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一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今日も私たちを死の御前へと招いてくださり、あなたを仰ぎ礼拝できる幸いを感謝いたします。
これは本当に当たり前のことではない、あなたの恵みによる支えであることを覚えて感謝いたします。
私たちは明日で、東北の大震災から13年を迎えようとしています。
多くの方々が命を失い、そしてまたその痛みが未だ覚めあらぬところにあります。
どうか、痛むお一人一人を主がなおも慰め続けてくださいますように、お願いをいたします。
私たちには命が与えられ、死と共にこの日々を永遠の命をもって生きていくという使命が与えられています。
神様どうか、あなたを仰ぎ、あなたの御言葉を聞き、私たちが死の御前にどのように生きていくべきなのか、命が与えられているものとして死に応えていくことができますように、私たちを強めてください。
お願いをいたします。
私たちには変わりない主の愛の御手が永遠の甲斐があることを覚えます。
あなたは私たちのために御子を十字架へ捧げてくださいました。
その流された血潮によって私たちの罪を許し、神の子としてくださり、永遠の命、神と共に生きる命を今も私たちのうちに働かせてくださっています。
あなたの恵みを見失いやすい時であろうとも、私たちが主から離れようとする時であろうとも、その事実は変わりません。
どうか主よ、あなたを仰がしてくださり、あなたからの恵みによって今日も立ち上がることができますように、この一時を強め導いてください。
お願いをいたします。
特にここに来たくても来れない方々、施設におられる方々、家で霊魂を守っておられる方々、一人一人を主が顧みてくださいますように。
また、とある兄弟が今入院をしています。
どうかその兄弟のことも主を覚え、あなたの回復と癒しを与えてください。
お願いをいたします。
あなたの御手に委ねます。
あなたが御言葉を開き、私たちに教えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
今朝、読んでいただいた歌唱というのは、イエス様の例え話の中でおそらく最も愛されているお話ではないかなと思います。
「宝塔息子」と呼ばれるこのお話ですけれども、何度も何度も読むことをお勧めしたい歌唱です。
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そして何度も何度も読む中で、その深みに尚も気づかされ続けていくような歌唱です。
ただ、どういうお話であるか、先に一言で説明をしてしまうならば、それは父親の心に気づくことのできない二人の子供の話です。
父親の心に気づくことのできない二人の息子の話。
親の心こしらずと言いますけれども、どうでしょうか。
私は今年で37になるんです。
年を重ねるたびに、何と言いますかね、自分の親を自分自身に重ねることが増えてきたように思います。
そして昔は、何でこんなことをするのかなと思っていたことがだんだん共感できてきたり、
時に批判的に見ていた親の姿も、あああれは仕方がなかったんだなとある種受け入れていったり、
そのような中で少しずつ、親というのを個人的には一人の人間として受容していくというんですかね。
受け入れていくような、こういう気持ちがありました。
ある種、親を一人の人間として受け入れていくということが、私たちにとっては自立であったり、言葉を変えるならば大人になるということなのかもしれません。
実は私たちが父なる神様を信じていくということも、これにちょっと似ているんです。
なぜかと言いますと、実は私たちは父なる神様の心を知っていく、親の心を知っていくたびに、
私たちは親のある種を大人になりながら、親に似た生き方になっていくということが言えると思うんです。
私たちが知らなければならないのは、何を守らなければならないというよりも、生きておられる種の心です。
生きておられる神様の心、それは一体何であるのか。
そのことをご一緒に知りたいと願っています。
2週に分けて、実はこの弟息子の話を見ます。
今週は弟息子にちょっとフォーカスを当てて、来週は兄息子の話を少し見ていきたいと願っています。
この例え話はもう説明するまでもないと思いますが、しかしちょっとしっかり見ていこうと思います。
この話はどういうところから始まるかと言いますと、弟息子が父親に対して、
お父さん、財産のうち私がいただく分をくださいという、そう言い始めるところから始まります。
ただ、実はこの始まりから、この物語にはものすごく緊張感が走るのです。
と言いますのも、当時財産分与というのは、父親が死んだときに行われることなのです。
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それを生前の父親に分与を迫るということは、
お父さん、あなたの財産が欲しいので死んでくださいと言っていることと同じ意味なのです。
弟息子の目には遠い国への憧れがあふれています。
もはや父親など眼中にないのです。
父など死んでもかまわない。
この物語はそのように始まっていきます。
さて、父はこの弟息子、実に失礼な弟息子に対してですけれども、財産を分け与えていきます。
そしてこの弟息子は、その財産の全てを持って、遠い国にすぐに、幾日も経たないうちに行ってしまうのです。
もう家に帰る気もないかのように、父親との関係をきっぱり切るかのように、この弟息子は遠い国へと出ていきます。
きっと、お父さんがいる善悪の価値観や判断に縛られているような、この家には何の魅力も感じないかのように、こんな所に出て行けて生成すると思うかのように、彼は出て行きました。
この憧れの遠い国に弟息子は着くのですけれども、彼はどうしたのでしょうか。
この遠い国というのは、見ていただくと、なんとなくわかるかもしれませんが、実に自由な国だったのだと思います。
この国は、お金さえあれば、おいしいご飯もきっときれいな寝床も、友達もきれいな恋人も手に入れることのできる国。
お金さえあれば、ある程度何でも手に入る、そのような国だったのだと思います。
ただ、お金さえあればです。
14節を見ますと、13節を見ますと、そしてそこで、荒唐して財産を湯水のように使ってしまったと、彼は書かれているのです。
ある種、父親がこの弟息子のために蓄えた財産を、彼は湯水のようにジャブジャブと使い切ってしまいました。
この国、彼が憧れた遠い国というのは、お金さえあればあらゆる幸せが手にできる国だったでしょう。
ですが、お金がなくなれば、何も、何一つ与えてくれない国。
基金がこの国を襲います。弟息子を襲います。
彼は食いつがないために、この地方の家のとある人のところに身を寄せて、豚のお世話をし始めます。
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見ていると面白いのは、この弟息子はまだ地方を離れないんです。
まだこの国に何かを期待していたのかもしれません。
それでも、あの時あれだけ仲良くしてくれたあの人が、この人が、私を助けてくれるかもしれない。
けれども、現実というのは、彼に対して豚の餌すら誰も与えてはくれなかったということでした。
この時になって、彼は17節に書いていますが、しかし彼は我に帰ってというのです。
我に帰って。
我に帰って。ある種、自分の今までの盲目的な姿から、ふと何かを思い出してですね。
彼は我に帰った中で、おそらくこの国の正体に気づくのだと思います。
この国の人々というのは、実は誰も弟息子のことなど見てはいないのです。
人々が見ていたのは、彼自身ではなく、彼の財産です。
だから財産がなくなれば、価値がないかのように切り捨てられてしまいました。
この遠い国というのは、善意や愛では動いてはいないのです。
金で動いているのです。
その結果、彼は自分自身の全てを絞り取られ、家畜の舞台下にしか人々に見当たれなくなったということです。
そして、そういう彼が我に帰って、もう一つ気づかされたことがありました。
全てを失って、舞台下になり下がったとしても、私には一つだけ残されている場所があるということです。
17節、19節を読みますと、彼はこう言います。
しかし彼は我に帰って言った。
父のところには、半のあり余っている野僧人が何と大勢いることか。
それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
立って、父のところに行こう、そしてこう言おう。
お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪あるものです。
もう息子と呼ばれる資格はありません。
雇い人の一人にしてください。
立って、父のところに帰ろう。
これは、悔い改めというものの姿を表しています。
悔い改めというのは、方向転換です。
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自分が何者で亡くなったとしても、自分が何を失ったとしても、
ああ、私にはまだ帰るべき場所があるということを知っているということです。
そして、その場所を知っているから、私は一歩歩き出そうという勇気を持つことができること。
それが悔い改めです。
方向転換ですね。
彼は悔い改めの道へと歩み始めました。
ただし、彼の発言で気になることがあります。
18節、19節。
お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪あるものです。
もう息子と呼ばれる資格はありません。
雇い人の一人にしてください。
彼は多くを反省したのでしょう。
父親への無礼、せっかくの財産を湯水のように使い切ってしまったということ。
それに対する追い目や罪というものを、彼は深く感じていました。
それとともに、おそらくこの弟息子は、この遠い国という場所で深く傷つきながら、
きっと一つの考え方に染まってしまったのかもしれません。
それは、愛されるためには代価が必要だということです。
愛されるためには代価が必要である。
この世界は善意や愛では回ってはいない。
代価を支払わずして受け入れてほしいなど虫のいい話すぎる。
きっと弟息子は、そのことを深く傷ついて思ったのだと思います。
だから雇い人の一人にしてください。
雇い人の一人であるということは、働きますからその代価としてパンをくださいということです。
働きますから、私にそのパンをください。
この世の冷たさと言いましょうか。
その結果、彼の目には捨てていった父親でしたけれども、
きっとこの父親は父親には見えなかった。
恐ろしい主人にしか見えなかったのだと思います。
しもべとして、雇い人としてどうか働かせてください。
しかし、この家に近づいていくと、この弟息子は思いもよらない光景を目にします。
二十節を読みしますと、こういうことが書いてある。
こうして彼は立ち上がって自分の父のもとへと向かった。
ところが、まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけてかわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけしたというのです。
彼が木路に着いて遠く家を仰いでいると、遠くから誰かが走ってくるのです。
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それは父親の姿でした。
彼は思ったかもしれません。
怒鳴られるだろうか。
出会いざまに殴られるのだろうか。
けれども、この父親はどちらもしませんでした。
父は走り寄って弟息子を抱きしめるのです。
そして彼に口づけをする。
これは元の言葉では繰り返しです。
何度も何度も口づけをしたということが言われているのです。
父の心、この父親の心というのはどういうものだったでしょうか。
弟息子を見て怒ったとは書いていません。
聖書が書いているのは、この弟息子を見ると父親はかわいそうに思ったと書いているのです。
かわいそうに思っているという言葉は聖書でよく使われますが、これはスプラグクニゾマイという内蔵が揺り動かされるということです。
内蔵が揺り動かされる。
心の底から存在全体が揺り動かされるということです。
いわば心の底から抑えようもないほどの愛情で、とにかくこの弟息子を抱きしめたかったということです。
弟息子はおそらく帰りの道中、練習してきたであろう言葉を父親に伝えます。
お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪あるものです。もう息子と呼ばれる資格はありません。
しかし聖書を見ますと父親はこの言葉に一切答えません。耳を貸しません。
ただ父がするのは、そう言っている息子を抱きしめるということです。
そしてこの時、弟息子は初めてこの父親の心というものがわかってきたのかもしれません。
確かに弟息子は過ちを犯しました。
父を捨てて財産を使い果たしました。
しかし父はその弟息子を遠くに見つけ走っていけるほどおそらく毎日毎日弟息子の帰りを待っていたのです。
見つけたら叱ってやろうと考えていたかもしれません。
けれどもその姿が見えると、ただ抱きしめる以外に自分にはできなかったということ。
罪や過ちはある。それも否定はできない。
けれども私の目から見るならば、ただ抱きしめるほかない。
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これが父の心なんです。これが父の心。
すべてを失ってなお、弟息子に残されていたのはファンのある家だけではありません。
この父の息子であるという立場です。
これは彼が何を失おうとも失われなかったものなんです。
そしてこの父親は、息子よ、あなたは雇い人ではなくて私の子供なのだ。
それを思い出させるかのように、この父親は弟息子のために宿縁を開催します。
22節から24節を意味しますとこういうことがあります。22節から24節。
ところが父親はひもめたちに言った。
急いで一番良い衣を持ってきて、この子に着せなさい。
手に指輪をはめ、足に履物を履かせなさい。
そして越えた甲子を引いてきてほふりなさい。食べて祝おう。
この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。
こうして彼らは宿縁を始めたというのです。
父親は弟息子に最上の着物を見せました。
これはこの宿縁の主品はあなたであるという印です。
父親は弟息子に指輪をはめさせました。指輪というのは家の務めを果たすためのものです。
あなたはこの家の働きに、この家のものとして回復したのだということの印です。
履物を履かせたのは彼が裸足だからです。裸足であるというのは奴隷の印なんです。
でもあなたは奴隷ではない。私の子供なのだ。
そのことを示すために父親はこの子に履物を履かせました。
もてなしのこの一つ一つが意味するのはあなたは私の子であるということです。
あなたは今年の子なのだということですね。
まさに24節に書いてある通り死んだものが生き返った。いなくなったものが帰ってきた。
あなたは私の子なのだということを何度も何度も言う。
ただこの歌詞を読みながら一つ驚かされるもう一つのことは、この父親は弟息子に何一つ代価を求めていないんです。
すべて父親が支払うんです。
すごい円界ですよね。心配になるほど大丈夫かしらと思うような。
しかし過保護なほどに気前のいい父親の姿がここにあります。
この例え話が本当は宝刀息子の話ではなくて宝刀親父の話だよねと言われるゆえんです。
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この話は宝刀親父の話。
この父の姿はもしかしたら遠い国の住民が見ているならばとても奇妙に映ったかもしれません。
そうではないでしょうか。遠い国の住民たちからするならばこういうことを言いたい人たちがいるかもしれません。
そんなに甘やかしてはいけませんよと。代価を払えないならば愛される資格などないのです。
持たないものは何も与えられはしないのです。必要ともされないのです。この世界はそういうふうに回っているんだからと。
遠い国の人たちはそう言いたいかもしれません。
そしてそれはもしかしたら私たちの中にある本当の叫びものかもしれません。
けれどもそういう言葉はほっときゃいいんです。ほっときゃいいんです。
なぜならここは遠い国ではなく父の家だからです。ここは父の家です。
父の家で父がその財産をどう使おうと勝手です。ごちゃごちゃ口を挟むなということです。
この父親は遠い国の人々とは真逆の基準で我が子を見ているんです。
それは何かというとこういうことですよね。
我が子よあなたが愛されるためにあなた自身が代価を払う必要は何もない。
あなたは私の子だからあなたが何を持っているのではなくてあなたは私の子なのだから私はあなたを愛している。
そして私の豊かな富も財産もあなたが生きるためのものであってあなたが富の奴隷になる必要など何一つない。
私はあなたに何ができるか私はあなたが何を持っているかなど見てはいない。私はあなた自身を見つめている。
これが父なる神様の心です。
そしてこのじゃあ神様が我が子と呼ぶのは一体誰のことを言っているのか。
この例え話の中で弟息子と兄息子ですけれども聖書的に言うならばそれは神様によって命を創造された全ての人のことです。
全ての人です。誰一人例外はありません。神様によって命を創られているんですから。
もう終わりますけれども。
私たちはよく父なる神様の心を誤解してしまうことがあります。
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まさに神様の基準で見なければならない自分自身を遠い国の人々の基準で見てしまうことがあまりにも多いんですね。
聖書以上にそういう遠い国の価値観が私たちのうちには根深くあるからかもしれません。
そしてきっと私たちが神様のもとに神様と関わっていくときに雇い人の一人にしてくださいという方が分かりやすくて楽なんです。
だってそうでしょう。代価を払うから返してください。実に分かりやすい話じゃないですか。
これだけ祈りますから。ちゃんと主のために奉仕をしますから。だから祝福してください。だから私をもっと愛してください。分かりやすいじゃないですか。
私たちは雇い人になる方が楽なんです。
でも神様の気前の良さ、神様の恵みというのは私たちにとっては一番分かりにくいんです。
主が恵み深いというのは実は分かりにくい。よく誤解をしてしまう。
でも神が恵み深いというのは例えばこういうことではないでしょうか。
それはあなたが祈る前から神様はあなたの心を知っておられるということです。
あなたが神様を全く愛していなかったとしても神はあなたを愛しているということです。
あなたが罪人でしかないときにあなたの罪を許すために神は最上の捧げ者を捧げてしまわれたということです。
愛されるために代価を払うのではありません。神が私たちを愛するために代価をすでに払われたんです。
だから私たちは愛されているから祈るんです。愛されているから主を信じるんです。愛されているから主に応えていくんです。
恵みですね。
私たちは今朝の説教団に行かせていただきましたけれども、雇い人ではなく父の子として帰っていくということを願われているお互いです。
あなたが罪に傷つき、私にでも帰ってくるならばここから私はあなたを我が子として抱きしめたいと神様は言われるんですね。
いろんなことがあります。
自分は本当にダメだなと思うことであったり、本当に神様にどういう顔向けしたらいいかわからない。
自分を本当に神様のものとして捧げたい、でも私の中がごちゃごちゃして過ぎてややこしくて自分でもどうしようもない。ありますよね。
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でも、でも主は何も持っていないままで私のところに来いと言うんですよ。
あなたを見つけてあなたが私のところに立って帰ってくるならば私はあなたを抱きしめたいと言われるんですよ。
私たちはそのように何かができたから主に帰りましょうじゃなくて、主が私を愛するために主が全てを備えてくださっていることを信じて立って一歩帰っていきましょう。
父の子として大胆に出ていきましょう。私はあなたの子なんです。
主をどうか私を憐れんでください。そのように出ていきましょう。
その中で私たちは主の恵みの深さを知っていきながら神様を愛し神様に応えていくのです。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。