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2017-09-10 41:43

2017/09/10:ヨハネの福音書講解説教(11)永遠のいのちへの水が湧き出る

 2017/09/10 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 4:9~26

00:00
みなさん、あらためておはようございます。
先週1週間は、金曜日まで、月曜日から金曜日まで、特別キット会が開かれました。
今年も1日3回開かれて、大体延べで20人以上の方々が出席されました。
私はですね、本当に感謝して、幸せだと思いました。
共に無言をいただいて、また共に祈れる兄弟姉妹たちが、そばにいることは本当に幸いなことであります。
今回、やむを得ず出席できなかった方々は、また来年の1月に新年祝福キット会がまた行われる予定でありますので、
ぜひですね、出席していただけたらと思っております。
またね、今回は、南東永川先生も1回出席していて、とても光栄でした。
またね、そのキット会が終わって、すぐにまた昨日は、あゆみ姉妹と中島兄弟の結婚式が、本当に幸いな祝福の中で、恵みの中で行われました。
本当に私は、僕自身として、とても神様に感謝しております。
実はですね、私は正式的に日本で出席をさせてもらったのは初めてなんです。
でも本当に、ある姉妹から先生よかったですよと言われてですね、ひょっとしたらこれから結婚式の出席の依頼がサッとするかもしれません。
いや、それよりですね、出席させていただきながら、披露宴に座っていながら、こう考えたんですね。
教会にああいう青年たちがたくさん起こされて、そして若いカップルがですね、どんどん増えていったらいいなと。
もう結婚式がたくさんあって、もう疲れて倒れてもいいから、それほど青年がたくさんいたらいいなと願いながら、そこに報酬をさせていただきました。
本当にですね、神様の恵みに満ちた一週間でした。ありがとうございました。
それでは、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
はい、それでは一言お祈りいたします。
しかし、私が与える水を飲む者は、誰でも決して渇くことがありません。
私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。
03:05
アーメン。
主よ、この朝私たちに生ける水をお与えください。
溢れるほど、私たちの内側からキリストからいただいた生ける水が湧き出ますように、どうか我らを祝福してくださいますようにお願いをいたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、ヨハネの福音書の公開説教が続いています。
今日は11番、11回目、永遠の命への水が湧き出るという題です。
先週の続きですけれども、いよいよイエス様がこのサマリアの女性と話し合い始められました。
イエス様はイスラエルの南部から遠く遠く旅をして来られたから、また今日の聖書を見ているとおりに、もう昼までしたから、渇きを覚えておられました。
そしてイエス様はそのサマリアのシカルの女性に水をくださいと、私に水を飲ませてくださいと頼みました。
そしたらその女性が旧説にあるように、あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に飲み水をお求めになるのですかと言い返したんですね。
それは先週も申し上げたように、そして旧説の後半に書かれているように、ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったからなんですね。
するとイエス様がその女性にこうおっしゃいました。それが述説です。
もしあなたが神の賜物を知り、またあなたに水を飲ませてくれというものが誰であるかを知っていたなら、あなたの方でその人に求めたことでしょう。
そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょうと答えられました。
そしたらその時に、この方が生ける水をくれるかもと気づいたらよかったんですね。でもまたこの時は彼女は気づいていないんです。
彼女は現状を見てこう答えるんですね。
先生、あなたは汲むものを持っておいでにならず、この井戸は深いんです。その生ける水をどこから手においでになりますか?
いわゆる共同の井戸はロープはついていますけど、パケスはついていないんですね。
06:00
だからみんなそれで自分のパケスを持っていて、それにつなげて水を汲んで帰る時には自分のパケスを持っていくから、パケスがないと水を汲むことができないんですね。
共同の井戸は。だからその話なんです。
そしてまたそれだけではなくですね、十二節を見たら彼女はイエス様に、あなたは私たちの父、先祖のことですね、コブよりも偉いのでしょうか?
コブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も彼の子たちも家畜もこの井戸から飲んだのですよ、と答えました。
ところが皆さん、ここまでこの井戸様と彼女の会話をよく見たら、この場面はとても残念でですね、もどかしさを感じるそういう場面だと思います。
自分の目の前に永遠の命の水、生きる水なる井戸様がおられるのに、自分の目の前にですよ。
でもその方が生きる水の方であること、救い主であることに気づいていない。
ただ彼女は水のことばかり、あるいは祖先のヤコボの話とかですね、その水は代々受け継がれた井戸ですよ、とそういうことばかり彼女は考えているんですね。
ここから人間の限界を感じる場面だと思います。
そしてまたこの女性は私たちの姿の一部を示していると思うんですね。
二つを同じ、まずしましょう。
一つ目は、人はだいたい自分の目の前にいることに縛られやすい存在だということであります。
彼女はですね、今水を汲みに来たから水のことばっかり考えているんです。
自分の目の前に救い主がおられるのに、それに気づいていない人間。
いわゆる断面的なことしか見れない人間。
あるいは一つの何かのことばらに溺れたら、それに縛られて、その問題の他のものには考えがつかないという我々の姿ではないでしょうか。
彼女もですね、これは役割がくれた井戸ですよと言っているように、
また何か自分の過去のことや、それがですね、とても栄えのものであろうが、苦しかったものであろうが、
自分の何かの過去のことばらにですね、縛られやすいものが私たちではないんでしょうか。
今自分の目の前に生ける水の主がおられるのに、それに気づいていない人間。
09:11
それからもう一つ、人は自分が欲しいものばかり求めるということであります。
この女性は水を求めていました。水というものは我々のこの肉のものを表していると思います。
肉のものばかり求めていて、だから命の主を逃がしているわけなんですね。
もちろん水は飲めなければならないでしょう。人間が生きるためには必ず必要なものであります。
ところが皆さん、素直に正直に考えてみたら、人はですね、あまりにも食べ物や飲み物や、
そういったものにこだわりすぎて縛られているならば、それよりもっと尊いもの、それに勝る礼のものを見逃しやすいということではないでしょうか。
そのね、とても良い礼が、何のときに悪いですけど、礼として良い礼が旧約聖書の民策に出てくるイスラエルの人々のことです。
彼らはエジプトから脱出をしました。そしてアラノを通っていくんですね。皆さんご存知でしょう。40年間を通っていくんですよ。
ところが、彼らがしょっちゅうも引っかかってしまった、そして罪を犯してしまった理由の多くの、いやほとんどの場合は食べ物、飲み物、それらでした。
彼らはですね、ずっと食べ物がない、飲み水がない、マナーに飽きた、肉が食べたい。
エジプトではスイカも食べてニラも食べてニンニクも食べたのに、40年間の彼らのセリフはですね、食べ物がない、飲み水がない、そればっかりでした。
彼らがですね、引っかかって罪を犯したほとんどが実は肉のものなんですよ。食べ物、水。そればかり考えていて、それに縛られてしまって、神の恵みは見逃してしまって。
でも皆さん、実は私たちも似ていると思いませんか?皆さん。
食べ物、飲み物、もちろん人間の生存に必ず必要なことですよ。
でもね、そこにあまりにも縛られてしまいますと、それも一つの快楽になりうるということなんです。
12:02
人間はですね、快楽を求めて、それを作り出して、それを楽しむ。でもキリがないという存在が実は我々なのです。
人々はですね、もう絶えず新しい遊び、新しい快楽を作って、そして宣伝をして、それに乗っかっていないとバカみたいにされる。
時代遅れのですね、そういうものにされるような時代が、今の実は時代なんです。
ところがですね、イギリスの有名なキリスト教学者だったシエス・ルイス先生は、こうおっしゃいました。
快楽も一種の宗教である。そして過度な快楽は堕落した文化を必ずもたらす。そして結局には滅亡に至るということが歴史の証拠であるとおっしゃいました。
そんなですね、ローマがなぜ、あの時のローマが滅亡したのでしょうか。快楽ばっかり求めていました。
ところが皆さん、人間がこのように楽しみや快楽やそういったものを求めるということは、これを裏返してね、考えてみたら、
人は実はまことの神様を求めてさまよっているその反象ではないでしょうか。
イエス・キリストに実は会いたい、まことの神様に会いたい、でもまだそれを知らないから、気づいていないから、あるいはまだ会っていないから、
その代わりのものを作ったり、欲しかったりして楽しんでいることが実は人間なんですね。
だから皆さん、すべての人はまことの神様に会わなければならないんです。
その御子一人御イエス・キリストにお会いしなければならないんですよ。
実は今日のこのサマリアの女性も、実はこのまことの神様を探し求めてきた女性ではないでしょうか。
六番目の男性と今一緒に暮らしているんですけれども、でも実は夫ではない。
そこに満足しきれていない彼女がいる。
ところが皆さん、今からは大丈夫です。
この女性は永遠に湧き出る生きる水イエス様に出会って、そして今まで彷徨った彼女の人生に、
闇だった人生に光が照らされるその場面が今日ここなんです。
15:03
それでイエス様は彼女に、十四節、これは一緒に読みたいですね。
十四節を一緒に読みましょう。
十四節、よろしいですか。
三、しかし私が与える水はその人の家で泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。
アーメン。
イエス様は知っておられました。
この女性はずっと渇いていた人生でした。
でも何をもってもその渇きを満たすことはできなかったのです。
いや、人は肉のもので霊の渇きを満たすことはできないでしょう。
肉のものは肉のニーズを満たすことができるだけで、
肉のもので霊のニーズを満たすことはできないのです。
だからこの女性の渇きは、ニーズは肉のものじゃなくて霊の渇きでした。
だから彼女のあの渇きを満たすためには、肉のものとか水とか断裂とかそういったものじゃなくて霊のものが必要だったのです。
だから彼女に必要なのは永遠に乾かない生きる水なんです。
そうするとこの女性は生きられるのです。
しかしもはや心配しなくていいのです。
なぜなら、生きる水、永遠に乾かない水、その生きる水なるイエス・キリストその方にお会いしたからです。
皆さん、我々も同じなんです。
この世の何者によっても、我々の霊の渇きを満たすことはできないのです。
いくら美味しいものを毎日食べても、いくら良い家で住んでいても、いくら健康であって長寿したとしても、
人間は永遠の命、生きる水のイエス・キリストに出会わないと、渇きを満たしてもらえない存在なんですね。
そのことを覚えましょう。
だから皆さん、何かの渇きを覚えていらっしゃるでしょうか。
それはもしかしたら、魂の霊の渇きかもしれません。
それを満たすためにはですね、何をしてもそれは満たされないんです。
18:00
一瞬の解決にはなれるかもしれない。
しかしですね、霊の渇きはイエス・キリストによって、御言葉と祈りによって、神の恵みによって満たされます。
他には?
さあ、イエス様はですね、これからまたもっと掘り下げてですね、魂の医者としてこの女性の大きな二つの間違いというか罪を診断されて、そしてそれを癒されるんです。
マタイノ福音書の9章12節ちょっと開きましょうか。
新約聖書のマタイノ福音書9章12節。
新約聖書の15ページです。
12節、9章の12節一緒に読みたいと思います。
イエスはこれを聞いて言われた。
医者を必要とするのは丈夫なものではなく病人です。
アーメン。
13つ私がお読みします。
私は憐れみを好むが、生贄は好まない。
とはどういう意味か、言って学んで来なさい。
私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
イエス様は魂の医者です。
そして病人を探して癒してくださる医者です。
だからイエス様は魂の医者として、彼女を診断しますね。
精神器で診断します。
あなたは二つの病気がありますね。
まず一つ目は、あなたの夫のことですよ。
そしてイエス様は水の話をしている途端、
マタイが変わってですね、16節。
今日のヨハネノ福音書の16節を見たら、
イエス様が突然ですね、行ってあなたの夫をここに呼んで来なさいと言われるんですよ。
たぶんですね、この女性はびっくりしたかもしれない。
どうやって知っているんだろうとですね、びっくりしたかもしれませんが、
でも彼女は素直にですね、すんなり自分の心を開いてしまったんですね。
それで17節、隠してなくて正直に言いました。
17節をご覧下さい。
イエス様は答えて言った。
私には夫はありません。
イエス様は言われた。
私には夫がないというのはもっともです。
あなたには夫が5人あったが、
今あなたと一緒にいるのはあなたの夫ではないからです。
21:03
あなたが言ったことは本当です。
と話になりました。
皆さん、イエス様はなぜ、彼女のとてもつらくてですね、
言いたくない、隠したい、あのね、深い傷のようなね、恥のような、
あの夫のことを、その問題をイエス様が言い出したんでしょうか。
それは痛みのところをつつくためではないでしょうね。
それは癒やすためなんです。
癒やしのため。
つらくですね、この女性は長い間、
長い間、何十年かもしれません。
長い間、この男性との問題で、長い間苦しめられたことでしょう。
彼女には、人には言いたくない、言えない。
その自分の痛みであって、傷であって、闇の部分でした。
でも今まで、何によってもですね、その問題を、
誰によっても何によっても解決してもらえなかったんですね。
他の男性、他の男性と暮らして、何をしても満たしてもらえなかった。
癒やしてもらえなかった。
ずっとその問題話の人生でした。
ところが、今や大丈夫です。
イエス様がこの女性のところに、わざわざイスラエルの南からやって来られて、
彼女の苦しいところ、痛みのところ、傷のところ、
その罪から彼女を救おうとしておられるんです。
今まで誰にも解決してもらえなかった自分に、
いよいよ、やがて彼女にですね、癒やしと救いが起きたんですよ。
これは皆さん、イエス・キリストは、
イエス・キリストが私たちに尋ねて来られる目的は、
裁きではない、救いであります。
傷をもっと深めるためではなく、癒やすためなんです。
癒やすためなんです。
だから皆さん、私たちがイエス様の御前に近づいていけば、
実はですね、この女性のように自分の恥ずかしいところ、
罪とか、あるいは自分の弱さとか、あるいは自分の傷とか、
隠したいところ、恥ずかしいところ、
そういうところがイエス様に前に行けますと、
24:02
それが表わされる。
ちょっと悪い言い方ですけど、ばれちゃいますね。
だから実は、しんどいんです、つらいんです、恥ずかしいんです。
だから逃げたいんです。
でも、イエス様の御前に近づいていかなければならない。
どこかのひどい病気を持っていたとしましょう。
そしたら、病院に行って、
お医者さんにですね、見てもらわないとですね、診断ができないし、
治してもらえないでしょう。
そうなんですよね、同じなんです。
イエス様は既にご存知でありながらも、
でも、恥ずかしめるんじゃなくて、
むしろ、癒して、救ってくださるのです。
愛する皆さん、イエス様の御前に近づきますと、出ていきますと、
そしてその前で、私たちは自分の弱さや、
自分の隠した罪や過ちを認めさせていただいて、
そして告白するならば、救いと自由とまた癒しが与えられると信じてください。
だからある意味ですね、信仰生活というものは、
元の医者なるイエス様の御前に行って、
バレちゃって、癒されて、救われることではないでしょうか。
逃げて逃げていては、もう癒されませんよ。
皆さんがどんなにひどい痛みとか苦しみとか、
なんで私にこんなことが起きたんだろうかと、
そういった思いがあるんでしょうか。
イエス様の御前に出てきてください。
イエス様は我々の霊と肉の無事の医者であって、
救い主であって、癒し主なんです。
慰め主なんです。
必ず癒して、必ず自由を与えてください。
それからイエス様は、この様々な女性の二つの問題に近づきました。
それは、彼女の礼拝のことでした。
その男性の夫の話の中で、またその話が、話題が、
礼拝のことに移りました。
そこにはイエス様の意図があったわけなんです。
そして、その話を実は彼女が先に言い出したんですね。
二十節ご覧ください。
私は読みますね。聖書をご覧ください。
27:01
私の父たちはこの山で礼拝しましたが、
あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。
その後の二十一節を一緒に読みたいと思います。
イエスは彼女に言われた。
私の言うことを信じなさい。
あなた方が父を礼拝するのは、この山でもなく、
エルサレムでもない、そういう時が来ます。
続いて二十二節。
救いはユダヤ人から出るのですから、
私たちは知って礼拝していますが、
あなた方は知らないで礼拝しています。
二十三節もご一緒に。
しかし、真の礼拝者たちが、礼と誠によって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
二十四節もご一緒に。
神は礼ですから、神を礼拝する者は、
礼と誠によって礼拝しなければなりません。
アーメン。
感謝します。
二十節から見たら、
イエス様が彼女のお話を聞いた。
彼女はサマリア人ですから、
昔ながらの伝統や風俗をよく知っていて、
我らの人たちは、この山はサマリアにあるゲリジム山です。
モーセの時にゲリジム山が南にあって、
ちょっと向き合って上にエバル山があるんですね。
ゲリジム山を指します。
そこで礼拝しましたが、
あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムと言っていますよね。
一体何なんですかという話なんです。
彼女の話にはちょっと歴史的な背景がありますので、
そのところちょっとお話をしたいと思います。
先週の話に、なぜサマリア人がユダヤ人と付き合いはしないのか、
その説明は先週しましたよね。
覚えてますか、皆さん。
同じ言っている方3人おられますね。感謝です。
紀元前3世紀頃には、
サマリア人たちがもう別れていたから、
ゲリジム山に自分たちの神殿を建てました。
そして、孟瀬五書、
創世記、執意、エジプト記、礼拝記、民俗記、神明記だけを聖書として、
特児の教えを彼らは確立してしまいました。
30:01
だから、エルサレムと北のガリデアを中心にした
イエス様に対する信仰と関係なくて、
孟瀬五書だけ信じる宗教になってしまったわけなんです。
ところが、サマリアは紀元前2世紀頃に、
ユダヤ人の指導者、ユハネ・ヒルカノスという人に攻撃されて、
あのゲリジム山の神殿は破壊されてしまいました。
そして、その破壊されたこともあって、
なおさら、敵対関係になってしまったということになります。
だから、彼女の話には、ずっとあの昔から、
私たちの先祖は、ゲリジム山に神殿を建てて、ここで礼拝していましたよ。
だから、エルサレムは、あれは偽物だと。
ここが本物だと、そういう風に言ってましたけど、
どっちですか?という彼女の質問が、今の話なんです。
どこで捧げる礼拝が本当の礼拝ですか?という質問なんですね。
ところが、イエス様の答えは、実に礼のことであって、賢明な言葉でありました。
それは、礼拝の問題は、あちらかこちらかという場所の問題ではない。
ユダヤ人科、サマリア人科という、人種の問題でもない。
そこを知ってほしいですよ、と。
あなたの前にいる私が、礼拝すべき神の子、キリストですよ、
それを知ってほしいんですよ、という話を聞きたい。
イエス様、それが話したいんです。
でもね、さっきも申し上げたように、彼女はまだ、
どこですか?どこですか?どっちでする礼拝が本当ですか?という場所の問題に縛られていました。
また、サマリア人がする礼拝が本当のものですか?ユダヤ人がする礼拝が本当のものですか?
という人のことや人種の問題に、またそこに縛られて、自由がないんですね、彼女には。自由がない。
ところがイエス様は、彼女に、その礼拝の問題の根本から教えて下さいました。
誠の礼拝者とは、ユダヤ人たちの礼拝者でもなく、サマリア人たちの礼拝者でもなく、
場所や人種や性別に関係なく、真の神様を礼拝する人々のことですよ、と。
また、エルサレムの神殿でもなく、ゲリジムの神殿でもなく、イエス様という神殿、本当の唯一の誠の神殿を通して、
33:03
父なる神様を礼拝する人のことですよ、それが誠の礼拝者、真の礼拝者ですよ、と教えて下さいました。
それが二十三、二十四節なのです。
そして二十三節に見ますと、真の礼拝者たちが、礼と誠によって父を礼拝する時が来ます、とおっしゃいました。
ここの礼と誠とは、礼と真理と訳せます。あるいは、これは真理の礼とも訳せます。
だから、これは礼と誠によってとは、もっとわかりやすく訳しますと、真理の礼の中で、と訳せるのです。
これらを考えますと、このイエス様の二十三節、二十四節の御言葉は、
真の礼拝者は、全世界に満ちている神様の真理の礼の中で、御霊の精霊様の中で、どこにいても、いつであっても、神様を礼拝していることが、真の礼拝者であって、礼と誠による礼拝ですよ、という根本的な話をしました。
皆さん、我々人間は、何かに慣れてなじみやすくなったら、それが好きになるのです。
そして、それが慣れて他のものに触れると、だいたい人間は違和感を感じる。そして、それをすぐに受け入れる傾向の人もいるのです。
だいたい、そんなにすぐには受け入れない、あるいは受け入れたくない、あるいは排斥するということがある。
でもイエス様は、真の礼拝は、ここか、あちかの問題ではありませんよ。誰がするのか、人の問題でもありませんよ。
イエス様に礼拝するならば、真理の礼の中で礼拝するならば、それが真の礼拝ですよ、という。
イエス様はこの女性に、真の礼拝者、真の礼拝が何なのか、教えてくださいました。
さあ、この女性はですね、イエス様に出会って、人生のすべての問題を解決していただきました。
肉の問題も、礼の問題も、解決していただいて、癒していただいて、救っていただきました。
それなら、イエス様は、すべての問題を解決してくださる、それがお出来になる、永遠に湧き出る、生きる水だからなんです。
だから、救われる前だけではなく、救われたから、クリスチャンも日々、生きる水なるイエス様にお会いしなければならないんです。
36:17
そうすると、我々の礼のことも、肉のことも、イエスに癒していただく、解決していただく。
そうすると、もう生きることがですね、わくわくして、感謝に満ちあわせる人生になるんです。
さあ、最後に一つだけ見ていきましょうか。
このイエス様に出会った後、彼女はどうなったんでしょうか。28節をご覧ください。
まだまだ斬書が残っていてですね、熱くて眠くなりやすい時間でありますけれども、28節をご覧くださいよ。
一緒に読みますね、28節。
女は自分の水亀を置いて町へ行き、人々に言った。続いて、来てみてください。
私のしたこと、全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。
前を向いていただけますか、皆さん。
彼女はですね、水を汲みに来たんですよ。水を汲みに来て、そして水を汲みに来たのに、
その水を汲みに来た後、もうさっぱり忘れてしまってですね、その水亀を置いておいてですね、町に行ったということから、もう変わったんですよ。
今まで避けていました。でも驚くべきことが起きてきたんですよ。恥というものももうなくなってしまいました。
そして、みんなに会ってですね、来てみてください。皆さん来てみてください。
私のしたこと、全部を私に言った人がいるのですよ。この方がキリストなのでしょうか。とね、みんなに言いました。
そして多分ですね、そのさっきの生ける水の話とか、それを全部人々に、もうね、言ったことでしょう、言ったことでしょう。
そして、またね、29節を見てですね、30節を見たら、こんな素晴らしいことが起こるんです。30節も一緒に見ますね。
30節3、はい。そこで彼らは町を出て、イエスの方へやってきた。アーメン、ハレルヤ。素晴らしい、びっくりする奇跡が起きてしまいました。
多分ですね、あの町に入って、多分走っていたかもしれない。そしてですね、みんなに言っている彼女の顔は、今までと多分全く違った顔をしているかもしれない。
今まではですね、もう暗くて暗くて、もう真っ黒の顔だったかもしれません。しかしですね、もう太陽のように光っている顔じゃないでしょうか。
39:04
で、彼女はどうしたんだろう。何か変わっているねって、はがいている、にこにこしている、何があったの?とね、聞かれたかもしれません。
何でしょうか、彼女は。どこででも得ることができなかった。生きる水、その水を飲んだからなんです。
だから、イエス様に出会った人が、生きる水を飲んだ人が、自分の内側からですね、もう一瞬で湧き出る水のこの恵みに預かった者が町に行って、
私がイエス様に出会いましたよ、皆さん来てみてください、こんなことが起こりましたよ、と伝えた時に、人々がイエス様の方に、ああそうそうそう、みんな群がって行くんですね。
そして、どんな結果になったんでしょうか。三十九節を一緒に読みたいと思います。
三十九節、三、はい。
さて、その町のサマリア人のうち多くの者が、あの方は私が知ったことと、全部私に言ったと証言した、その女の言葉によってイエスを信じた。アーメン。
素晴らしいでしょう、皆さん。あの女性ですよ。みんなから嫌がられた女性ですよ。逃げていたあの女性ですよ。
でも関係ない。今までの自分の人生がどんなものだったのか関係ない。イエス様にお会いさえすれば、自分の恥がなくなる。恥と涙で日々を過ごしてきた彼女。
しかしイエス様に出会って、彼女は自分の罪の問題、間違った礼拝の問題を正しく教えていない。
礼の目がはっきり見えるようになって、そしてこの方こそメシアなんだことがわかって、目が開かれて、そしてまことのイエスを礼拝する真の礼拝者に変わったんです。
イエス様に出会うこと、他には人生の問題の解決の方法はないです。メッセージを終わりたいと思います。
皆さん、イエス様に近づけば、イエス様の御前に出れば、人生のすべての問題は解決されます。アメンですか、皆さん。
イエス様に出てきてください。礼拝に出てきてください。イエス様にお会いしてください。
イエス様は永遠にポンポンポンポンと湧き出る、行ける水であられます。お祈りしましょう。
41:43

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