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2018-08-05 40:10

2018/08/05:ヨハネの福音書講解説教(38)あなたがたは心を騒がしてはなりません

2018/08/05 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 14:1-7
00:01
改めて皆さん、おはようございます。
皆さんに祈っていただいて、また参加してくださって、水曜日、木曜日、教会ファミリーキャンプがめぐみのうちに終わりました。
また、熱症やけがをされる方もいらっしゃらず、めぐみのうちに、初日は礼拝と、また千足式、またお茶のお話のときもゆっくり時間をもったり、また一緒にですね、ごろくに一緒に寝て、朝のデボーション、あるいはラジオ体操。
実は、第一コリントから一致性、多様性、そのことも思ったり、レクリエーションもしたり、食事もですね、おいしくいただいて、本当に私たちは神の家族ですというテーマに沿って二言葉と、また実践とめぐめぐきがもたれました。
本当にありがとうございました。感謝いたします。すべてを導いて守ってくださった神様に心から感謝いたします。
それではメッセージの前に隣の方と挨拶しましょう。
それでは一言お祈りいたします。
あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。
この世を見ますと、心を騒がしたくなるような、騒がせられるような言葉がたくさん起こっている今日。しかしそんな中でも神様が私たちに、神を信じ、私を信じなさい。だから心を騒がしてはなりません。
そして平安を与えてくださる神様は感謝いたします。
今日も主の御前に減り下り、世界大の惨命の果てのように、我らの自我も心出しも、あるいは頑固さも、あるいは罪も、あるいは弱さも、あるいは自分の得意なところ、すべても主の御前に捨てて、主に従っていくことができますように。
ところが主よ、あなたに従う従順な心と、食い温める砕かれた謙遜な心を、また死の恵みをしたい求める喜びの心も渇きも、お与えくださいますように。
03:07
そして主の御言葉をお聞きし、それによってまた強められ、変えられ、ますます、イエス様の御姿へ成長できますように、主を導いて祝福してください。
神様御自身が、聖霊様が一人ひとりの心の魂に語ってくださって、その御言葉によって生きる、この一週間とならしてください。イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
感謝致します。もともと黒い顔ですけれども、もっとあがけました、ちゃんとですね。見えますか。感謝致します。
ヨハネノク二章続きまして、38回目になります。
あなた方は心を騒がしてはなりません。あなた方は心を騒がしてはなりません。という題にして、言葉の恵みを主にお受けしたいと思います。
キリスト教の信仰とは何なのか、それをいろいろですね、話せると思いますけれども、
キリスト教信仰とは、神とイエスの御言葉、そしてその御言葉を知り、そして知った上でその御言葉を実践すること、
あるいはイエス様の御言葉による生き様、その実践を見習うことだと言えるのではないでしょうか。
聖書全体がですね、全てが神の御言葉であってイエス様の御言葉でありますが、
神訳の中で特に福音書を絞ってですね、イエス様の御言葉、そしてイエス様が片手教えてくださった福音、
その福音の本実、それをですね、根本的に教えてくれる聖書をもし選ぶことができるならば、
私は、マタイの福音書の5章、6章、7章の、あのいわば三条推訓と呼ばれるその御言葉が、
イエス様が語る御国の生き方、そしてイエス様が何を語ろうとしているのか、
そして私がどう生きるべきなのかをその原理、法則、根本、本質を教えてくださる御言葉は、
あのマタイの5、6、7章だと考えております。
そしてその御言葉の実践、イエス様が実際に御自分の身をもって模範を示してくださった御言葉を選ぶならば、
それはヨハネの福音書の10、今日から始まる14、15、16章だと考えております。
06:09
これこそイエス様の教えられた、自分自身が教えたことの実践である。
そして、しかも模範を見せてくださった。あるいは福音の完結版であると言えるんじゃないでしょうか。
ですから皆さん、もう聖書を全部読むことが大事ですけれども、この中でまたマタイの福音書5章、6章、7章、
ヨハネの福音書の14、15、16章をまたぜひぜひ繰り返して、繰り返して読んでいただき、目指していただきたいなと思っておりますし、
この暑い中ですけれども、あるいは今日からの中でも、この御言葉を特にヨハネの福音書、
今日から始まります14章から16章を深く深く目指す時間をお持ちくださればと思っております。
さて、今日の14章の第一節をもう一度一緒に読んでみたいと思います。
一節、あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。
まだですね、イエス様が最後の、いわゆる最後の晩餐中なんですね。
清算式を、清算を行われました。そして、足を、イエス様が弟子たちの足を洗ってくださった、そのこともその中であって、その中でイエス様がたくさんのお話をされたわけなんですね。
ところがイエス様がなぜ突然かのように、あなた方は心を騒がしてはなりません、とおっしゃったのでしょうか。
心配しては言えませんよ、思いはずらりしては言えませんよ、という話ですね。
またこれから詳しく見ていきますけれども、この時の弟子たちの心が騒いでいたということなんですよね。
思いはずらりをしていた、心配をしていた、あるいは不安を感じて、どうしようどうしようと言って、動揺していたわけなんですよね。
だからイエス様が、そんな弟子たちの心を、様子を見て、心を騒がしてはなりませんよ、と語ったわけなんです。
ところが皆さん、今日の私たちにも、ちょうど必要なお言葉ではないでしょうか。
なぜなら、口では言っていないかもしれません。
ところが、神様は信じていますけれども、なぜか思いはずらい、心配、悩み、不安をもしも抱えて、そういうふうなあたらしがおるのではないでしょう。
09:17
この今日の御言葉は、その時の弟子たちに向かってだけではなく、
今日の私たち、何かの不安を、何かの思いはずらいを、何かの心配を、何かの故に心を騒がしている皆さんのために、お一人のために、イエス様が語ってくださるメッセージなんです。
ぜひ、今日そのイエス様のメッセージ、お声を聞いていただいて、そこから本当の平安と喜びで満たされて、ここから降りて、それぞれ使わせるところに帰りたいなと思います。
まず弟子たちに、イエス様がなぜいきなりこの話をされたのでしょうか。それはこの最後の晩餐といわれる、このところの流れから少し二つを言えると思うんですね。
まず、イエス様が食事をしているときに、突然パンを下げて与えて、これは私の体である、食べなさい。
うどん汁を渡して、これは私の血である、記念しなさいと。弟子たちはまだ訳がわからなかったんですよ、実は。
そして、いきなりまたイエス様が立って、弟子たちの足を洗ってくださった。それも、なぜイエス様がこんなことを発言するのか、訳がわからなかったんです。
そして、この最後の晩餐のときに十字架につけられて死なれること。その中でまた、あなた方の中で私を裏切る者がここにいるんだと、そういう話をされたから、弟子たちは動揺していたわけなんです。心が騒いでいた。
だからまずイエス様は彼らに心を騒がしてはなりません。そして、また今お話ししましたように、三年もイエス様と一緒に伝道して、寝食を一緒にして、イエス様のお話を何度もして、そして私が行く道は十字架の道なんだよと。
それぞれ自分を捨てて、それぞれ自分の十字架を追って私について来なさいと、神の御国の話をたくさん話をしました。
でもまだわからない。何でイエス様自分が十字架につけられて死ぬと行くのだろうか。わからなかったんです。
12:04
今日の御説を見たら、イエス様がまず御説にこうおっしゃったんですね。私の行く道はあなた方も知っていますと。
ところがその時にトマスがこう言ったんですね。主よ、どこへいらっしゃるのか私たちにはわかりません。どうしてその道が私たちにわかりましょうと。十字架の道が、復活の道がまだわからなかった。ピンと来なかったんですね。
それで彼らは、わからんわからん、どういう意味なんだろう、というふうにして心を騒がしていたことでしょう。
ところが皆さん、よくよくまず考えていただけることは、私たち昔の人であろうが今の人であろうが、私たちを潰す、破滅させる、苦しめるものの中で最も恐ろしいものは何だと皆さん考えますか。
何のような病気なんでしょうか。あるいは事故なんでしょうか。あるいは戦争なんでしょうか。あるいは親婚なんでしょうか。あるいは失業なんでしょうか。もちろんそれもいろいろダメージがあるかもしれませんけれども、
私たちを最も破滅させる恐ろしいものというものは、この思い患い、心配ということではないでしょうか。病気や事故は確かに私の体を傷つける、害するわけですけれども、思い患いとか心配とか、心を騒がせることなどは、
私たちの心だけでなく、魂だけでなく、その人生そのものを実は破壊してしまうでしょう。
もしも皆さんの中で大きなものじゃなくても、小さな何かの不安や思い患い、どうしよう、これからどうしようといった何かの心配を抱えておられる方がおられるでしょうか。
今日、イエス様の御言葉によって、そのすべては消え去り、平安が与えられますように心からお祈り申し上げます。
まず、なぜ心を騒がしてはならないのでしょうか。なぜ思い患いをしてはいけないのでしょうか。いろいろ話をできるかと思いますけれども。
まず第一、心を騒がしていたら、思い患い、心配をしていたら、神様が見えなくなってしまうからなんです。神様がおられないから見えないんじゃないんですよ。
15:15
この心を騒がしている自分自身、思い患い、心配に自分が囚われ人になってしまって、神様が何もできない方のように見えてしまう。
神様の存在が遠く飛んでしまって、そういうふうに感じてしまう、感じさせられるということなんです。
だから心配というもの、思い患いというもの、心を騒がせんといったものが、これそのものが自分と神様の間の障壁、大きな分厚い障壁、壁になってしまって、神様を見えなくしてしまう。
だから皆さん、我々神様を信じる者として、クリスタルに、最も恐ろしい、怖い敵は病気ではないんですよ。事故ではないんです。あるいは経年会食でもないんですよ。
実はこの神様を信頼できていない、思い患い、心配、そういったものなんです。
2番目、なぜ心を騒がしてはならないのでしょうか。心を騒がしていたら、心配を、思い患いをしていたら、実は開かれている未来の門を、自分でそれを閉じてしまうからなんです。
そしてどうなるのでしょうか。心を騒がして、動揺してしまって、心配が心配を生み出し、また他の心配を生み出して、思い患いが自分自分を振り締めてしまって、希望、神を目指すのではなくて、絶望、最悪、あるいは死を考えてしまう、思い込んでしまう。
そして自分で自分の人生に破壊を招いてしまう。実は状況が最悪じゃないんですよ。自分の心の中に、魂の人生の中に、その心配事を自分が入れてしまったから。
だから神が開いてくさっておられる未来の門が、希望が見えなくなってしまうから。神が開いてくされる未来の門は開かれているのに、自分が閉じてしまって、そう思い込んでしまうだけ。
3番目、なぜ心を探してはならないのでしょうか。続きですけれども、心を探していて、ずっとずっと思い患いを持ち続けているならば、人は最悪を考えてしまうからなんて。
神様が開いてくされる人生の可能性と未来と希望が、喜び平安がたくさんあるにもかかわらず、それが見えなくなってしまって、最悪の道ばかり考えてしまう。
18:18
それでネガティブになってしまう。絶望に陥ってしまう。破壊的な考えばかり考えるようになる。
そうなんです。皆さん、心配して心配して、いいことを先に考えるでしょうか。だいたいそうならないんです。思い患い、心配をして、そして最悪のことをなぜか人間は考えてしまう。
もちろん罪の性質から来るものでしょうけれども、だから主は私たちにも弟子たちにも心を探してはなりませんと語ったわけなんです。すでに古代の賢者といわれるソロモンは私たちにこういうふうに教えてくれています。
ちょっと真言の見方を開けましょうか。真言十五章十三節。旧約聖書真言第十五章十三節。千七十六ページです。真言の十五章十三節。千七十六ページ。十三節を一緒には見たいと思います。
心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気は塞ぐ。そうでしょうか。皆さん、心に憂いが心配が覚え患があれば気は塞がれてしまう。もう一箇所ありますよ。十七章二十二節を開きたいと思います。
十七章二十二節。千八十ページですね。二十二節を一緒に。病気なところは健康をよこし、陰気なところは骨をからす。この品科学は陰気なところとありますが、これは心配ということなんですね。思い患い。思い患い心配はどうするんですか。自分の骨をからすわけなんです。
ところが心配すること、思い患い心配を騒がせることの一つ。ここで知っていただくことは、何かのことに対して心配をしている。心騒がしている。ところが実はそれが自分が心配していて思い患いをしていているその対象は事実ではないということなんです。
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例えばある状況に対して本当に心配しているとしましょう。でもそれほど実はその状況はそれほど悪くないということなんです。実は何も起きていない。何も変わっていない。
ところが自分が心配してしまう。最悪を考えてしまう。それで神が見えなくなってしまう。事実は事実通りに見えなくなってしまうこと。自分で最悪のストーリーを、想像のストーリーを書いてしまうわけなんです。
だから思い患いこと、心を騒がしていることは事実ではないんだから、それを避ける、逃れることができるということなんです。なぜでしょうか。今日の一節をもう一度読みましょう。十四の一節。
十四の一節も一緒に読みますね。
あなた方は心を騒がしてはありません。神を信じ、また私を信じなさい。アメン。
みなさん、なぜ私たちは、クリスチャンは神を信じる者心を騒がして思い患い心配してはいけないのでしょうか。
神を信じるからなんです。イエス・キリストを信じるからなんです。命の主を信じるからなんです。そういう恵みの体験を味わってほしいんですね。何かの心配があったとしましょう。
でも、神を信じてイエス様を信じて目指しているうちに、その心配がですね、もう煙のように消えてしまう。そして平安と喜びが訪れてくる。
神を信じることは、そういうものじゃないでしょうか。
例えば皆さん、神を信じている。でも神を信じない人々のように、まったく同じく心配する。病気のことを心配する。老後のことを心配する。死ぬことを心配する。
もう同じく、まったく変わらず、同じ心配しているならば、何かの問題があるわけなんです。
神様は避けることができる道を備えてくださる。そしてそれを打ち勝つことができる力も信仰も主が与えてくださるんです。
皆さん、もしも何か本当に心配があるでしょうか。神を信じてください。神を見上げてください。神を目指し続けていってください。
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そうしていくときに、私たちは自分が決めてしまった、自分が決めてしまった自分の人生の枠、この枠の外私はもう出れない。
もう出たらやばいことが起こるから、絶対に私のこの枠からは出ないと。そこから神の恵みは体現できない。神を信じるからそこに出ていくことができる。
そして、ああ、こういうふうにしてくださる神の素晴らしさがある、自分の肉体の限界を、人生のすべての経験の限界を乗り越えさせてくださる神の恵みを味わえるんです。
そしてもう一つ、私は私の心に魂に心配させる、思い患いさせることの最後には、サタンの策略があるということなんです。どうしようもない恐怖がやってくるんです。
その時の私は、神を信じ、イエスの力を信じて、そのサタンを追い出して、立ち向かって主の平安を求めて祈っていくべきではないでしょうか。
皆さん、神様は生きておられます。ただの言葉で、文句でですね、神は生きておられる。
でも自分の人生に神は生きておられる、その神を信じて生きているんだろうかの我々の答え。
皆さん、皆さんは何かの心配をしておられるんでしょうか。その心配を解決しても余りのある力の方が誰ですか。私たちの神様なんですよ。
アーメンですか、皆さん。信じますか。神様は決して土地で神話を語るのではなく、開けて開いてくださる方が私たちの神様。
イエス様が我々に教えてくださいました。心配してはいけないこと。その第一、理由は何でしょうか。神様を信じるからなんです。
神様を信じるということは、神様がおられるということなんです。皆さん、神様がおられることを信じますか。
5人信じてますね。答えになる方は5人おります。神様は生きておられる。神様は死ぬこともありませんし、その力が能力が栄光が衰えてしまうこともあります。
神様がおられること、私の父なら神様であられること、その神を信じる者は、実は心を捌く。
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でも、常に聖書の御言葉を私に、神を信じなさい。神がおられる。イエス・キリストは命であり、よみがえりであり、力である。語っておられる。その御言葉に注目します。
ところが、サタンは私たちに囁くんです。神はない。あなたはできない。これから最悪が来るよ。囁く者はサタンなんです。
だから、誰の声を自分が聞き取るかは、実は自分自身の主体なんです。神の声を聞いてください。
もう一度繰り返してお話しますけれども、何かの心配を少しでも抱えておられる方は、今日のこの十四章を何度も何度も目指して、神を見上げてください。
皆さん、私たちを強くしてくださるのは、どんな心配も、それをもう払拭してくださる力は、神にあります。神を目指してください。
ここに何かの若い人もいますけれども、青年の時には、未来のことが不安なんですよね。就職、結婚、お金のこと、育児のこと、様々なことが不安であります。
その時に、神を見上げて、神を信じて、神に従っていく人は、心配がなくなるんです。
もう全て神様が備えてくださるんですよ。その恵みを、祝福を味わってほしいんですね。
皆さん、もう一度申し上げましょう。私が心を探してはならない理由は、神がおられ、その全知全能の神様を信じるから。
2番目、私が心を探してはならない理由は何でしょうか。それは、イエス様が2節から語ってくださるように、天国があるからです。
そして、私がそこに入れていただけるものなんです。2節一緒に読みたいと思います。2節3、はい。
私の父の家には妻がたくさんあります。もしなかったら、あなた方に行っておいたでしょう。あなた方のために私は場所を備えに行くのです。
3節、私が読みしますね。私が行って、あなた方に場所を備えたら、またして、あなた方を私のもとに迎えます。
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私の家のところにあなた方をもおらせるためです。アーメン。何と素晴らしいことなんでしょうか。天国がある。そして、イエス様がそこに行っておられるんですね。
そして、私たちの住まいを用意しておられるんですよ。そして、私がそこに迎えるために、おらせるために、どうされるんですか。また来られる。
そして、「誰々よ、一緒に行こうね。行きましょうよ。」と連れて行ってくださる。その天国があるから、私たちは永遠の命を持っているから、心を探してはいけないんです。
だからさ、天国は神の家であって、御国であって、私たちの住まいがあるところなんです。そこには、悩みも不安も心配も心を探せる、そういったものがあります。
人が一番恐れるものは、死というものではないでしょうか。死ぬこと。でも、死ぬことのその後、私たちは信じています。死で全てが終わりではない。
それは、死というものは、永遠を開く、ただの間も、門に過ぎない。そして、クリチャーには、聖徒には、死というものも、実は神の賜物である、新しい天国が始まる、永遠の命が始まる、ただ通り過ぎる門に過ぎないことなのではないでしょうか。
皆さん、そこにあなたやみんな、入れていただくんですよ。そして、亡くなって、よみがえって、そこに行くわけなんです。だから、死ぬことは必然的なものでもあります。
ところが、どうでしょうか。皆さん、このまま、今ですよ、このままで天国に行きたいんでしょうか。行きたくないですね、実は。心の中にまだ、手帰りがある、憎しみがある、病気がある。このままで行きたくないんです。
すべてが、新しくされて、新しく、入りたいです。もしも、このまま行ったら、天国にいても、喧嘩するかもしれませんし、憎むかもしれませんし、病むかもしれないんです。そして、そこは天国じゃ、亡くなってしまわないんですね。
それをしたファウルは、私にこのように教えています。ちょっと聖書を開きましょう。第一コリント、十五章を開きましょうか。第一コリント、十五章、五十二節から読みたいと思います。
第一コリント、十五章、五十二節から五十五節までにありますが、私の聖書では三百四十二ページです。ちょっと長いですけれども、大事なところですので、五十二節から五十五節まで一緒に読みたいと思います。
33:19
終わりの落葉とともに、たちまち、一瞬のうちにです。落葉がなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは帰られるのです。朽ちる者は必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬ者は必ず不死を着なければならないからです。
つまり、朽ちる者が朽ちないものを着、死ぬ者が不死を着るとき、死は勝利にのまれたと記されている二言葉が実現します。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか。
みなさん、今の私たちの体や心の感情やすべては朽ちるものです。死ぬものです。汚れたものです。それは必ず朽ちないものを着なければならない、不死を着なければならないのです。
だから私たちは死ぬのです。それを信じているのだから私たちは実は死ぬことさえも怖がらないのです。心配しないのです。病んでいても怖がらないのでしょうか。それで終わりではないからです。
今は朽ちるものである。今は死ぬものでありますけれども、それが不死を着るようになるから、朽ちないものに変えられるから、だから喜べるのです。
ところが、イエス様が今日のような14日の2節3節に語っているように、その素晴らしい天国があったとしても、自分と何の関係がないならば何の意味もないのです。そしてその天国に行く道が本当に黒ばかりの道であるならば、それは死ぬかもしれない。
しかしイエス様がどうするのですか。イエス様が先に行ってくださって、すべてを用意してくださって、そしてまた来てね、じゃなくてイエス様が私たちのところにもう一度イエス様が来てくださって、そして私たちを連れてそこに行ってくださる。
なんと優しい素晴らしい天国のガイドさんみたいにですね、案内してくださる。すべてをイエス様がもう全部やってくださるんですね。そして私たちはその事実を信じてついて行くんですよ。
36:20
ヨアネノクイーソー12章。
イエス様が先に行かれて、そして連れて行ってくださる。何度も何度もイエス様が語られました。私たちはまだまだそれがわからなかったんですよ。
どこに行くんですか?トマスが言ったように。また死ぬのですか?まだわからない。よめがえりの話をしてもまだわからなかったんですね。皆さん、イエスキリストは私たちを入れてくださる天国のところを用意してくださるんです。
私たちが亡くなってですね、自分でですね、魂が何か花火で天国まで咲かせていかなくならないわけではないんです。すべて用意してくださって導いてください。だから心を騒がしてはいけないんです。
皆さん、今何かのゆえにちょっと心配しているんでしょうか?悲しみを感じておられるでしょうか?あるいはこれからのことがちょっと気になるんでしょうか?そうかもしれません。
それは、そういう感情自体は我々人間の自然なものであるかもしれない。しかし、制度はその後のステップが大事ですね。心配をしましょう。ちょっとこれからのことが気になるとしましょう。
そしたら、その先の神の御導きを、神を信じてキリストを見上げてついていく者には、私が必ず守って祝してくださることを信頼していくものならば、その心配も思い患いも気になることも消えてしまうのではないでしょう。
皆さん、神様を、神の力を、神の栄光を目指して、見上げて、主を握りしめてください。
39:13
現代の男性の方々で、日本だけではないでしょうけれども、そういうときに一生懸命働いて働いて働いて、家、会社、会社、家、家、会社、会社、家、それで60、あるいは65、定年退職する。
その頃、現代の男性は鬱になりやすい。これからのことが老後から心配になるみたいなんですね。退職する。これから自分の人生はどうなるんだろうか。収入が減ってしまう。やることがなくなる。自分の存在価値がぶんと減ってしまうような、そういうところがある。
そういう心配があるかもしれませんけれども、そういった考えも変えていただきたい。ある一人の私の知り合いの、韓国のクリスタルのゾウネの方の証です。
40:10

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