00:01
みなさん、おはようございます。
とても暑い朝ですけれども、またこのように、みなさんの健康と信仰が守られて、教会に集まられたこと、本当に感謝いたします。
今日も、市の身元でですね、恵みをたくさんお受けしたいと思っております。
それでは、メッセージの前に、周りの方と挨拶しましょう。
アーメン、感謝します。一言お祈りいたします。
誠に誠に、あなた方に告げます。一粒の麦が、もし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
主よ、私たちも、イエス様のように生きるものとならしめてください。
イエス様が歩まれた道を、イエス様が愛されたその愛をもって、私たちもその道を愛をもって、信仰をもって、最後の最後まで、この教祖を、神様走りを全うできますように、
神様どうぞ、私たちを導いて、強めて、あなたの助けによって生きることができるように、主をどうぞお助けください。
この朝も、神様どうぞ、あなたが、私たち、こんな朝夜中でも、本当に主を愛して、礼拝を愛してやってきましたんだから、どうか一人一人に主のお言葉を授けて下さいますように。
そして、その御言葉を心に本当に刻みつけて、しっかり持って、またこの一週間を、勝利の道を歩むことができるように、神様豊かに祝福して下さい。
神様、今、神の御言葉をお聞きするときに、我らの礼が、魂が、本当に主によって引き上げられて、主にお会いするときとなりますように、どうか、主よ、神様、祝福して下さい。
神様の御名によってお祈りします。
アーメン。
感謝します。
先週はですね、明太に教会、創立25周年の記念礼拝を、また午後の記念盛会を、皆さん共に、多くの方々が集まって、礼拝できましたこと、本当に感謝いたします。
03:07
今まで見守ってくださった神様、助けてくださった神様が、またこれから5年、あるいは10年、あるいは25年、あるいは主が、イエス様がね、再び来られるその日まで、この信仰の道を共にですね、愛し合いながら、祈り合いながら、支え合いながら、歩んでいきたいと思っております。
また、主がそういうふうに助けてくださることを信じます。感謝いたします。
今日、ヨハネの福音書の公開説教35番目、5回目ですけれども、タイトルは、「一粒の麦が地に落ちて死ぬなら。」という題でございます。
こういう言葉がありますね。優秀の美を飾る。とてもいい言葉だなと思うんですね。優秀の美を飾る。
意味は言わなくても皆さんご存じでしょうけれども、物事のおしまいがとても立派であるとか、あるいは立派な終わり方をするという意味であります。
人は誰もが若い青年であろうが、お年寄りの人であろうが、何かのことにおいても、あるいは自分の人生においても、優秀の美を飾りたい。
そういう気持ちはみんなにあると思うんですね。何かの仕事を始めて、何かのことを始めて、必ず失敗するぞと思ってですね、最初からやる人は誰もいないと思うんですね。
優秀の美を飾りたいとみんな願うわけなんです。ただしみんなが世界的にとても有名な、そしてとても素晴らしい業績を成し遂げることがなくても、
自分なりに、自分の人生、あるいは何かの仕事、何かのことにおいて、この立派な終わり方をしたいなとみんな願っているんじゃないでしょうか。
今日開かれている見言葉から、イエス様がそのヒントを私たちに教えているんです、実は。
イエス様が語られる、また神様に喜ばれる優秀の美を飾る人生とはどんなものなのか、それを今日一緒に学んで、
また私たち自身がみんな一緒にやって、そういう美しい人生を歩みたいと、あるいは終わり方をしたいと思っております。
今日の見言葉は、いつどんな時にイエス様が語られたのか、それをまず覚えましょう。
それはイエス様がいよいよエルサレムの町に入られて、そしてあと一週間ほど残っている、その先に何が待っていますか、皆さん。十字架の死が待っているわけなんです。
06:13
だからこの時は、今日の見言葉が語られたこの時はどんな時なのか、それは十字架に向かっている時ということを私たちが知ることができます。
まず二十三節をご覧ください。私がお読みしますね、二十三節。
するとイエスは彼らに答えて言われた。
人の子が栄光を受けるその時が来ました、と語られました。
人の子はイエス様のことでしょう。栄光を受けるその時って何でしょうか。
それはイエス様が十字架で死なれて、そして葬られて、三日目によみがえられて、そして神の右の座につかれること。
ですから皆さん、イエス様が栄光を受けられるその時の始め、そのサインは何から始まるのでしょうか。十字架の死から始まる。
だから栄光の始まりは十字架の死ということなんです。
そしてそれをイエス様は今日の二十四節、二十五節にたとえとして、当時の人々がよく知っている、
普段よく見慣れている麦を地に蒔くこと、そこから語ってくださいました。
もう一回二十四節一緒に読みましょうか。二十四節一緒に読みたいと思います。
はい。まことに、まことに、あなた方に告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかしもし死ねば、豊かな実を結びます。
アーメン。
イエス様はご自分のことを一粒の麦にたとえてくださいました。
一粒の麦が地に落ちて蒔かれて、そして死んで、そこから芽生えるならば、また多くの麦を、その実を結ぶわけです。
しかしそのまま、もうそのまま、死にたくない、そのままいたら結ぶことはできない、何にも起こらないということなんです。
イエス様がまるで一粒の麦のように落ちて死なれた。
そしてそのイエス・キリストの十字架の恵みを信じる者は、多くの人々は救われた、その魂の収穫が出されたということであります。
09:05
この二十四節をメッセージを準備しながら、何回も何回も何十回も読んで読み直して読み直して読んでいく中で、ふっと宗からきらめきのように与えられたことがありました。
それはイエス様が何のためにこの地に生まれになって、何のために公の所在のあの三年を歩まれて、そして何のために死なれたのか。
その歩み、まるで優秀の美のようなその歩み方、それが宗から示されたわけですね。
そしてイエス様のように何のために生まれたのか、何のために生きているんだろうか、そして何に向かって私たちは生きているんだろうか、
そのことを今日の御言葉からまた聖書の二人の人物から教えてもらいたいと思っております。
皆さん、イエス様がまずこの地に生まれになった目的は何でしょうか。
神なるイエス様が人間の体をもってお生まれになった目的は何でしょうか。
聖書を開けましょうか。
マタイノ福寿書1章21節です。
マタイノ福寿書第1章21節、私の聖書では2ページです。
それでは21節を一緒に読みたいと思います。
マリアは男の子を生みます。その名をイエスと告げなさい。この方こそ、御自分の民をその罪から救ってくださる方です。アーメン。
皆さん、イエス様が人間となられてこの地上にお生まれになった目的は何でしょうか。
ここにはっきりと書かれているんですね。何でしょうか。
御自分の民をその罪から救うためなんです。
この目的のためにイエス様は人間としてお生まれになって、そして生まれただけではなく、それで終わりになる、その目的のために歩まれた、そして死なれたということです。
その目的を成就するためにイエス様は弟子たちと3年過ごされましたけれども、その時にイエス様は主に何をされたのでしょうか。
これをテイストに開きましょうか、皆さん。同じ、マタイノ福寿書4章23節です。6ページですね。
12:07
マタイノ福寿書4章23節。これを一緒に読みたいと思います。
イエスはガリダやゼンドをめぐって、カイドウで教え、ミクニの福音を述べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆる患いを治された。アーメン。
皆さん、イエス様はカイドウで教えられました。ミクニの福音を述べ伝えられました。民の中のあらゆる病気、あらゆる患いを治されたことなんです。
イエス様はこのように生きる目的がはっきりとしておられました。なぜ生まれたのか、なぜ生きているのか、なぜ死ぬのか。
その理由は、目的は一つなんですね。それは、ご自分の民をその罪から救って、そしてこの地において、民の国をもたらすためなんです。
だから、人間のイエス様の生涯を考えるならば、イエス様は本当に優秀の美を飾った人生だったと言えるんじゃないでしょうか。
もちろん、最後の終わり方だけではなく、最初から最後までも一貫しておられました。これが大事だと思うんですね。
だから、なぜ自分が生まれたのか、なぜ生きているのだろうか、なぜ働いているのだろうか、そしてなぜ死ぬのか。
その目的、その方向がはっきりしていて、わかっていて、生きる人は本当に幸せなんです。
だから、最初から自分が何で生まれたのか、何のために生きているのか、何で死ぬのか、それを全部知っている人もいるでしょうけれども、後からそれがわかってきても、そしてそういうふうに生きる人もいるわけなんです。
生者の中にそういう人物がいるんですね。一人挙げてみたいと思います。
モーセイのことを一緒に考えてみてみましょう。皆さんが知っておられるモーセイのストーリーのことを思い出してみてくださいね。
モーセイはイスラエルの人々として、人として生まれました。そして育ったのは、あのエジプトのパロの王子として、あのエジプトの王宮で育ちました。
ところがその時には、彼が自分が何でイスラエル人なのにこのパロのところで育っているんだろうか、何でこの王宮の王子として生きているんだろうか、その目的も理由も最初は知らなかったんです。
15:19
いや、気づいていなかったというか、知らなかった。ところがアクシデントが起こりますね。自分の同胞のイスラエル人を苦しめているエジプト人を間違って殺してしまう。
するとそれがバレてしまって、メディアンのアラノに逃げてしまう。その時、彼の歳は40歳でした。そして、あのメディアンのアラノに行って、そこもまた40年も過ごしました。
40年がたっているうちにも知らなかったんです。何のために自分は生きているんだろうか、これから何をすればいいんだろうか、王子はまだ知らなかったんですね。
ところがある日、あのホレブの山で、火で燃えているのに焼けつきないシワを見ました。そしてそこで神の声を聞きました。特別な経験をしていました。
そして神様から、これから自分の人生は実はこのために、この80年があったことがわかってきた。そして彼は、自分がなぜイスラエル人なのに、エジプトの王宮のあのパロの下で素晴らしい教育を受けて育ったのか。
また王宮だけではなく、あのメディアンのあのアレイチンで40年間質疑会として過ごしたのか。やっとわかってきました。
それは、エジプトで奴隷として苦しんでいる自分の同胞のイスラエルを救うため、そして彼らをカナーに導くためなんだ。それを彼は80歳近くになって、やっとわかった。
いや、もうわかったというか、神様が示してくださった。でもどうでしょうか。最初のモーセンは、そういった神の使命が示されたときにどうでしたか。はい、かしこまりました、と言いましたか。
そうでないですよね。いや、私はできません、できません。私は脱術弁じゃないですし。いや、できませんね。何か皆さんにも何かお願いしたら。できませんですね。できません、できませんね。
ほとんど似ているんですね。でも神様がですね、杖も助けてくれました。脱弁のお兄ちゃんのアロンさんも助けてくれました。まるでですね、子供を怪しいようにガデガデしてね、やれます、やれますよね、やってもらうんだよね、そんなふうにしてですね、モーセンを使命の道に、それを担う人として導いてください。
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そして、まるで最後の40年間のために、彼の人生の80年間が、まるで準備の備えの期間だったように、あの40年間は、イスラエル人を奴隷の身分から、そこから救出して、
そして、アラノの数多くの苦しみを一緒にしながら通って、カナンの手前まで引き入る、その指導者の役割を彼は担うことができました。そして、彼は天国に行きました。もちろん彼はですね、あのカナンまでは入ることはできなかったんですね。神様から許されていなかったことでしょう。
こう見ますと、最初はよく知らなかったモーセン。あるいは神様が教えても、いやお答えしますとしていたモーセンでしたけれども、彼はだんだん確実に、神様がなんで自分をこの時に生まれるようにしたのか。
あのエジプトの王宮で暮らすようにしてくれたのか。なぜアラノで暮らすようにしてくれたのか。それは、自分の同胞のイスラエルを救うために、そして神のその全プロセスの中で、神の栄光を表すためであることを、行けば行こうと明確に知ることができました。
そしてそれを知ってからは、彼はその使命のために、そのゴールのために歩まれた立派な終わり方をした。
皆さんはいかがでしょうか。自分自身のこと、自分がなんで生まれたのだろうか。今はなんでこの神戸のこの辺りに住んでいるのだろうか。
与谷教会の信者になったのだろうか。その目的を、使命を皆さんはっきりと見つけて、それを握りしめて、そのために歩んでおられるのでしょう。
もう一人、聖書の人物をお話したいと思います。それは、イエス様の弟子のペテロ、あるいはアンデレルような人々です。
彼の最初の職業は何でしたか、皆さん。漁師だったんですね、漁師。あのイスラエルのガリラヤという田舎の漁村で、漁をして、その魚を食べたり、売ったりして、暮らしている、本当に平凡な人でした。
それが悪いとは言えませんよ。ところが神様は、その漁師だった彼らの人生をもっと美しく立派に用いたかったんです、神様。
21:13
両親で生まれて、漁師でもう亡くなって、それで終わりじゃなくて、私があなたをもっと素晴らしく用いたいという神の心があったんですよ。
けど彼らもね、イエス様に出会うその日のすぐ前までは、自分たちはこの漁師で、この田舎のガリラヤで一生それで死ぬだろうと思っていたんじゃないでしょうかね。
ところが彼らはイエス様に出会って、神様は自分の人生を死のためにもっと素晴らしく用いたいという神の願いがあったんだ、御心があったんだ、それがあった。
その後どうなったんでしょうか。もちろん逝く中で、三年の中に失敗もあったり、試行錯誤もあったりね、色々ありましたけれども、彼らはイエス様の弟子になって、
イエス様が歩まれたあのように福音を述べて帰って、神の国がこの地に来るように、そのために自分自身の人生を歩んだ。
彼らも、もうせもイエス様のように一粒の無尾にとなって、地に落ちて死んで、オオフの実を結ぶ人生でした。
もう一度申します。皆さんはいかがでしょうか。神様はなぜ私たちをこの地上に生まれるようにしたんでしょうか。
あるいは数十年前、あるいは何年前、あるいは最近、なぜイエス様を信じるようにしてくださったんでしょうか。なぜ神のことをしてくださったんでしょうか。
それは先週の玉野先生もおっしゃられたように、それはただもう自分一人救われて天国に行ける、それは全部ではないんですよね。
それは神の選挙のために私たちを生まれさせてくださった。そして神のときに、色んな方法、色んな道、色んな人を通してイエス様を信じるように導いてくださった。
そして今まで教会生活をすることができるように助けて守ってくださった。神から離れることなく信仰の中に守ってくださった。
そのゴール、目的は何でしょうか皆さん。何でしょうか皆さん。
それをね、ある時には立ち止まって考えてやりたい。祈ってやりたい。そして主から示してやりたいんですね。
24:05
それは神の選挙のパートナーになることなんです。
国民選挙であって神の国がこの日本というこの地に、いや遠く日本まで行かなくてもこの神戸のこの地に来るように、そのために一事をするために私たちは生まれていて、生きていてそのゴールにみんな目指して歩んでいるんですよ。
そのために私たちはこの朝この教会に来ているんですよ。
一粒の麦は地に落ちて死ななければなりません。死ぬなら多くの実を。死ななければ実を。
ところが私がこの朝皆さんに、皆さんみんな人を変わるようになってください。猛精のようになってください。あの偉大なビリグラム先生みたいな伝道者になってくださいと言っているわけではありません。
自分もそうなっていないからね。それは神様はご自分の御心にあって、私たちをそれぞれその時にその時代にその場所において用いてくださるということなんです。
例えば皆さん、この世の中を荒れ地のような強く雑草が敷けていて石が大きい地帯がたくさんある畑としましょう、この世が。
そしたら神様はある人をそこに農夫みたいに送ってくださって、ある人はもう一生涯畑をたかやすことだけで終わる方がいるかもしれない。
ある方はもう雑草ばかり抜いて草取りだけして終わる人もいるかもしれない。
ある人は大きい石を、小さい石を取り除いて土からまた出てくる。ある時にはでっかい岩盤みたいなものが出てくる。
それを一生涯取り除いてそれで終わる人もいるかもしれない。あるいはそういうようにたかやしてくれて石を取り除いてくれたまあまあきれいになった畑の上に種を蒔く人もいるかもしれない。
そしてすぐ実を見る人もいるかもしれませんし、あるいはもう種を蒔いても蒔いてもなかなか実がならなくてですね、もうそれをずっとやって続けて種蒔きだけやって終わる人もいるかもしれない。
でもある人は種を蒔いてすぐたくさんの実を収穫できるですね。そしてたくさんの倉庫を作りともいるかもしれない。
27:07
皆さん、みんな誰もが収穫ばかりすることができるわけではないかもしれない。
たとえば私たちがこの地に落ちて一粒の麦のように死んで、自分の時代に実を見ることができなくとしても、後の時代にたくさんの実が結ばれたら、それで感謝のことではないでしょう。
そうなんですよ。妙谷教会の歴史を見ても、今のこの妙谷教会があるということは、種を蒔いてくれた方々、祈りの涙を流してくれた方々、福音を述べ伝えてくださったあの信仰の先輩たち、天国におられるあの方々のごろうがあったから、今の教会があるわけなんです。
ちょっとここで一箇所整数を見てみたいと思います。第一コリント三章六節修説です。三百二十ページですね。信約の三百二十ページ。
それでは六節、七節、八節ですが、ちょっと段階でつければ一緒に読みましょうかね。六節、七節、八節読みたいと思います。
私が植えてアポーロが水を注ぎました。しかし成長させたのは神です。それで大切なのは、植えるものでも水を注ぐものでもありません。成長させてくださる神なのです。
植えるものと水を注ぐものは一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。アーメン。
皆さんよくご覧なんですね。私がもう一度読みますので。私が植えて、私はパオロですね。コリントに殿堂に行って自分は開拓したわけなんですよ。
ところがその上にアポーロという人が来て教えて制度させて水を注ぎました。ところが皆さん、成長させるのは誰ですか。誰ですか皆さん。神様なんです。
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だから大切なのは植えるものでも水を注ぐものでもない。成長させてくださる神様が大切。
そしてその次の八節をご覧ください。ここに大事なポイントがありますよ。八節ご覧ください。
植えるものと水を注ぐものは一つですが、その次ですよ。よくご覧なんですね。それぞれ自分自身の働き。それぞれ自分自身の働きがあるんですね。
それぞれ自分自身の働きがあって、それに従って私たちが奉仕させていただきますと、自分自身の奉仕を受けるということであるんです。
さっきの私が申し上げた話のように、ある人は雑草、草取りをする働きがあったかもしれない。ある方は石を取り除けることが自分の働きだったかもしれない。
ある方は種をまく人、ある人は修学をする人、それぞれ自分の働きがあって、それに忠実に働いたら、神様が報いてくださるということなんですよ。
素晴らしくないでしょうか。ここにたくさんの方々がおられますが、それぞれ皆さんの働きが、お働きがあるわけなんですよ。
それを使命と言っていいですし、人生の目的と言っていいですし、それをまず私たちは種に教えていただきたい。それをつかみたい。そしてそのために生きるものであり。
少し前、月下、教団の選挙局主催のセミナー、ワークショップみたいなセミナーがあって、そこでセミナーの中に講師の先生が何か書いてもらいますねと。
という課題があったり。それは皆さんそれぞれ自分自身が亡くなりました。そして皆さんのそれぞれのお墓の前に墓石が立ちました。
その墓石に、あなたのことを一番よく知っている人に何と書いてもらいたいんですか。それを考えて書いてみましょうねと。分かりますか皆さん。
ちょっとあまり考えたくないんですけれどもね、自分のお墓がある。そこに墓石が立ちました。そこに何々書いてあって、2100年、そこまで生きるか。
2000年何月何日、名前、ユンソンを書いて。そこに何と、私のことを一番よく知っている、当然妻でしょうね、あるいは子供でしょうね、何と書いてもらいたいんですか。
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この人はこんな人だったんですねって。考えたことありますか皆さん。ないんですか。あまり考えたことないでしょうね。またですよって。
でも私はそのときに、自分はちょっとあまりに偉い御言葉ですけれども、そういう人生を歩みたいなと、自分のこの日本選挙の使命が与えられたから、
自分はもうね、こういうふうに書いてもらえるものになれたらいいなと、希望として持っている御言葉があるんですね。
それが、皆さん開かなくていいんですか。私は読みますね。
一の働き二十章二十二節ですけれども、「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主をイエスから受けた神の恵みの福音を明かしする任務を果たし終えることができるなら、私の命は少しも惜しいとは思いません。」
この御言葉がね、私のことを一番知っている人に書けるものになったらいいなと思ったんですね。
それぞれの御働きがあるということ。その御働きを、皆さんみんな見つけましょう。一緒に教えていただきましょう。
そして、今までの人生より、失礼ですが、これからの人生が短くとしても、まるでもうてら百二十歳生きていて、八十年間は決して無駄ではなかった。
残りのまるで、残りの四十年、黄金の自分の人生を送るための八十年間だったように、我々の人生が、皆さんそれぞれ二十代、もっと実際子供もいるんですね。
十代も二十代も、三十代、四十代、五十代、六十代、方々がおられますけれども、今までの人生は決して無駄ではなかった。
神様は、いろんな経験を、信仰の経験、成功の経験、失敗の経験、死に落ち返し、教えられて縛ってやられた。
その人生は、これから、今までも皆さんが素晴らしい人生を送られて、花を咲いた人生だったと思いますけれども、
これからの人生を、残りのこの濃縮なエキスのような人生として、私の残りの人生の使命は何でしょうか、死を教えてください。
人生のことでも、そのためにこの働きを全うしたい。だから、死を教えて、導いて、力を下さいと祈るであります。
四大復活で創立、二十五十年。元歴史は、最初の時から数えると、五十年近くでしょうけれども、この教会が建てられた時が、1993年なんですよね。
36:16
あえて申しますと、私が日本選挙の議長が与えられた年なんですね。1993年、2月ごろでしたけれども。
二十五年の教会の歴史の中で、六年目、僕会をさせていただいております。約四分の一ぐらいの時間ですね。
まあ、短いと言っては短いですし、短くないと言ったら短くないかもしれませんが、私はこんなことを考えてみるんですね。
神様が私の家族を両谷教会にお使わしになったならば、神の御心とプランと目的が確かにある。
そして、例えば上山選挙のように、十年前ではなく、今のこの2013年からこの時に、皆さんがおられるこの時に、この時期に、両谷教会に送ってくださった。
それは、神様のために、また教会のために、皆さんのために、私たちが奉仕すべき神のゴールがあるわけなんですよね。使命があるわけなんです。
それが、畑をたかやす奉仕かもしれない。たおやかもしれない。石を取り除くことかもしれません。あるいは水注ぎかもしれない。あるいは修学かもしれない。
ある意味ではわからない。でも一歩一歩、宗を見上げて忠実に歩んでいきたいと願っているところであります。
世界的にすごい、素晴らしい、有名な、超有名な牧師選挙師にならなくても、なったらいいかもしれませんけどね。
ならなくても、宗を愛して、兄弟姉妹を愛して、教会を愛して、福音選挙のために、この日本の選挙のために、できる限り力を尽くして歩んでいきたい。そういう牧師選挙師になります。
皆さんいかがでしょうか。神様はご自分の見所通りに、ご自分の方法通りに、皆さんを持ちたいと切に熱く願っておられるんですよ。
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猛瀬が、あのペテロが、結局は神に捕らえられて、持ち入られたように、私たちも神様に、その御手に捕らえられました。
主は私を捕らえて下さい。掴んで下さい。そして、神の国のために、福音のために、主を私を持ち入れて下さい。小さな帆だらけのものでもいいんですから、私を持ち入れて下さいと応答しようではありませんか。
私たちは神の国のため、この国の救いのために、また神の国の完成のために、皆、イエス様のように、地に落ちて死んで豊かな身を結ぶ一粒の麦とならしていただきましょう。お祈りします。