1. 名谷教会
  2. 2015/08/23:聖日礼拝(旧音源)
2015-08-23 30:20

2015/08/23:聖日礼拝(旧音源)

2015/08/23 聖日礼拝(旧音源)




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おはようございます。
一言の祈りをさせていただいて、メッセージに入らせていただきたいと思います。
愛する天の陽神様、この朝は名谷教会で仕事にもたれております、
礼拝の場にこの者もおかえてくださいまして、
共に死を仰ぎ賛美し、崇めるこのひと時を備えてくださり、ありがとうございます。
ユン先生ご一家は旧館でいておられるということでありますが、
また様々な動きの中でそれぞれに礼拝が捧げられているということでもありますけれども、
どうぞそれぞれの家にあって、姉妹方、先生方、死を仰ぎ、
この一週間もそれぞれの心の中を愛にゆく一週間となさせてくださるようにお願いいたします。
この場にあっても神様がこのところに私からしたり、また小さな物が建てられておりますから、
私が助けを用いてくださって、どうぞ神様の行ける御言葉を皆さん方にお伺いすることができますように、
この時を助けにしてくださるようにお願いいたします。
この一週間も全世界で、またこの日本で、また様々な痛ましい事件も起こっているような中にありますけれども、
どうぞ私が御心をそれぞれのところにあらわしてくださり、
あらゆる意味を持ってそれぞれの地を導いてくださって、
どうぞ行ける誠の神様に立ち帰る方々がこの世の中からも起こされていただきますように、
この週も働いてくださるようにお願いいたします。
この礼拝の時、最後まで御前にお出迎えしますから、よろしく召し上げて下さい。
感謝し、神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
事務局のためにいつもお祈りいただいておりますことを感謝しております。
今回の私の立場、与えられました立場といいますのは、
事務局の働きに専念しなさいということでありまして、
教会の担任を持たないで、そちらの働きに専念するという形で奉仕させていただいておりますので、
日頃は神戸地方教会の方に一教会員として出席させていただいておりまして、
メッセージのご読み言葉のご奉仕はこうした形で時々ご依頼をいただいて、
それぞれの教会にお招きいただいて、奉仕させていただいているというような形であります。
ですから、私にとりましては非常に貴重な機会となっておりまして、
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この度も教会に招いていただいて心から感謝になります。
宮谷教会といいますと、以前神戸政宣教会で奉仕させていただいておりました。
その時も事務所の指示との兼任だったんですけれども、
その時に子どもの集会をしておりましたので、
その中でコゾナムに2回ほど人形月のご奉仕で来ていただいた記憶があります。
それからまた、ユン先生ご一家は、私の家内が母教会が水泳の教会でありますので、
先生がもう日本に来られる前に、福岡教会で奉仕される前に、
水泳の教会の日本語部の奉仕をされておられました。
ですからその頃からのお付き合いということで、
いろんな形でいろんな機会にお交わりをいただいてまいりました。
そういうようないろんな意味で親しみを覚えさせていただいておりますけれども、
それでもここに立ちますと、ほとんどの方は初めてのようなことでありますけれども、
こうした機会にお近づきにならせていただけることを感謝しております。
早速、御言葉の方に目を向けさせていただきたいと思います。
このあしたタイトルとしまして、暑さ知らずの生き方というふうに題させていただきました。
今年の夏は非常に暑い夏でありまして、8月の特に前半、
本当に猛暑が続いたということであります。東京の方では連続8日間猛暑日であった。
それまでの過去の最小記録というのは4日だったそうですので、
本当に非常に全国的にも暑い夏であったわけでありますけれども、
後半に入りますと少し朝ゆう、本当に涼しく過ごしやすくなっておりますが、
まだまだ暑さが、残暑が続くかなというような、猛暑と言うかなというようなところでありますけれども、
そんな中で暑さ知らずの生き方ということであります。
暑さ知らずの生き方があるんだろうかというようなことでありますけれども、しかし、
スペースはあると言うんですね。8節の言葉がある意味で中心の見言葉になるかと思います。
読むだけでも少し涼しくなるかなというような、本当に美しい表現で書かれているかしらですね。
ご一緒に皆さん読んでみていただいてよろしいでしょうか。
8節の言葉です。
その人は水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、
葉は茂って日照りの年にも心配なく、いつまでも実を実らせる。
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この真ん中のところですね。暑さを知らず。
8節の一番最初はその人はと始まるわけです。
そしてその人は真ん中のところに来まして、暑さを知らずと。
ですからその人は暑さを知らないと言うんですね。
これは暑さを経験しないということではありませんで、
その暑さを知らずという言葉の上に、暑さが来ても暑さを知らず。
ですから暑さは経験しないわけではないんです。暑さは来るんですね。
でも、暑さは来ているんだけれども、どこ吹く風というような調子で、暑さを知らないで生きている人がいますよという、
そういう言葉であります。非常に不思議な言葉であるわけですけれども、
これはもちろんお分かりかと思いますけれども、
肉体上のいい暑さを知らないというわけではありませんで、
理由的な証言がここに用いられているわけであります。
すなわちこれは生き方の問題である。
私たちの生き方が暑さを知らない生き方であり得るんだということです。
すなわち逆に申しますと、私たちの人生は今年の夏ではありませんけれども、
猛暑続きというような過酷と思うような日々が続いてしまうということも、
いつも暑くては困るんですけれども、時にはそういうことも起こるのがお互いの人生であります。
あるいはまた逆に寒風吹き荒ぶというのでしょうか、
本当に冷たい風が吹き付けてくるというような、
そういうことも経験しているのが、私たちのお互いの現実の歩みではないかと思うわけですけれども、
しかし暑さがしても暑さを知らす。
そういう中にありましても、うなだれ、つぶやき、人生を恨むという、そういうことではなくして、
もちろん辛さもありますし、痛みも心の中に溺れるわけでありますが、
しかし生き生きとした生き方を失わないで愛に続けていくことができる。
そういう生き方があるんだという、
そんな生き方があるんだったらどうしたらそういう生き方ができるんだろう、
その秘訣はどこにあるんだろうかということでありますので、
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三つほどのポイントでお話しさせていただきたいと思います。
第一のポイントでありますが、何に信頼を置いているのかという問いかけをしてみる。
まず誤説に目を止めていただきたいわけでありますが、
主はこう仰せられる。人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れるものは呪われよ、と。
ちょっと読みますと、人間不信を進めているかのような、そういうようにも読めるわけですが、
決してそういうわけではないと思うんですね。
私たちの健全な人格形成のためには、素直に人を信頼することはいつも、
どんな人かなと疑っているというのではなくて、本当に素直に心を開いて、
人を信頼し、信頼関係の中で一緒に歩んでいくことができる、
本当に大切なことだと思うんですけれども、
しかし、それはそうなのですが、私たちの人生の土台、究極の土台、
それをどこに私たちは置いているだろうかということで、
つまり究極的な意味で、私たちの人生の拠り所が人に置かれているとき、
それは本当に絶対大丈夫と言えるんだろうか。
そして、聖書から私たちが教えられますように、
実は私たちを救って生かしておられる、目に見えない方がいらっしゃるんだ。
この作り主なる神様を信頼して生きるということを、もし忘れて、
そういうことをどこか横の方に置いて、
そして人ばっかり見ているということだったらどうなるのか。
人を信頼するあまり心が神様から離れてしまっているというものがあるならば、
この聖書のお言葉の表現を用いますと、呪われようと、
本当に強烈な言葉がここには使われているわけでありますけれども、
絶対的な意味で人間を信頼するという方はむしろ愚かなのではありませんかと、
警告している言葉であるわけであります。
人というのは、本当にいい人だなと思う人もあります。
12:02
この人は大丈夫かなと思う人もありますね。
でもどんなにこの人はいい人だなと思いましても、
本当に善意にした人でありましても、
私たちのどんな時にもその人が助けてくれるとは限らない。
お互いも少し平成健康に進んでいきますと、そういうこともわかってまいります。
時にはこの方はもう信頼できるんだと思っていたその方から誤解されてしまったり、
またその方が何か失敗してしまったり、
そういうことも人間の世界の中には起こり得るということも、
時には経験させられていくわけであります。
ですからそういうことを考えますと、
絶対的な意味で人に信頼を置いて進もうとすることはむしろ愚かですよ。
そういうことを聖書は教えますし、
また私たちの信仰の意味の中でも実際神様は時には痛いような思いをさせながら、
経験させながら教えてくださるということもあるのではないでしょうか。
そういうことですね。
大丈夫だなと思って一緒に歩んでいった人から、
イエス様じゃありませんけれども裏切られてみたり、
こんなひょんなことで誤解されてみたり、
そんな経験を神様があえてお許しになるということもあるわけであります。
人間は人間なんだな。
絶対的に信頼していくことができないんだなということを、
神様がそういう痛い経験を通して、
時には教えてくださることもあるわけであります。
ある時に私はこんなことをお聞きしたことがあるんですけれども、
人は信じる対象ではない。
人は愛する対象です。
どんなに裏切られたり、誤解されたりしたとしても、
聖書が教えますことは、この人を愛しなさいというわけですね。
時には愛しにくいなと思っても、とにかく愛しなさいと。
ですからその人というのは、それこそ絶対的な意味で、
私たちが愛さなければならない存在なんですね。
けれども、その人を信じなさいとは聖書は言わないわけです。
絶対的な意味で、究極的な意味で、
どこまでも信頼して一緒に歩んでいくことができる存在は、
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私たちを愛してくださるイケルマコトの神様だけだと、
聖書は教えているわけであります。
人のことに集心、表記合わせてお話しましたけれども、
人だけではありませんで、
私たち自身の経験でありましたか。
私たちの何かができるぞということでありましたか。
私たちの信頼を何に置いているのか。
もう一度問い直してみません。
それが第一のポイントで、
二つ目のポイントに進ませていただきたいと思いますが、
一つ目のポイントの自然な結果なんですけれども、
私たちの絶対の信頼を神様に置くということであります。
七説のところに目をとめていただきたいわけでありますが、
主に信頼し、主を頼みとするものに祝福があるようにと示されております。
祝福の秘訣はそこにあるんだという。
信仰生活というふうに言うわけでありますが、
信仰生活って何だろうか。
一言で言うとするならば、それは神様を信頼する。
私たちの信仰生活の出発点は何だっただろうか。
改めて考えてみますと、
私たちが神様の前に立つ。
聖なる、強いこのお方の前に立つために。
自分自身を当てにできない。
そのことを知ったところから、
私たちの信仰生活の歩みが始まったのではないかと思うんですね。
自分自身の内側には罪がある。
これまでの生き方の中に授かるのを、本当にこの人としてまた外れない。
神様が喜ばれるはずのない。
そういうものがたくさんある。
ちょっぴり罪を犯してしまったというよりもむしろ、
私たちの本質が罪人であるので、本当にいっぱい罪を犯しながら生きてきた。
そういうことに光が当てられて、
私は自分自身の力ではない。
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自分自身によってはこのお方の前に立つことができない。
それですから、神の御子イエス様が私たちのかわいき、救いの息をして、
身代わりに十字架に死んでくださった。
そのことによって罪の許しの道が備えられた。
三日目によみがえって、そういう私たちの罪を許し、
そしてそういう中から私たちを解放するその道を備えてくださった。
そのことを本当に事実として信頼、信じる。
そこから私たちの信仰の歩みが始まったのではないでしょうか。
そういうところから始まった私たちの信仰生涯でありますので、
信仰生活というのは何だろうか。
それは自分自身を当てにするのではない。
また周りの誰か彼かを当てにしていっていくのではない。
本当に私たちをとことん愛し、
ひとり御子イエス様を十字架につけてくださるほどに
私たちを愛してくださっているこのお方を信頼して歩んでいく。
そこに信仰生活の本質があるんだということであります。
昔、関西鉄信学校で校長されていた先生に
高吾翔太郎という江戸っ子の先生。
私も直接授業で教えていただいた頃も待望としず、
同じ話をずっと繰り返し始めておられる頃の先生から
授業をいただいたんですけれども、
ひどきそういう先生から本当に迫るような
いろんなおばかしや御言葉のメッセージをいただいたのを思い出すんですけれども、
その先生の一つの、口流線のように語っておられた一つのことが、
我らの生涯は神ぶらりんの生涯なんだと。
非常に目に見えるように信仰生活というのを表現しておられたのを思い出します。
神様だけに信頼、おんぶに抱っこ、
全部私たちの全てをおまかせしきってしまっているという、
神ぶらりんの神様に抱えられて、
本当にそれだけで生きている、歩んでいる、そういうものだと
繰り返し語られていたのを思い起こすわけでありますけれども、
私の生涯もそんなに長くはない、
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50年くらいの長さなんですけれども、
その中でも猛暑痛気、寒風吹きすさぶということを
多少なりとも経験させていただいたなと思います。
そういう時期を私なりに思い返してみますときに、
そのときに本当に神様が繰り返して私に問いかけられた問いがあるなと思うんですね。
それはまさに先ほどの問いかけでありまして、
あなたは本当に私を信頼しているんですか?
あなたは何を信頼していっているんですか?
人ですか?自分自身の経験ですか?
それとも自分自身の愛ができるという創業ですか?
それとも私に信頼を置いて生きようとしているんですか?
と繰り返し語られたような、信仰が練られるというのはこういうことなのかなと思いながら、
そういう時期を過ごさせていただいたわけでありますけれども、
絶対の信頼をこの方に置いて。
最後に3つ目のポイントになりますが、
目に見えないところでしっかりと神様につながるという。
もう一度この8節に戻ってくるわけでありますが、
その人は、というんですね。
その人は、その人は、の前にあるのは7節でありまして、
先ほど読みました、主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。
その人は、と。
ですから、その人というのは、主に信頼し、主を頼みとするその人。
その人は何なのかと言いますと、ずっと読んでくるとこの真ん中で熱さが来ても、
もう一度もう経験します。
本当に冷たい風が吹き付けることも経験しますけれども、熱さを減らないで生きていくことができる。
その人というのは神様信頼するその人であると、そのように教えているわけでありますが、
この8節、最初にもご一緒にお見せしたわけですけれども、
非常にその信仰の秘訣を非常に美しい表現で、例えをもって表現している箇所でもありまして、
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その人は水の小鳥に上がった木のように流れの小鳥に根を伸ばし、熱さが来ても熱さを知らす。
葉は茂ってひてりぬとしにも心配なく、いつまでも実を植物の例えをもって表現しているわけであります。
水の小鳥に上がった木のように流れの小鳥に根を伸ばし、神様信頼すると一口で言うわけでありますが、
それは目に見える部分でというよりは、むしろ目に見えない部分でどうなのかということであるということだと思うんですね。
目に見えないその部分で、すなわちこの地面の中で根をしっかり神様に伸ばしてつながっているか。
私たちの信仰生活、誰かの信仰生活、あるいは自分自身の信仰生活ということを考えるときに、
こうして仕事に礼拝に通わせていただくとか、あるいはポリアの奉仕をさせていただくとか、
そういうことにパッと目が向くわけでありますけれども、
しかしそれはある意味で植物でいうならば、目に見えている茎の部分、あるいは葉の部分でありまして、
しかし実はこの信仰生活の本質というのは目に見えない部分、すなわち地面の中で根をどこに伸ばしているのかということであります。
その部分でしっかりと神様につながっているのかどうかということであります。
これも新学校の思い出話になるんですけれども、私も二十数年前は関西生新学校の学生の一人でありました。
新学校は今でもそうだと思うんですけれども、夏休みと言わないんですね。
夏季連動実習機関と申しまして、母教会に帰って奉仕をしたり、いつもの法師教会で奉仕をしたり、
あるいはまた夏ならではのキャンプに行って、一緒にいろんな奉仕をしたり、
政界の裏方、ほとんど裏方なんですけれども、そういう奉仕をしたり、そういう機関ということで夏季連動実習。
でも今は少し違うようなんですけれども、その頃は学生が非常に数も多かったですので、
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あちこちも学生が派遣されて全国で奉仕している中でも、数名留守番がいるようにスケジュールを組むんですね。
その頃はこういうふうに組んでおりました。
それで留守番で何をするのか、本当に暇といえば暇なんですけれども、
誰もいないところでガランとしたところで食事をしたり、学生によっていろいろなことをやったんですが、
でもその中で大切な仕事の一つが水やりの仕事があったわけであります。
結構広い敷地でありまして、いろんな機器が割っておりますので、
夏々という中、それらに一通り水をやっていくというのはある面大切な奉仕だったわけですけれども、
でもそうやって一生懸命一通りやっても、夕方になるとしょぼんとしてしまうというぐらい暑い夏はそういうことだったわけですが、
そういう生地の様子を見る中で、ふと気が付くと、全体的にしょぼんとしているその生地の中で、
ある箇所の生地だけが結構一々と湿るわけです。
ふと気が付いてみると、そこには池があるんですね。
その池の周りの木々の葉っぱが今日はほんとにほかがしょぼんとしているときも生き生きとしておりました。
水の小鳥に終わった木々ですね。
そして流れの小鳥に根を伸ばしてやる。
外側からは見えませんけれども、木々は根をちょろちょろと伸ばして、おそらくその池の下の方に根を伸ばして、
そこからいつもずっと水分を補給しているので生き生きとしているんだなということをまたまたと見させていただいた記憶があるんですけれども、
私たちの修練のとき、ついつい人に目を向いたり、あるいは自分自身はここが至らないとかですね。
いろんなところに目を向けるわけでありますが、しかしそういうところから目を離して神様にしっかりと目を止めていく。
人からどう思われるかということではなくして、目に見えないところでしっかりと神様につながっていく。
水の小鳥に終わった木という表現は、そういう信仰者の生き様を教えているのではないでしょうか。
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まだまだ教育日が続きますけれども、三尾谷教会の皆さんにそのような形で足走らずの愛美をしていかれることができますように、
お祈りして全てを終わらせていただきたいと思います。
一言お祈りをおさげいたします。
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