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改めて皆さん、おはようございます。礼拝にようこそいらっしゃいました。
ニュースでは台風とかありましたけれども、まだ雨降ってないところであります。
お帰りのときもですね、雨が降らないでほしいですけどね。
でも、こういう天候の中でも、礼拝に皆さんがいらっしゃったことは、神様が皆さんお一人お一人に、
必ず今日のお恵みをお与えになりたいと神様が願ってですね、私たちは集めてくださったと信じますので、
その恵みをしっかり受け止めて、この解読からそれぞれの地に使わされていきたいと思います。
それではメッセージの前に、よかったら隣の方と軽く挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。では一言、お祈りをさせていただきます。
イエスは彼が伏せているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。
よくなりたいか。
イエスは彼に言われた。
起きて、床を取り上げて、歩きなさい。
この朝、神様が今日でなければ聞くことのできない。
神の命の言葉、希望のメッセージを、永遠の命に預かる言葉を、
我ら一人一人に、魂の中に、霊の中に、お語りくださいますように。
人間はどこから来て、どこに行くのでしょうか。
主よ、その真理を、その実を、今日の御言葉を通して、
生ける神様、つくり失る神様のメッセージを通して、
奇跡、あるいは悟り、あるいは分かって、主よ、この人生を歩むことができますように。
そのための、今日の命の御言葉となりますように。
神様、豊かに祝福してください。
心を祝福して、神の目前に、自分の考えや偏見や、あるいは固い自我や、
そういったものをすべて下ろしておいて、
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ただただ、心を無にして、祝福して、主を見上げる時としてくださいますように。
お願いいたします。
このものを隠して、生ける主御自身が、あなたの御栄光を表してお語りくださいますように。
礼拝中申しよ、我らのこの主の教会よ、
一人一人の健康を、魂を守ってくださって疲れて、主よ、大切な御言葉を聞き逃すことがありませんように、
身体も礼も主が健やかに守ってくださいますように、お願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
教会では今ね、毎週の日曜日、
ヨハネノ福音書公開説教というシリーズ説教をしております。
今日が十二回目になります。
今日朗読していただきましたヨハネノ福音書の五章の一節から九節のところから、
起きて歩きなさい、起きて歩きなさい、という題に従って神の御言葉をお受けしたいと思います。
教会の信徒の皆さんには、ヨハネノ福音書は、
イエス様にお会いした人々のストーリーだと申し上げました。
イエス様に出会った人たちは、生きる神に出会ったことです。
イエス様に出会った人たちは救われました。
イエスキリストにお会いした人たちは、永遠の命をいただきました。
なぜなら、イエスは救い主であり、誠の唯一の生ける神だからであります。
今日もですね、もう一人の人が、癒し主なるイエス様にお出会いするドラマのようなストーリーが始まっています。
その前に聖書は旧約聖書、新約聖書、古い薬、新しい薬じゃなくてですね、約束の薬ですけどね、古いジョークでした。
新約聖書の中に、一番最初にですね、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書、それぞれその聖書を記録した記者の名前でですね、四つの福音書がありますけれども、
その福音書は、簡単に言ってイエス様の物語なんですが、そのイエス様がいろんなことをなさるんですね。
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そのイエス様がなされたことの中に、パーセンテ的に見たらですね、イエス様がその病気を癒した出来事が、イエス様の働きの中に20%くらいになるということなんです。
これはですね、イエス様は我々の霊の救いだけではなく、私たちのこの身体のことにも関わってくださる、関心を持ってくださる、そして関わって関心を持つだけではなく、
実際に癒して祝福してくださるその方であることを、この福音書のその出来事が私たちに語っているんです。
イエス・キリストは、抽象的な何かのどこかにありそうな神ではありません。
いける誠の神様であって、今日もまた見ていきますけれども、人の小さなニーズにも応えてくださる神様であり、私たちの小さな声にも涙にも耳を傾けてくださって、聞いてくださって、また満たしてくださる方であられるということであります。
だから、イエス・キリストを信じる人々は幸いなものであります。
さて、今日の一節を見ますと、イエス様が今度はイスラエルの北から南のエルサレムの方に行かれました。
ところが、イエス様がエルサレムには二節を見ますと、羊の門の近くにヘブル湖でベテスタと呼ばれる池があったとあります。
このベテスタという池があるんですけれども、そこには街廊というものが五つあって、そこにいろんな病人の人々が集まっていたので、
普通の健康な人はその池に行くことは滅多にありません。
ところが、イエス様は祭りのためにエルサレムに登られたのに、せっかくエルサレムに登られたのに、
普通の人々はなかなか行かないあのベテスタという池に、わざとそこに行かれました。
これはまるで前の章で学んだ、ヨハネの福音書第四章に、イエス様がみんなは行かない、
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あのサマリアに向かって行かれたイエス様のあのお姿とオーバラップしているんじゃないでしょうか。
三節を私がお読みしたいと思います。今日の聖書の三節です。お聞きください。
その中に、その回廊ですね、その中に大勢の病人、盲人、足のなえた者、痩せ衰えた者たちが伏せていた。
池があります。そして五つの回廊がありますね。そこにですね、大勢の病人、何十人かもしれません。
病人の人々、盲人、足のなえた者、痩せ衰えた者たちがそこに伏せていました。
光景を皆さん想像してみてください。これはまさに、私たち人間のその人生そのものを一つの絵のように描いて見せているように思えませんでしょうか。
ここに集まっている人々、自分も自分の、もちろん自分の病気をどうしようもない人々です。歩くことすらできない人々です。
今日のね、38年間の病気をしている人も自分で歩けないので、誰かがそこに運んでくれたからそこにいるわけなんです。
自分の問題を自分の悩みをどうしようもない人の光景。
そして彼らはですね、あの池がなぜかたまにかき回されるんですね。
たぶんそれは自然現象でしょうね。ところがそれが天使が来てかき回すので、その時に一番一着でですね、その池にポンと入る人が病気が治るよという噂があって、
みんなですね、難病だから藁でもつかみたくてですね、ここに集まっていたことでしょう。
よく考えたら、これはですね、この絵は我々人生の縮小版だと思いませんでしょうか。
人は難病だけではなく、人生には理解しがたい難病のような複雑な問題が時々起きてくるのではないでしょうか。
あることは自分にもう解決できない。どうしようもなくてですね、もう半分諦めている状態もあるでしょう。
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そしてもし何かの病気の場合はですね、悩んで悩んでいてですね、どこかのいいお医者さんがいるんですって、この薬がもう効くんですって、もうみんな治ったんですって。
あるいはですね、世の人々はどこの神社に行って祈ったら大学に合格したんですって、子供が10年ぶりに生まれたんですけど、そちらですね、その病院に神社にですね、みんな集まるでしょう。
治ったとか、あるいは本当に治ったことは知らないのに、何かのかすかな希望を掴みたくって、あるいはそれをもうぎゅっと掴んだまま生きている我々人間のことを、このベテスダ池は我らに人生のリアルな現場を実は物語っているんじゃないでしょうか。
そこに38年もの間、病気にかかっている人が伏せていました。
この38年はですね、この人の年ではないでしょう。年齢じゃなくて病歴が38年ということなんですね。
この時は、今がだいたい2000年前なんです。英理1世紀ですからね、今より人の寿命は短いなんですね。だいたい平均寿命が50歳か60歳ぐらいの時代なんです。
そう考えるとですね、50歳としたらもう人生ほとんどが病気で暮らしている。苦しんでいたことでしょう。悲しみの中にいることでしょう。
何とかしてこの池の回路に運んでもらったんだけれども、自分で動けないので駆け回されたとしても、彼方で語っているように行くことができた。
今までそういった問題があったとしても、38年であろうが、308年であろうが、一番不幸な人であろうが、あの池に入ることができなかろうが関係はない。
なんででしょうか。イエス・キリストが、マコトの癒し主なるイエス様がここに来て、その人の人生を注目してくださるからです。そうしますと、不幸は終わり、幸福は始まるのです。
このように皆さん、イエス・キリストが、マコトの神なるイエス・キリストが、マコトの癒し主なるイエス・キリストが私の人生に入ってくださると、不幸にはピリオドを打って、幸福と書くようになるドラマが始まるのです。
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この人に劇的な新しいドラマが始まろうとしているのです。
聖書をお持ちの方は、6節をご覧下さい。聖書を一緒に読みましょう。
イエスは彼が伏せているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。よくなりたいか。アメン。
ここにですね、一番最初ですよ。イエスは彼が伏せているのを見たとあります。
一人の人にイエス様はフォーカスを当ててくださるのです。その人が偉いからでしょうか。そうではない。金持ちだからでしょうか。そうではない。
ただの自分のですね、どうしようもない運命に自分の人生を任しっぱなしのあの人に過ぎない。しかも彼はイエス様のことを知らないでしょう。
でもね、不思議にイエス様の心の目は、この身体の目はこの人に注目しているんですね。注目して。
皆さん、ドラマとかテレビをたまに見られるでしょう。毎日見るかもしれませんけど。
カメラがですね、例えば多くの人がいてですね、打っている。そして誰かの一人にですね、ジュームインするんですよね。どんどんその人をクローズアップするでしょう。
そのようなこの場面になる。イエス様が多くの病人がそこにいるんですよ。歩けない人、何十人の病気の人がたくさんいるのに、
イエス様がなぜか38年間の病気の青い人にね、照点を当ててくださって注目してくださるんですね。
ここから新しい祝福、恵みが始まるんです。ここから奇跡と癒しと回復と人生の祝福がここから始まるんです。なぜでしょうか。
癒し主なるイエス様が、まことの神なるイエスキリストが彼を見てくださるから、彼を注目してくださるから、そこから素晴らしいことが始まるのです。
さっき申し上げた、マタイの福音書、マルコのルカ、ヨハネの福音書の四つの福音書を見たらですね、そこにイエス様が誰々を見た、イエス様が誰々を見たという言葉がたくさん出てくるんです。
ところが、ほとんどの場合にイエス様が見た、心の目を止めてくださったその人は、イエス様に見られた人はですね、そしてイエス様に出会った人は、その人が今までどんな病気の人であろうが、どんな問題の人であろうが、どんな悪霊に取り憑かれている人であろうが、関係なく、
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その時に癒されて、祝福されて、すべての問題が解決される奇跡が、その時に起こるんです。
だから皆さん、我々の人生において一番大事なのは、イエス・キリストが、誠の神様が、私一人一人を見てくださることです。
そして六説をご覧ください。
そのね、それがもう長い間のことなのを知ってとあります。
どういうことでしょうか。イエス様はご存知でした。知っていらっしゃいました。彼の病気が長いなのを知っておられました。
初めて会うんですよ。初めてなんですよ。
ところがイエス様はすでに知っていました。この人の病気が38年ということを知っていました。
どういうことでしょうか。イエス様は、彼があの病気のゆえにされた痛み、苦しみ、あるいは貧しさ、
あるいは恥、あるいは孤独、あるいは涙、あるいは恐れを、すべてをイエス様は知っていらっしゃるということであります。
もちろん、あの病気のことももちろんでしょう。
皆さん、イエス様はすべてをご存知なのです。
もしも皆さん、人には言えない、何かの苦しみによる涙とか恥とかが終わりなんでしょうか。
イエス様に打ち明けて申し上げてください。
イエス様はすでに皆さんもそこを知っておられます。
そして聞いてくださる、知ってくださる、助けてくださることの癒しをお与えになるのです。
あるいは皆さん、人には言えない、罪とかによる恐れとかがあるなんでしょうか。
イエス様に告白してください。
そうしますと、イエス様は聞いてくださって、知ってくださって、助けてくださって、誠の自由を与えてくださるのです。
だからイエスキリストにお会いすれば、人はその人生に幸せが始まるのです。
38年もの間、長い間、病気を患っていたこの人、注目してください。
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愛と憐れみの目で注目してくださるそのイエス様が、生きる誠の神様、癒し主なる神様が、
そのイエス様がこの朝、ここに集っている皆さん、お一人お一人を見てくださっておられます。
注目しておられます。
そしてそのイエス様は、私と皆さんの心を知って、喜びも悲しみも皆知っておられる。
堂々してくださる、助けてくださるお方であります。
続いてみますと、イエス様は不死している彼に、何と言われましたか皆さん。
何と言われましたか。
よくなりたいか。よくなりたいか。よくなりたいか。よくなりたいか。よくなりたいか。
皆さんこの質問には、とても重要な意味が含まれています。
イエス・キリストは、この病人の願いを聞かれました。
この病人は38年もの病気を患っていました。希望が見えない状態です。
彼自身も、このまま死ぬかもしれないと、自分の人生を諦めていたかもしれない。
ところがイエス様が、そんな彼に、あなたはよくなりたいですかと、関心を持って声をかけてくださりました。
この時からイエス様は、この人の人生の中に入ろうとしておられる。なぜでしょうか。
愛するから。愛するからです。
誠の自由を、誠の癒しを与えたいからですね。
これがキリスト教であって、これがイエス・キリストの愛なんです。
この朝、イエス様が皆さんに、病気であろうが、人生の問題であろうが、悩みであろうが、涙であろうが、
あなたはよくなりたいですかと、イエス様がこの朝、聞いておられるんです。
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よくなりたいですか、皆さん。よくなりたいですか。よくなりたいですか。よくなりたいですか。
その時に信仰を持って、アーメン主よ、よく答える我らでありたいです。
いや、そうならなければならない。
ところが、私たちはこの病人と、実はちょっと似ています。
その病人がですね、イエス様があなたはよくなりたいのと言ったら、はい、イエス様、よくなりたいんですよと答えたらいいんですね。
皆さんもね、さっき私が何度もね、誤解を受け締めても、答えてくれない。
何でしょうか。頭の中に、この病人に、いろんな問題を先に考えてしまう。
七節をご覧下さい。私から読みしましょう、七節。
病人は答えた。主よ、私には水がかき回された時、池の中に私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです。どういう意味でしょうか。
イエス様はこの病人に、なぜ病気にかかったの。あるいは、なんで池に入れないの。
あなたを助けてくれる、運んでくれる人はいないんですか。病気の状況はどうですか。それを聞いていますか。
そんなことを聞いていないんですよ。
なぜなら、イエス様には、それが38年であろうが、どんな病気であろうが、運んでくれる人がいようがいないのが、それは何の問題にもならないからです。
ところが病人のようにですね、その人はですね、こういう話ですよ。
イエス様、あの水がかき回された時、私は行けないんですよ。ほら、見てください。歩けますか。歩けないんですよ。
もうみんな、僕が起きろうとしても、みんな先に行っちゃうから、もうどうせ、もう治らないんですよ。あなたも見てわかるでしょう。そんな話なんです。
でも、彼の話は、私たちの心の中に、頭の中に入っている思いとだいたい似ています。
イエス様は、聖書の御言葉を持って、あなたは良くなりたいかと、いつも語っておられます。
その時に、主よ、私は治ることを信じます。私を治してくださいと言うよりは、いろんな言い訳を、いろんな問題を、先に口に、頭の中に足してしまいます。
そうでしょう、皆さん。
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私は忙しいです。お金がないんです。もう七十過ぎて、そろそろ八十になります。家は遠いです。家族が忙しいです。
病気があります。いろんな問題を、言い訳を、先に私たちは考えてしまう。口に言ってしまう。
実は、この病院と、我々と実は同じなんです。
治りたい、そういうふうに思いながらも、自分は、所詮、治らない理由を数多く覚えている。こういう矛盾さが、我々にあるのではないでしょう。
状況が良くなりたいと願っていながらも、状況が悪いしかない、そういうことを思い込んでいる。まるで信じ込んでいる、我々がある。
皆さん、そういう矛盾、そういったものを抱えていても、イエス様の前には何の関係もないんです。
イエス様が彼に何とおっしゃったのでしょうか。八節一緒に読みたいと思います。八節。八節ですよ。一緒に読みますね。
三、イエスは彼に言われた。起きて、床を取り上げて、歩きなさい。アーメン。
この人、私が読みますね。イエスは彼に言われた。起きて、床を取り上げて、歩きなさい。アーメンですか、皆さん。
イエス様の答えはですね、彼がですね、こうこうこう、それで治らないんですよ、って言っている彼にですね、イエス様の答えは、とても明快です。
もう説得もしていない。簡単にイエス様は命じておられる。起きて、床を取り上げて、歩きなさい。他にないです。これが福音です。
これが癒し主なる、誠のイエス・キリストの御言葉の力であります。起きて、床を取り上げて、歩きなさい。
この三つのことを、もうちょっと掘り下げて考えていきたいと思います。まず、起きてです。起きて。起きて。
皆さん、この病人は、38年間になったあのとこから、あの場所から、起きなければならないんです。
病のとこ、傷のとこ、恐れの場所、自己矛盾の場所、あるいは固くなな自我の場所、罪の場所から、起き上がらなければならないんです。
起きないと、新しい場所に行くことはできないんです。この38年の病人に命じられたイエス様が、この朝、私たちに命じておられます。
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起きなさい。起きなさい。起きなさい。皆さん、私たちは起きなければならないんです。
いつまで、そこに座り込んでいるつもりなんでしょう。
罪の場所から起きなければならない。怠惰の場所から起きなければならない。
偽りの場所、恐れの場所、あるいは心の傷の場所、涙の場所、苦しみのあのとこから起きるときに、我々人生には、イエス様による新しい時代が、新しい人生が、そこから始まるのです。
起きないと、何にも。
2番目、徳王を取り上げてとあります。
この徳王というものは、どんなものでしょうか。畳1よりは小さいでしょう。
何かの徳王なんです。じゃぶとんみたいな、ボロボロじゃぶとんみたいなものがあるかもしれません。
この病人魚というのは、38年間使ったものとしたら、自分の身のようになっている、自分の病気のシンボルみたいなものなんですね。
どういう意味でしょうか。徳王を取り上げてという意味は、あなたが今まで持っていた、つかんでいた、それを捨てなさいという意味です。
それを今からはいらないんですよ、ということです。
つまり、あなたの過去を断ち切りなさいという意味なんです。
罪を断ち切って、恐れを断ち切って、自己矛盾を断ち切って、偽りを断ち切って、そして、あるいは病気の過去から。
言い訳に文句にいっぱいだった自分の過去、あるいは人には言えない涙、傷、その過去と決別しなさい、お別れしなさいというメッセージなんです。
私たちも同じメッセージがこの朝語られています。
皆さん、過去と決別するときに、新しい人生が、イエス様は徳王を取り上げて歩きなさいと言いました。
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徳王を取り上げないと、捨てないとですね、新しいところに一歩踏み出していけないんです。
私、今年で結婚して21年目で、そのうちにですね、引っ越しをたくさんしました。
2年に1回ほど引っ越しをしてですね、引っ越しをしてわかったことが一つあるならば、うまく引っ越しするためには、物を捨てることなんです。
よく捨てることなんです。
古い物をたくさん持ってですね、いくら新しい家にいて、全部買ったらまた同じ古い家になってしまう。同じなんです。
自分の過去、自分の問題、自分の痛み、涙、偽り、そういったものと決別しなければ、そのときに新しい一歩が始まるんです。
3番目、歩きなさい、歩きない。
起きて徳王を取り上げて、そして歩き出すということで。
つまり、バックスライドするんじゃないです。
過去にね、行くんじゃないです。
過去をですね、掘り下げて、かみしめて、目指して、考え込んじゃなくてですね、それと決別して、
初に向かって、前に向かって、歩き出すことであります。
なぜでしょうか、そこに。
ただ希望的な考えじゃなくて、そこにイエス・キリストがおられるから。
神様がおられるから。
神に向かって行くんです。
私は祝福し、私は改革してくださる、そのイエス・キリストがそこにおられるから、その方に向かって行くんです。
そのときに新しい、この人の人生が新しく始まる。
メッセージを終わりたいと思います。
イエス様は、多くの病人の中で、この一人の人に注目してくださったように、
この朝、実は皆さん、お一人お一人を注目して行ってくださるんです。
そのイエス様の目に、皆さんの目を合わせていただきたい。
そして皆さんの、あの悩みを、心配事を聞こうとしておられるそのイエス様に、
皆さんの心を打ち明けて、申し上げて、聞いていただこうではありませんか。
そうしますと、イエス様が、この朝、皆さんにも、起きて、床を取り上げて、歩きなさいと語ってあがります。
床を取り上げて起きるのは、自分でしなければならないんです。
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いつまで誰かが私を起こしてくださるだろう、と思うんじゃなくて、
自分の足で起きて、自分の床を自分が持って、これをしている。
誰がするんですか。皆さん自分でそれをする。
それをイエス様が助けてください。見た目によって助けてください。
起きることができる力も、その床を取り上げて捨てる力も、
一歩、新しい一歩を踏み出せる力も、
ウチナの精霊様が助けてください。
イエスキリストには、今ことの権威が、力があります。
それを信じてください。御言葉を信じてください。
奇跡というものは御言葉を信じて、信仰通りに歩むことであります。
起きて、床を取り上げて歩きなさい。お祈りしましょう。