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2018-09-30 44:36

2018/09/30:ヨハネの福音書講解説教(42)聖霊に従う人の幸せ

2018/09/30 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書
00:01
みなさん、おはようございます。
台風が遅れてですね、このように雨を降らないままで、足元を守られて、礼拝できることを感謝いたします。
金曜日に祈ったんですね、神様。台風が遅らせるか、台風に求戦して、礼拝を守れるようにして、祈ったんですけどね。
みなさんもずっと祈ってこられたと思いますが、本当に感謝します。
それでは、メッセージの前にまわり方と挨拶しましょうか。
はい、ありがとうございます。
一言お祈りさせていただきます。
しかし、助け主、すなわち父が私の名によってお使わしになる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また、私があなた方に話した全てのことを思い起こさせてください。
助け主の聖霊様を送ってくださって、私たちと共にいてくださり、また、助けて、慰めて、弁護して、清めて、主の身元に私たちを導いてくださる聖霊様、本当に感謝いたします。
今日もその恵みを次第求めてまいりますが、一人ひとりにどうか主があなたの命令に致してくださり、あなたにお会いし、
聖霊を聞き、また新たなる本当に心の決意を持って、ここからまた伝わらされていきますように、どうか主を一人ひとり自作に尽くして満たして悟り与え、信仰を深めて、いよいよイエス様のように私たちを変わらして、清めて、恵みで恵みを満たしてくださいますようにお願いいたします。
霊によって心を開いてくださって、喜んで主の御声を聞き、感謝する私たちとならしてください。感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
ヨハネノ君主の誤解説教四十二回目になります。
聖霊に従う人の幸せ、聖霊に従う人の幸せという題でございます。
皆さん、クリスタになられて何年目でしょうか。
ある方は一年になっていらっしゃる、ある方は五十年、六十年、あるいは八十年、それぞれでいらっしゃるかなと思いますけれども。
03:08
そこでですね、クリスタンとして生きる、クリスタンとして歩むということはどんなものなんでしょうか。
もちろん一言では言えないかもしれません。
いろんな角度からまた、一、二、三、四、五、六、たくさん述べられると思いますけれども。
今日の御言葉から、クリスタンとして生きること、その生き方とは何なのか。
それを一言で申しますと、聖霊様に従うことだと信じます。
これは皆さんもご存知であって、また私もそういうふうに考えて信じて信仰生活を送っていらっしゃると思いますけれども。
教会はただ宗教生活をする人々の集まり、それ以上のものなんですよね。
それは聖霊様の導きに従うこと。
そして聖霊様によって導かれて従っていく中で、どんどんどんどんどんイエス様のようになることですね。
そして私たちに出会った人が、皆さんに出会った人が、皆さんを通してイエス様を見ること、私たちを通してイエス様に出会うことではないでしょう。
そしてイエス様のように変えられて、私たちの生き方が、人生が、行いが、あるいは言葉がイエス様のように変えられることなんです。
新約聖書の四つの福音書とか、あるいはローマ書とか、コリンボ書とかね、書簡文がありますけれども、その聖書を読みますとね、そこにはイエス様のようになってくださいと、イエスの弟子となってくださいと教えて語っているんです。
以前のペテロのようではなく、変えられたペテロのように歩んで欲しいと、以前のパウルではなく、変えられたパウルのように歩んで欲しいと、パウルはローマ書で、コリンボ書の手紙、エスペルスとフィリピス、コローサイズ、そこでもスケンデルカのように教えているんですね。
06:11
ですから皆さん、信仰生活は、この信仰による心の姿勢、態度がとても大事だと。
神を信じて、イエス様を信じる信仰の心を持つことです。
古いものは過ぎ去って、見よう全てが新しくなった、その見言葉を信じつつ、神を見上げて前に進むことなんです。
旧約の話を借りてお話をすると、エジプトに戻るな、ということです。
神様が、カナンという四国の地を備えて下さいましたから、信仰によってそこを目指して歩んで下さい、ということです。
そして神様を信じるならば、信仰を持って試して下さい、ということです。
この神様を信じて前に進んでいくことは、信仰の態度であり、その心の姿勢でもあります。
そしてこの世に精霊に導かれて、信仰によって生きる人は、その信者の信仰生活こそ本当に幸せなんです。
嬉しいんです。
またでしょうか、精霊によって導かれて、精霊によって歩むようになるところがどれでしょうか。
信仰の徹底を私たちは常にしますけれども、時には過ちや罪に失敗に落ちたりすることがあったりするんですよね。
その私たちの弱さを知っておられるから、この助け主を使わせて下さって、ずっと一緒にいて下さるようにして下さい。
贈り物として精霊様を贈って下さったわけなんです。
さあ、では今日の26節をもう一度一緒に読みたいと思います。
もう一回ね、一緒に読みましょう。
精霊様はどんなお方なのか、読みたいと思います。
26節。
しかし助け主、すなわち父が私の名によっておすかしに思い起こさせて下さいます。
アーメン。
09:00
皆さん、この精霊様を信じますか。
まず第一、精霊様はどのようなお方なんでしょうか。
まず第一は、神を信じる私たちに全てのことを教えて下さる方です。
誰がですか。精霊様が。
全てのことを教えて下さるんです。
なぜでしょうか。精霊様は誰の霊ですか。神の霊です。
イエスの霊です。永遠から永遠までおられる方です。
創造の時にも神と等しい方としておられました。
精霊様は人格を持っておられる。
そして完全な知恵の霊であって、全てのことをご存知であって、全てのことを導いて下さるお方なんです。
この精霊様に従って歩むことが信仰生活です。
だから皆さんよく考えて下さい。
私たちは知らないことが多いですか、知っていることが多いですか。
知らないことが多いんじゃないでしょう。
自分の人生の先のこともなかなか知らない。
この太平洋がどうやってどういう風に通り抜けるかわからない。
知らないことが多いんです。
しかし今日の御言葉は、精霊様が全てのことを教えて下さるということです。
だからその精霊様に従う人、導かれる人は幸せなんです。
なぜでしょうか。精霊様が全てを教えて下さるからなんです。
導いて下さるからなんです。
だからある意味でですね、精霊に導かれる人はあんまり悩む必要はないじゃないでしょう。
自分で考えて、自分で決めて、自分でどうしようと悩むから悩みが多いかもしれません。
悩みを減らす方法、それで顔のツアーをなくす方法を教えて下さい。
精霊に信頼していること、精霊に教えていただくことなんです。
悩みが多ければ多いことですね、シワが増えるんじゃないでしょうか。
聖書の御言葉はその通りに信じました、皆さん。
全てのことを教えてと書いてありますからね。
ですから精霊様に求めればいいんじゃないでしょうか。
教えていただかなければいいんじゃないでしょうか。
もう一度お話しします。精霊様は全てのことを教えて下さるんです。
12:07
例えば私が何かに対して考えるとき、何かを言うとき、
行動するとき、何かを決めるとき、プランを立てるとき、
あるいは禅道をするとき、あるいはこのように礼拝を捧げるとき、
皆さんは説教を聞くとき、私は語るとき、
もう全てのときにおいて精霊様は全てのことを知っておられますから、
その方に教えていただきましょう。
その経験な生き方をもう練習して訓練して、
そういうふうにある意味で慣れるクリスマスであってほしいです。
何かをどうしたらいいのかわからない。すぐ精霊様に神様に祈る。
教えていただく。また何かが知らないことが起こる。どうしたらいいのかわからない。
すぐ神様に真剣に祈る。あるいは答えられるまで祈って、
そして神様に精霊様に教えていただく。そして何かをやる。
こういう良い信仰のパターンを持ちたいです。
でも逆に失敗のパターンもありますよ。
携帯を。ちょっと警報が鳴っていますね。
目を覚ましましょう。眠っていらっしゃる方。
携帯は電源を切ったほうがいいんじゃないでしょうかね。
多分何回もこれから鳴ると思いますので、携帯の電源を切ってみましょう。
すみません。ありがとうございます。切ってください。
もう一度申しましょう。精霊様にお願いして、祈って、教えていただく。
そして教えられた道は最高の道なんです。最善の道なんです。
なんじゃないでしょうか。全てのことを知ってあらゆる神様の霊の精霊様が教えた道なんだから、
もう100%最高と完全な道なんです。その道を歩めば楽なんです。
でも逆のパターンもある。自分で悩んで自分で考えてあまり祈らずに決めてしまって、
そこに不安がある。心配がある。どうしようどうしよう。失敗がある。
それを繰り返す。それは良くないパターンなんですよね。
ですから皆さん、いつも神の霊である精霊様にお尋ねして教えてもらって、
祈って教えてもらう。その信仰の道を歩む良い習慣、経験な習慣をお持ちください。
精霊様は神様と等しいお方なんですよ。神様に祈ることは精霊様に祈ることなんです。
もう全く同じなんです。ですから皆さん、全てのことを知ってあられるその精霊様に教えてもらうために、
15:10
導いてもらうためにはどうしたら良いんでしょうか。
まず当たり前のことですけれども、この聖書の御言葉をたくさん読んで、たくさん目処して、たくさん並んで研究して、
悟ることに専念してください。まさに大事なんです。
テレビも面白いかもしれません。雑誌も面白いかもしれません。
友達に出会っておしゃべりすることも1時間、2時間、3時間、4時間が流れることも圧倒言うかもしれません。
しかし、全てのことを知ってあられる神様に、その精霊の感動によって書かれたこの聖書の御言葉をたくさんお読みください。
そして深く目想してください。勉強してください。
わからないところがあれば、精霊様教えてくださいと祈れば教えていただけるんですよ。精霊の感動によって書かれたものなんだから。
どうでしょうか、皆さん。神の前に我々私も皆さんも正直にこの聖書の1週間、どれだけ聖書を開いて、その聖書の中で神様に、神の霊にお会いしたんでしょうか。
どれくらい専念していらっしゃるんでしょうか。
ぜひ、神の御言葉に励んでください。読んで、読んで、また読んで、目想してください。
水曜日の義徒会にローマ詩を学んでおります。私自身も足りないですけれども、学びをしながら、準備をしながら深い教えが与えられています。
あるいは、創典義徒会に来られる方々も、今唐手康に終わりまして、学んでおりますけれども、どうしても来れない方もおられるかと思います。
神の御言葉を教えて、ぜひ一人で読むんだったら、また学ぶんだったら、もっと時間を捧げて、聖書を読んで学ぼうではないでしょうか。
そして、2つ目、お祈りに、祈祷に専念していただきたい。
教会でまた十分にお祈りください。
18:04
一人で祈ってください。集まって一緒に祈ってください。
また皆さんいかがでしょうか。この1週間、どれだけ神様に専念して、お祈りの時をお持ちになったんでしょうか。
あるいは、5年前より、10年前より、20年前より、聖書と御言葉に専念する、その信仰の量はどれくらい深まっているんでしょうか。
ぜひぜひ皆さん、信仰のベーシックに戻ってですね、聖書を読むこと、学ぶこと、祈りをすることに専念していただきたい。
そういうふうなような教会でありたい。
既に専念しておられる方がおられて本当に感謝ですけれども、神はそういう信仰の人を通して教会を導いてください。
なぜでしょうか。聖霊に教えていただいているから。
教会は神の人によって導かれるべきですし、聖霊に全てのことを教えてもらっている人によって導かれるべきであります。
そしてそういうふうにね、信仰生活をして助け主、聖霊様に導かれる人、従っている人は良い信仰を持っているから、
皆さんがそういう信者になって、良い影響を兄弟に姉妹に、あらゆる人々に良い影響を及ぼすクリチャンであっていただきたい。
何より野田理教会が信仰的にも人格的にも成熟したこの群れとなって、お互いに信仰の良い影響を与えてもらって、与えてもらって、
そして一緒に制度して、一緒に励まされて、一緒に信仰が深まっていく教会であっていただきたい。
一緒に聖霊にお誘いして、また教えてもらって、教えてもらったことをまた分かち合って、
あるいは一緒に手を取り合って、一緒に歩んで、そして一緒に悟って、教え合って助け合っていく、ああいうのを教会でやりたい。
信仰の良い影響力を与えて、それをもらう、それが自然にできる教会でありたいんですね。
進め合う教会でありたい。皆さん、良い教会、幸せな教会、聖霊に従う教会は、信仰的な良いものをお互いに進め合うところじゃないでしょう。
21:04
なんか進めるのがね、あの人がちょっとね、あんまりよろしく思わないでどうしようと。
こんな話を進めて、ちょっと気まずい関係になったらどうしようって。
あるいは、いやまあね、もう高くているかのように見えないからどうしようとしても仕方がない。
もう黙ろう、黙っていて進めない。そしたらですね、もう発展がないんですよ。
例えば、人会に行きましょうとしたら、お互いにですね、誰々様ですが人会に行きましょうよとね。
進めて、そういう進め合う教会でありたい。皆さん、霊的な仰向けを持っていらっしゃいますでしょうか。
神様の心をより深く知りたいんでしょうか。
そうするならば、すべてのことを知っておられる、教えてくださる精霊様に求めてください。求めてください。
それぞれ書いてありますから、私の話じゃないんですよ、皆さん。
あなた方にすべてのことを教えてくださると書いてありますよね、皆さん。
だから求めれば教えていただくんですよ。求めるものには教えられます。
求めるものには与えられます。悟ることができます。分かることができます。
なぜでしょうか。精霊様は助け主だから、あなた方にすべてのことを教えてくださる。
その精霊様によって満たされて、その精霊に導かれて、従っていくならば、
たったこの地上の小さな人間的な知恵で終わるがなくて、天の知恵が与えられる、
その天の知恵に満たされる、知恵と祝福が満たされるようになる。
2番目、精霊様はどのようなおことなんでしょうか。26節の後半を見ますと、
また私があなた方に話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。とあります。
イエス様のお話を思い起こさせてくださるのも誰ですか。精霊様です。助け主なる精霊です。
イエス様の弟子たちは3年の間、数多くの教えをイエス様に教えていただきました。
たくさんの教訓や見言葉を聞いていたでしょう。
それで、これからはもうイエス様のこの体を持つイエス様にお会いしようとできない、見ることもできない、
24:01
お話を聞くこともできない、そういう風になるんですよね、弟子たちは。
しかし彼らはイエス様から聞いたイエス様の教えがあります。
ところがね、簡単に考えてみると、ペテロであろうがヨハネであろうが、
人間の考えや記憶力には限界があるわけなんです。
衰退してしまうわけなんです。忘れてしまうわけなんです。
よくわからない。いやー、あの時イエス様が何とおっしゃったんだったっけ。
そういうこともあり得ることなんです。
ところが、そういうこともすべて知っておられるイエス様なんだから大丈夫。
助け主なる聖霊様が、あなた方に、いずれ私が話したことをすべて思いを起こさせてくださるんですよ。
聖霊様に教えてもらってください、ということなんです。
さあ、それも別話の話です。では、あなたたちはどうでしょうか。
この中心訳、この聖書をいただいています。
ある意味で考えるならば、弟子たちのようにイエス様から直接教えてもらったわけではありませんが、
少なくともペテロやヨハネよりは、私たちはもっと多くというか、もう完全な聖書を私たちは持っています。
そしてこの聖書から聞いていますし、読んでいますし、学んでいます。
ところが、この聖書の見言葉は何か人間の本ではないんです。
人間の考えとか、何かの思想や哲学の話ではない。
天の言葉なんです。神の言葉なんです。
聖霊の感動によって書かれたものです。
とするならば、ただ誰によって読み、読み、知ることができるのでしょうか。
聖霊様によってのみ知ることができる、悟ることができるというわけなんです。
一括と説明をいただきたいと思います。
第二手もて三の十六説です。
私の聖書では416ページです。
第二手もて三の十六説です。
それでご一緒にお読みしたいと思います。
第二手もて三の十六説。
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと忌ましめと教制と義の訓練とのために有益です。
27:02
ここにはっきりと書かれています。
聖書はすべてですよ。すべて神の霊感によるものなんです。
神の霊感というのは聖霊様です。
聖霊の感動によって書かれたものが何ですか。聖書なんです。
イエスの言葉です。神の言葉なんです。
だからそれを知るためには、悟るためにはどうしたのでしょうか。
聖霊の感動によればわかります。
だから聖霊様に求めるんです。
皆さん、聖書を読んでいく中でわからないところがありますか。
そしたら聖霊様、これがわかりません。知りたいです。教えてくださいと祈れば教えてくださるんです。
そういう良い恵みの経験をたくさん経験していただきたいんです。
良い習慣を知らない時から祈って教えてもらう。
嬉しいんじゃないですか。嬉しいんですよ。とても嬉しいんです。
そういう喜び、そういう楽しみを味わっていただきたいんですよ、皆さん。
すごい味がですね、聖書のおいしい味があるんです。
そういう経験皆さんなかったことあるでしょう。
私も聖書を読む時にあるいはメッセージを済む時に、難しいところは確かにあるわけですね。
難しいところ、わからない。
そしたらね、いろんな本を開く前にまず祈るんですね。
まず、とりあえず祈る。神様の方からどういう風にこの紐を解けばいいんでしょうか。
祈るんですね。静まって目指すんですね。
そうすると、他のどこかの聖書の言葉が思い浮かぶ。
まさに聖霊様が思い起こさせてくださるんです。
そしてその聖書を開いて、あちらこちら開いて、それをリンクさせて連結したら、
ああ、なるほどとね、すごい素晴らしいね、悟りの味があるんです。
それを味わっていただきたい。それをたくさん繰り返して繰り返してやっていただきたい。
雨ですか皆さん。食べ物もそうですけど、何物でもですね、味わった人だけを思い出してください。
ね、覚えてください。
神の霊感によるものですから、神の霊感、神の霊によらないとわからない。
いくら勉強しても、いくら何十年教会に来ていても、神の霊感によらないと、神の霊によらないとわからない。
30:05
わかっている、不利をすることができるかもしれませんが、わからない。
だから皆さん、聖様に求めてください。
そして思い起こさせていただきましょう。教えていただきましょう。
このうれしい恵みの繰り返しをたくさんなさってください。
だからね、同じ教会で同じ礼拝して、同じメッセージを聞いて同じ礼拝していても、
このように行けば行くほど、神の霊によって信徒が深まっていき、
天の知恵が与えられて、教えていただいて、どんどんどんどん、霊の世界が、信徒の世界が、神の世界が、深く広くなっていく信徒がいらっしゃる。
そうでない信徒も、ですから皆さん、そういう信徒になっていただきたい。
聖霊によって歩んでいきましょう。
聖霊様に教えていただきましょう。その聖霊様に従っていこうではないでしょうか。
皆さんもお分かりだと思いますね。
誰か信徒さんに、あるいは先生方にお会いしてですね、話し合っていけば、
ああ、この方は本当にね、神の霊に満たされていて、本当にもう神の霊が生き物なんだから、
もうその人の中でも活発に豊かに働いていることが、私たちが分かるんです。感じ取ることができるんですよ。
もう一箇所制約を開きたいと思います。
ガラテア・リトエの手紙、五章十六節と十七節を読みたいと思います。
ガラテア書五章十六節十七節です。
370ページです。
ガラテア五章十六と十七節、一緒に読みたいと思います。
私は言います。
御霊によって歩みなさい。
そうすれば、せして肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。
この二つは互いに配立していて、そのためあなた方は自分のしたいと思うことをすることができないのです。
アーメン。
皆さん、私は神様を信じるから御霊に従いたいです。
ところが従いという思いがあっても、肉の欲望がそれより強い御霊の願いより自分の肉の欲がもっと強いとするならば、もうその人の中では御霊様が働かないのです。
33:16
肉がもっと強く働いてしまって、肉の願うことをしてしまう。
そしてその人はどうなるのでしょうか。
信者であっても御霊に逆らってしまう。
そういう行いをしてしまう。
そういうことを言ってしまう。
行って、決めてしまう。
その道に歩むわけなんです。
覚えますか、皆さん。
だから、ハウルは言っています。
いや、聖人は私たちに、神様は、聖霊様は私たちにこの朝語っておられます。
御霊によって歩みなさい。御霊によって歩みなさい。
皆さんですから、私たちのこの内側には肉の欲があるんですか、ないですか、皆さん。
なかったらいいんですけど、肉の欲が常にあるんですよ。
それを打ち砕いて、打ち砕いて、従わせて御霊によって歩まなければならない。
その勝利の道を歩んでいきたいんです、皆さん。
いつも肉の欲望に、肉の願いに、負けて、負けて、負けてしまうクリスタンじゃない。
御霊によって勝利するクリスタンでありたい。
いや、それを求めるクリスタンでありたい。
その味を分かるクリスタンであっていたい。
どれくらい素晴らしい恵みの視界なのか、それを求める信号がなければ何も始まらないんですね。
では、一つ短く実践についてお話ししましょう。
このように御霊によって歩むために、肉の欲望を打ち砕くためにはどうしたらいいんでしょうか。
一括を徹底いただきましょう。
ローマ書八章十三節です。
三百一ページです。
ローマ書八章十三節。
一緒に読みたいと思います。
もし肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬのです。
しかし、もし御霊によって身体の行いを殺すなら、あなた方は生きるのです。
ここに御霊によって何を殺しますか。
36:01
何を殺しますか、皆さん。
身体の行いを殺すんです。
御霊によって、聖霊様によって、さっきのカラテーヤの御言葉のその言葉を変えますと、肉の欲望、肉の願いを殺すんです。
御霊によって、この殺すという言葉は私たちが殺す言葉なんです。
御霊によって助けていただいて、教えていただいて、このままではもう駄目なんです。
主よ、あなたに従っていきたい。肉の欲望じゃなくて御霊の思い通りに歩んでいきたい。
その切なな心を主よ思い起こしてください。
私の心に、もう死のように起こしてくださって、まず祈るもの、求めるものにしてください。
そして、この自分のこの肉の身体、この身体の行い、あの身体の行い、死を殺すことができるように、聖霊様助けてください。
力をください。清めてくださいと求めていこうではないでしょうか。
それがクリチャンのライフなんです。
それがいわゆる清め成果なんです。
そうではないでしょうか。
聖霊に従って謝るものは、このようにその聖霊様と毎日毎日、もういつも深くて楽しくて豊かなお交わりをずっと持っていくことなんです。
皆さん、聖霊様はいける人格のお方なんです。
人格を持ってやられます。
皆さん自分自身のように、兄弟姉妹家族のように、生きている人間のように、人格を持ってやられるんです。
だからその方の願いに合わせて従っていくのです。
皆さん、今はそういうラジオはないでしょうけど、昔のラジオは妻みたいな丸いやつを回して、周波数に合わせるでしょ。
例えば93.1と妻とそしたらそこにね、回せると、その周波数が93.1とちょうど合わせたら、はいこんにちはみたいなラジオが出てくる。
聖霊様の願いに我々の思いも行いも人格もすべてをそこに合わせるんです。
それを常にやっているかどうかなんです。
そのために祈る。そのために二言葉を目指す。礼拝に出席する。
その神様と深い友達のように愛する人のように交わりを深く持っていく。
39:06
その方と交わるのが何より楽しいクリシャンでありました。
こういう例えはどうでしょうか。
例えばボクシングの選手がいるとしましょう。長い間後に対戦を待っている。
その相手を勝つやり方や方法は何があるのでしょうか。
例えばこの選手がその相手の選手の特徴を研究するんです。
ビデオを見ながら選手はジャブが強いのかアッパーカットが強いのか、
大体何ラウンド目が強くて何ラウンド目が弱いかですね。
それを分析ばかりしている。勝てるんでしょうか。勝てないんです。
自分が練習しないと、訓練しないといけないんです。
もちろんその分析することも助かるんですけれども。
体力を、瞬発力を、自分を強くしているわけじゃないんです。
例の世界も同じなんですよ。
自分自身が精霊の人になって、精霊様と深い交わり、人格の交わりに入って、
自然に自然に精霊が私たちの中で、もう強く豊かに精霊様も楽しく働く人になれば、
自然に肉の欲を、肉の体の行いが消えてしまいます。
もしなら、そこに関心が向かないんです。楽しくなくなるんです。
味は痛くなくなるんですよ。
精霊の人に、これが精霊様に伝わる人の幸せ。
短いある日前の若い時、車を買うことになってですね、盲車を待っていました。
1ヶ月くらいと言われたので待っていましたけれども、
1ヶ月か経っても、経っても経っても、販売店から連絡もなくてですね、
また2ヶ月もっとかかるかもしれないとね。
それでどんどんどん広告の中にもう苛立ちができてですね、
もう頭にきてですね、もう販売店に行ってですね、何度か褒美でもしようと思ったらしい。
ところが、いくところでポチッと言われてですね、
果たして自分が思っているこの苛立ちやこの怒りは果たして精霊様に喜ばれることなんだろうか。
祈ったらしい。
祈っているうちに、これは精霊様に喜ばれる、神様に喜ばれる気持ちではない。
そしてその場で声をあためて、祈って、
私の心中のこの苛立ちやこの怒りの気持ちを神様もなくしてください。
42:02
祈ったら、不思議にその気持ちがもうね、もう飛ばされて、なくなって、
本当に優雅な心、親切優しい心になってですね、
販売店に行ってね、話し合いができてね、
その本当に何者でもないような簡単なことですけれども、
そういうふうに果たして自分が思っているこういう不満や、
あるいは呟き、あるいは怒り、あるいは尊み、妬み、
そういった心が果たして神様に精霊様に喜ばれるものなんだろうか、
聞くところから素晴らしい信号が始まる。
それを聞いて教えてもらう人は素晴らしい信徒さんです。
ところがですね、ある信徒さんは自分が思っているこの呟きや不満や、
そういうことが果たして神様に喜ばれることなのか、
それすら考えない人もいたりします。
そこから目が開かれなければならない。
人間はどうしても自己中心だから、
自分が持っている感情や考え、判断が正しいと思いかけが我々人間だからです。
だから霊の目が開かれなければならない。
メッセージを終わりたいと思います。
精霊様との深い交わりの中に入って下さい。
御言葉を通してでしょう、祈りを通してでしょう、
そういうふうに深い神様と精霊、御霊のその方と人格的な交わりを持って、
祈って喜んで嬉しくなる、
深く自分の人生が豊かになるその恵みの体験をたくさん与えていきたい。
そうすると自然に世の誘惑に、世の罪に、
身体の行いに、そういった感情に目が向かなくなるんです。
そうすると今まで味わったことがないような新しくて素晴らしい豊かな恵みの深刻な世界が、
願わくは私と皆さんが精霊に従って、その方に満たされて、
その方が教えてくださる素晴らしい世界、
その方が教えてくださる深い豊かな世界を味わっていこうではないでしょうか。
そういうふうに意識される与谷教会の神道でありたいと、そういうふうに願っております。お祈りします。
44:36

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