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皆さん、おはようございます。
先日は新年正会が行われて、新年、私たちへの神のメッセージをですね、
斎藤先生に通して、本当にその良い言葉の恵みに預かることができて、本当に幸いな先日でした。
それでは、斎藤先生の前に隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
私がこれらのことをあなた方に話したのは、あなた方が私にあって平安を持つためです。
あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。
私はすでに世に勝ったのです。
死はこの世に、それは私たちのためです。
いつでも私への信頼を揺さぶられることなく、つながってきなさいと語ってくださると、ありがとうございます。
この朝も、ただただあなたを求め、あなたの御香を求め、御言葉を求めて、ここに集っております。
この一人一人の上に、神様御自身が一人一人に飾り上げてくださいますように。
あなたは正しく知ることができますように、正しく信じることができますように、そして、正しくつながって歩むことができますように。
主よどうぞ、悟りを与え、知りを与え、恵みと慈しみをあふれんばかり終わってくださいますように、心からお願い申し上げます。
主よどうぞ、一人一人に、あなたによって満たされますように、神様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
感謝します。
ヨハネーロ勲章の国会に説教。もう50回になっていますね。50回で16章が終わっていますので、あと残っています。
主のただただ神様の恵みであります。
今日の説教のタイトルは、この新科学聖書は勇敢でありなさいとありますけれども、新しい聖書は勇気を出しなさいと。
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もしも意味は同じですけれども、もっとわかりやすいように、勇気を出しなさいというふうにさせていただきました。
今日はですね、イエス様がこの弟子たちのことを、彼らのすべてを知っておられるにもかかわらず、イエス様が彼らをどんなふうに接してくださったり、導いてくださったりしたのか、それを学びたい。
そしてそこから、私たちがイエス様に対する正しい信仰と確実な信頼をさらに深めていきたいと、そういうふうに願います。
今日も皆さんが聖書をお読みになって、また朗読していただいて、お分かりになっているように、
イエス様はですね、いつも弟子たちのことを心配してくださったんです。ことに、この時は、この十六章、この時はどんな時なんですか。
イエス様は十字架の日を目前にしている時なんです。
そして、よくよくイエス様が言われたように、弟子たちをこの地上に残す、そういう時なんです。
イエス様はね、もっともその弟子たちをこの地上に残して天に行かれるわけですから、もっと彼らのことを心配してくださった。
ところで皆さん、今まで福音書、ヨハネの福音書だけではなく、またエマルコールかどこを見ても、
この時まで十二の弟子たちの彼らの様子、彼らのお話とか行いとか、そういったものは、弟子という名にふさわしい、とっても素晴らしかったんでしょうか。
とっても素晴らしかったらよかったんですけれども、必ずしもそうではなかった時も多くはあったんですね。
もちろん立派な時もありましたよ。でも、とってもふさわしくないと思われるほど弱い失敗時もたくさんありました。
イエス様は、そんな彼らの今までの様子、彼らの弱さ、失敗、あるいは罪、あるいは彼らの強さ、それをイエス様はすべて知っておられるわけなんです。
そのイエス様は弟子たちのことだけではなく、私たちのこともすべて知っておられます。
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私たちの今までの歩んできた道、私たちだったら49年、今年に入って49になりました。
韓国にいたら50になりますけどね。ある人が、半世紀ですねと言われて失礼します。
皆さんだから60年、70年、あるいは進行の経験が10年、20年、30年、それぞれですけれども、今まで歩んできた私たちの歩み、その中にはずっと素晴らしかったらよかったんですけれども、そうではなかった時もあったんじゃないでしょうか。
弱かった時、あるいは強かった時、あるいは失敗した時、あるいは罪を犯して悩んでいた時、すべてイエス様は知っておられるわけなんです。
ところが弟子たちのことをまた戻りますと、イエス様は弟子たちがとても立派な時にも、彼らが本当に情けないなと思われるほど弱かった時にも、大失敗した時にも、
彼らに対するイエス様の愛と憐れみと揺るぎとが変わることは、いつも同じ愛と憐れみの眼差しをもって、彼らを決して見捨てず、見守っていてくださったんですね。
イエス様はこんな彼らを決して見下すことも、見捨てることも、あんまり役に立たないものだな、そういうふうに決めつけておられることもありませんでした。
ずっとずっと変わらない愛と憐れみをもって、愛して愛して、見守って、信頼し続けて、彼らを持ち上げてくださったんですね。
何かもし、イエス様と弟子たちの関係、あるいはイエス様と私たちの関係が、この世の中のどこかの企業の社長さん、会長さんとその社員の関係だったら、
イエス様がそういう普通の企業の会長さんだったら、もう弟子たちはだいたいクビになったかもしれない。
いくら言っても、わからない、理解ができない、しょっちゅう誰が右か左か争うように評価を得られる弟子は、そんなにいなかったかもしれない。
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もう一般企業だったら、みんなカイコなんですよ。世の古名の価値観から見ればですよ。
もう一人働かなくても構わないくらい、弱くて欠点だらけの弟子たちだったんですね。
でもイエス様はどうですか?
彼らの弱さも、欠点も、不信仰さえも、すべて知っておられるにもかかわらず、イエス様も経験されたにもかかわらず、
ずっと彼らを持ち上げてくださり、愛してくださり、信頼してくださり、また教えて、指導して、一緒に働くことができるチャンスも何度も何度も与えてくださいました。
神の国のパートナーとして、いつも一緒に働いてくださったんです。
何という大きな恵み、哀れみでしょうか。
今日の二十七節をまず一緒に読みたいと思います。
二十七節、ご一緒に。
それはあなた方が私を愛し、また私を神から出てきたものと信じたので、七、ご自身があなた方を愛しておられるからです。
アーメン。
皆さん、よくご覧ください。
イエス様は知っておられました。
何ですか。
弟子たちがイエス様を愛していることをイエス様は知っておられました。
だからこの二十七節に、あなた方が私を愛し、つまりあなた達が私を愛していると、私はそれを知っているよ、それ私は疑わないんですよ、とおっしゃってくださったんです。
そうなんです。弟子たちはイエス様を愛していたんです。
たとえ失敗したり、脱裂したり、不審だったりしていた時もありましたけれども、イエス様を愛する心だけは、その愛だけは変わりがなかった。
それをイエス様が知っていてくださったんです。
それを認めてくださって、私は知っているよ。
あなた達は今まで本当にたくさんの失敗があったよね。
でもあなた方が私を愛していること、私はそれを知っているよ。
疑っていない。
弟子たちはイエス様にこういうふうに言いたかったかもしれません。
イエス様、私たちはあなたを愛しています。
本当に時には不信仰の私たちですけれども、本当にあなたを愛している。
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このあなたに向かう私たちの愛には代わりも偽りもありません。
と言いたかったんじゃないでしょう。
そんな弟子たちのことをイエス様は知っていてくださいました。
そしてご自身に対する愛には偽りがないことを認めてくださったんですね。
27つもう一度ご覧ください。私は読みますね。
それはあなた方が私を愛し、また私を神から出てきたものと信じたので、
愛も彼らの信仰もイエス様は否定していない。
疑っていらっしゃらないんですよ。
父子自身があなた方を愛しておられるからです。
そして神様が私たちを愛しておられるその愛も代わりがないことを
失敗だらけ、不信仰だらけの彼らですけれども、
イエス様は彼らのその失敗はあるんだけれども、不信仰はあるんだけれども、
その神への愛、そして神様は彼らへの愛は代わりがないことを
知っていってくださって認めてくださった。
ところが31節から見ると、このあったかくてなかなかな雰囲気が
もひっくり返されるようなイエス様のお話が始まるんです、実は。
さあ、ご覧くださいますか。31節から、私が読みますね。
31節、イエスは彼らに答えられた。
あなた方は今信じているのですか?
32節、皆さん、あなた方が切らされて、それぞれ自分の家に帰り、
私を一人残す時がします。
いや、既に来ています。しかし私は一人ではありません。
日が当たると一緒におられるからです。
どういう意味でしょうか、皆さん。
弟子たちがお自身を愛っていることを知っているよと
慰めてくださったイエス様が、その弟子たち、
さっきの27節までは雰囲気はとてもあったかくていいムードだったんですよね。
ところがイエス様がいきなりに、一撃必殺のようにですね、
あなたたちはもう私を捨ててみんな逃げてしまうんだ、
と言われたんですよ、忽然。
弟子たちはいきなりもう息切りされてですね、驚いてですね、
体が震えていたのかもしれません。
え、イエス様、何ですか。さっきあんなごに押されたのに、いきなりに何の話をするんですかと、びっくりしたんじゃないでしょう。
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でもどうですか。
あなたたちは私をただ一人残して、
チリジになって自分の家に帰ってしまうんだ、と言われた時のイエス様は、
彼らを罵るわけではないんです。
あるいは見下すわけでもないんです。
イエス様は彼らの今までの様子も、
そしてこれからの何が起こるかも、イエス様はどうですか。
すべて知っておられたわけなんです。
それから、弟子たちは今までも失敗が多くありましたけれども、
これからも試練もあったり失敗もあることを、それもイエス様は知っておられる。
そして、試練があるよ、失敗があるだろうという話なんです。
ところが、そこでまた終わっているわけではないんです。
そこで33節の大事なイエス様のお話が始まっています。
今日の中心課題ですけれども、33節をご一緒に読みたいと思います。
ご一緒に、私がこれらのことをあなた方に。
どういう意味でしょうか。
イエス様が今までこういう話をしたのは、
彼らを見下すためでもなく、見捨てるためでもなく、
呪うためでもなく、笑うためでもないんです。
むしろ彼らを持ち上げて、彼らに平安を与えて、
彼らを勇気づけるためだったんです。
お分かりでしょうか。
これが私たちの知るイエス様の愛と憐れみなんです。
皆さん本当に素晴らしいと思いませんでしょうか。
これからみんなイエス様知りません知りません、みんな逃げて、
もう自分の家に帰ってしまってですね、もう出てやめてしまって、
そんな彼らのことをイエス様、もう今この時点で知っておられるわけなんですよ。
彼らは神様なんだから。
そんな中でも、私はあなた方に平安を、そして私への洗礼を捨てないで、
患難がありますけれども、勇気を出しなさい。
失敗した時にも、これから患難が起きても、誘惑が多くても、
こけても、勇気を出しなさい。
なぜなら、私はあなたたちのためにこの世に勝ったんだからと、
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イエス様は私たちの今までの弱さも欠点も失敗も罪も不信心も知っておられ、経験されました。
そしてこれからはまた私たちが後日も一人残してみんな散り散りになって逃げてしまう大失敗も、
イエス様はあらかじめ知っておられる仕方にもかかわらず、
イエス様はそんな弟子たちに何と言われたでしょうか。
私はあなたたちに平安を与えるよと。
世にあっては困難がたくさんあるだろう。そして失敗するかもしれませんよ。
でも勇敢でありなさい。勇気を出しなさい。
だから私はあなたたちのために世に立ったんだから、
簡単に言いますと、もう平安を得て元気でいてもらうためなんだ。勇気を出しなさい。
大丈夫。私はあなたたちを見捨てないとおっしゃる。
皆さんどうでしょうか。
私たちがもしペセロ、ユハネ、ヤコブ、ユーナ、デッテ、ここにいたならばどうだったと思いますか。
みんなですね、うーん、呼吸して泣いていたのかもしれません。
こんな失敗だらけの情けない、いつになってもイエス様の話がわからない、
失敗だらけの罪だらけの自分たちのためにイエス様は責めもせずに、
むしろ平安と勇気と希望を与えてくださる。
その種にみんな感覚で感覚で泣いていたに違いないと思います。
皆さんどうでしょうか。弟子たちは考えてみたらね、
誰よりも自分たちの不信仰も弱さも罪も失敗も無能力さもみずくさも、
誰よりも自分たちがよくよく知っているわけなんです。
自分たちがどれだけ本当にね、ダメだったのか、足りなかったのか、不信仰だったのか、
よく知っているわけなんです、自分たちがね。
そんな自分たちがイエス様を見捨てて知り気になることさえ知っておられるイエス様が、
自分たちに向かって、もうお前たちを役に立たないとか、もうクビだ、もういらん、
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もうあなたたちをやらんなかった私は一生後悔するって、そんな風におっしゃってないんです。
言われてない。一言も。そこで本当に泣かざるを得ないと思うんですね。
イエス様の無限の愛、哀れみ、許すのため。
そんな彼らにイエス様は彼らを責めるとか、叱るとかより、
むしろこれから私を独りに残してしまうような苦しみ、迫害が起こるんだ。
いろいろ試練が起こりますよ。
だから私の信頼がもう揺さぶられることなく、深い平和を味わえるためにこの話をしたのだ。
さあ、元気でいなさい。勇敢でありなさい。勇気を出しなさい。
なぜなら、私があなたたちのためにこの世に勝ったんだから。
どんな患難も誘惑も勝ちましたからと、
皆さんイエス様は私たちに対しても同じ愛を持って減ってくださる。
哀れんでくださるんです。
星々のように私たちも時には初心者だったり、時には弱かったり、時には失敗したりします。
そうですよね。神様の見どころ通りにやりたいんです。
でもそれがやれない時、やらない時もあったりします。
あるいはもう自分自身のことでがっかりする時もあるんです。
なぜ私がこんなことまで言って踏まったんだろうと思う時があったり。
なぜ私は神父がこんなに立派に説したらいいのに、
なぜだろうと思う時もあるかもしれません。
しかし、こんな私たちに向かってイエス様は説って、
もうあなたは役に立たないものだとか、失敗者だとかと言われるお方ではありません。
むしろ、弟子たちと同じく私たちの弱さも失敗も不信仰もあるいは罪もすべて知っておられるにもかかわらず、
これからまたどんな試練、誘惑が、観難があってまたこけてしまうことすらもイエス様は知っておられるにもかかわらず、
イエス様は何度も何度も何度も私のために働けるチャンスを与えてくださるか。
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それから今まで何の失敗も不信仰もなかったかのように、
いつまでも温かい愛と憐れみを持って説ってくださる主なんです。
皆さん、世の中にどこにこんな素晴らしい愛や憐れみ許しがあるのでしょうか。
イエス様の願いは、望みは明らかなんですね。
私たちがどんな時にも、私たちに向かうイエス様の愛や信頼が確実であることを疑わず、
ずっとずっと主を信頼してついていくこと、それがイエス様の望みです。
まるでですね、ダルマさんのようにですね、転んでも転んでも、
また私のために起き上がって歩んで、起き上がって歩んで、また起き上がって歩むこと、主はそれを望んでおられ。
だから、あのペトロが失望に落ちて、領主に帰った時に、
イエス様が穏やかに、あのガリレアのあのキスベニーって食べなさい。
そして私の父を買いなさい。
牧しなさい。
持ち上げて、もう一度主の神の国のために働くことのできる恵みのチャンスをお与えになる方。
それが私たちの主、イエス様です。
もう一度、33節一緒に読みましょうか。
それで私たち終わりたいと思いますけれども、
この33節、自分自身に語ってくださるイエス様のお悔えを聞きながら、
この33節を一緒に読みたいと思います。
私がこれらのことをあなた方に話したのは、
あなた方が私にあって平安を持つためです。
あなた方は世にあっては患難があります。
しかし勇敢でありなさい。
私はすでに世に勝ったのです。
アーメン。
皆さん、神様はイエス様は失敗者を持ち上げて、
勇気づけて死のために働くことができるようにしてくださるお方です。
私もこのようなまた信徒でありたいと願います。
皆さん、私たちに向かう必要の愛と憐れみを信頼し続けて歩んでまいりましょう。
そして、神の国のために主に任されている王子を、
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そしていただこうではないでいただく。
お祈りいたします。