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2025-10-05 34:01

2025/10/05:愚かさの中で進む御業

2025/10/05 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第一 12:7-25



サマリー

このエピソードでは、イスラエルの民が神を求める代わりに王を立てることを望んだことについて語られています。彼らの選択が神を悲しませ、過去の愚かさを繰り返すことになる教訓が学ばれます。また、神がイスラエルを回復するために選んだ王サウルに焦点が当てられ、その人間の愚かさや不十分さにもかかわらず、神がどのように御業を進めるかが考察されます。サウルの王任職の過程や、神の霊が彼に働きかける様子が詳しく語られています。さらに、神が目に見えない存在でありながら、教会と信者を導き救い出している様子も描かれており、愚かさや不十分さを抱える人間に対しても神の愛が変わらないことが強調されています。

王を求めるイスラエルの民
それでは一言お祈りをいたします。
恵みと憐みに富んでおられる天の父なる神様、
今日も私たちをあなたの御前へと集わしてくださり、
あなたが私たちを恵もうと待ち構えていてくださることを感謝いたします。
あなたは私たちを限りない愛をもって愛し抜いてくださいました。
御子イエスキリストを十字架に捧げ、
その流された父よによって私たちの罪を許し、
あなたの罪はもう私が背負ったと宣言してくださり、
罪を許し神のことし、永遠の命を私たちに与えてくださいました。
永遠なる神と結びつけられた命、決して自分の足だけで立つのではない、
神の恵みによって持ち運ばれる新たな命へと私たちを入れてくださいました。
ありがとうございます。
それゆえに父よ、あなたの命の言葉によって励まされて、
ここからまた立ちたいと願っています。
どうか御言葉を開いてください。
ここに来れないお一人一人施設におられる方、
また心が向かずにここに来れない方、
御支度で礼拝を守らざるを得ない方もいらっしゃいます。
どうかお一人一人お主がそこにいてくださって、
その思いを守ってください。
信仰を与えてくださいますようにお願いいたします。
日本のまた次期、指導者が決まろうとしています。
主よ、この国もあなたが本当に良い人を立ててくださること、
そしてまたあなたの御心がそこに現されることを願っています。
どうか主がその所のうちにも日本のうちにも働いてくださいますよう
重ねてお願いいたします。
神の悲しみと愚かさ
これからの時を御手に委ねます。御言葉を開いてくださいますように。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
大学生時代にお世話になった方が何名かいらっしゃいますが、
そのうちに一人、私にいろいろ聖書のことを教えてくださった先生がいます。
その方によく言われた言葉、私も皆さんに多分それを借りて言っているような言葉ですけれども、
その方がよくこういうことをおっしゃいました。
私たちは人間である以上必ず失敗をします。
必ずと言っていいほど私たちは失敗をします。
けれども、だからといってそれで神様の愛が変わったと思わないでください。
神様は不完全で不十分な私たちを主の御業のために用いてくださるんですとはっきりと言ってくださったんですね。
私はその言葉にどれほど慰めを受けたかなということを思います。
そして神様のことを学べば学ぶほどですね、
そうだ確かに神様というお方はそういうお方なんだということをつくづく思います。
私たちは失敗をする限界もある。
でもそういう私たちとともに主はいてください。
そのことを覚えます。
そのようなことを今朝お開きしました第一サムエル記の十二章、
今朝はこの八章から十二章の範囲を少しさらっと見ていきますが、
そういうところで見えてくるものです。
今朝この八章と十二章の間で扱われるテーマが一つだけあります。
それは王様を立てるということです。
王様が立つということ。
ただこれはちょっと緊張感があるテーマなのですね。
というのは聖書は王様が立つというプロセスを
全体的に肯定しては書いてないんです。
少しだけここに至るまでの内容も繰り返りますと、
私たちは二週間前に七章まで見てきました。
七章まで書いてあったのは、イスラエルの民の愚かさでした。
神の箱を戦場に持ち込んだ長老たち、そしてホフニとピネハスがいますが、
あたかも神の箱をお守りのように戦場に持ってきてしまう。
神様をお守りのように扱おうとした。
しかしそれは愚かであると聖書は語りますね。そうではない。
神はむしろ私たちがお守りのように扱えるようなお方ではない。
神はむしろこの世界の王であって、
私たちが自分の願いのために利用するのではなく、
神に私たちは跪かなければならない。
しかしその跪き方がわからなくなっていたイスラエルの民に対して、
サムエルはあなたの心のすべてをもって悔い改めなさいと語りました。
いわば方向転換を神の方へと眼差しを向けなさいとはっきりと語りました。
その結果、神様はペリシテ人を退けてくださるわけです。
そこまでいったらだいたい一件落着かなと思うのですが、実はそうはいかない。
あの死式のときと同じように、イスラエルの民は喉元をすぎればまた同じことを繰り返す。
安定したら彼らは偶像を求めていくのですね。
ただ今回彼らが求めた偶像というのは、どこかの国の神様であったりだとか誰かではなくて、
今回彼らが求めた次の偶像は王様であったということです。
今朝の8章から12章、少し3つのポイントでご一緒に見ていきたいと思います。
8章に書かれてありますこと、第一のポイントそれは、
王を立ててくださいという民の願いです。王を立ててください。
8章の1節から少しお読みします。
8章の1節から。
サムエルは年老いたとき、息子たちをイスラエルの裁きつかさとして任命した。
長男の名はヨエル、次男の名はアビアであった。
彼らはベールシェバで裁きつかさをしていた。
しかしこの息子たちは父の道に歩まず利徳を追い求め、賄賂を受け取り裁きを曲げていた。
イスラエルの長老たちは皆集まり、ラマにいるサムエルのところにやってきて彼に言った。
ご覧ください、あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。
どうか今、他のすべての国民のように私たちを裁く王を立ててください。
意外なことに、サムエルは年を重ね、そしてサムエルの子供たちは、
実はサムエルのように主に従わなかったんですね。
彼らは主の道から逸れていったということが書いてある。
それが理由かもしれません。
サムエルは年を置いて、サムエルのようなイスラエルをまとめてくれる指導者がもういなくなってしまう。
その子供たちは主の道に立っていない。
人々は求めました、王を立ててください。王様を立ててください。
時は非常に不穏な時代でした。
東にはアンモン人、西にはペリシテという強い民族に挟まれている時代だった。
そのような中で、ここでサムエルというリーダーを失ったら、僕たちはどうなるか分からない。
王を立ててください。
サムエルというのは王様ではありません。
彼はサバキツカサと呼ばれる人でした。
サバキツカサというのは、あくまでイスラエル十二部族の一つの部族のリーダーみたいなものなんです。
だから全体に対して指揮する時もあれば、でもやっぱり一つの部族のリーダーに過ぎないのです。
でも王様というのは部族全体をまとめるトップを立ててくださいということです。
そのトップによって一貫した支持が与えられて、軍隊が一貫して強くされていって、強固なものと国がされていくというのが、他の全ての国民がしていたことだったんですね。
だから私たちもそういうふうにしてください、王を立ててくださいと彼らは求めた。
しかしながら、この民の求めは8章の6節にありますが、
サムエルの目には悪しきことに映りますし、そして7節を見るならば、神様はそれを悲しまれるのです。
7節8節を読むと、主はサムエルに言われた、
民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよう。なぜなら彼らはあなたを拒んだのではなく、私が王として彼らを治めることを拒んだのだから。
私が彼らをエジプトから連れ登った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、私を捨てて他の神々に仕えることだった。そのように彼らはあなたにもしているのだ。
民は昔から変わらないという知識のパターンを繰り返しているということです。
そして彼らがすることは、私を捨て他の神々に仕える。時にそれは他国の偶像でありました。
時にそれは神の箱でありました。時にそれはサムエルでありました。
そして次に彼らが求めるのは王様。でもそれは同じことを繰り返している。
自分を救ってくれる都合のいい目に見える何かを立ててください。
いわばそれが偶像ですね。
この民の願いは神様を悲しませました。なぜでしょうか。
目に見えずとも、私はあると言われている神様が、イスラエルを全部族を導き養い守り戦ってきた王様だったからです。ずっとそうだったからです。
目には見えずとも、イスラエルの王は神様でした。
そして他の国、国民のようにというのは実に皮肉な言葉ですね。
王を求める民はイスラエルを他の国と同じようにしたいのです。
しかしイスラエルの特質とはむしろ他の国とは違うということに意味がある。聖なる国民なんです。
出エジプト紀の19章の6節にありますが、イスラエルは最始の王国、聖なる民という言葉がありますね。
この世の他の国々とは違う。イスラエルは自分たちで軍隊を強くして奴隷のように人を使って収穫を得ようとする。違う。
神の祝福と神の守りによって生きる民であったわけです。
しかし彼らが再び他の国々と同じように王様を求めるというのは8章の17節で神様が言われていますが、
あなた方自身は王の奴隷になる。いわば元のエジプトの奴隷であったときのようにあなたたちは再び奴隷に戻るんですよということを言うのですね。
けれどもこの8章の9節を見ますと、そうでありながら神様はここで彼らの声を聞き入れよというのです。
いわば王様を擁立することを容認するわけです。
ここまで王を立てるというのは愚かであるということを語るわけですが、しかし神様はイスラエルの民の判断に付き合われるんですよ。ここが不思議なんですね。不思議です。
裁きと選択の不思議
けれども神というお方は人の愚かさを見て裁いて終わる方ではないのです。
神様の裁きというのは裁かざるを得ないところまで行って、なお痛みながら裁きを下される。言うこと聞かないから叩いてしまえという親ではないのです。
神様の目的はイスラエルの回復です。そこに人間の愚かさに悲しみながらも歩幅を合わせて進もうとする神の姿がここにはあるのですね。
天地を治めるマコトの王と人間の王。イスラエルに王様が立つことの緊張関係は何かというと、民にとって王様が二つできるということです。
マコトの王である神と人間の王が立ってしまうという時に、どっちを見たらいいかが民が迷う。この緊張関係ですね。
そのため王政というのは聖書ではいつまでも無礼です。しかし王様を立てるのであれば、人が王を立てるのではない。神様ご自身が御心にかなう王を立てていかれる。
それが二つ目のポイントです。神が王を立てるということが9章から11章で出てまいります。神様が王を立てる。
9章のところは最初に書いてありますけれども、神様はサウルという青年を選ばれます。9章の1節2節に見ていただいたらわかりますが、サウルの特徴は非常にイケメンだったということです。
背丈が高くて美しい青年だったということが書いてあります。ただ言い方を変えるならばそれ以外のことは書いていません。
そしてこのサウルという青年は三段階に分けて王様になっていくんですね。彼は三つの段階を経て王様になっていきます。
一つ目は9章のこの11節以降に書いてありますけれども、サムエルに対して神様がこれが私の選んだ器だよと言ってサウルに合わせるんですね。
そして10章の一番最初の1節を見るならば、神様がこれが私の選んだ王だと伝え、10章の1節ではサムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注いで彼に口づけをした。
一つ目はサムエルがサウルに油を注いだというところでまず第一段階です。ただ少し不穏な空気が常に流れますというのは、実は9章の16節というところにこういうことが書いてあります。
神様の言葉です。明日の今頃、私はある人をベニヤミンの力あなたのところに使わす。あなたはその人に油を注ぎ、私の民イスラエルの君主とせよと書いてあるんですね。
君主とせよという言葉は実はこれは王様という言葉とは違います。君主という言葉はこれは支配者を意味するんですが、どちらかというとニュアンスとしたら軍隊長なんです。
軍隊長です。いわば全体の王様みたいなニュアンスでまだ神様は言ってないんですね。
そしてサムエルから油を注がれたサウルは10章の9節を見ますと、神の霊がサウルに激しく臨んで、彼は新しい心が与えられたということが描かれています。
サウルの王に選ばれる過程
神の霊がサウルに臨んで、新しい心が与えられる。いわば油も注がれて、神の霊も注がれて、彼は王としての心も何か強くされるのですけれども、しかし不穏な空気がある。
10章の16節では、家に帰ったサウルは、このサムエルから油を注がれたことも、神の霊が下ったことも周りには秘密にしていたというのです。彼はそのことを公には言わなかったのです。
そして2つ目。サウルが王に認職されるもう一つの段階は、この10章の17節以降に書いていますが、今度は民全体の中でくじ引きをして、誰が王様になるべきかということを選ぶわけです。
その時もサウルはくじ引きで選ばれるのですけれども、不穏な空気が10章の22節。人々はさらに主に、あの人はもうここに来ているのですかと尋ねた。主は見よ、彼は荷物の間に隠れているというのです。
くじによって王様として選ばれたサウルだけれども、彼は選ばれた途端隠れるのです。そしてそういうサウル、ある種逃げていくサウルに対して、サウルを王として認めないという一段も現れますが、10章の27節を見るならば、彼を軽蔑し贈り物を持ってこなかった人々に対して彼は黙っていたということも書いてあります。黙っていた。
ずっとサウルが、言い方が難しいですが、逃げ続けるのです。しかもちょっと情けないのです。
そして3つ目ですね。11章に書かれていることは、そのような中で隣の国であるアンモン人の指導者ナハシという、これはたぶん軍隊の総長ですけれども、彼がイスラエルを攻めに来る。
自分たちに従う印として、あなたの片目をよぶり出しなさいという、すごく残酷なことを言うわけです。しかしその時に、11章の6節にありますが、神の霊がサウルに激しく下るわけですね。
そして彼は強烈な指導力を発揮して、そして多くの民に主への恐れを引き起こしてアンモン人を打ち破る。この時になってサウルは初めて、サムエルからも民からも王として認められる。
11章の14節に書いてありますが、サムエルは民に行った。さあ我々はギルガルに行って、そこで王政を樹立しようとサムエルが言います。民は皆ギルガルに行き、ギルガルで主の前にサウルを王としたと。サムエルと民がここでサウルを正式に王とするのです。
さてですね、ここまでの流れを見ていくと思います。果たしてサウルは王としてふさわしい人物であったのでしょうか。
彼は最初にこう言うんですね。9章の21節というところで、サムエルに選ばれる時に彼は、すみません、9章の21節じゃないですね。9章の21節に彼はこう言いますね。サウルはサムエルに言うんです。
私はベニヤ民人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族はベニヤ民の部族のどの家族よりもトルに足りないものでありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。サウルが言うことは、私はふさわしくないと彼は最初からずっと言うんです。
人間の不十分さと神の業
ベニヤ民族というのは、死しきの最後に滅亡寸前まで追いやられた民族ですね。だから母数もものすごく小さくて、存続するかどうかの民族での自分ですよと。加えて、おそらく彼は王様になる上での経験も何もないんです。
私はふさわしくない、それが彼が王の任職の重さから逃げる理由でした。私はふさわしくない、私は不十分だと彼自身がよく思っているのです。しかし、その彼の生まれや彼の若さなど、そのような素質の不十分さというのは、実はここではさほど問題にはされていないんです。神様はそのことを問題に挙げてはいません。
いえ、むしろその不十分さを補って余りあるほどに、サウルには神の霊が働き続けるんですね。そして彼は予言をいたします。神の霊に満たされた彼は、勇気が与えられて、ナハシュに立ち向かっていきます。
それはあたかも経験も素質もないサウルを神の霊が、神ご自身が王とすると言わんばかりにです。そのように働くんですね。確かに私たちは神様はそういうことをなさる方だなということを思い出していただきたいのです。
南ウダが崩壊して、補修後に新たな指導者として立てられた人は、ゼルバベルですね。ゼルバベルが王として立て、リーダーとして立てられるときに、神様が語った言葉は、ゼカリアの四章の六節でした。
権力によらず能力によらず私の霊によって私はこのことを進めると言われましたね。権力によらず能力によらず私の霊によって神の王はそのように立てられる。そして人間的に優れたものを選ばれるのではないんですね。
神様はむしろ賭けがあるもの、そのようなものを用いられて、我が霊によってその業を進められる。なぜか、素質のないものが、しかし主の霊によって身業がなされていくときに、第一コリントの一章に書いてあります。誇る者は主を誇れと誇れるからです。
そのように、そのような王様を神様は立てようとなさるのですね。
さて、三つ目のポイントを見てもう終わりますが、今朝のこれらの箇所の流れから、私たちが一緒に心に留められることそれは、神様は人間の愚かさや不十分さにかかわらず、身業を進めるということです。
人間の愚かさや不十分さにかかわらず、主は身業を進められる。
王を立ててください。その願いは、イスラエルの民にとっては愚かな願いです。愚かな願いでした。
そして王として選ばれたサウルは、王様としての経験も素質も不十分でありました。
しかし神様は、イスラエルの愚かさ、立てた器の不十分さ、しかしそれらを用いても、神はご自身の身業を前進させられるのです。
イスラエルを回復へと導かれるのです。それが、誠の王である神の力なんですね。
イスラエルをエジプトから導き出したあの神の力、そのように主は人を用いることができるんですね。
私が何ができないではなくて、主は人を用いることができる。
今朝、十二章の七節から読んでいただきました。
七節からの言葉というのは、まさに契約を再締結する、そのような言葉の作り方ですね。
七節から十一節、さらっと確認しますが、ここで書かれているのは、イスラエルの歴史をサムエルが振り返るのです。
あのエジプトを導き出した時も、そしてその後も様々な志々を立てて、私、神はあなた方を助けてきたよね。
でも十節をご覧ください。十二章の十節。
先祖たちは主に叫んで、私たちは主を捨て、バールやアスタロテの神々に仕えて罪を犯しました。
今私たちがあなたに仕えるため、敵の手から救い出してくださいと言ったと。
これ皆さんなじみのある、イスラエルの民が不従順の上に滅ぼされそうになった時に、神様に助けを求める。決まっている言葉ですが。
しかし、この流れで十二節の言葉に行くんです。
しかし、安文人の王ナハシはあなた方に向かってくるのを見た時、あなた方の神主があなた方の王であるのに、いや王が私たちを治めるのだと私に言った。
あの時に民が過ちを犯したことを、今あなたたちは王を求めることによって同じことをしていると言っているんです。
それは偶像をあなたたちは求めている。王というのは偶像になり得る。
危機の時に多くの死士が立ちました。それぞれ素晴らしい人でありました。
けれども、七節から十一節に一貫しているのは、いやそれを立ててあなたたちを救ったのは主だ。主があなた方を救い出したということを繰り返し語るのです。
そして目に見えずともイスラエルの王はいいえ私たちに当てはめるならば、教会の頭は主であるということをはっきりと言うのです。
あなた方は新たな王を求めた。危機の時にサムエルの次はこの人、この人がいなくなったら次はこの人というように目に見える誰かを求めた。
神の導きと王の選択
しかしずっと頭として教会を導き民を導いたのは、目には見えずともあなた方を導き強めてきた神ご自身であるということ。
それなのに私たちには王がいない、次の王様が欲しいというのは、目に見えずともあなた方を導いてきた王をいないと言っていることと一緒ですよということです。
十三節の言葉。今見なさい。あなた方が求め選んだ王だ。見なさい。主はあなた方の上に王を置かれた。見なさいと二回繰り返されます。
でも意味深いと思います。見なさい。あなた方が求め選んだ王だという時に、それには人間サウルのある種の弱さ、王としての不十分さというものが見えます。
しかしもう一度見なさいという時に、主はあなた方の上に王を置かれた。民の王を求める愚かさ、サウルの不十分さをも超えて、主がその王を立てて導いているのだ。
多くの獅子を立てた時と同じように、今も主があなた方を救い出しているその事実を知りなさいと招かれている。
またから十四節十五節に書いてあることは、主を恐れなさいということですね。
あなた方が主を恐れ、主に使え、主の御声に聞き従え、主の命令に逆らわず、またあなた方もあなた方の治める王も、自分たちの神主の後に従うならそれでよい。
しかしもしあなた方が主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなた方とあなた方の先祖の上に下る。主にのみ使えなさいと勧められます。
教会もそうです。教会の頭である主が教会に連なる私たちを救い出してくださっている。
目に見える誰かというのは、主に使えるがゆえに皆さんを支え、助けますけれども、ただ救い主はいける誠の主御自身です。
そのことを私たちは見誤ってはならないですね。
教会の歩みというのはもう終わりますが、教会の歩みといいますものは、人間の営みである以上必ず失敗をします。
人間の愚かさは常に入り込んできます。私たちは人の不十分さがよく見えます。
一番多分私なんかそうかもしれませんね。なんか不十分な牧師やなと思われて本当に申し訳ないかもしれません。
でもそれを批判する時もあれば、自分自身こそ盲目であると気づかされることもあるでしょう。
でも私たちは教会の頭が主であること、神が、愚かさも不十分さをも持ち主の御業を進めることができる。
悔い改めと方向転換
そのお方をあなたたち私たちは見ていますかと問われるのですね。
そして、ああそうか、愚かさや不十分さがあっても大丈夫なんやってある人、そういう開き直りを持つこともせずに、私たちがそこで求められることは悔い改めですね。
悔い改めというのは言っても方向転換です。
方向転換?
方向転換というのは、それは見る場所を変えるということ。
私たちが見るのは、他人や自分の弱さ、他人や自分の愚かさ、不十分さ。
それを見て、あいつはダメだ、私はダメだ、ではなくて、方向転換の見つめる先はいつでも神様ご自身です。
教会の頭であり、私たちを導いているのは神ご自身だからです。
時に愚かで、不十分な私を、教会を、しかしそれらをも貫いて、主の御業を進んでいくんです。
その主を見ているか、その方をあなたは見ているかと、私たちは共に問われる。
今日、中心世紀にした言葉ですね。十五節の言葉です。
しかし、もしあなた方が主の御業に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなた方とあなた方の先祖の上に下る。
物騒な言葉ですが、ここで言っているのは何かというと、主の手があなた方の上に下ると言っているんです。主の手が。
この言葉の前に、私たちは本当に主を恐れますね。どうか、見つめる相手を間違えないようにしたいと思います。
私たちを飢え、私たちを抜くことができるのは、神御自身です。ただ、忘れないでいただきたい。
その神は、私たちが愚かであろうとも、私たちは不十分であり、失敗をしようとも、私たちに対する愛は変えようとはなさらない。
この御方を見つめ続けなさいと、私たちは招かれる。
どうか、主を恐れ、その前にひざまずきたいと願います。一言お祈りをいたします。
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