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おはようございます。いつも、皆さんのお祈りの中にお加えされて、大変感謝しております。
そういう皆さんのお祈りもあって、毎日元気に今日までは参りまして、これからも多分大丈夫だと思いますが、
ちなみに明日は、前の過程というのをやりましたから、それがうまくいっているかどうか、3日間ほど入院して、もう一度調べるということで、
ちょっと今日はそういう心配程度は心配ですが、またそこで、今の医学の助けの中でもって、これからも守られていくんだろう、
それ以上に、主が私を守ってくださるということを信じて、明日を迎えようとしております。また覚えてお祈りください。
今朝、私は、もう有名なこの支援の16編から、ご一緒に開いていきたいと願っております。
特にこの支援の16編の最後を見ますと、私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。
そのように記されております。
ワクソン先生の支援の霊想という、それを見ますと、この冒頭にあります、このダビデのミクタムという、このミクタムというのは、希望であるとかね、
あるいは黄金とか、そういう意味合いがあるということを書いておりますし、特にこの16編は、
人行伝の2章の、あの有名なペテロのメッセージを読んでいきますと、そこにこの16編の言葉が引用されております。
そういう事柄からでしょうか、ワクソン先生は、この16編を同時にこれはペンテコステの歌だ、そういうふうにも先生のノートには書いてございました。
それを読みながら、本当だなと思いながら、まさにこの16編は黄金の歌、あるいはペンテコステの歌、また復活の歌とも言われております。
私はここを読みながら思いました一つのことは、私たちにとって、こういう不確かな時代の中に、確かな生き方があるとするならば、この16編はそのことを私たちに示しているのではないか、
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次の言葉から、それらの事柄を教えられております。
この2節を見ますと、ここでは、私は主に申し上げます。
あなたこそ、私の主、私の幸いは、あなたのほかにありません。
宣言のような、主を喜びとする生き方をたっ飛ぶ、このダビデンの歌として有名な言葉であります。
幸いなことは、幸いなのは、あなたのほかにはありません、という、主御心を、神御心を、自分の幸せの源だと、ダビデンは、いろんな経験を積む中でもって知ったことは、ここにあるわけですね。
ある女学校の講演会の時に、講師の先生が、講演をする前に、皆さんにお聞きしたいことがある。
この中で、幸せになりたい人は、手を挙げてください、と言いましたら、みんなももろ手を挙げて、
もろ手はこうですけども、片手を挙げてね、私こそなりたいです、と言って、そういう応答をしてくれた。
じゃあもう一つ、皆さんが幸せになりたいことがわかったので、もう一つお聞きしよう。
その幸せというのは、自分にとって、何が私を幸せにする、あるいは私が幸せになるということはこういうことなんだ、ということで、皆さん方は、どれを思いますか。
将来、いいパートナーが見つかって、そして結婚して、素晴らしい家庭ができる、それも幸せの一つの手段かもわからないし、
もっと自分の違ったこれからの将来に向かって自分は進んでいきたい、そしてその夢が叶えられたならば、私はそこに私の幸せがある、
何でもいいから、そういう思いがあったならばそれを示してください、と言って求めたところが今度は、今までみんな手を挙げていた生徒が一人卸し二人卸ししていくうちにみんな誰も手を挙げて残っているのがいなかったという話があります。
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彼らはそれなりの幸せになりたいという希望を持ちながら、だから幸せになりたいというふうにみんな自分の意思を表したのですが、
じゃあこうなったなら幸せだとなると、ちょっと違うんじゃないかな、本当にそれが幸せなんだろうかな、
いいパートナーと結婚して、そして新しい家庭ができて、そして周りからも笑いが出るようなそんな家庭、
けれども自分の周りには、そう思ってみていた人たちが、そうではない結婚生活や、あるいは人生を送っている、
だからいい結婚が幸せの条件ではないなと彼女たちは、彼女たちの純粋な思いからそう思ったのでしょう。
なかなか私たちはね、本当に幸せを求めたいんですよ。しかしこうなったらという、それはないんですね。
それに対してこのダビデは、今のこの16編のところにおいてこう歌います。
私の幸いはあなたのほかにはありません。つまり神様あなたこそが私の幸せであり、あなたこそが私に本当の幸せを与えてくださる方です。
確かにダビデという方は、一回の執事会から身を起こして、
ついにはですね、最初の王として選ばれた、あの優れた王としてイスラエルを治めたそのサウル王に勝る王として、彼はやがてこのイスラエルを築き上げてくる。
ありによって彼は、ダビデはその人生においてものすごいこの権力も得ました。富も得ました。
そういう意味においての人が求めやすい、そういうこの幸せというものを全部彼は自分の手に握ったわけです。
じゃあ本当にそれが彼にとって幸せの条件だったのか。
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サウル王の後を継いでそしてイスラエルを治め、しかも周りに敵なしまで、もうあらゆる戦いにおいて彼は勝利を治めてイスラエルを反対にした。
そういう意味で彼は成功者です。けど成功者と、じゃあ幸せというのは一緒なのか。
ありによってそれは一つに結びつきますけども、しかしダビデは成功したから、あるいはその道において達成したから、
そしてまたみんなが私を指して本当に幸せな人はダビデ王様あなたにいない、おりません、というぐらいに周りはそういうふうに自分を称賛してくれる。
しかし彼は同じ詩編の32編の1節2節を見てきますとね、ダビデの幸福論が書いてあります。
そしてそこには幸いなことよ、諸の背きを許され罪を覆われた人は、また2節には幸いなことよ、
主が咎めをお認めにならず、咎をお認めにならず、諸の霊に欺きのない人は、
ダビデにとっての幸せというのは、主によって本当に許されてたくさんの咎を作りました。
しかしそれも全部、主は私からそれを許し、そして覗いてくださった。
その時の充実感、その時の幸せ、私はダビデがこれを言っているところにですね、
そういう深い意味合いが込められているのではないか、
人生の頂点に立った人が、私にとって幸せなことは私の罪が許されたことだ、
その咎を全部主はそれを覗いてくださったことだ、
成功者と思えるダビデは、彼は確かにそび出た成功者です。
けど、彼の人生にも、その罪ということの前に、何と自分が無力なものかということを知りました。
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同じこの支援の51編を見てもらいますと、その時の彼の苦しみというのが滲み出ています。
それは、自分の愛する部下、その部下の奥さん、今の言葉を言うなら不倫をしたわけですよね。
その部下はですね、大死に立って、そして本当にダビデ王のために命を懸けてやっているわけですよ。
ところがダビデは応急に済んで、そしてその女性を見た時に、彼のうちに持ってはならないそういう思いが起きてきた。
そしてついにはですね、彼女とのそういう関係が生まれ、
ところがそういうことをやったならば、もう今ダビデが明星を得て、そして軍も何もかも全部自分の指導の下に置いて、自分に仕えてきている。
それが全部台無しになってしまう。
彼は何とか、その女性とのそれを不倫ではなくして、ちゃんとした結婚だという風に認めるようにしなくちゃいけないということで、
彼はその不倫という罪が、やがてその愛する自分の部下を大戦に送って、そしてミスミス戦死させるというような、そういう犯罪を生み出していく。
まさに罪が払うでしょう、思っているのはそのことでしょう。
予言者からそのことを指摘されるまで、自分は正しいことをしてきているし、戦時で亡くなった彼の奥さんの世話を自分は全部今今日しているんだというような、
自分を納得させ、そして世間の目も納得させ、自分の明星に傷がつかないように図ったんでしょうけれども、
しかし予言者は彼の隠された罪というものを指摘したときに、彼は本当にそこでもって大きくそろそろ震われて、
王として立つこともできない、そういう自分の愚かさ、弱さ、醜さ、一つの罪からさらに大きな罪を犯していく自分の存在に、
彼は心に裏切り、この裏切りを感じたでしょう。彼はそれこそ灰をかぶり、王としてではなく一回のとんでもない罪を犯してしまったという自分の愚かさを神様の前にくじたわけですね。
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それが支援の五十一遍と言われています。それだけに自分にとって何が幸せか。不倫までしていたその彼女を自分の元に迎えたということが幸せだったのか、そうではない。
権力も自分の地位も、そしてまた周りの国を供えていった自分のこの才能も、私を幸せにしたかというとそうではない。何が幸せだったかというと、とんでもない罪を犯してしまった私のこの罪が主は許してくださったこと。
私の咎を咎めなしと宣言してくださったこの方、そしてまたそのことこそが私にとって一番幸せだった。
だから私の生涯において、このお方をいつも思うことは、私の幸せの第一条件だ、そのことをこの今の十六篇の二節でもって歌うわけですね。
さらに三節を見ますと、そこには地にある生徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて彼らの中にあります。
神を知ることの幸い、神により頼むことの幸い、神の中に自分の生き方を見出せることの幸い、神様に対してそういう確かなその道を彼は得ました。
同時に彼はね、人との関係においても、神を思うそういう思いを持って、今度は人に対しての思いを持つわけです。
ラテ柴田の一件で、彼の夫を死に追いやってしまった。自分の忠実な部下をミスミス戦地に送って、そして殺人の罪を犯してしまった。
そういう背景を持つ旅でですから、彼は神様の前に正しく生きる、罪許されてそして生きるということと同じぐらいに、人との関係において、彼は自分の生き方を思い出して、改めてそこで見たわけですよ。
地にある生徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて彼らの中にあります。
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最高の権力の座についたとしても、人を軽んじるようなことはしてはならないし、また、旅ではそういうことの経験の中から、人を大事にする、隣人を大事にする、これがどんなに大切にできるか。
実は旅では、自分の尊敬してやまないサウローに仕えて、仕えて、本当に仕えてきた。
ところがそのサウローは、妬みのゆえに、本来ならば自分の後をヨナタンにと思ったでしょう、自分の息子にと。
けども人々の気持ちは、旅でなんですよね。
親としてサウローは、せっかく自分が譲り受けたこの老い、そしてここまで守ってきたこの老いを、何とか自分の息子に譲りたいという親の気持ちもあったかと思う。
そういう思いがあれば、余計ですね、ダビデ、ダビデ、ダビデ、と言って、そしてダビデの名声が国中に広がっていく、その様を見たときに、
ダビデの存在は、サウローにとってはですね、自分を脅かし、自分の王家を脅かすということで、彼を暗殺しようとしたわけでしょう。
しかし、ダビデは、サウローの刃が自分に向かっていくことを知ったときに、逃れました。
あるときは、ダビデがこちらに隠れる、それを追って、そしてサウローの一軍がそこに追い詰めてくる。
夜の日程の出来事ですけれども、サウローも疲れて休んでいるときに、サウローは数人の部下と一緒に、サウローの休んでいるところに行ったわけでしょう。
部下の一人は、ダビデ王よ、今こそサウローをここで泣きむりにするならば、あなたはサウローの後を継ぐんです。
私たちはそのことを願っているんです、という熱い気持ちをダビデに向けたでしょう。
しかし、ダビデは、サウローも神の選びでもって王になれた。
神が選んだその器を、どうして私ごとき者が財布を向けることができようか。
ただ、そういうチャンスはあったということを、後にぜひサウローに知ってほしい。
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決して私はサウローの命を求めるものではないんだということを知ってほしいということで、一つの印を持って帰るわけですね。
そしてそれでもって、自分は決してサウローを、その王位を、サウロー自身の命を狙うということは決してしないんです。
サウローも、そういうダビデの忠誠をそこで改めて知って、そして追うこともやめ、またダビデもそこから逃れることができたという場面が書いてありますけれども。
彼はそれだけにね、やっぱり自分の部下を愛して、自分の隣人を愛して、そして本当にその関係において正しくあるということが、神様の身むねだ。
自分の喜びだと、ダビデはそのことをですね、この二節において言うわけです。
地にある聖人たちは威厳があり、私の喜びはすべて彼の中にあり。
五節を見ますと、ここでは常に神様の最善を自分の人生に見ていたと言える言葉がそこに記されています。
地は私の割り当ての分、万役では譲りの地者。また坂月、あなたは私の受ける分を固く保たれます。
割り当ての地は定まりました。私の好むところに、実に素晴らしい私への譲りの地です。
と言って、ここではね、自分が勝利を得て、そして拡大したこのイスラエル全道を私に割り当てられたと彼は言ってないんですね。
宗こそが私にとって私の譲りの地です。
そしてそこには、彼は最悪と思えるような時でも、神に対するそういう信頼を持って生きる、彼は神の最善というものをそこでもってしっかりと受け止めていた。
ダビデには大きな悲しみというものを経験していくわけです。
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それは愛してやまない自分のアブサルムという子の息子、やがては彼が自分の後を進むだろう。
ところが、その期待にして、そして本当にそのことを希望していたダビデは、その自分の息子に言うならば、さむかれるわけですよ。
王位を確立し、王国をそこに打ち立ったダビデは、息子に刃を向けることを避けて、そしてイスラエルの地へ逃げていくわけですよね。
イスラエルに行きました時にね、アブサルムの墓っていう、そう言われている墓がありましてね、今でも中にはね、ダビデ王様の気持ちを全てだと思っているそういう人にとっては、
あの憎たらしい長男のアブサルムってですね、その墓に向かって石を投げつける人が未だにもいるんだっていうことを案内してくれたガイドさんが言っておりましたけどね。
ダビデは決して自分の息子がどんなに自分に背こうと、彼は刃を向けませんでした。
逃れて逃れて、そしてその戦うことを放棄したぐらい、ダビデはアブサルムとの戦いを避けました。
私は聞いているのは、親子関係がそこにしっかりあったとしても、権力とか財産とかそういったものが絡んでまいりますとね、
たとえ親子であっても、ダビデが経験したようなそういう刺激を味わう、あるいはそういう事件を今日のうちはよく見ます。
ダビデが決してアブサルムに刃を向けなかったというこの一つは、神様が私をこの割り当てとして地としてお与えくださった。
そこには神を見るという彼の信仰とその生き方がそこにあるわけです。
アブサルムがどう自分に背こうと、あるいはその周りの者が、そのアブサルムが王になるならば私たちはその権力に扱って、そして私たちもいい目にあるんじゃないかという、
27:17
そういう野心を持っているような周りにそういう者がおったとしても、
けれどもダビデはそういうことよりも、神ご自身が私の譲りの地、神ご自身が私にとっては全ての地だ、そこには最善を成し消される神が私と共におられる。
そしてさらに、八節九節を見ますと、ここに神に対する謙虚さが謳われていると思います。
私はいつも私の前に宗を置いた、これは私が読んでおります前の神科学聖書ですが、
今の十七演訳の方では、確かにこれは置いたという言葉には、私はそういう言葉を教えてもらってきましたから、
神様を送っているのはどういうことなんだろうかという、そんな僕の疑問を持った時がありました。
ところが、この新しい訳では、私はいつも宗を前にしています。宗は私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。
それにえ私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかにすがいます。と八節九節でラビレを歌います。
人を軽んじることをしなかったラビレは、そこには神様に対する謙虚さというものがあったからと申し上げることができます。
何か自分が権力の座に立つと、いつしかそれが人を圧迫し、人よりも自分の方があるという思いから、神様を見るということが失われていく。
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でもここでは、私は宗を前にしています。ですから人がどうのというよりも、あるいは力がどうのというよりも、宗が私のすべてとして、そして私はそのお方を前にしていくその時、
決して宗から目を離さないでいくその歩みにおいて、神は私にとっての最善であり、私にとっての何回も言われておりますように、喜び、幸せという、そのことを言います。
私はこの支援の十六篇を読みながら、世界の指導者たちがこの支援の十六篇に目を向けていくならば、今のウクライナの問題、そういったことも起きなかったのではないか。
プーチンも、モスヤセイ教のそういう教えの中にあるということを言っておりますけれども、しかし、どんな立派な宗教であれ、あるいはそういう大秘教が自分に支えとなっていると言っていた人も、
プーチン自身が聖書にその知恵を求めたならば、今日のような恐ろしい展開は避けられたのではないか。
人は自分の権力に目を向くとき、どういうふうに歩んでいくか、どういうふうに変わっていくか、死を見るときに、死を前にするときに、その方の前に自分がどんなものかということを謙虚に受け止めることができるようになるわけですよ。
私はそう言いに行って、別にその権力の差とか、そういうものを求めるということは、求めてもらえませんけれども、なくてよかったなと思って。
もし私のような弱い人間がそういうものを手にしちゃったならば、もう人よりも自分というふうになってしまって、どんな誤った道をまた大勢の人々を巻き添えにして、とんでもない道を歩んだかわからない。
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けれども死を前にした生き方にこそ、私たちは他のことは知りませんけれども、しかし死を前にしていくこの生き方ということを知るだけで、どんなに私たちは周りから守られるか。
その臨在ということを私たちはその言葉を使いますけれども、まさに私たちが教えられてきております、死が共におられるというこの臨在こそが、そこにいつも目が向いているとき、私たちの日々は守られるし、私の人生も守られていく。
それがあっての今日の私たちだなということを改めて思います。どうぞ私たちはダビデが信仰を持って歌ったこの歌を、私たちの歌として、また私たちの信仰の告白として、この言葉をしっかりと受け止めていきたい。お祈りいたします。