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おはようございます。
今日も暑いですけれども、もう猛暑を超えて苦暑になっているような気がしますね。
そんな中でも、守られて、信仰をもって、主を求めて、ここに集まっていただいて、一緒に礼拝できますこと、本当に感謝いたします。
今日は創世記24回目です。神の譲りと忍耐というタイトルですけれども、皆さんいかがですか。
皆さんは個人的に、よく周りの方に、あるいは家族にですね、譲るタイプだとか、よく耐えるタイプとか、そういうふうに言われますか。
譲ることや耐えることが得意ですか、苦手ですか、何でもよく譲るタイプですか、それとも握るタイプですか。
私が病気を得て、少し変わったところがあるならば、譲ることじゃないかなと思いますね。
生きていることが奇跡だと私は信じておりますから、できる限り譲るように、またできる限り耐えるようにしております。
今日のテーマは神の譲りと忍耐です。
今日のストーリーを少しまずお話ししましょう。
ある日、神の見遣いと天使とみられる3人が、アブラムやサラのところに訪ねました。
アブラムはですね、その3人を喜んで受け入れて、おもてなしをしました。
その中でですね、彼らから、なんと来年の今頃、サラは男の子を産むんだと言われたんですね。
しかし、どう考えてもアブラムとサラは、それは不可能だろうと思って、心の中で笑ってしまいました。
そんな話がですね、あってから、3人はアブラムやサラと別れて、ソドムに向かいましたね。
その理由は明らかです。
荘石の18章20節21節を見ますと、こう書かれています。
主は言われた、ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪は極めて重い。
21節、私は下って行って、私に届いた叫び通り、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを見て確かめたい、という見言葉があります。
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つまり、今このソドムゴモラはどんな状態なんでしょう。
彼らの罪は極めて重い状態なんです。
ソドムはゴモラは裁かれるべきでした。
神様はそのソドムの街を裁かなければならないくらい、極めてその罪が、堕落が重かったんですね。
だから皆さん、こういうところを見てですね、そんなに裁くなんて、神様ひどいと思わないでほしいんです。
滅びが下されるほど罪が極めて重いという事実を、私たちは認めなければならないんじゃないでしょうか。
皆さん、私たちが信じる神様は決して裁きを好む方ではありません。
ソドムの街を滅ぼすしかない、その堕落、罪の重さを考えてほしいんです。
神様の見心はですね、確かにご自分で作られたその街が、その人々が滅ぼされること、裁かれることをですね、神様は心を痛めておられるに違いないと思います。
そのソドムとゴモラに向かう神の涙が流れていることをわかっていただきたい。
ソドムもゴモラも神様が作られたものですから。
そんな中で今日、アブラムの活躍が始まります。
22節をご覧ください。
その人たちはそこからソドムの方へ進んでいった。
アブラムはまだ主の前に立っていたとありました。
19章を見ましたらですね、そこには2人が現れますから、3人のうちに2人がいて、1人は神様で、今アブラムは神様と2人きりになっています。
いよいよ一般的な言葉で言えば、アブラムは神様と交渉をし始めます。
寝引きではないんですけれども、ネゴシエーションではないんですが、そんなふうにですね、アブラムは神様にお願いをしているんです。
23節をご覧ください。
節を出してくださいね、23節。
アブラムは近づいていった。
あなたは本当に正しいものを悪いものと共に滅ぼし尽くされるのですか?
24節、もしかするとその街の中に正しいものが、神様50人いるかもしれませんよ。
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それでもその街を滅ぼしに、お許しにならないんですか?
正しいものと悪いものを共に裁かれるんですか?
アブラムは神様にお願いをしているんです。
アブラムはですね、最初12章からわかるように、祝福となる人として彼は召されました。
彼を通して多くの国民が祝福されて、神に祝福するために彼は召された人です。
また彼は実際にですね、老いロトのために兵を連れて救出したこともありました。
今回はそのソドム、そこにいる人々を救うためにですね、なんと大胆に度胸を持ってですね、厚かましいほど神様と交渉をしているんです。
しかし今日ですね、私たちが注目したいのはアブラムではなく神様なんです。
神様の見心に注目したいんです。
まずアブラムの様子を少し見てみましょうか。
まるでですね、アブラムはおねだりする子供みたいに神様にお願いをしているんです。
神様、50人いれば許してくださるんですか?
50人も多いかもしれませんね。
最初の交渉条件でした。
ところがですね、なんと彼のその交渉条件に神様は承諾してくださいました。
私が50人の正しいものを街の中に見つけたら、その人たちのゆえにその街をすべて許そうと神様は言われました。
皆さん、これが神の譲りの始まりなんです。
しかし、アブラムはまた考えてみました。
どう考えてもですね、あの外に正しいものが50人はいないかもしれないと。
それですね、彼は50人から45人、45人から40人、30人、20人、10人まで避けていくんです。
32節をご覧ください。聖書か前の字幕をご覧ください。
出してください。
32節、聖書をご覧ください。そのうちにお姉ちゃんを呼んでください。
また彼は言った。我が主よ、どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。
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もしかすると、そこに見つかるのは10人かもしれません。
10人かもしれません。
アブラムのおねだりの交渉が続きます。
あきらめないアブラムはすごいと思います。
今回も彼はですね、何とかして一生懸命になってロトを、そのソドムを救おうとしています。
神様から、あつかまし者だと言われてもかまいません。
アブラムは、あのソドムに正しい者が10人はいるだろうと思ったんでしょう。
ところがどうですか。
そのアブラムのねだりのような交渉にお願いに神様はごお答えになりました。
その32節の神様のお言葉を注目したいんですよ。
聖書かそのまま出してくださいね。
滅ぼしはしない、その10人のゆえに。
この言葉に皆さん注目してほしいんです、今日はね。
滅ぼしはしない、その10人のゆえに。
今朝、私たちが心に留めた意味言葉はこれです。
滅ぼしはしない、その10人のゆえに。
皆さん、私たちが信じる神様はこんなにもまで譲り耐えられるお方なんです。
すぐに裁かれるべき街、ソドムなんです。
その罪は極めて重い街なんです。
しかし、神様は譲られるんですね。
耐えられるんですね。
皆さん、よく考えてみてください。
神様がアブラームに譲らなければならない何かの理由でもあるんでしょうか。
何一つないんですよ。
何か神様がアブラームとかソドムにとかめられるようなことをしてしまって、仕方なく譲ったわけではないんです。
ソドムは裁かれるべき街です。
街がありません。
神様にとってはアブラームと今、公所に応じる必要も余地も義務も何にもありません。
神様にはね。
それにもかかわらず、今神様は10人のゆえに滅ぼしはしないとお譲りになりました。
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忍耐の神様です。
ここに神の譲りと忍耐が本当に大滝のように注がれていることを知ってください。
そしてこの朝、私たちもこの譲りと忍耐の神様にお会いしたいです。
その満ち満ちた豊かさの中に入り込んで、そこでずっととどまりたいです。
そしてこのアブラーム、ソドムの街だけではなく、ここにいる私たちの人生に入ってくださって、
今まで何十年も何度も何度も譲ってくださって、耐えてくださって、耐えてくださった、譲ってくださった。
その神様を覚えて感謝して褒めたたいんですよ。
こんなに素晴らしい神様を既に経験した信仰の先人たちは、このように神様を褒めたたえていました。
字幕を出してください。ネヘミヤ9章16、17。
はい、じゃあ読みますね。前の字幕をご覧ください。
今日の箇所と一緒に、このネヘミヤ箇所は大事なところです。
メッセージのポイントがここに書かれています。
しかし彼ら、私たちの先祖は傲慢に振る舞い、うなじを固くし、あなたの命令に聞き従いませんでした。
17、彼らは聞き従うことを拒み、彼らの間で行われた苦しい御業を思い出さず、かえてうなじを固くし、柱を立てて逆らって奴隷の身に戻ろうとしました。
その次に注目してください。
それにもかかわらず、あなたは許しの神であり、情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ、彼らをお捨てになりませんでした。
とあります。
字幕はそのまま出してくださいね。
何と素晴らしい我々の神様なんでしょうか。
この前後の説明は省略しますけれども。
あのネヘミの時代の人々は、今の私たちと比べて、とても悪くて罪深いから、こういうふうに書かれているのでしょうか。
そんなことはありません。同じです。
ここに私たちの様子が、あなたの様子がここに書かれています。
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それを認めていただきたい。見つけていただきたいです。
考えてみたら、私たちは神の前にどれだけ傲慢に、人の前に傲慢に振る舞ってきたのでしょうか。
それに果たして気づいているのでしょうか。あるいは悔い改めているのでしょうか。
私は思うんですよ。人は自分のことを考えると、人は自分の傲慢さに気づくことは幸いな恵みだと思うんですね。
なぜなら、自分が本当に神の前に傲慢でたかぶりのものだと気づいて悔い改める人は、清められる可能性が清められているから幸いなんです。
しかし信仰を持っていても、実は気づかない人も意外と多いんです。
また私たちは同じを堅くしています。
神の命令にメッセージに従うべきなのに聞き従いません。聞き従わないんです。
気に入ったら聞きますが、気に入らなかったら聞き流します。捨てます。
人は本当に自己中心で、傲慢で、矛盾で、罪深いものなんです。
17冊に書かれています。
彼らは聞き従うべきことを拒んでしまいました。
皆さん、覚えていてほしいのですが、人は罪人です。
神の前にみな罪人です。義人はいません。一人もいません。
あの宗教改革者カルバンはこう言いました。
私たちの中に善が足りないから罪を犯すのではありません。
私たちの本性は決して止まらない。あらゆる悪を吐き出す陽光楼だからです。と言いました。
またジョーエスレはこう言いました。
私たちは罪を犯すから罪人になるのではなく、
私たちは本質的に罪人だから罪を犯すのです。と言いました。
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皆さん、私たちが悪いことをするから罪人だったりするんじゃないんです。
そうなる罪人になるのではないんです。
もうアダムの時代、アダムの以降から、
人は本性的に生まれつき罪人だから罪を犯すのです。
意外とですね、クリジタリアンでありながらこれを認めないクリジタリアンがいたりするんです。
カルバンやジョーエスレよりはるかに大昔の人、ダビデは、
自分がパテシェバと肝炎の罪を犯した後、
彼はこう言いました。字幕を出してください。
4編51編5節。
ご覧ください。私は徒がある者として生まれ、
罪ある者として母は私を見こもりました。
何と的確な真理なんでしょう。
皆さん、人は徒がある者として生まれます。
私も皆さん、みんな一緒です。
罪ある者として私たちは生まれます。
善良な人はいるかもしれません。良心的な人はいるでしょう。
しかし神の前にはみんな徒がある者、罪ある者、義人はいません。
一人もいません。私もあなたも。
しかしここで一緒に少し考えてみたいものがあります。
いわゆるこの社会の教育というものです。
それぞれ国どこも一緒だと思いますけれども、
教育というものは長い間教育の影響によって、
みんなに共通の何かの価値観、意識、国家観とか、
人間観というものが形成されます。
個人個人に、その国に、国家的に。
小さい保育園の時からずっとお年寄りまでずっと教わります。
知らず知らずのうちに、考えの中に脳の中に打ち込まれるようになって、
そういうふうに思い込んで信じ込んでいるんです。
ちょっと否定的に言えば洗脳されるわけです。
例えば学校の教科書などで、いろんなメディアで本で、
人は生まれるときからみんな善人である。
人は優しくて親切で良い存在であると教わります。
保育園の時からずっと大人になるまで死ぬまで教わります。
そうするとそれがもう人間観として形成されちゃいますね。
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それで一般的な人間観価値論を持っていたら、
人間は善である。みんな善人である。
罪人はいないという観をみんな持つようになります。
その上でみなさんが信仰を持ちます。
そうするとどうなりますか。
そこに必ず衝突が起きます。
なぜなら今まで習った人間観は、
人は善人であって罪はないと言うんだけど、
聖書は罪人である。義人はいないと言う。
必ず衝突が起きます。
そこで正しい信仰を持つというのは、
神の真理を持って今まで自分が持ってきた
余的な価値観、人間観を打ち破って新しくすることです。
このプロセスが起こらない限り人は変わりません。
聖書が教える真理は、人は罪人です。
義人はいません。
私たちはただ許された罪人にすぎません。
ここに私たちは立たなければならない。
むしろ聖書は言います。
善人はいない。みな罪人である。
義人はいません。
よく言います。
いや、あの人は優しくていい人なんですよ。
確かに良心的にいい人かもしれません。
親切であるかもしれません。
いいことをたくさんしたかもしれません。
しかし神の裁きと救いの目から見れば
人はみな罪人にすぎません。
永遠の命の滅びで滅ぼされるしかないものが
救いのない人間であることを忘れてはいけません。
ジョン・ウェスレンが言ったように
私たちは本質的に罪人だから罪を犯します。
遠くまで行かなくても大丈夫だと思います。
皆さんはどうか分かりませんが
私は自分自身のことを見たらすぐ分かります。
人間は罪人である。
自分の信じていることと
あるいは説教者として語っていることと
しかし自分の実生活のそのずれ、違い、
矛盾を感じるときに
ああ、この私は本当にみじめなものなんだ。
どれだけ罪深いものなんだろう。
信じていることとこの生活の違いはどうしたらいいんだろうと
悩みに悩み、泣きに泣いています。
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毎日もがきます。
全部ではないかもしれませんが
祈っているとおりに信じているとおりに
行っていない自分があるからです。
人の前では偉そうに振る舞っているんですが
しかし信じていることとおりに
生きていない自分があります。
だからそこに葛藤の涙があります。
全ては主のものですと言いながら
握りしめている自分があります。
神の神はあいなりと語りながら
自己中心しか考えられない自分があります。
謙遜を教え、祈りながら高ぶりの自分があります。
でも私はまだ同時に一つ気づいたことがあります。
こういうふうに気づかせてくださる神様に感謝しております。
もし気づかないまま悟らないまま
全然わからないまま人生を振る舞って高ぶって
暴走機関車のようにただ暴走するだけだったら
本当になんとみじめな人生になるんでしょうか。
だからさっきも言いましたように
神の恵みによって気づきというものは
本当に幸いなことで恵みだなと思います。
皆さんいかがでしょうか。
聖書・牧草を通して祈りを通して
あるいはこういう礼拝・説教を通して
自分自身のことを気づかされているんでしょうか。
神のメッセージが皆さんの心の中に届いているんでしょうか。
神様こんなにも私たちの人生に
何十年も何度も譲ってくださり
耐えてくださったんですよ。
私が持った痛み涙よりはるかに
重い痛み涙を持って
主は譲って譲ってまた譲って
耐えて耐えて耐えてくださいました。
それに関わらず時には私たちは
ちょっとしたことなのに譲ろうとしません。
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自分の考えを曲げようとしない。
そこにいろんな言い訳をつける私たちがおります。
負に落ちないからとか納得がいかないからとか
十分時間が持ちたいからとか
うんうん言いながら譲ろうとしない。
心を開こうとしない
同じの怖い固い私たちがおります。
そう考えるとですね
神様は我々の人生の分
私たちは51年間
皆さんだったら70年80年近く
何度も譲って耐えてくださったのにも関わらず
時には私たちは人に対して神様に対して
恩知らず者になっているんじゃないかなと
だからそこで悩んで泣いてもがいて
主に祈り叫びます。
主よ私を憐れんでください。
この傲慢なもの愚かなもの
罪深いものを許しください。
信じる通りに生きる力を信仰を与えください。
主よ憐れんでくださいと祈らざるを得ないんです。
皆さんいかがですか。
皆さんにもこのような悩み叫びもわきがあるのでしょうか。
自分の罪信じている通りに生きていない
その自分の罪のゆえに
信仰と生活のずれを気づいて
夕明けまで泣き叫び祈ったりしているでしょうか。
あるいは全然平気でしょうか。
しかし皆さん
私たちの信仰がこのような悩みもわきだけで終わるのであれば
それは本当に虚しいでしょう。
このように自分の罪のために悩み叫ぶものの上に
主の恩命が注がれ
悩みが注がれるんです。
これがキリスト教の語る主の恵みなんです。
ここで一箇所聖書を見てみましょう。字幕を出してください。
ローマ書5章20節
パウルはこの恵みを受けてこういうふうに言いました。
しかし罪の増しくあるところに恵みも満ちあふれました。
罪の増しくあるところに恵みも満ちあふれました。
私たちはこのような罪人ではありますけれども
それにもかかわらず神様は許しの神であって
情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ
私たちをお捨てにならないお方なんです。
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この神様を信じつつずっとずっと見上げていこうではないでしょうか。
主なる神様は本当に譲りの神であって忍耐の神様です。
アブラムのお願いを聞きになった神様は
彼に正しい者が十人いたら滅ぼしはしませんよと譲られました。
同時にそれはソドムとアブラムに対する神の忍耐でもありますね。
耐えてください。
神様に何か譲りと忍耐の理由や不才があるからではないと先も言いました。
神様自ら喜んで譲られ耐えられたんですよ皆さん。
仕方がなくではないんです。
ここに私たちには当たり知れない神の憐れみ恵みがあります。
その恵みを憐れみを知る者はそれによってさらに清められるんですね。
本当に神様は情け深く憐れみ深く
怒るのに遅く恵み豊かでありません。
お捨てになりません。
神様がもし忍耐の反対語は何なのかちょっと調べました。
皆さん忍耐の反対語は何ですか。
調べたら一番適切な言葉は焦りです。
耐えるの言葉は焦る。
神様がせっかちで短気でもう怒るのにものすごく
皆さん違うかもしれませんが私みたいにも怒るのにものすごい早い神だったらですね
私たちは今ここにいられないんですよ。
いられないんです。
本当に怒るのに遅い遅いこれまで遅い神様なのかと考えられることを
耐えて譲ってくださる神様です。
ピンときますか皆さんその神様が。
なぜなんでしょうか神様。
この神に出会ってこの神を味わって経験して
そしてその神をまず褒めたたえるためなんです。
栄光を返すためなんです。
それが私たちが救われてまた選ばれた目的なんです。
生きる目的なんです。
同時にそして油のようにその受けた祝福を神と人のためによりパイプ役になって
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こんなにも素晴らしい許しの神情けぶがく哀れみ深く怒るのに遅い恵み豊かであられる神様を
人々に言い伝えるためなんです。
溢れるほどお分け与えるためなんです。
メッセージを言われたいと思います。
私たちがその神様を知って自ら主を喜びへり下り主だけを愛するように
主は譲ってくださり耐えてくださっています。
今日もこの主を褒めたたえどこまでも聞き従い
いつまでも愛していこうではないでしょうか。
お祈りします。