00:02
皆さん、おはようございます。今日もよくいらっしゃいました。
それでは、メッセージに入る前にですね、今日は初めての方ともいらっしゃいますけれども、お互いに挨拶しましょうか。
よくお下げいらっしゃいました。ありがとうございます。一度お祈りしたいと思います。
愛する父の神様、今日もこうして私たち一人一人を過ぎ去った一週間も、父が支えて救って恵んでくださって、ここにまた私たちを呼び寄せてくださった恵みを心から感謝いたします。
主よどうぞ、私たちが今日捧げるこの礼拝が、神様の心にかなった礼拝、神様を喜ばせる礼拝となりますように。
そして今、この御言葉のこの時を、主よどうぞ、一人一人の心が開かれて、そして神の御声を聞くことができますように。
あなたの御心を聞くことができますように。あなたの心に伝わることができますように。主よどうぞ、一人一人に主がどうぞ、かつはりかけてくださいますように、お願いをいたします。
二手にいられて、待ち望みつつ、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
はい、今日はですね、続いている使徒の働き公開説教8回目です。今日はですね、3章に入りました。
今日もイエス様が皆さん一人一人にですね、大きな大きな恵みを注いでくださいますように、心からお祈り申し上げます。
私たちはこの使徒の働きを通して、主の心にかなった聖徒、教会はどんなものなのか、それをですね、本当に恵みのうちに教わっていることを感謝いたします。
そしてですね、教わったこと、悟ったことを通して、私たち一人一人、そしてこの明沢教会が本当にですね、主の心にかなった教会、主を喜ばせる教会になっていきたいと、そう説に願っております。
皆さん聖書にはですね、旧約聖書の小石から新約の最後のヨハネの目記録まで見ますと、1000人以上の人物が出てくるんですね。アダムとエヴァから始まってですね、1000人以上の人物が出てくるんですけれども、
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その人々の、彼らの出来事やいろんなことが書かれているんじゃないですか。そこを見たらですね、ほとんどの人にですね、失敗が多くて、また短所が多くて、欠点が多くて、疑いが多く、そういう人々が実はですね、聖書にたくさん出てくるんですね。
ですから、聖書はですね、ある意味で人間の失敗を扱っていると言っても、それは間違いじゃないと思うんですね。ところが、失敗した、それで終わりではないんです。失敗した、それで終わっていないこと、それが実はですね、私たちに大きな慰めになるんですね。
まずなら皆さん、失敗しましたが、人間たちが失敗しましたけれども、主は彼らを捨てられず、癒し、立てて、用いてくださる、さらに偉大な主が彼らと共におられることをですね、聖書は実はそれを語っているんですね。
今日、三章の一節の一番頭に出てくるペテルとヨハネが、実はそのような人物だったんですね。ペテルのことをちょっと考えてみましょう、皆さん。
ペテルの人生には大きな二回のターニングポイント、天気が二回ありました。一回目はいつでしょうか。彼が猟師であったときに、あのガリラ夜行でジェス様にお会いしたこと、これが彼らの人生にとっては第一回目の大きなターニングポイントでした。
そして二回目は、先週まで一緒に教わったこの人の働き第二章、あの御存説の詩に精霊の満たしを受けたあのときが、ペテルの人生には第二回目のターニングポイントでした。
一回目から見ていきましょう。ペテルは皆さん、家様に出会ってですね、まったく新しい人生が始まりました。私たちとみんな同じなんですね。天の人に変えられていきました。家様の御言葉通りに変えられていきました。
06:00
ところがですね、彼はそのようにして家様の弟子になりましたけれども、彼にはペテルだけではなくですね、ユハネとかマタイとか、彼らには本当に人間臭くて弱いところがたくさんあったんですね。
この人の働き第二章のあのペンテコステの以前のペテルは、彼の様子はどうだったんでしょうか。皆さんよくお存じなんですよね。彼は皆さん、家様を信じていなかったわけではないんですね。家様を信じていましたよ。
家様の弟子と、家様とですね、三年も一緒に電動をして、そして一緒に食事をして、家様の御言葉を一番近くで聞いていました。そして家様がですね、二種の魚と五つのパンを持って、五千人以上も食べさせた奇跡も彼は自分が見た。
三十八年もなったその病人を癒した奇跡も見た。水を葡萄汁に変えた家様のあの印も彼は見たんですね。皆さんペテルは家様を信じていないわけではないんです。彼が家様の弟子でないわけでもありません。
家様を信じていました弟子でした。ところがですね、この御存説の前のペテルはどうだったでしょうか。失敗が多くて欠点が多くて、本当に今の私もそうであるかもしれません。皆さんには失敗あるいは欠点があまりないかもしれませんが、たくさんあるんですね。
ところがですね、この以前のペテルには、彼が病人を癒したこととか、人を救わせたとか、奇跡を起こしたこととか、そういったことはですね、なかなかなかったんですね。
むしろですね、家様を知りません。呪いまでしてですね、逃げて。弟子でした。家様を信じていました。3年も家様と一緒にですね、ずっと一緒でしたね。
にも変わらず、ペテルには大きな失敗があって、彼の人生には信じてはいましたが、弟子でありましたけれども、大きな大きな素晴らしい教育や救いはなかなかなかったんですね。
ところが皆さん、生徒がですね、このままで終わったならば、この人の働きのペテルは存在しなかったかもしれませんね。
ところがイエス様は、先ほど申し上げたように、失敗したペテルのような彼らを失敗したそのままでは、もう彼は無理だと思ってですね、放っておかれたわけではないんです。
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ペテルたちがたとえ失敗しましたけれども、弱さをたくさん抱えている人であっても、不信心があったんですね。
イエス様もよく知らなかったんですね。
ところが、にも変わらず、イエス様は彼らに精霊の満たしを与え、そして彼らをですね、今日のこの第三教、あるいは人の働き第二教、この人の働きに登場するあのペテルたち、
その偉大な人に、本当の意味としての是非に、主は彼らを変わらせてくださった。その主がここにもおられ、今、私たちと共におられることを心に留めていただきたいと願っております。
ですから皆さん、このですね、御尊節の精霊の満たしを受けた後のペテルたちは、その以前の彼らと全く別人のように変えられました。全く別人のように変えられました。
彼はですね、精霊の人に変えられました。力の人に変えられました。救いの伝道者に変えられました。
大胆にですね、イエス様について証明をする承認に変えられました。二度とですね、イエス様を知りません、知りませんとですね、死ぬことを恐れてですね、逃げた、そんな臆病の者ではなかった。
何によってでしょうか。何があったからこのように変えられたのでしょうか。それはイエス様を信じた信仰から始まって、それが重なって重なって、そしてやがてですね、精霊の満たしを受けたその日以来、ペテルたちは全く変えられました。
私たちも同じです。まずはイエス様を人格的にお会いして、そのイエス様を救いの者として受け入れて信じる時に、私たちの人生における天皇の扉が開けます。天皇祝福が望まれます。
そしてこの臆病の人生ではなく、天皇人生に変えられ、それが来たとするわけなんですよね。確かに私たちがイエス様を信じて受け入れる時に、その救いが本物だったらですね、精霊によって生まれ変わるわけです。
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だからその人の心の中に、人生の中に、精霊様がおられることは間違いではありません。ところが、それで終わりではありません。ペテロがこの御存説の日に精霊の満たしを受けたように、全てのクリスチャーは精霊に満たされつつ歩んでいかなければなりません。
どうか皆さん、私たちもですね、精霊の満たしを受けて、ペテロたちのように、ヨハネのように、人たおるのように、力のクリスチャーになっていただきたい。霊の目が開けるクリスチャーになっていただきたい。この妙なに教会が精霊の力に満ちる教会でありたいと、願って願っておるものであります。
そしてですね、心の病や、あるいは体の病、関係における葛藤や人生の悩み、あるいはあらゆる罪の問題を、もし抱えている人がこの妙なに教会の霊廃に鍛えすれば、そこで癒される恵みが起きますように、自由にされる恵みが起きますように、
すべての鎖からですね、解き放たれる、そのような回復と自由と、その恵みが起きますように。それはですね、イエス様の恵みによるものです。精霊の満たしによるものであります。
皆さん、もし皆さんのお気に入り、何かのために心の中に重い重荷を抱えている方が、もし今ここにいらっしゃるでしょうか。あるいは心の病気のゆえに苦しんでいらっしゃる方がおられるでしょうか。
信仰生活はしているんだけれども、何十年もしてはいるんだけれども、霊が枯れていてカサカサとなっているように感じられる方がいらっしゃるでしょうか。あるいは断ち切るべきなのに断ち切っていない罪のゆえに心を重くしてはいらっしゃらないでしょうか。
そうしたらは、今日この質問、御言葉を聞いているうちに、皆さんがですね、精霊の満たしを受けられて、イエス様に今日お会いして、癒やされて、回復されて、人生のその重荷を、その病気を塗り去ってですね、その罪の鎖から解き放たれる、回復される恵みが起きますようにお祈り申し上げます。
15:01
ですから、今日のこの霊愛が、皆さんの人生においてですね、まるでですね、B志とA志で別れるようなその風になっていただきたい。
いつまでですね、ダラダラダラダラB志の人生に、クリスチャンですよ、教会は来ていますよ、精霊を受けました。しかし、まだまだB志に留まっているクリスチャンが少なからずいるということが、実は現実ではないでしょうか。
私がこの御存説の日に、精霊の満たしを受けて、今日の最初にですね、今から申し上げますけれども、全く新しい働きができたような人生がスタートできるんですよ。私たちにできるんですよ。教会にできるんですよ。それを求めようでありませんか。
主よ、私の人生を、私の教会、私の家庭を、主よ、B志じゃなくてA志のものに、この人なじゃらき第二書のように、第三書のようなものに、主よ、変わらせてくださいと祈り求めようでありませんか。
テテロの弱音が、いつものように祈る人でした。祈る人でした。午後三時、祈りの時間。他のところにいたわけではありません。祈りの時に、祈りの場所に、私たちがそこにいる時に、主の恵みが、主の救うが起きるんです。
皆さんいかがでしょうか。祈りの時を、祈りの時間を、守っていらっしゃるでしょうか。テテロの弱音たちが宮に登ってきました。いつものように、祈りのために宮に登っていました。
そこでですね、美しいの門という門があります。エルサレム城壁があって、城壁に囲まれた街なんですね。門がたくさんありますけれども、美しいという美しい門がありました。
そこに、ちょっとアイロニーなんですけれども、門の名は美しいの門ですが、そこに生まれつき足のなえた人が運ばれてきました。彼は自分で歩いてそこで行ってですね、施しを求めることができないから、たぶんですね、毎日仲間に運んでもらって、そこに置いてもらって施しをしていた。
昔の言葉で言うならば、いわゆる固執なんですよね。そうしていました。悲しいことなんです。誰かによって運んでもらわないと何にもできない、本当に悲しい人生でした。
18:02
ところが皆さん、この日ですよ。この日、ペテロとヨハネが祈りに行ったこの日、この名前も知らないこの男の人は、本当にですね、彼の人生は厳しが永遠に180度変えられる人生の日になりました。
今はですね、彼は今までしたように施しを求めていました。お金をもらおうとしたわけなんですよね。門の入り口に座っていて、通りかかる人がいるんですよね。彼らにお金を施しているわけなんです。
ところがですね、ペテロとヨハネは、たぶんですよ。たぶん彼らはこの日だけ美しい門を通りかかったわけではないと思います。ペテロとヨハネたちは以前もですね、この門を通ってニアに登ったことが多くあったと思います。
そして、このあちの前にいた人もいつものようにそこにいたと思うんです。しかしなぜか、今まではそんなことがペテロにもヨハネにもありませんでした。しかしペンテコステのその日、その次からはペテロとヨハネもいつものように彼を通り過ぎたわけではないんですね。
3節をご覧ください。彼はペテロとヨハネがニアに入るとするのを見て、施しを求めた。いつもように施しを求めました。ところが4節をご覧ください。ペテロはヨハネとともに、その男を見つめて、あたしを見なさいと言った。
そして5節。男は何かもらえると思ってですね、お金をもらえるんじゃないか、今日は銀貨をもらえるんじゃないかとかですね、そう思ってですね、二人に注目、目を注ぎた。その次ですよ。6節。一緒にですね、6節を一緒にお読みしたいと思います。6節。
なぜれのイエスキリストの名によって歩きなさいと言ってアメン。
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ペテロにヨハネにあるものは何でしょうか。私たちにあるものは何でしょうか、皆さん。それはイエスキリストの名による力です。どんな人も癒すことのできる力、どんな人も救うことのできる救いの力がイエス様にある。それをペテロとヨハネは持っていました。
それですね、ペテロはこう言いました。なぜれのイエスキリストの名によって歩きなさいと。これはですね、そのような宣言の御言葉でした。今までですね、彼にですね、金貨や銀貨をくれた人はいたかもしれません。
しかし、彼に今日のこのペテロのように、なぜれのイエスキリストの名によって歩きなさいと言ってくれた人は今までなかったわけなんですよね。ペテロたちも今までそれがなかったんですよね。言わなかった。
その心が精霊に満たされたこの日から、ペテロとヨハネは大胆に神の御言葉を宣言する、癒す、救う人に変えられました。それは決心によるものではないんですよね。精霊の力によるものです。
皆さん、このようにですね、精霊に満たされているクリスチャンは、精霊の力によって生きるわけですから、いつもですね、イエスキリストの名とイエスキリストの力によって歩む人なんです。
以前とは全く新しい人生の持ち主に変えられました。ペテロのヨハネも、この名前の知らないこの男の人も、今までの人生は重い重い人生の持ち主でした。しかし、もはや希望の人生の持ち主に変えられました。
今までは失敗の人生の持ち主でした。何をしても疲れて疲れて疲れ果ててしまう人生でした。歩くことができない人生でした。癒すことも救うこともできない人生でした。しかし精霊に満たされて、祝福を与えることのできる、自分が祝福される人生の持ち主に変えられました。
今までは、なぜ生きるのか。人生の本当の目的があるのに関わらず、それを知らないまま生きてきました。しかし、もはや今ごとの人生の目的を見出して、そして生きる人に変えられました。何によってですか?精霊の満たしによってです。
皆さん、聖書をいくら開いてみてください。私の福音書から四つの福音書がありますよね。みなさん、何度も読まれたと思いますよね。例えば、五十年間信仰せかしたら、五十回くらいは読まれたでしょうね。あるいは、百回読まれたかもしれません。読んでもですね、この最初のこのような記事は、前のペテロ・ヨガネ達の人生にはありませんでした。
24:21
何の誓いでしょうか?精霊の満たしの力です。ですから、私たちも皆、精霊の満たしを受けて、精霊によって生きる人生、力のある人生、人を救いに導く人生に変えられることを主は望んでおられ、そうしてくださる主を待ち望もうではありませんか。
ある教会の話をしたいと思います。神奈川県にあるA教会です。この教会は、前からの一つの夢、ビジョンがありました。
富士山がですね、そんなに遠くありませんから、富士山のふもとのいいところに古くてもいいから別荘みたいなペンションみたいな修養家も一軒建ててですね、そこでその教会の信徒や、あるいは他の教会の信徒達が集まって修養会を開いたり、あるいはセミナーをしたり、
あるいは信徒達や、あるいは先生方がですね、何時間もね、泊まってですね、学を目指して、修養したり、あるいは聖書を読んだり、あるいは祈ったり、そういう風にそれができる修養があったらいいなと思って、ずっと祈ってきました。
それですね、皆さん、とても良い夢であって、とても強い希望なんですよね。
皆さん、私がですね、皆さんがですね、本当に主のために良いお願いを持っておれば、良い夢を持っておればですね、それを誰がご存知でしょうか、主が知っておられるんですよ。
私たちの心を探られる方ですから、知っておられて、本当に主のために、神の国のために良い夢を持ってさえおれば、主はそれを叶えてくださるんですよ。
主はその英教会のその夢を叶えてくださりました。富士山のあるこの方にですね、交通もそんなに不便じゃないところに、教会からそんなに遠くないところに空き地がちょうどですね、
27:00
一つの建物を建てて、駐車場もできる、ちょっと庭も作れるぐらいの空き地が出ました。そして教会が本当に安い値段で船を購入できました。そしてですね、素敵な駐輪舎も建てましたよ。
ところがですね、この夢が叶えられたことに、本当に謙遜的に謙遜した一人の信徒さんがいました。彼はですね、その先生がその夢をですね、ずっとこのために祈りましょう、教会の夢にしましょうと言うんですよね。
そしたらですね、彼がですね、こう祈ったそうですよ。神様、あの先生の名前は言いませんけど、その先生の夢が、この教会の夢が私の夢になりました。そして主は私を通してそれを、私にそれをさせてくださいとですね、彼は祈ったんですね。
彼はですね、彼は祈りました。祈りましたよ。祈りから始まりました。それでですね、その時が与えられて、献金が捧げられて。もちろん教会がですね、貯めた献金もありましたけれども、多くの献金は彼によって捧げられて。
しかし今もですね、本当に、私は残念ながらまだ行っていなくて、写真だけ見たわけなんですけれども、本当にですね、使われている。ところがそれで終わりではありませんよ。もう一つあります。その教会に本当にクリスチャンホームの方がいます。私はお会いしたことがあります。
その旦那さんがですね、丁寧をして、年金で暮らせるわけですから、ところがその宿泊を立ててもですね、誰かちゃんときれいに管理しないとですね、また古くなってしまうわけなんですね。
なのでですね、その尊年の方が、自らですね、先生、僕は丁寧して仕事もないし、年金で暮らせるからバイトしたりするよりは、あの宿泊を私に管理させてくださいと。私が管理しながらそれをお伝えしたいし。
給料はいりません。年金をもらっているから、それで十分ですと言ってですね、その夫婦がですね、そこにまとまりながら修業館を管理していてですね、その教会の修業会とか、他の教会とか、チントさんとか先生方がそこをですね、自由に使っている素晴らしいことが起きましたよ。
皆さん、このようにですね、精霊の満たしを受けたクリスチャンは、イエス様のために生きる人生に変えられました。
さあ、続いて聖書を見ていきましょう。ペテロがですね、マザレのイエス・キリスの名によって、歩きなさいとですね、このように言った時にどんなことが起きたのでしょうか。7節を一緒に読みたいと思います。7節ですね、一緒に読みたいと思います。
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3回、彼の右手を取って立たせた。すると、たちまち、彼の足とくるぶちが強くなり、はい、さっさと私は読みますね。踊り上がって、まっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行った。アーメン。
本当に素晴らしいことが起きましたね。ペテロは人間の息ではありません。しかし、彼にはイエス・キリスの名がありました。癒やしの日であって、救いの日であるイエス様の名を彼は持っていて、それを宣言していった時に、そしてですね、その人の手をですね、取ってですね、立たせた時に、どうなったのでしょうか。
すぐにですよ。たちまち、彼の足とくるぶちが強くなって、歩けなかった人が、今まで一度も歩いたこともなかった人が、踊り上がって、まっすぐに立つことができました。
しかもですね、歩き出してですね、歩いたり、ポンポンポンポンですね、跳ねたりしてですね、なんと、最も大事なのは、彼の人生は、神を賛美する人生に変えられました。奇跡が起きましたね。ペテロとヨハネが、精霊の生み出しを受けたから、彼らを通して、癒やしの奇跡が起きました。
主がなされたことです。精霊様がなされたことです。彼は今まで、施せざるを得ない人生でした。希望もなかったでしょう。しかし、その希望のないその人生を、主は目をもって留めてくださった。
そして、この精霊の人、ペテロとヨハネを用いて、ペテロとヨハネの人生も変えられましたけれども、変えられたペテロとヨハネに出会った、この男の人の人生も変えられました。この繋がりをよく覚えていてくださいね。精霊に満たされて、変えられたペテロとヨハネに会った、この男の人の人生も変えられたんですね。
ですから皆さん、お一人お一人が、イエス様に出会って、そして精霊に満たされておれば、皆さんに触れた人々が、皆さんに会う人々の人生が、この男の人のように変えられます。
皆さん、私の周りにどれほど多くの人々が精神的に霊的にダウンしているのでしょうか。体は健康であるかもしれませんが、精神的に霊的に歩けない人々。
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閉じこもっている人々。この世と自ら壁を立てて暮らしている人々。自分の人生を呪っている人々。この世を呪っている人々。自殺を考えてばかりいる人々が、どれほど多いのでしょうか。
まるでですね、この美しの門に運ばれている、この男の人のような人が実は少なからず大勢いるのでしょう。ところが、今の状態がどうであろうが、主はその世にダウンして落ち込んで閉じこもって希望のない人生の人々を、主は愛しておられるから。
救おうとしておられるから。祝福しようとおられるからですね、ペトロにヨガネに合わせてください。そして人生を変わらせてください。
皆さん、皆さんの周りに精神的に霊的にダウンしている人がいるでしょうか。閉じこもっている方々がいるでしょうか。病の心、傷だらけの心を主に負って苦しんでいる方々が、もしも皆さんの周りにいるでしょうか。
そしたら、まことの医者であられるイエス様にお会いして、そしてこのすべての鎖が断ち切られて、解放される、回復される主教育が主の二手にある。そしてそれをいつでも主は与えようとしておられる。
ところが私たちには、クリスタンでありながらも、あんまりそんな希望を持っていないクリスタンが多いわけです。またですね、ある意味で、私たちの人生がこの美しい門に置かれているこの男性のような姿が、私たちにもあるかもしれません。
イエス様は信じていますが、教会に通っていますが、奉仕はしていますが、しかし、習慣的に教会に来たり、習慣的に奉仕をしたり、信仰生活をしていても、難も喜びも感謝も恵みも感動も悟りも悔しみもあるはあるんだけれども、なかなか難易度ではないでしょう。
このような時には、イエス・キリストの皆によって、歩き出す、立ち上がる霊的起立と言いましょうか。霊的立ち上がり、霊的起立が私たちに必要なのではないでしょうか。
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どうかみなさん、ここでみんな、立ち上がって、歩き出して、踊り上がる、そして踊ったり跳ねたり、ステージを賛美するキリシャになりたいです。そして心の身体も、イエス・キリストの皆によって癒され、精霊に満たされて新しい人生を歩んでいきたい、歩んでいきたい。
先週の月曜日から水曜日まで、私の派遣教育会の教会の元老牧師の長野先生が神戸においでになって、セミナーを開いていました。
それで、もう前々から支援をしておられる福岡教会の引退、自称引退先生ですけれども、名誉牧師の横田先生がお目になりました。
私はもう年に1回、2回お会いしているわけですけれども、あの先生は80歳か81歳なんですけれども、去年より若返って元気になられてお目になりました。
そしてお昼一緒に食事をしているうちに、横田先生はこうおっしゃっていました。私にじゃなくて、その先生におっしゃった話ですよ。
先生、実は私、今年から体ももっと元気になって、もう80歳だったら日本の男性平均10万になって、もうそろそろかなと、前はそう思っていたんだけれど、いや、そうではない。
これからだと思って、さらに次に仕えたい。そして私にできることを私にさせてくださいと、そう思い直したと言いましょうか。
そういうふうに心をもうやり直して、立て直して近寄としたら、もう元気になりましたよと、私が見てもそうでした。
おそといくらいは草に一緒に毎回行っていますけれども、ちょっと先生はどっちかとされて、そうかなとちょっと思っていたんですけどね。
本当にそれは確かに神の恵みなんですよね。神の恵みなんですよ。
あさことよことを祈って主に仕えるその人を皆さん、私たちが恵まれて精霊に満たされておれば、私たちの心も精神も体も霊も若返って元気になるんですよ。
ですから皆さん、私たちに足りないのは薬じゃない。あるいは健康じゃない。私たちに足りないのは精霊の満たしかもしれません。
39:15
あるいは神の恵みかもしれません。あるいは祈りかもしれません。それを築いて求める人が幸いなクリスタンになるでしょう。
ところがここで二つ申し上げたいことがあります。私たちが注意していただきたいことが二つありますけれども。
その一つは信仰生活において、例えばこの最初のこの言い出しの奇跡のような、あまりにも奇跡ばっかり求めたり神秘的なことばっかり求めても、それは健全な信仰ではありません。
御言葉が土台になって御言葉の上に立って主がなしてくださるならば、私たちはいくらでもその病気が癒される、そして本当に精神的に立ち直る素晴らしい主の印を私たちは味わうことができます。
それを信じるわけなんですけれども、あまりにもこの神秘的な奇跡ばっかり、経験ばっかり求めるのは偏った信仰になって、それが間違ったところに行ってしまいやすいです。
ところが逆も私たちは注意しなくてはならないと思います。あまりにも理性的に信じてもいけません。
主の奇跡もあまり信じない。癒しも信じない。主の奇跡なんてそれは生徒の話でしょう。私にはあまりこのことは起こらないでしょう。
そういうふうに教会信仰生活をまるで学生たちが軸に入っているように信じてもいけません。
それで主の力を縛りつけてしまう不信仰なんです。私たちは主が願われるならば、いくらでもどんな病気をも癒されること、
回復されること、主が自由にしてくださることを信じながら同時に御言葉の上に立って悟る御言葉中心の信仰者にならなければいけません。
奇跡中心、体験中心の信仰じゃなくて御言葉中心の信仰になっていくときに、それが主の願いであれば、
主は癒してくださる、救ってくださる、解放してくださることが起きることを信じる信仰に立っていなければいけません。
皆さん、テテルの弱音の人生を注目しましょう。今日のこの美しい門に置かれているこの男性の人生を注目しましょう。
今までは本当に何にもできない人生でした。ですよ。イエス様と共にいましたよ。しかし何にもできない、ある意味で無力な人生でした。
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しかし主は彼らを精霊に願ってくださって、そしてテテル、ユハネ、あるいはパウロ、彼らをこの初代教会の偉大な使徒として主が立ててくださった。
これ以上失敗した、疑わない力のある人、御言葉の力を持つ人、癒しの人に、救いの人に主は変えていた。
その力は精霊の満たしであると言うか。見てみましょう。私にもこのような規模がありますよ。
テテロも変えられました。ユハネも変えられました。この名前も知らないこの男性も変えられました。
あの白衣医者サウロも変えられて、パウロに変えられたじゃないですか、皆さん。
ですから精霊によれば変えられない人は誰一人もいます。
そしていくら希望のない、いくら重い重い重い思って苦しんで人だとしても、
イエス様にお会いして、そして主を救いの人として信じて精霊に満たされていけば、新しい人生が、復興の人生が、新しい復興生活が始まります。
皆さん、今日から私の新興生活が、皆さんの人生が美しまくて英利に変えられますように。
そのような恵みが起きますように。
それですね、願って願って祈って求めていく。
そして皆さんを通して多くの人々が救われる、力ある印が皆さんを通してなされる、そういうクリスチャン教会でありたい。
その希望を持ってですね、祈って求めてこの一週間も歩んでまいりましょう。お祈りたいです。