするんですね
ある時
ベンチに酔っ払いのおじさんが座りました
隣に座って話を聞くと
すごく寂しそうな方なので
よかったらこの後集会あるんで
入りませんかっていうことを
言いまして
中に入ってもらいました
ただ酔っ払ってますので
集会中にいろんなチャチャ入れるんですね
お前らの横顔そんな押し付けや
救いなんかありませんとか
俺は信じへんぞみたいなこと言うんです
あーちゃーと思いました
集会後お茶を飲みながら話を聞くと
実に大変な人生を生きている人でした
幼少期に親と離れて
中学生から学費を自分で稼ぎ始めて
途中で産みの親と再会して一緒に暮らして
でも急に言ったんですね
俺にも悪いとこあんねんぜと
何がですかって聞いたら
俺おかんにひどいこと言うたんや
罰が悪くなって一晩中うろついたけど
翌日やっぱりおかんやん
おかんごめんなー言うて
俺おかんのこと抱きしめたんや
っていう話をしたんですね
いい話じゃないですか
Nさんって人なんですよ
Nさん
お母さんのこと嫌いなときもあったけど
それでも大好きで
大好きで抱きしめたんでしょ
Nさん神様も一緒よと
Nさんが神様のこと信じれんときも
神様はNさん大好きで抱きしめてくれるお方なんやで
ってことをお話をしました
すると言われました
そりゃどこの神も仏も優しいわと
しかし私は言い返しました
Nさんどこの神でも
Nさんの身代わりに死んだ神はおるかと
そんな神はおるんかと
おらんやろ
イエス様はNさんを真剣に愛して
Nさんの身代わりに十字架で死んだんやで
Nさんそのことだけ覚えておいてよ
ってことを言いました
一緒に祈ろうか言ったけど
祈ってくれなくて
でも最後Nさんとハグして別れました
そういうことがあるんですね
孤独なんだろうなとも思います
Nさん何信じてんのって言ったら
それは俺自分自身やん
俺自分自身のことしか信じられへんもん
ってことを言いました
それも事実だろうなとも思います
でも
あなたが信じていようといなかろうと関係ない
あなたのために死んだ神がいるという事実の前に
あなたはどうするんだ
友がいる人生は幸いですが
孤独に悩む人痛む人は本当に多いですね
ただ私たちには確かに
イエス様という誠の友がいらっしゃいます
私たちが滅びないために
私たちの身代わりに十字架にまでかかられた友がいます
私たちはそれ上
誰でもですよ
誰でも最高の収穫を得うるんですね
イエス様という収穫があります
人生に何があろうとも
神に心が向けられない時であろうとも
イエス様は私たちの友で居続けて下さい
恵みの神 愛の神 アガペの神が
私たちの友となると言って下さっているのです
この後賛美をいたしますのは
慈しみ深きという賛美です
慈しみ深きというのは珍しくて
あれは結婚式でも葬儀でも歌われるんですよ
でもそうでしょう
いける限り
幸いの時も悲しみの時も
慈しみ深い友なるイエスは変わらないと歌っているんです
私たちはこの主を友として喜び
そして私たちの今朝のチャレンジは
この主にならい
誰かの幸いな収穫になるように
恵みを絶たないで下さいと
ヨナタンがダビデに頼んだ
恵みを絶たない友として生きるようにと
私たちは招かれているのではないでしょうか
ご一緒にお祈りをしたいと思います
37:20

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