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おはようございます。一つ不安は聞こえるでしょうか、ということですが、聞こえるでしょうか。大丈夫でしょうか。
私が良いというので、呼んでいただいたのではなくて、今日は順番でご報告させていただきます。
自己紹介をさせていただきますが、私は今、赤市の大久保にあります、大久保恵み教会に使わされて13年になります。三田と申します。
よろしくお願いします。ユン先生からは、見た目の自由のままにお語りくださいということです。私はいつもあまり長い説教はしないのですけれども、
自分自身の赤市も含めて、いつもよりちょっと長めにお話できたらいいかなと思っております。お祈りをいたします。
神は霊と誠をもって礼拝すべきである。天の父なる神様、尊いお名前をあがめて感謝をいたします。
また、あなたのイエス様の尊い十字架の父親によって私たちを罪と滅びから買い取ってくださって、誠の自由と喜びを私たちにお与えくださることをありがとうございます。
どうぞ、この教会、今日の礼拝の中でも、神様ご自身がお渡りくださって、渇いて集まっておられる一人一人に、主の語りかけがありますようにお願いいたします。
とうとうイエスキリストの皆によってお祈りいたします。アーメン。
今聖書を読んでいただいて、ちょっとドッキリしたのは、いつも私は教団の公用聖書である、公語訳聖書を使っているんですけれども、こちらは新海訳だということでしたので、
新海訳の2017を持ってきてしまいまして、ちょっと違っていたなというのを、今あらと思って感じております。
今日は、中心の御言葉は34節で、すみません、ちょっと新海訳で読んでしまいますが、イエス様が彼女に、娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。
安心していきなさい。苦しむことなく健やかでいなさいというふうな訳になっております。
今はですね、数ヶ月前ぐらいからニーツーとか言って、女性の権利を主張するというか、
そういう時代がますます深まってきていますけれども、この聖書を読むときに、イエス様が女性を癒やされたという記事が何回も出てきています。
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そして、病とかいろんな身体に障害がある人を治すという記事が本当にたくさん出ておりまして、
イエス様は、この社会的な弱者に対して、この2000年前の時代から非常に力強いメッセージを投げかけてというか、癒しを行って、
そういう弱い人、弱い立場のある人や困った人たちに非常に近いということを、実践で表してきておられたところがあります。
今日もそのような、ある一人の女性のことが出てくるわけですが、
今日のイエス様が、病気にならないで健やかにいなさいとおっしゃるこの言葉を引き出す一つの条件があったということを見させていただきたいと思っています。
その前に、自分自身の証を少し入れさせていただきたいんですけれども、
今日この妙谷教会にご用意させていただくということで、私たちの教会で数年前に宣伝を受けられた岡本久子姉という方が、
しばらくこの妙谷の教会に通っていらっしゃって、そのお子さんたちも教会学校に通っていらっしゃったんですね。
CSでお世話になった餅田さんと三原さん、よろしくというようなことをおっしゃっておられました。
それは私の個人的なこととは関係ないんですが、私の出身は岡山です。
そして、こちらの教会の母教会となっている、母体となっている神戸西部教会の松津先生と同じ頃に活躍しておられた、
長島先生の募集しておられた、岡山の神の国キリスト教会の出身になります。
私は今年、つい先週60人になりましたが、26歳まで教会生活というものは知らなかったわけです。
それまで私は、母が8歳になるちょっと手前に回る事故で亡くなりまして、
そして、父と姉と私、父は私の三田という家に養死に来ていたので、母の死を通してそこから出まして、
大きな家族に住んでいたんですけれども、そこから出まして、結局いろいろありますが、結局私は中学校の時から
父と二番目の母と姉と私との新しい生活が始まっていったんです。
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そのところで、私は決して二番目の母が悪い人とかいじめられたという経験があるわけではないんですけれども、
あまり12になっていましたから、初めから自分のことをその人に語るところまで語るということはできなかったわけですね。
しかも私の父は少し短期であったので、私はちょっと恐れを持っていて敬遠していました。
なおかつ私の姉は優秀ではあったんですけど、怖い、私にとっては恐ろしい存在であったので、家庭の中で、
どの人にもあまり馴染めないというような中で、私は生活をしておりました。
ですから、中学校、高校と短大までいくわけですけれども、その中で私が考えていたこと、家族とは一体何なのかということですね。
別に、特に苦しかった生活というのではないんですけれども、決して血のつながりが家族を作るのではないということだけは実際に分かるんですね。
でも本当の家族というのはどういうものなんだろうかという疑問が私の中にはたくさん、いつもぐるぐる回っていたわけです。
それやこれやいろいろありまして、26歳の時に教会に導いてくださった方があって、ある集会で、秋の9月22、23の青年の集会で、そこで私が初めて
私を作られた神様がいらっしゃるということを聞きまして、信じたわけですね。
それまで人生には意味も目的もない、見つけられない、そして死んだらおしまいだという思いが私の中にはもういっぱいでしたから、生きることには目標もなければ生き甲斐もないというのが私の真の姿でした。
ちょうど私の年代の人たちが大学を卒業する頃は、モラトリアム人間という言葉が流行っていまして、執行猶予する、何でもちょっと置いといて後にする。
だから大学も浪人して浪人してなかなか卒業しない人とか、生きる意味が分からなくなっている人たちがたくさんいた時代です。
私もその一人であったわけですけれども、教会の集会を通して、私には生きる意味があって神様がその目的を持っておられるということを聞いて信じたわけなんですね。
それまでは灰色だった私の人生に光が差してきまして、ここに行って、人生の意味と目的と探したいという、そういう渇きが私の中に与えられました。
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そういうことから、その年のクリスマスに洗礼を受けさせていただいて、私のクリスチャン生活が始まっていきました。
そしてずいぶん端折りますけれども、家族とは何かという疑問の中で、私は教会の神の家族というものに加えられて、本当の神様によって一つにされる人間の血のつながりとか、何かの関係があって結ばれるのではなくて、
信仰によって結びつく地域も性別も学歴も社会的経験も、全然違う人たちが一つのところに集まって、お互いを知りお互いを励ますという、そういう教会という家族というものを知ることができた非常に幸いな経験をしています。
そして、それから30数年経つというところが、私の今の現在のところです。
それで、創世紀の始めから、神様が私たちに願っておられることは、私たちが祝福されていくということですね。
決して苦しんだり悩んだりすることが目的ではなくて、私たちが反映していく、そういうことを神様はまず最初から願っておられるということを見ることですけれども、私たちは心が病むことがあり、また体が病むことがあり、そして魂が病むこともあるわけですね。
そういう経験をするこの世の中にありながら、しかし神様は私たちが本当は心も体も魂も健やかで、そして神様の祝福を受けて反映していく、その姿を願っておられるということには変わりがないわけです。
今日も宗教というものを求める人たちの中には、奇跡的な癒しを求めて、いろんな宗教を求める方々もあります。そして、今日読んでいただいた聖書の12年間、長父の患いを持っていた女の方も、癒しを求めて、
イエス様のところに来たということになっています。彼女の場合は、読んでいただいたように、医者にかかっていたんですけれども、行くたびに行けば行くほど悪くなって、そして自分の持っているお金も使い果たすところまで見てもらったのに、
何の甲斐もなく悪くなっていくという、本当に気の毒な状態です。彼女は最初にその医者の方を求めたんですけれども、いつからイエス様のことを聞き始めたのか分かりませんが、
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イエス様がいろんな奇跡を起こして、いろんな病の人を癒しておられるということを聞くに及んで、彼女は少しずつ聞いている間に、心の中にイエス様に対する信仰がいつの間にか育っていたようです。その詳しい事情は分からないんですけれども、
あの方の衣にでも触れば、私は救われると思っていた。そう言っていたと書いてあります。ですから、イエス様への信仰がいつの間にか彼女の中には一つの願いとして育っていったわけです。
そして、それはいつの間にか確信となるまで言っていたわけですけれども、その衣の裾にでもちょっとでも触れたら治るというところまで、彼女は信じていたわけですね。
そして、その通りに、多くの群衆が集まって、イエス様が囲まれている、とても近づくことができにくい状態、しかも彼女は群衆の中に入っていってはいけないような、けがれを持っていたんですけれども、
でも、あえてイエス様に近づくときに、彼女の病気がイエス様の衣に触れるとすぐ病気の元が治ってしまったということが起こって、それを身に感じたということが聖書に書かれてあります。
そこだけでも素晴らしいですけれども、癒されるという経験を身に感じるという経験というのはとても大切だと思います。イエス様によって自分の罪が許されるとか、何か心が慰められるとかいう、自分自身にそういう経験をするということができるということが一つですね。
それと共に不思議だなと思わされるのは、イエス様が群衆を振り向きながら、誰が私の衣に触ったのですかとおっしゃって、私の中から力が出ていくのを感じたとおっしゃるんですね。
彼女は自分の願いのためにイエス様のところに近寄って行って、衣の袖も触れば何とか癒されるという、ただそれだけの思いだったわけですけれども、イエス様の中から力を引き出してしまったというのが、聖書が私たちに教えているところです。
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つまりですね、明壇教会の宗法を見させていただいて、今週も6時と10時半と7時でしたっけ、1日3回の祈祷会があるようですが、私たちが本当に求めて祈ってイエス様に縋りついていくときに、神様の中から力が抜けて、抜き出すことができるということを、この聖書の箇所は教えていますし、
神様自身もそれを感じることができるというのが、私たちに教えられていることの一つです。私たちが祈って、見えない方に信仰を持って祈りますけれども、イエス様の方から、それを私たちが信仰を持って握るときに、神様も祈っていたなということを確かに感じてくださるということがわかるわけです。
私たちは一方的に手を出しているだけではなくて、神様の方からもそれを与えようと、手を差し伸べてくださっているのだということが、それらのことを見るときにわかりますから、お祈りをするということは、私たちが求めることであり、また神様が差し出してくださるという、両方が行われているということを見ることができます。
それで、よくピンチはチャンスに変えられるということを言うんですけれども、ただピンチがあればすぐチャンスになるというよりは、ピンチのときに私たちがどのような態度をとるかということで、チャンスに変えられるということですよね。
今日の場合は、やはりこの女性のようにイエス様に信仰を持って、期待して祈っていくときに、そのピンチがチャンスに変わるということが起こってくるわけです。
先ほどもお話ししたように、この姉妹はお金を使い、時間を使い、気力も使い果たすほど、この世では何にも報いられませんでした。
私たちはしばしば神様、皆さんはどうかわかりません。神様を頼りにする前に、人に頼ってしまうという傾向があるのではないかと思うんですね。
私が今までに出会った方々の中で、二章の22節にある、「人に頼るな。花で息をする者に、そんなものに何の値打ちがあるか?」と言って、
花で息をする者の中に頼ることをしてはならないという言葉があるんですが、ともすれば、あの人に相談して、この人に聞いてということをしやすいんですけれども、できれば早めにイエス様のところに持って行って、イエス様から答えをいただきたいという、
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そういう例の眼差しというか、眼を持っていたいものだと思わせられます。今日は、この一人の姉妹の信仰ということが、私たちに多く語っていると思うんですが、
そのヘブルビテの手紙の11章の一節、有名なところですが、信仰とはという、信仰烈伝ということが書いてあるところに、さて、信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものですと書かれています。
昔の人たちは、この信仰によって称賛されましたとあるのですが、信仰とは望んでいることを保障、確信し、目に見えないものを確信、事実を確認するものだということが書かれています。
ですから、まだ見ていない時に確かに信じていくということが大切なんですが、このヘブルビテの手紙の11章の2節も、昔の人たちはこの信仰によって称賛されました。
今日読ませていただいているマルコによる福音書の5章のこの姉妹も、その信仰によって称賛された1人であるということです。このようにして、2000年経った今も私たちに読み継がれて、また彼女の取った態度が、私たちの信仰を奮い立たせるものになっております。
そこで、彼女の求めという姿勢を見る時に、よくおき、もう馴染みになっていると思うのですが、マタイの福音書の3条の説教の中の有名な1節があります。
心の清いものは幸いです。その人たちは神を見るからです。という5章の8節の見言葉がありますが、その心の清いものは幸いですというのは、いろんな穢れから守られて清いということよりも、一つに集中しているという清さですね。
ある例えで言うと、トンボが飛ぶようになりましたが、トンボの目は複眼で、いろんなところからも見るわけですよね。そういう目ではなくて、もう一つ方向しか見ない単眼と言いますか、そういう心、ここでは心の清さを言うんですけれども、いろんな方向に向いているものではなくて、
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ただ一つの方向を向いている、そういう清さのことを言っていると教えられたことがあります。ですから、私たちの魂が、心がどっちに向いているかということがとても大切だということです。
聖書の中には、たびたび一心に私に求めるならば、私に会うことができるとか、祝福を得るために一心になって私を求めるという言葉が出てきますように、しばしばあれこれに目を移しやすい私たちに、今日もこの姉妹の姿は、ひたすらイエス様だけを目当てにいって触ろうとしましたから、
私たちも、いろんなことも大切かもしれませんけれども、キリストに求めるということが、やっぱり一番だということをこのところで教えられるわけです。
そして、この一つのストーリーは、彼女がイエス様の後ろから衣に触って、その癒しを経験したんですけれども、イエス様は後ろ頭だけを見てもらうのを嬉しがらずに、彼女にどこにいますかと見つけて、その後、面と向かって彼女と顔を合わせてくださるところまで彼女を引き出してくださいました。
もし癒された、それで終わりでしたら、イエス様の顔を見ることもお言葉を交わすこともなかったわけですけれども、あえてイエス様は面と面を向かって、彼女に話をするようなところまで導いてくださっています。
ですから、私たちの神様は祈りを聞いてくださる、そういう方でもありますけれども、私たちと一対一で個人的な会話の中に入りたい、一対一の関係に入りたいと願っておられるお方であるということもわかってきます。
彼女は一瞬にして癒された経験をしましたので、本当に恐れおののいて、12年という長い年月、どうしてもできなかったことが一瞬にして変えられたのですから、彼女は恐れおののいて進み出て、本当に礼拝をするような気持ちで、イエス様の前に比例をした。
彼女の礼拝の姿勢は、恐れおののきながら進み出た、という非常に敬虔な態度であるわけですね。そして、彼女は真実をすべて話したとここに書いてあります。
その真実というのは、今までに自分が経験して、今イエス様が何をしてくださったかという、神様の恵みの経験をありのままに話したということだと思うんですね。
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ですから、この真実というのは、事の事実を話した、実際にこれがありましたということだけではなくて、それを通して神様の素晴らしさを結局話すこと、明かしをすることになったということが、ここの場面の出来事だと思います。
ですので、私たち自身、私たちも、いろいろな信仰生活の中で恵みの経験をさせていただきます。それを通して、イエス様ともっと深い関係になっていく、神様をもっと深く知らせていただく経験に入ることができるということと、
もう一つは、自分の口を通して、神様の真実を明かしして、神様を褒めたたえることができるようになるという、このこともついてくるということが教えられます。ちょうど、私たちの今、大久保恵み教会には、丹波貝原教会の上野先生が御用してくださっているんですけれども、
私たちの教会の収穫は、その日の説教用紙が無料になっているので、申し訳ないんですけれども、先生に説教用紙を送っていただいていたんですね。その中に、今日は、ユハネが開かれているんですけれども、
先生の説教の用紙の中に、ユハネの用紙を、スカルの井戸部で女の人と対話をなさったイエス様の、あそこの箇所からなんですけれども、彼女が、5人の夫がいましたとかいう、告白をする場面で、
イエス様自身が、あなたは本当のことを言いました、という言葉があります。ここでも、そこで、trulyとか、truthとか、そういう英語の単語も、説教用紙の中には出ていたんですけれども、あなたは本当のことを言いました、というふうに、
正直に語ったことを褒めていることが書かれてありました。咎めもしないで、その人が本当に純粋に正直になったこと、真実を語ったことを、イエス様が喜ばれるんだということが書いてあったんですけれども、やはりここでも、真実を告白した。
ですから、私たちが本当に、作ったものではなくて、正直にイエス様との経験を正直に話していくときに、神様の栄光が現れていくということが教えられるような気がします。
ですから、私たちも、できるだけ真実な言葉、そのようなものを使わせていただきたいと思います。そして、彼女に、こっちの2017の訳ですが、娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。
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これは、治ったのですではなくて、こちらでは、救ったのですになっています。それは、身体が癒されるという、病気が治るという言葉ではなくて、ギリシャ語では、魂を救うというのと、身体が治る、救うの両方に使われるようなんですけれども、そちらの言葉が使ってあるので、
こちらの2017の版では、あなたを救ったのですというふうになっています。あなたの信仰があなたを治した。あなたの信仰があなたを救ったと書かれてあります。そして、その信仰の管を通して、イエス様の恵みを、彼女は受け取ることができました。
そして、安心していきなさい。もう苦しむことなく、もう病むことなく、健やかでいなさいと言って、送り出されたわけですね。彼女の12年間の悩みに悩んでいた大きな病というのが、癒されてよかったで終わったのではなくて、イエス様の覇権は、これからずっとあなたは健康でいなさいと言って、送り出してくださったのです。
ずっと健康でいなさいということの中には、私との関係をしっかり持ちながら、そして安心していって、ずっと健やかでいなさいというふうに使わせてくださったのだと思われるのです。
一点だけで神様と結びついて幸せになるのではなくて、そこからずっと引き続いて神との関係を深めながら、健やかに続けることを神様が願っていてくださる。イエス様はそういう私たちの健やかさを求めておられるということを、この聖書の中で見ます。
先週、私は夏休みをいただいて、どこにも行かなかったんですけれども、無料の動画をパソコンで見ていましたら、もうちょっと古いんですけれども、20年前ぐらいの映画だと思います。
マザーテレサを、オリビアハッセという人がやっているのを半分ほど見たんですね。その中で彼女の一つのセリフは、私の人生は神様の鉛筆としての存在ですって言うんですね。神様に使われて、神様が何かを書いてくださっているものを残していく、そういう道具であるというふうな表現をしている場面がありました。
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マザーテレサは、私がすることは、私が何かをしたいとかするとかいうことではなくて、神様の御心がなるために私はここにあるのですって言っているわけですね。
私たちも、この生活をしている間に、いろんな思わぬこととか、突然のこととか予想外のこととか、いろいろ出会うわけですけれども、しかし、それらのことも神様の御支配の中にあって行われるということを認めて、安心していくときに、
私たちは、自分で失敗だと思って、これはダメだと、自分で思ったとしても、決してそうではないことが多いということに気づく必要があるのではないかと思うんですね。
いろんな出来事が起こりますけれども、その中にも、神様は私たちに良い道を選んで、神様が祝福される道を選び取って、この地上での豊かな神の繁栄を表す生き方をするように導いておられます。
失望しない、いつも未来に希望を持って、神様が共にいてくださって、私を健やかに、病むことなく健やかにいるように願っておられるということを受け取って、いつも信仰の期待、希望を持つものにさせていただきたいと思います。
話がいろいろ飛びますが、北海道のメテルの、あそこの席におもっておられる向谷知さんという人がいろんな本を出されますけれども、この度もちょっと小さい秘密みたいなカードみたいなものを出しておられるようです。
今朝ちらっと見て、かなり忘れてしまっていますが、毎日こんな大変なことがある、それでも順調、それが普通という面白い表現があるんですね。
私たちはしばしば、あれがまずい、これが良くなかったという判断をしやすいんですけれども、神様が共にあって、導いていてくださって、私たちに健やかでいるようにいつでも願っていてくださるんですから、もう小さいことで一喜一憂せずに、神様の支えがあること、そして神様が健やかでいなさい、ずっと安心してここから出てきなさいと言っておられる、
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この言葉に安心をして、ますます神様に信頼する、私は失敗するかもしれないけれども、神様は失敗なさらないということですね。そのことの方に重心を置いた信仰生活を今週も送らせていただきたいと思います。
学生の方々はもうすぐ進学が始まります。そして心を喜ばせる楽しいこともあるでしょうし、びっくりしたりがっかりすることも起こるかもしれませんけれども、神様は私たちを苦しむために作られたのではなくて、祝福して本当に心も体も健やかであるということを本当に願っていらっしゃるということを
いつも受け取りながら前を向いて進んでいきたいと願います。ではお祈りをいたします。