1. 名谷教会
  2. 2015/05/17:聖日礼拝(旧音源)
2015-05-17 41:18

2015/05/17:聖日礼拝(旧音源)

2015/05/17 聖日礼拝(旧音源)




00:01
みなさんおはようございます。
それでは今日もですね、あの、店に入る前に隣の方々、挨拶したいと思います。
よくいらっしゃいました。
はい、一言お祈りさせていただきます。
神様、私たちの礼拝を、この心からの礼拝を、神様どうぞ喜んでお受け取りくださいますように、お願いいたします。
神様ご自身が、私たちに、このお群れに、この礼拝のお群れに、主をどうぞお語りくださいますように。
しもべは、心を素直に、そして、聞き従い、願いを持って、祈りをしますので、どうぞお語りください。
御殿に委ねたゆえさまの皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
はいですね、店に入る前にですね、昨日息子を連れてですね、久々にお風呂場に行ってました。
そして、勤務者のお風呂場に行ったら、お風呂に行ったらですね、露天風呂の壺の上があってですね、そこに使ったら、柱にこう書いてありました。
お疲れ様です。お子様、奥様にかじられたそのすねを、勤務スパでゆっくり回復させてあげてください。書いてあるですね。
こう考えてですね、書いてみますか。お疲れ様です。お仕事、家事に疲れたその心を、礼拝でゆっくり回復させてあげてください。いかがでしょうか、皆さん。
私たちは礼拝の民です。神を愛する礼拝の民であって。礼拝を通して、もちろんですね、礼拝の第一の目的は、神の皆が褒め捧げられることです。
そして同時に、礼拝を捧げる私たちに、神様が賛美を通して、あるいは祈りを通して、あるいは朗読される御言葉を通して、あるいはメッセージを通して、
私たちに本当にですね、疲れた心を慰めて癒やして、そして希望に満たしてくださることが礼拝ではないでしょうか。
03:09
今日もですね、神の恵みを、また神の御倫大を、栄光を求めながらですね、詩の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
今日は福野働き公開説教4回目です。
先週は、イエス様が天に昇られたその御言葉から教えていただきました。
イエス様が天に昇られたんですね。
この教では、肉体の目でイエス様を見ることも、会うこともできなくなりました。
イエス様が天に昇られる前まで40日、イエス様が蘇られた後からですね、40日の間、彼らは蘇られたイエス様から特別な身教えをお受けしたと思います。
復活の方イエス様に直接お会いして、そして依頼的にも本当に武具をつけてですね、武装させてもらったと思います。
そしてイエス様が行かれながらですね、精霊様が使われますよというお話も、彼らは信じていたに違いないと思います。
そしてですね、イエス様とお別れをした120人余りの弟子たちは、みんな静まってエルサレムに戻ってきました。
その戻る距離はそんなに遠くはなかったんですけれども、その間にですね、彼らはきっとおしゃべりとかはしていなかったと思うんですね。
二度とこの肉体の目ではお会いすることができないイエス様を忍びながら、静まってエルサレムに帰ってきたことでしょう。
その120人余りの弟子たちはですね、もう散らばることを喜んでいなかったんです。
それからですね、彼らは誰かが、さあ行きましょう、エルサレムに行きましょう、帰りましょう、あの二階の間に行きましょうと言われる前、
彼らはですね、誰もがみんな心を合わせて一緒に同じ方向に向かっていたのではないでしょうか。
このように彼らはですね、エルサレムに戻ってきました。
06:00
そしてみんないつものように泊まっている屋上の間に上がっていきました。
ところがですね、ここで私たちが見落としてはいけないことが一つあると思います。
それはイエス様がですね、四節をちょっと見てみましょうか。
その働き一生の四節。
彼らと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。
エルサレムを離れないでとおっしゃいました。
エルサレムを離れないでと言われましたけれども、みんな一つの場所に集まっていなさいとは、
実はイエス様はそういうふうにはおっしゃっていなかったんですね。
ところが今日の十二、十三、十四節を見ますと、
彼らはエルサレムを離れないで、そして同じ場所にみんな集まっていました。
誰かがですね、例えばペテロがですね、「さあ、あの屋上の間にみんな集まりましょう。」
お知らせをしたから集まったわけではないんです。
互いのお顔を見て、みんなすぐ分かるんです。
今何をしたらいいのか、今私たちが何をしたらいいのか、言われなくても分かるんです。
そしてみんなそのようにですね、一つになって、一つの場所に集まって、
いつものように祈りに専念してきた。
みなさんこれこそ、巨大教会、エルサレム教会の麗しい美しい姿ではないでしょうか。
その屋上の間に上がってですね、集まっている百二十人の彼らのそのお顔とか、
彼らの姿をみなさん思い浮かべてみてください。
エルサレムが天に昇られました。
そしてあのオリーブの山からエルサレムに歩いていくわけなんですよね。
寂しさと忍ぶ心を持ってですね、
しかしみんな何も言われていないのに、みんな同じ方向に向かって、同じ屋上の間に集まっていたんですね。
一人も離れないで、みな集まって、お互いに心を読み取ることができた、分かっていた。
09:04
彼らがですね、こうしましょう、ああしましょうと言われなくてもですね、
本当に一つになって同じく行動する彼らの姿こそ、本当に美しくて幸せな教会の姿ではないでしょう。
この屋上の間に集まっている彼らは約百二十人くらいなんですね。
みんな個性も違うでしょう。
出身も違う。
性別も違う。
年齢も違う。
しかし一人イエス様を信じて、一人の聖霊様を信じる同じ信仰の兄弟姉妹たちですから、
誰からですね、命令されなくても、いや、誰から勧められなくてもですね、互いに会い合う、互いに使い合う、
なんとうるわしい姿です。
これがですね、初代教会、エルサレム教会の第一回の集まりでしょう。
いや、第一回の礼拝と言っても間違いではないでしょう。
ですから皆さん、この聖書にですね、使徒の働き、この聖書に描いている教会の初の注ぎは、
みんな同じイエス様を信じているから、心が一つになって、同じ場所に集まって、
祈りと御言葉に専念していた群れだったんですね。
14節をご覧ください。
14節。
14節だけ一緒にですね、もう一度読みたいと思います。
14節。
よろしいですか。
はい。
この人たちは、夫人たちやイエスの母マリア及びイエスの兄弟たちと共に、みんな心を合わせ、祈りに専念していた。
アーメン。
まず、この注ぎはですね、みんな心を合わせたとあります。
みんな心を合わせた。
これはですね、そんなに簡単なことではないかと思います。
イエス様が彼から離れました。
しかし、その残されたこの弟子たちは一つになりました。
12:01
男女区別なく、一つの場所にみんな心を合わせていました。
この時代にですね、本当に男子と女子が一つの場所に同じく集まることは難しいことだと思います。
それからですね、この男女の比率がですね、我々がどれくらいだったのか正確にはわかりませんけれども、福音書を読んでみますと、
イエス様が十字架で死なれるとき、そして法を守られたときにもですね、イエス様のそのそばを守っていた人々は女性の方が多かったんですね。
だからこのお子どの間にも女性の方数が多かったとそう思うわけなんですけれども、
いずれにしても彼らは男女出身とかそういったものは全く関係なくして、みんな心を合わせて一つにして集まっていた。
こうして彼らはみんな心を一つにして、共に祈って、共に交わりをして、共に話し合いをして、共に食事をして、
こうして彼らは一つになったんです。
しかも先も申し上げたようにですね、誰から強いられたから、知らせを聞いたからじゃなくて、
みんな喜んで自らですね、進んでこの場所に集まって、心を合わせて、そして祈りに専念していたんです。
これを本当に驚くことではないでしょうか。
皆さん、このエルサレム教会、初代教会のその力は一体どこから来るものでしょうか。
それはまずですね、集まることです。
集まることから、そこからこのエルサレム教会のパワーがそこから出たんです。
それは私の話ではなく、聖書の記録です。
同じ室の旗書2章の46節、47節を読みたいと思います。
46節、47節。
次のページですね。一緒に読みましょうか。
そして毎日心を一つにして宮に集まり、家でパンを炊き、喜びと真心を持って食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。
しも毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。アーメン。
15:05
ここにですね、毎日ですよ、心を一つにして宮に集まりました。
彼らも家庭があるでしょう。家族もあるでしょう。仕事もあるでしょう。
ただこの時代は宿外の時代でしたから、この世に集まっていたら、いつどういう風に祝儀されるかわからない時期の時代だったんですね。
にもかかわらず毎日心を一つにして宮に集まって、祈って、賛美をして、共に交わりを持っていたんですね。
これが礼拝の民の姿ではないでしょうか。
もう一箇所。だからヘブロ人への手紙ではですね、このように対策に進めているんですね。
ヘブロ人への手紙、十章二十五節。新約聖書四百三十七ページです。ヘブロ十章二十五節。
それではご一緒にお読みしたいと思います。
三杯。ある人々のように一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、彼の日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
きっとですね、この時代に一緒に、ある人々のように、これは神様を知らない人々ではなく、教会の中にいる人々なんですね。
教会の群れの中にですね、一緒に集まることをやめましょう、あるいは施行します、そういう人々が実際に教会の中にあった。
それをこのヘブロ人への手紙は、聖書の御言葉は、今日アジアに散らされているそのクリスチャにですね、そうしないで、かえって励まし合い、
彼の日が近づいているのを見て、終わりの日が近づいているから、ますます集まろうではありませんか、と進めているこのイエス様の御声をですね、私は心に止めなければならないと思います。
初代教会の力は、パワーは、心を一つにして主の御矢に集まる、そこから初代教会の素晴らしい神の御業が、明日がそこにおきましたね。
それではどのような教会が神様に喜ばれる教会なんでしょうか。
一番目、心を一つにする、心を合わせる教会です。
二番目は、毎日のように集まる教会です。
18:01
この二つがですね、実は最も大事なことなんです。
教会がですね、この二つさえですね、本当に心を尽くしてうまくできたら、その教会には、この人の働きのエルサレムの教会のように、驚くべき恵みと神の御業を見ることができるようになるでしょう。
皆さん、私たちが人を愛せればいいや、家様を愛せればですね、昨日会っても今日もまた会いたいんです。
人もそんななんですか。愛している人はですね、恋人はですね、昨日会った、でも今日も会いたいんです。朝会っただけれども夕方にまた会いたいんです。
一時間一緒にいただけれども、二時間三時間五時間一緒に一緒にいたいんです。それが愛なんですよね。
そして愛していたら、もっと愛でのことがもっと深く知りたいんです。もっと知りたいんです。同じなんです。
私たちが家様を愛せれば、家様を信じればですね、もっと家様が知りたいんです。家様のことがもっと深く知りたいんです。家様ともっと深い交わりを持ちたいんです。家様ともっと深いですね、人格な関係が持ちたいんです。
すなわちですね、初代教会の信徒たちのように、家様を愛する心を持っておれば、家様のことがもっと深く知りたい。もっと深い交わりを持ちたい。心を一つにしたい。
前向き集まりたい。一緒に賛美したい。一緒に礼拝したくてですね、もうどうしようもない。これが愛ではないでしょうか。
ですから皆さん、私たちが家様を愛せれば、この初代働きの教会のように、この信徒たちのように、家様ともっと深い礼拝を捧げたい。もっと祈りの深みに入っていきたい。そういうふうになるのではないでしょうか。
ところが、この屋上の間に集まっている人々は約120人くらいでした。その数について考えてみたいと思うんですね。
当時エルサレムとユダヤ、あのパレスティナの人口は約400万人くらいだったと推測されています。ですから400万人の中に120人でした。
21:11
その400万人の中で、家様を愛して、主の御言葉を守るために集まっている人は、たったわずか120人でした。これはですね、0.003%。本当に少ない数なんです。
あの当時の世の人々から見られると、本当にちっぽけがつまらないような存在たちでした。数的にはですよ。数的にはそうです。しかし、決してそうではありません。
ででしょうか。家様は、この120人余りの人たちに、全てのことを懸けたんですよ。全ての望みを、全ての誓いを彼らに懸けて、そして家様は証明なさった。
これが皆さん、とても重要な意味がここにある。何人なのかじゃなくて、その人数が、その彼らがどのような人々なのか、それが実は重要なことなんです。
神戸市民が約およそ180万人としましょう。明太刀協会の出席人数は30人としましょう。そしてですね、0.00176%くらいです。本当に少ない数です。
だからといってですね、教会は何もできない、本当につまらない集いなんでしょうか。決してそうではありません。何人なのか、何人が集まっているのかが重要なのではなく、その集まっている一人一人がどのような人々なのかが、最も重要なことではないでしょう。
彼らを誰が使わせたのか。この彼らに誰が望みを懸けているのかが、最も重要なことではないでしょう。
例えば皆さん、日本とアメリカと会談をするとしましょう。そしたら日本から日本の国民の中に1万人が行って、アメリカから全国から1万人が集まって、何かを会談をするよりは、日本も総理一人、アメリカではオバマ大統領一人、たった二人であってするのが、もっとパワーがあるんですよね。
数より大事なのは、その一人が誰なのかが、最も重要なことだ。皆さん、イエス様はいつもですね、清宗の時代も今の時代もですね、今日の時代も、イエス様は実は本当にみすばらしい、わすかなものをもって、使徒を用いて、主は大きな御業をなしてかしったお方なんです。
24:23
この120人の群れはですね、本当にみすばらしい、その彼らでした。権力を持っている人々でもない。当時ですね、本当に女性は見下げられるような、そのような存在微分でしたけれども、女性も多かった。
弟子たちも世の中から皆の中でですね、何のいい仕事もしていない、そのような、ある意味で無職の、そのような人々ばかりでした。しかし、その120人にイスラエルだけではなくですね、全世界の未来が、運命が彼らにかかっていたんです。
2国の将来が彼らに左右される、その鍵が彼らに渡されていたんですね。なぜでしょうか。イエス様が彼らを使わされたから。イエス様は彼らに望みと期待をかけたからなんです。
今日の教会の問題は、例えばですね、人の数が少ないところにあるのではなく、そこに集まっている、10人であろうが100人であろうが、そこに集まっている一人一人がイエス様の人なのか、
イエス様がこの一人一人に期待を望みをかけている人なのかどうかが、実は根本的に重要なことではないでしょう。ですから皆さん、私はこのように祈る者になりたいです。このように祈ってほしいんです。
主よ、少ない人数をもってあなたの御業をおくろしてくださる主なる神様。一人であっても、主のために100%献身する者がいるなら、主はそのたった一人を用いて、神様御自身の御業をなさる主であられます。
主よ、たとえ私は女性なんだけれども、金はないんだけれども、歳はとっているんだけれども、若者なんだけれども、信じたばかりの者なんだけれども、体は弱いんだけれども、主よ、あなたが私を持ちたいならば、主よ、私を受け取り下さい。私はそうしてあなたの御業をなしてくださいと祈る聖徒になりたい。
27:15
ところで、その120人の人々が屋上の間にあがって、そこで何をしていたんでしょうか。先お読みになったように、皆心を合わせ、心を一つにしたわけなんですよね。同じ方向を向かっていました。そして彼らは祈りに専念していました。
もっぱら祈っていました。余計なことせずに、この時には法師もいらない。祈りに徹していたんですね。
1日2日祈ったわけではないんですね。10分20分祈った、祈ってみたわけでもない。1回2回祈ってみた、でもない。約束の御霊様が望まれる時まで、それがいつなのか知りませんけれども、祈り続けていたんですね。毎日集まっていました。毎日祈っていました。毎日ゲーハをしていました。
ところが皆さん、彼らがですね、どうしてこのように毎日集まって、毎日心を合わせて、毎日祈りに専念していることができたんでしょうか。その力、その秘訣は一体どこにあったと思いますか。
それは、その力、その秘訣はですね、イエス様の約束を掴んでいたからです。イエス様の約束の御言葉をもう握りしめていたから、このように皆心を合わせ、祈りに専念していることができたんですよ、皆さん。
その人の働き一挙四節をご覧ください。
彼らと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。エルサレムを離れないで、私から聞いた父の何をですか。約束を待ちなさい。父の約束を待ちなさい。つまり、精霊様を、御霊様を、神様が送ってくださるんだと。その約束がありました。
だからですね、この120人のあまりのこの無理はですね、そのイエス様のあの約束を、精霊様が送ってくださるその約束を信じて、それをもう掴んでですね、いたから、このように祈ることができたんです。
30:09
皆さん、祈りを続けさせるパワーはですね、約束の御言葉にあるんですよ。体力に決心にあるのではない。私たちがですね、このような具体的な約束の御言葉を掴んで持っていないとですね、一回、二回、何回は祈れると思いますが、しかし続かないんですね。
ですから、私たちはこの一つのように祈りに専念できるのは、主の約束を知り、主の約束を学んで、主の約束の御言葉をさっきりとしっかりと握りしめていることです。
さあ、例えばですよ。家族の救いのために祈るとしましょう。皆さんの中にこのような祈りを持ってですね、祈っておられる方々が大勢いらっしゃると思いますが、ひとなだらき十六章三十二節を見ますと、「主へと信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という御言葉があります。
さあ、この御言葉、これは約束なんですね。主へと信じなさい。あなたがイエス様を信じたら、あなただけではなく、あなたの家族も救われますよ。そうなるかもしれませんよ、というものではなく、そうなりますよ、という約束の御言葉。
この約束の御言葉を見つけました。そしたらですね、神様はそうです。神様がこのようにはっきりと約束をなさったから、私は今日からこの約束を信じて、握りしめて、夫や家族の救いのために祈らせていただきます。
救われるまで祈られます。祈らせていただきます、というふうに、主の約束と自分のこのニーズを一致させる祈りが実は必要なんです。
ですから皆さん、この120人余りの彼らの祈りのように、続けて続けて祈れ、また祈りに専念できる祈りはですね、神の約束の御言葉を絶えず読んで、黙想して学ぶところにあります。
聖書にどのような約束があるのか、それをですね、もう何回も何回も読んでですね、そこでそれを見つけなきゃいけない。
そしてその約束を握りしめること、約束に基づいて祈るところに祈りのパワーがあるんです。120人の人々はそのように祈っていました。
ですから皆さん、パワーのある祈りはこのように約束の御言葉に基づいて、その約束の御言葉を固く握りしめて捧げる祈りなんです。
33:12
彼らはパクセント祈っていたわけではありません。約束を信じて、約束を握りしめて祈っていたので、どうか私たちの祈りを典型していただきたいとそう思います。
神様が皆さんお一人お一人にどのような約束をお与えになりましたでしょうか。
そして皆さんはどのような約束の御言葉を掴んで祈っておられるでしょうか。
私たちの祈りをですね、この聖祖の御言葉に基づいて、約束に基づいて祈られるときに、その祈りを主が喜んでください。
それをですね、ぜひ皆さん心に留めていただきたいとそう思うのであります。
彼らは皆心を合わせて祈りに専念していました。つまり皆屋上の間に皆集まっていました。
共に集まって共に祈っていたんですね。もちろん一人一人がそれぞれの持ち場、立場で祈ることも素晴らしいことでしょう。
しかしこの聖の働きが私に教えている教会の力は、主の民が一緒に集まってそこで祈り、そこで主を礼拝するところに教会の恵みが、教会の祝福がそこにあったのではないでしょう。
どうやってこのように毎日のように集まることができたのでしょうか。どうやって祈りに専念することができたのでしょうか。
その力は、その動力は、原神はいたいどこにあるでしょうか。答えは簡単だと思います。
イエス様を愛するからです。イエス様ともっと深く交わりたいからです。イエス様をもっと深く知りたいからです。
そしてイエス様も兄弟姉妹たちに毎日のように会いたいからです。だから皆心を合わせて祈りに専念していることができたんです。
ところが皆さん、イエス様を愛する心、イエス様をもっと深く知りたい心、イエス様と深く、本当に深く交わりたい心、
36:03
イエス様の御言葉をもっと深く、資源の御言葉のように、蜜のように、甘いその味が味わいたい心は、人が与えることではない。
人からもらえるものではありません。
例えば皆さん、いくら有名な牧師が説教して、このようなイエス様を愛する心を持ってほしいです。
百年聞かれても、私に皆さんの内側にそのような植え乾きがない限り、何にも起こりません。
ですから皆さん、大事なのは、私たち一人一人の心の中に、主よ、あなたをもっと知りたいです。主よ、祈りの深みに入りたいです。
蜜のような甘い御言葉の味が味わいたいんです。
毎日のように教会に行きたいんです。この人の働きの神徒のようになりたいんです。
と、乾きを持って願えば、主がそのように、神様がそのように作りかえってくださるんですね。
ですから大事なのは、私たちにこのような植え乾きが願いだ、心の願いだ、あるかどうかなんです。
状況は、コンディションは、健康は、実は関係のないお話です。
古代教会のこの麗しい仕方、エルサレム教会が本当に幸せな教会だったその力は、
彼らが約束を信じて、約束を固く掴んでいた信仰を持っていたからですし、
そして約束の上に書いて捧げた祈りがあったからですし、また心を合わせていつも集まっていたからです。
その動力、その力は、実はイエス様を愛す心です。
皆さんいかがでしょうか?
日頃本当にイエス様をもっと愛したい。
イエス様のことをもっと深く知りたい。
イエス様と本当に生きている、生き生きとしたイエス様と深い人格的な交わりが持ちたい。
その心の願いが終わりでしょうか。
そうしたならば、その心の願いを必ず叶えて下さい。
皆さんイエス様は、自分のことをもっと知りたい。
自分ともっと交わりを持ちたい。
御言葉をもっと深く知りたい。
知りたい、味わいたいと、そういう願いを持っている心の願いをですね、叶えて下さらないはずがあるでしょうか。
39:03
決してありません。
イエス様は、私たちの心の願いを探っておられ、知り尽くしておられるから、
心の願いさえ持っておれば、主が叶えて下さるんですね。
詩編37編4節をちょっと開きたいと思います。
詩編37編4節。
旧約聖書939ページです。
37編4節、一緒に読みたいと思います。
3台。
主を己の喜びとせよ。主はあなたの心の願いを叶えて下さる。
ここにですね、主はあなたの何をですか?
あなたの心の願いを叶えて下さる。
ですから皆さん、私たちが、主を持って、あなたをもっと知りたいです。
あなたをもっと深く、味わいを持ちたいです。
あなたのようになりたいです。この人の働きの教会のようになりたいです。
このような信徒のようになりたいです。
賛美したいです。祈りたいです。
あなたの心の願いを持っておれば、主は叶えて下さって、そのように作り変えて下さるんです。
もらえないのは願わないからと、エコブの手紙には書かれているんですよね。
メッセージを終わりたいと思います。
皆さん、家様のために生き、家様のために働き、家様のために勉強し、
家様のために集まる、家様のために祈る、クリスチャンになろうではありませんか。
皆心を合わせて、祈りに専念する妙谷教会になりたいと、深く願っております。
お祈りだけです。
41:18

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