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2024-02-25 29:23

2024/02/25:神の指によって

2024/02/25 聖日礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 -28


00:01
お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今日も死の御前へと私たちをお招きくださり、ありがとうございます。
招きの言葉にありましたが、
罪人である私たちを愛し、命までも捧げてくださった御子の、その十字架の姿、
ここに愛があるのですと、あなたは語られました。
改めてそのことを覚え、心から感謝をいたします。
揺るぎない愛が、確かな愛が、十字架を通して表されました。
今も確かに、主が私たちを愛し抜いてくださり、
今も愛によって支えてくださっていることは、変わらない事実です。
主を心から感謝をいたします。
あなたの十字架の愛によって、十字架の父様により私たちが許され、
神の子とされ、そして三日目に甦えられた命が与えられ、
今も永遠なる主と共に、あなたと繋がり生きる命が与えられました。
心から感謝をいたします。
どうか主よ、あなたの御恵みの深さ、
あなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができますように、
私たち御名も主が日々お導きくださり、
その中で年頃にあなた御自身が語りかけ、関わってくださいますように、
お願いをいたします。
私たちには本当に多くの戦いが、重荷があることを覚えます。
言葉にならないものが、私たちの内にあることを覚えますが、
しかし主を仰がしてください。
あなたの愛の眼差しは変わりませんから、
あなたを仰ぐことをなさしてください。
お願いをいたします。
今日も、ここに来たくても来れない方々、
御自宅で礼拝を守っておられる方、
施設におられる方がいらっしゃることを覚えます。
お一人一人を主が顧みてくださり、
あなたが慰めてくださいますように、お願いをいたします。
私たちはここに集っています。
どうか主が御言葉を開いてください。
あなたが必要なことをお一人一人に語りかけてくださいますように、
聖霊様がこの時にお働きください。
お願いをいたします。
これからの時を見てにおいだねをいたします。
どうか主が私たちを導きください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
小さい頃、水木茂先生が書かれた漫画で、
悪魔くんというのがあるのをご存知ですかね。
私が小学生の時に再放送でアニメをやっていたんです。
その悪魔くんは、魔法陣を書いて悪魔を召喚するというアニメでした。
小学生の私は何を考えたのか、教会の庭に悪魔召喚の魔法陣を書いて、
03:06
エロイメースサインとエロイメースサインとやったんです。
そしたらそれが当時の牧師に見つかりまして、
あなたは教会で何をしているんだということをすごく怒られたことを覚えていて、
ああ、あかんのかと思ったことを覚えていますけれども。
まあ、どうでもいいですよね。ごめんなさい。
実は今日の歌唱は、悪霊が簡単に言えばたくさん出てくる歌唱です。
一般的にベルゼブル論争と呼ばれる歌唱ですね。
まず、でも皆さんに一つお聞きしておきたいことがあるのです。
お聞きしてみたいことがあるのです。
それは、皆さんは悪霊を信じるでしょうか。いかがでしょうか。
現代だとかなり現実味の薄い話に聞こえるかもしれませんし、
まあ、そんなことを信じていいのかとも思われるかもしれません。
私の恩師の一人が足立美京先生という先生でしたけれども、
先生がよく礼拝の中でこういうお話をされていました。
使徒信条の中で、私たちは我は精霊を信ずと告白しますね。
けれども、どうして我は悪霊の存在を信ずと告白しないのでしょうか。
でもこれこそがまさに悪魔の悪自衛です。
サタンは自分があたかもいないようなふりをして、私たちに働きかけるのです。
ですから皆さん、悪霊の試みがあることを決して忘れてはいけません。
悪霊は私たちが神様に従おうとするときに、私たちの足元を救ってきます。
ですから皆さん、上げられておごらず、下げられて腐らず、
好調なときほど一層神と人との前に謙遜でありましょう。
そのために御言葉を読みましょう。祈りましょうということを、
何度も何度も先生がお話をなさったことを覚えています。
10代のころ、私はこういう話を聞いて、何か現実味がないもののように思っていました。
そんなのあるんかいなと。
けれども、牧師になって年々過ごしていく中で、
何かこの美京先生の語られた話が、じわじわ迫ってくるような気がするのです。
何がとは言えません。けれども漠然としています。
しかしこの問題の原因、この根幹にあるもの、
いろいろな問題や課題を聞く中で、
この問題の根幹にあるものは何なんだろうということを思うときに、
悪霊だというよりもむしろ実感として、
06:00
祈らざるを得ないと思わされることが本当に増えてきました。
イエス様が悪霊に苦しむ人たちを追い出そうと弟子たちがしてできなかったときに、
イエス様はこのようなものは祈りによらなければ退治することができないとお話をされたことをとても覚えています。
祈らないとどうしようもないということが、私は増えてきました。
皆さんはどうでしょうか。
今朝の歌詞を読むときに、
イエス様は人々を悪霊から解放されたという話がなされます。
今朝はこのある種の良き知らせから、
私たち自身もそうなんだということをご一緒に受け止めたいと願っています。
さてこの14節から見ていきますけれども、
この歌詞を見るならば、イエス様は悪霊を追い出しておられた、
ここでは口が聞けない悪霊を追い出していたということが言われます。
ただそもそも悪霊につかれると人がどうなるのか、
そのことを少し詳しく見たいと思います。
一箇所別の箇所を開きたいのですが、
マルコの福音書の5章の1節から7節というところをちょっとご一緒に読みしたいと思います。
これはルカの8章にもこの話があるんですが、
マルコの方が詳しいので、ちょっとマルコの5章を開きたいと思います。
悪霊はどのようなことを人に働きかけるのか。
5章の1節から8節というところをちょっとお読みいたします。
こういうことです。
マルコの5章の1節から7節。
こうして一行は湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
イエスが船から上がられるとすぐに、
穢れた雷につかれた人が墓場から出てきてイエスを迎えた。
この人は墓場に住みついていて、
もはや誰も鎖を使ってでも彼を縛っておくことができなかった。
彼はたびたび足枷と鎖でつながれたが、
鎖を引きちぎり足枷をも砕いてしまい、
誰にも彼を抑えることはできなかった。
それで夜も昼も墓場や山で叫び続け、
石で自分の体を傷つけていたのである。
彼は遠くからイエスを見つけ走ってきて拝した。
そして大声で叫んで言った。
「糸高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。
神によってお願いします。私を苦しめないでください。」
ということが書いてあります。
ご存知の方も多いでしょう。
ゲラサの地でレギオンという悪霊に取り憑かれた
一人の男性のことが書かれている。
彼はどういう経緯でこうなったかは分かりませんけれども、
09:02
おそらくあるとき悪霊に取り憑かれたのです。
そして想像つりに多分自傷行為を始めたのではないでしょうか。
家族はそれを止めに入ろうとしますけれども、
彼の自傷行為も彼の叫びも家族は止めることができなかった。
当然彼自身にもそれは止めることができなかった。
その結果鎖で繋いでどうにかしようとするのだけれども、
その鎖をも引きちぎって彼は墓場に住みついてしまった。
今も昼夜墓場で自傷行為を繰り返し何かを叫び続けている姿がある。
墓場というのは死者の住処です。
ということは彼自身もそして彼の家族も
彼はもう死んだのだとそう見なしていたのかもしれません。
私はこの箇所が好きなのでまたどこかで話しますけれども、
実に物悲しい光景です。
ただここから見える悪霊の働きの特徴というものがあると思います。
それは何かといいますと、悪霊の働きというのは
精霊様の働きとは真逆だということです。
精霊様は私たちにどのようなことをされるかといいますと、
精霊なる神様は私たちを神様への愛へと向かわせます。
神様を愛することを励ましてくださいますし、
そして精霊様は私たちが私たち自身を愛し受け入れ、
そしてそれと同じように私たちが隣人を愛していくことを励ましてくださいます。
ガラティア語書に書いてある御霊の御というものがありますけれども、
あれは神様を愛し隣人を愛するための御です。
その内容です。
しかしながらこの悪霊というのは、神への拒絶へ人を走らせます。
マルコの5章7節に、
私とあなたに何の関係があるのですかとこの人をして叫ばせる。
神よ、あなたと私は関係がないと叫ばせる。
そんなわけがない。
神があなたを創造し、あなたの罪を許すために、
御イエス様が十字架にまで命を捧げられたわけですね。
私の命を懸けてあなたを愛したのに、
あなたは私と何の関係がないというのかと、
そうイエス様ならばおっしゃいそうです。
けれどもそう叫ばせる。
自分で自分を愛するのではなくて、
自分で自分を意思で打ちつけて傷つけてしまう。
そして家族と隣人との関係から破壊をいたします。
家族は村に住み、この人は墓場に住んでいる。
明確に分断されてしまっている。
そして何よりも、この悪霊に対して人間は手立てがないのです。
12:08
彼の家族も、彼自身もこの力に抗うことができなかった。
ただイエス様だけが、
意図高き神の子イエスよと悪霊が叫んだように、
イエス様だけがこの悪霊を復活させることができた。
福音書のひとつの皮肉ですが、
弟子たちはイエス様が何者かぼんやりしてなかなか分からない。
最初からイエス様の存在を正しく把握している存在というのは悪霊なんです。
最初から悪霊はイエス様が何者かよく分かっている。皮肉ですね。
さて、このことはルカの11章に戻りますが、
このことはルカの11章にも通ずるわけですね。
このように誰もこの悪霊に取り憑かれている人を救うことができなかったわけですが、
イエス様が来られて、イエス様だけがこの悪霊を追い出すことができるのです。
文集の中には、この姿を見て、この状況を利用してイエス様を試みようとする人たちがいたことが書かれてあります。
いわく、イエスが悪霊を追い出したのは、ベルベブル悪霊の頭の手下だから、
イエスは悪霊を追いかけたのかであるとか、目に見える印を見ててほしい。
イエス様は自分を試みしますが、17節から19節、イエス様はこう答えになりました。
どんな国でも内輪もめしたら荒れ去れ、家も内輪で争えば倒れます。
あなた方は私がベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言いますが、
サタンが仲間割れをしたのなら、どうしてサタンの国は立ち行くことができるでしょう。
もし私がベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、
あなた方の子らが悪霊どもを追い出しているのは誰によってなのですか。
そういうわけで、あなた方の子らがあなた方を裁く者となりますと言われる。
まず単純な論理的な答えですね。
もしも私がサタンの国、サタンの支配に属していてベルゼブルの手下であるならば、
内輪もめになるだろうと、実に基礎的なことで答えられるわけですが、
でもそうではなくて、今日のキーワードはこの20節なのです。
しかし私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、
もう神の国はあなた方のところに来ているのですとイエス様はおっしゃいました。
私が神の指によって追い出していると言われる。
15:06
イエス様はサタンの国ではなくて、神の国に属しておられるお方、そして私は神の子なのだ。
ベルゼブルに仕えているのではない、父なる神に仕えているのだ。
そう言わんばかりですけれども、ここでのキーワードは神の指です。
神の指という言葉は聖書の中に何度か出てくるのです。
ただ主な用法は二つだけです。
まず一つ神の指は何かと言いますと、
出エジプト記で石板に神様が実界を刻まれるときに、神の指によって刻んだということが書いてあります。
箇所で言うと出エジプト記の31章の18節とか神明記の9章の10節とかにそういうことが書いてありますけれども、
そういうことが一つ。しかしもう一つ神の指が現れるのは、
出エジプトの奇跡のただ中で神の指という言葉が使われるのです。
ちょっとパラパラ開いて申し訳ないのですけれども、せっかくですから開いてみましょうか。
出エジプト記の8章の16節から19節というところを読みたいと思います。
旧約聖書の一番最初から二つ目の書簡ですね。
出エジプト記の8章の16節から19節というところをお読みしたいと思います。
新海約2017だと旧約聖書の111ページにございます。
出エジプト記の8章の16節からお読みいたします。
これはエジプトに神様の道からその奇跡が来たときに、襲ったときに、
ブヨの奇跡があったとお読みいたします。
主はモンセに言われた。アロンに言え、あなたの杖を伸ばして地の塵を打って、
そうすれば塵はエジプトの全土でブヨとなると。
彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地の塵を打った。
するとブヨが人や家畜についた。地の塵は皆エジプト全土でブヨとなった。
呪法師たちもブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたができなかった。
ブヨは人や家畜についた。呪法師たちはファラオに、これは神の指ですと言った。
しかしファラオの心は固くなりなり彼の言うことを聞き入れなかった。主が言われた通りであったと。
エジプトの呪術師たちが言います。このエジプトに襲っている出来事、神の身力による奇跡、これは神の指であると。
エジプトの奴隷として囚われていたイスラエルの民、しかし当時最強を誇るエジプトの国家です。
18:08
そこから神様はご自身の身力を用いて、イスラエルの民を解放なさったというのが主帝エジプトの出来事ですよね。
エジプトの呪術師はこれは神の指ですと言いました。
エジプトの偶像の神々ではなくて、全世界を創造された誠で唯一の神、そのような存在にしかこんなことはできないということを彼らが告白をしているんです。
今日のルカの11章でイエス様が神の指という言葉を用いられた。
これは不印象ではここでしか出てこないんです。
でもここで神の指という言葉をイエス様が用いられたのは何かというと、この出エジプトの出来事を覚えているんです。
すなわち、あの出エジプトと同じことが今ここでも起きているとイエス様は言われるんです。
それは何なのか。
この世界、あのイスラエルの民がエジプトの奴隷であったように、この世界の人々はあらゆる人は罪の奴隷であり、悪霊の支配下にいる。
エフェスト書の2章にもそう書いてありますが。
エフェスト書の2章の1節2節にこう書いてあります。
あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものであり、かつてはそれらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中にも今の働いている霊に従って歩んでいました。
悪霊に従ってあなた達は歩んでいたと聖書は語ります。
しかし、今や解放の時が、今や回復の時が来たと言われるのです。
それはイエス様を通して表される神様の道からによって表されているということです。
自分自身では決してイスラエルの民があのエジプトの奴隷状態から抜け出せなかった。
そうであるがゆえに神様が解放されたように、自分自身では決して抜け出すことのできない悪霊の力。
しかしそのところからイエス様は父なる神の道からによって、今ここでその解放の技をなさっていると言われるのです。
あの質エジプトと同じことを私は起こしている。
しかもこの表現を私はとても引っかかるのは、神の指なんです。指です。
いわばこれは指先の働きと言わんばかりです。指先の働きなんです。
以前もお話をしましたが、聖書は、例えば神と悪霊のベルゼブルというものを置くのであれば、それは横並びではないのです。
悪霊と精霊という存在が対調されます。しかしその力は横並びではないのです。
21:00
圧倒的に神の方が、圧倒的に精霊様の方が、ベルゼブルよりも悪霊よりも強いのです。そう描くのです。
圧倒的なんですね。逆行もしていません。
先ほどのマルコの箇所がそうでしたけれども、イエス様を前にして、どうか私を苦しめないでくださいと悪霊は懇願をしました。
圧倒的に神の力の方が強い。
だからこうも言われます。今日の箇所の21節、22節には、
強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
しかし、もっと強い人が襲ってきて、彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分取り品を分けますと。
もっと強いということが言われるのです。
このような、まさに今起きていることは悪霊によるのではない。
神が起こした出霊と同じことをここで起きて、今ここには神の業が起きているんだということをイエス様が言うときに、
23節では、一方イエス様はここで一つ迫られるんですね。
23節、私に味方しない者は私に敵対し、私と共に集めない者は散らしているのです。
これは実に白黒を分けたような迫りですね。
どっちですかという迫り方です。
それはそうかもしれません。
ここまでイエス様が言われていたのは、神の国とサタンの国、神ご自身とベルゼブル、精霊と悪霊です。
二つのものを並べてイエス様は話してこられたのです。
23節が迫るのは、あなたはどちらの味方につきますかということです。
どちらの側にあなたはこれから立つんですかということを問われるのです。
この後ろの24節から26節、そして27節から28節というのは、この二つの態度とつながっているんですね。
神様の道からに頼らずにサタンに頼ることをするならば、さまよい歩いたサタンは、もっと多くの悪霊を連れてきて以前よりも悪くなりますよということを言う。
しかし、ここで神の側に立ち、神のまさに支配、神の国にとどまることを望み、イエス様に味方をするということをするならば、幸いをあなたは得ますよ。
幸いなのは、むしろ神の言葉を聞いてそれを守る人たちですと、イエス様はここで言われるのです。
さて、ここまで見てまいりましたけれども、皆さんに最初の問いを再びしたいと思います。
24:06
皆さんは悪霊を信じるでしょうか。
私は極端な単純感は避けなければならないと思っています。
人生には不意に悪いことが起きます。
そのすべてが悪霊のせいだと結論づけるのは、少し極端かもしれないなと思います。
なぜそれが起きるのか、私たちには原因が究極的にはわからない。
ただし、同時に私たちは、私たちの現実の背後にそのような力が働いているという事実も忘れてはならない。
悪霊は神様に従おうとする人に対して、神様を拒絶させる方向へと私たちへと向かわせます。
神と私は関係がないと叫ばせます。
悪霊は無慈悲に自分自身を傷つけさせます。
本当に自分自身を傷つける人が本当に多いです。
でもそれを見る度に、いろいろな原因も考えられるのだけど、私は何かそれだけじゃないなと思わされることが本当にあります。
そして愛する人、あの人との関係を破壊してしまいます。
これは私自身も思いますけれども、他人事ではない態度だなとつくづく思うんですね。
私たちのうちに起こり得ることではないでしょうか。
なぜそうなるのか。人間の知恵で判断できる要因もあるでしょう。
育ってきた中で傷ついた心や歪み、生育歴の問題、それはあるでしょう。
けれども、それに向けてカウンセリングがなされることも大事なのですけれども、
ただ、私たちはそういう自分を変えたい。私たちはそういう自分から救われたい。
私たちは癒されたいと願うならば、どこかで必ず神様に頼らなければならないということです。
必ずです。どこかで神の指に頼らなければならない時があるということです。
神に頼り、祈らなければどうしようもないという場所があるということです。
なぜなら、目に見えない悪霊に対し、私たち自身は無力であり、
同時に神の見力は悪霊に対して圧倒的だからです。神の指だからです。
イエス様は言われました。
私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなた方のところに来ているのです。
もう神の国は来ている。言い換えれば、あなたの心も体も霊も、
27:02
そこに精霊様が住み、神様の御支配があなたのうちに始まっている。この神に味方し始めるならば、ということを言われる。
もう悪霊に家を占領されているのではないんだよということを言うのですね。
神様は、もう終わりますけど、神様は今なお神の指を持って、私たちのある種、
海洋のない現実、海洋のない私自身、海洋がないと信じてしまっている私たち自身のその戦いから、
解放してくださるお方なんです。
先週見ました。あなたは私のキリストですと私たちは告白をしているんです。
あなたは私の解放者です。あなたは私の救い主です。あなたは私の王ですと。
私たちは神はそういうお方だと知って告白をしていますよね。神はそういうお方なんですよ。
皆さんはどうなさるでしょうか。
今日、23節の言葉がある種厳しい迫りとして私たちに、迫って厳しいというか、ある種はっきりせいというような迫りかもしれません。
私に味方しない者は私に敵対し、私と共に集めない者は散らしているのです。
イエス様は白黒を分けたようにある種、今朝は迫られます。
あなたの課題に対して、あなたのその現実に対して、
神の国とサタンの国、神ご自身とベルゼブル、
精霊と悪霊、あなたはどちらにつきますか。
あなたは本当にどちらを信じますか。
忘れてはいけません。神様は私たちを愛しておられるんです。
そして、神様は私たちのその背後にある、私たちが無力な悪霊に対して圧倒的なんです。圧倒的である。
神様はあなた自身に対しても力あるお方です。
そのことを覚えて、今朝は二言葉に励まされ、
種に信頼をさせていただきたい。
どれほど信じるかではない、種の側につくかどうかです。
29:23

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