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改めてみなさん、おはようございます。
暑い中、よくいらっしゃいました。
今日も神様に高な恵みが注がれますように、
本当にですね、また赤ちゃんも二人もいれて、一緒に礼拝できることを本当に感謝いたします。
嬉しく思います。
それでは、周りの方々ですね、挨拶しませんか。
はい、共に挨拶しましょう。
はい、それでは一つお祈りいたします。
神様、私たちは神様を愛しております。
あなたを知りたいと願っております。
どうか、主よ、今この時、私たちの心を開いてくださって、
私たちの心の中に、礼の中に、主を語ってくださいますようにお願いいたします。
私たちを、あなたの御前に一人一人の生徒として、主が立ててくださいますように。
また、復教できたら、私たちを砕いて、また祝福して、主の御前に清く歩むものとしてください。
どうか今、一人一人の心の中に、主のお言葉を聞かせてくださいますようにお願いいたします。
御殿に、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、主の働きシリーズからちょっと今日だけ、主のところにいて、
部下の勲章、今日の御言葉から、神様のアメージングなタッチというところから共に恵みをお受けしたいと思います。
御殿には、素晴らしとか、お見事とか、いろいろ似たような意味の言葉がありますが、
英語のアメージングという言葉がありますよね。
いろいろ調べてみました。そして、近くには私の知り合いのネイティブはいませんので、
フィリピンに私の知り合いのアメリカ人の親戚がいて、ちょっと聞いてみました。
アメージング、どのときに使うの?と聞いてみたら、2つの意味があるらしいですね。
皆さんがよくご存知の、とても素晴らしいこと、お見事という日本語に当たると思うんですけれども、
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例えば、素晴らしすぎる何かスキルを持っている人、例えば車をギリギリ紙一枚ぐらいの隙を取って止められる、
それを見たら、アメージングとか、あるいはテニスの日本の有名なミシコリ先生がジャンプしてトークするんですよね。
それを見たら、この解説というか、アメージングとかするんですよね。
もう1つの意味があります。それは、意味はわからないけど、自分に起きた素晴らしいこと、
何で自分にこんなに素晴らしいことが起きたのか、意味はわからないけど、そのことに対してアメージングと言うらしいんですね。
皆さんはいかがでしょうか。今までの皆さんの人生の中で、本当にお見事、素晴らしすぎる、アメージングと言いたい。
誰かに話したくて、例えば今のお二方がメールを送ったり、あるいはフェイスブックに写真を撮って、
本当に伝えたい、といったアメージングなことがもしあったんでしょうか。どんなことがあったんでしょうか。
私の場合は、本当に私のようなとてもトルにならないものにしか限りなき愛を注いでくださったこと。
本当に一人の貧困になるにもたれないものを、僕として主が食べてくださったこと。
また、本当に良い妻に出会って結婚して、子供が三人も生まれてきて、こういうふうに主のお仕事にお使いできていること。
しかも、神のアメージングな祝福を、その恵みを皆さんにお伝えしたい。
今日、一人の男の人が、彼の人生に今までなかったアメージングな祝福が起きました。
日本語の成虫は、彼の病気を神科薬成虫は全身サラートと言います。
昔の古事成虫は雷病と訳されていましたが、それは雷病ではない、重い皮膚病ということがわかったんですね。
いずれにしても、彼は本当に重い皮膚病、イタリア人ではサラートと言われる病気を患っていました。
ところが、この神様の子の当時は、9月の時代から、このサラートと、ちょっと発音難しいですので、
今日、雷病にしません。決して悲しく言うつもりではありません。
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この雷病という病気は、その当時の考えとしては、その人が何かとても悪いことをしたから、あるいは先祖とかが悪いことをしたから、
その罰で本当に癒やしたことができない、といった病気になったというふうに、みんな間違った考えを持っていました。
そして、当時のイスラエルの風景には、この雷病になっている人は、そうでない人に近づくことはできない。
逆に健康な人が、その雷病の人のところに近づくこともできない。
仕事を持つこともできなくて、家族と一緒に過ごすこともできない。
その街に住むこともできない。とても不幸な人々でした。
ところが、もう治してもらったらいいじゃないかと思うかもしれませんが、
当時はこの雷病の人は、医者すらも近づくことができなくなっている風習がありました。
そして当時、こういう病気にかかった人は、街を何かどこかに行くことがあるならば、大きな声で
「私は雷病だ。私は雷病だ。近づかないでください。道を開けてください。」という風に、大きな声で叫びながら歩かなければならない。
そういう風な、本当に不幸な人々でした。
ですから、結婚をすることもできない。子供を持つこともできない。
友人関係すら築くことができない。誰も関わりを持ってくれない。
話しかかけてくれない。ある意味、捨てられたような人生、本当につらい人生でした。
この人がおいくつなのかは知りませんけれども、彼はきっと長い間、この病気のゆえにあらゆる関係が騙されて、
寂しくて、つらくて、孤独の中に閉じ込められて、ここまで生きている。
今日のルカの福音書、5章12から14章に書かれているこの書き方は、市役生徒には4つの福音書がありました。
マタイ、マルコ、ルカ、ユファネコという福音書が4つありまして、その中にマタイ、マルコ、ルカ、この3つの福音書にこの記事が書かれているんですね。
特にこの記事だけではなく、市役生徒の福音書をよく見たら、家様が病人たちを癒してくださったストーリーが多く書かれているんですね。
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それは実際に家様が病気を癒してくださったことであります。
そして同時に、そこには私たちへのメッセージがあります。
それは、家様は私たちの体の病気だけではなく、心の病気も心の痛みも治してくださる。
それがお出来になる方であるということのメッセージなんですね。
今日のこの男の人のお話を、彼が癒してもらったこのお話を、皆さん、私たちに、皆さん一人一人にそれを適用していただきたいと思います。
もちろんですね、私たちはこんなに重い腫瘍病にはなってはいないと思うんですけれども、
ところで皆さんは、皆さんの心や精神の健康度はいかがでしょう。
とても健康でしょうか。
そしたら感謝してください。そして弱い人々を助けて差し上げてください。
しかし、もしも少しでとでも、人には言えない弱さを持っている。
振りがあったり、傷があったり、あるいは痛みを持っている。
もしも少しででも、そういったところが終わりできたら、今日のこの御言葉に耳を傾けていただきたい。
そして癒やしと回復の恵みを味わってほしいです。
今の時代の多くの人々には、特に心の病気が多くあるのではないかなと思います。
その中に一つは、劣等感というものではないでしょうか。
簡単に言いますと、あの人は優れているんだけど、僕はもう優れていない。
ダメだと思う環境ですよね。
ところで皆さん、この劣等感というものは、人との関係を壊し、またそれが神様との関係も壊すことになります。
聖書は、生きる神様はそう思ってはれない。
あなたは高価で尊いものである。私はあなたを愛っている。
と神様は語ってくださっておられますし、また認めてくださるんですね。
ところがですね、劣等感を持っている人々はですね、そう語っていても、聖書が語っていてもですね、
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神様はその話は違いますよ。あなたは違いますよ、ということ。
あなたは私を作った時に、もう居眠りして作ったじゃないですか、とかですね。
思うことではないでしょう。
僕を凌げて完成してくれたのは初めてですか。とても嬉しいですね。
皆さん、こんな劣等感というものはですね、自分の価値をあまりにも低くして、低くしてしまって、
もうそれで終わり、名乗りはなくですね、またこれがですね、他の人を引きずり下ろしてしまうこと。
この妬みが働くわけなんですよね。
誰が見てもですね、とても健康で健全な体を、才能、能力を持っている。
そして愛されている、実際に。だければですね、その価値を気づいていない、わからない。
それでですね、なかなかうまく社会生活もできない。
神様との関係を怖ぐこと。そういうことなんですよね。
もう一つは、痛みの経験があるかと思います。
小さい時に親が離婚したりとか、あるいは小さい時に子供向きに誰かから虐待をされたとか。
あるいは本当にトラウマのような大きな事故にあわされたりとか。
そしてそれを忘れたらいいんだけれども、忘れられないで、心の中にその痛みの経験を抱えたまま生きている。
そういう人々があるのではないでしょう。
これは傷になって、その痛みのゆえにですね、またそれが人との関係、神様との関係をなかなかうまく気づいていくことができない。
そういうことなんですね。
三つ目は、恐れというものがあると思います。恐れ。
いつも自信がない。恐れる。失敗を恐れる。全然起こるはずがない。
あるいはまだ起きていないことをですね、もうそれを先取ってですね、恐れたりして、関係の難しさを経験していたりする。
そしてですね、恐れているから、この人に好きになってもらいたい。この人に愛してほしい。この人に認めてほしいと思ってですね、頑張りすぎる。
そしていつも人の目に気にしていること。
実はその心の中に恐れという感情があるということなんですね。
皆さん覚えてほしい人生の報告が一つあります。
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皆さんが誰かを恐れている。そしたらあなたが恐れる人に、あなたの人生を支配させることになります。
聖書は明らかに語っております。
あなたの神、主を恐れなさい。人を恐れぬのではない。魂を滅ぼされる神を恐れなさいと聖書は語っております。
四つ目。裁く態度があると思います。
指導を裁くことです。簡単に言いますと、私は正しくて、あの人は間違っている。
だから私は正しいから、あの人は間違っているから、関わりを持ちたくない。協力したくない。拒むことです。
ところが皆さん、これをご存知ですか。
イエス様はですね、ほとんど人々からは間違っていると思える人々と関わりを持って共に過ごしました。
彼らと関わりを持って、交わりを持って、話し合いをして、福寿を共にして、親族を共にして、
それがイエス様のライフなんです。
皆さんもしですね、私が心の中に誰かを裁く態度、それがもう染み付いて癖になっているんだったらですね、
それが人との関係を、神様との関係を壊すことになります。
裁く、裁きは神様の仕事だからです。神様の領域なんですよ。
誰か、それが家族であり人であり、誰かを裁くという行為はですね、いわゆる越権行為にあたります。
神様、あなたはもう何もしなくていいから、もう私が裁くからということになります。
ところが皆さん、私、みんなは家族と、あるいは友達と、みんなと神様と美しい、麗しい関係を築きたいとみんな願っているんですよね。
愛したい、愛されたいと願っているんですよ、みんな。
いや、そうではありません。私は誰とも関わりを持ちたくないです、という人がいるかもしれませんが、口先ではそういうかもしれません。
しかし、心の中にはそう思っていないですし、愛を必要としていない人は一人もいません。
なぜでしょうか。神様は私をですね、愛するものとして、愛されるものとして作られたからです。
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だから、みんな、皆さん、たとえばですね、みんな誰かを愛するときに幸せになります。そうでしょう、皆さん。
また、誰かに愛されるときに幸せになるんです。
今はですね、最近はあんまりしないんですけどね、うちの子孫がですね、よくよくですね、何もないようにですね、
いきなりですね、お母さんに抱かせて、お母さん大好き、お母さん大好きって、よくよくしょっちゅうするんですね。
お母さんの愛を欲しがっているかわかりませんけどね。
人は、自分が愛されていると感じるときに、幸福感、安定感、平和を感じます。
神様がそのような存在として作られたからですね。
皆さんはどうでしょうか。
今日、今、申し上げたいくつかの中でも、もし心に当たることはないでしょうか。
今日も出てくるこの男の人は、長い間、おそらくですね、自分はこの重い休婦病で、友達もいない。
街に住むこともできない。
誰かと一緒にですね、ご飯も一緒に食べたいんだけれども、相手にしてくれない。
俺の話を聞いてくれないとですね、本当につらい日々を送ってきたことでしょう。
ところが、この人にアメージングなことが起き始まりました。
そこから噂を聞いていた、イエスという人が、そこに来る。
そしてその方は、多くの人々のその病気を、悪霊を抱きて病気を癒してくださったという噂を、彼は耳にしてですね、
いや、この人だったら、きっと私に近づいてくれるかもしれない。許してくれるかもしれない。
この人だったら、私を治してくれる力があるかもしれない、と彼は思ったんですね。
ところが、イエス様が癒すことができたとしても、イエス様が自分のことを癒したいのか、それはわからないんですね。
でも彼は、とりあえず行ってみて、もう叫んでみようと思いました。
そして彼はこのように言いました。
十二卒のですね、三行目の須与との、彼の言葉を一緒に読みたいと思いました。
須与からですよ、三拝。
須与、お心を一つで私を清くしていただけます。アーメン。
これですね、もっとわかりやすくですね、神教ブラスト聖書はこのように記しています。
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須与、御心ならば、私を清くすることがお出来になります、と願った。
言い換えますか、皆さん。こういう話ですね。
イエス様、あなたは私を癒したいと思っていますか?私を癒してくれますか?
もしあなたがそうしたいと思っているなら、俺の病気は癒されます?という話。
この男の人は、イエス様に叫んだこの言葉を心に覚えていただきたい。
須与、御心ならば、私を清くすることがお出来になります。
私たちがイエス様に、実は皆さんがイエス様に話したい、心の奥底から話したい、
私はこの話しようのではないでしょうか。
須与、御心ならば、私を清くすることがお出来になります。
イエス様のことですね、とてもアメージングなことを流れました。
それは13節、もう一度一緒に読みたいと思います。13節。
イエスは手を伸ばして、彼に触り、すると、そのザラッとは消えた雨。
ここにですね、イエス様は何をされましたか。手を伸ばして、手を伸ばして。
皆さん、私たちの人生に起こるですね、アメージングな地区の地下とはですね、
まさしくイエス様が私に、皆さんに、あなたに、愛の手、癒しの手、許しの手、恵みの手を差し伸べてくださることではないでしょう。
ここから始まるんです。イエス様が愛の手を、癒しの手を、祝福の手を、恵みの手を差し伸べてくださること。
この手に触れるときに、アメージングな癒しが起こるんですね。
この記事をマルコの記事には、イエス様が彼を見て哀れに、哀れまれたとあります。
そのもともとの意味は日本語にもあります、腹当たりが切れる、そういう意味。
でも、辛く、その彼の痛みを、その辛さをイエス様が、もう腹当たりが切れるほど痛まれた、哀れまれた、そういう意味なんですね。
それがイエス様の心ではないでしょうか。
皆さんを、一人一人のイエス様がご覧になるときに、
単なる、かわいそうだな、単なる軽い同情ではなく、腹当たりが切れるほど、痛みを共に背負ってくださる愛のイエス様なんですね。
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その愛の手を、癒しの手を伸ばしてください。
皆さん、生徒に言ったらですね、イエス様が手を伸ばして、手を伸ばして、そのときにアメージングなことが起こります。
悪霊が追い出されたり、38年間の病が癒されたり、その恵みが、奇跡が起こるんですね。
どうか皆さん、今日、イエス様が、今、このとき、このところで、皆さん一人一人に、愛の手を、癒しの手を、救いの手を、救くの手を差し伸べて、伸ばしておられますよ。
その手に触れていただけないでしょう。
イエス様のタッチオフ、OK仕様ではありません。
この人はですね、数年の間、あるいは数十年の間、この辛さ、毒さ、寂しさ、それをイエス様がタッチしてくださるんですね。
ただの重い痛風病だけをタッチしてくださったのではなく、彼のその辛さ、痛みを、どうしようもないその気持ちを主がそれにされてくださった。
それをタッチしてくださったんですね。
そしてイエス様は、その彼の代わりに、痛みと寂しさを背負ってくださったんですね。
先ほど申し上げたように、この当時、この大病の人々には、誰も近づくことはしないんですよ。
触ることはそんなことをしないんです。
ところが、健康なイエス様が、先に近づいてきてくださいまして、先に手を伸ばして、先にプッと触る。
ここにはですね、深い意味があるんですね。
どういう意味でしょうか。
イエス様のタッチには、あなたがいくら汚れていても、汚されていても、いくら壊れていても、私は大丈夫、どうでもいいということです。
私はあなたをここからあちらへ、全く新しいものに変えることができるんだよ。
私はあなたを癒やしたいんだよ、というタッチなんですね。
あなたが今までどういう人生を歩んできたとしても、今までと全く違う人生になってほしい。
今までと全く違った神様と新しい関係にあって歩んでほしい。
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人々との関係、神様との関係、とても素晴らしい関係を築いてほしいんですよ。
それを私が与えるよ、というタッチなんですね。
だから、アメージングなタッチ。
そのイエス様がこの朝、今日おいでになった皆さん、お一人お一人に語ってあげる。
あなた方がいくら壊れていても、あるいはいくら汚れていても、
いかに大きな悲しみを持っていても、いくら大きな傷を抱えていたとしても、
私はあなた方を癒やすことができるし、またその癒やしを与えたい。
新しい人生を与えたい、とイエス様が語ってあげる。
皆さん、神様はイエス様ですね、壊れたものを全く新品のように治すことができる名人なんです。
そして、また大事なのは、イエス様が今日、二人ともイエス様を願っておられるということなんです。
皆さんいかがでしょうか。
イエス様が皆さんに新しい人生を与えたいと願っておられます。
それをお受けしたいでしょうか。
新しくしてもらいたいでしょうか。
そしたら、イエス様の心を、その差し伸べられた手を掴もうでありませんか。
皆さんのものにしようでありませんか。
そしたら、必ず全く新しい人生に変えられます。
イエス様は手を伸ばして、彼に触って、こうおっしゃいました。
私の心だ。
イエス様の心もですね、この人を癒やしたいと願っておられました。
私の心だ。強くなれと言われた。
すると、どういうことが起こりましたか、皆さん。
すぐにその意識、そのザラートが消えた。
雷病が消えた。癒やされました。
治りました。アメイジング。
治りました。癒やされました。
ところがですね、この記事はここで終わりではありませんよ。
この人がもう癒やされて、やった!それで終わりでありません。
その後の話が実はイエス様が語りたかったです。
14節一緒に読みたいと思います。すみません。
14節もう一つ読みましょうか。
イエスは彼にこう命じられた。
人々への証のため、もう手が見えたように、あなたの清めの備え物をしなさい。
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この14節をですね、イエス様の話を簡単にわかりやすく話をすると、
あなた、もう癒やされたから、祭祀に行って、あなたが癒やされたその証明書をもらえない。
そして神様に評価に行って、礼拝しなさい。
どういう意味ですか。
イエス様の罠でですね、あなた、あなたのこの大病が治ったこともいいんだけども、
それよりあなたに起きたもっとアメイジングなことは、あなたが神に礼拝できるようになったことでしょう。
この人は今まで人から避けられた人でした。
礼拝したくても礼拝できなかった人でした。
できなかったのかしなかったのかすら知りませんけれども、
その人に、この人生にアメイジングな二つのことが起きました。
その一つは、このあなたの病気が治ったこと。
そして二つ目は、神に礼拝できるようになったということなんですね。
一つ目も大事ですけれども、二つ目が実はですね、最も大事なことではないでしょうか。
この人は、イエス様のアメイジングなタッチによって、全く新しい人生が始まりました。
この人の人生はですね、その後どうなったのか、生前が記録されているのでわかりませんが、
増後に推測できると思います。
癒やされたからですね、全く癒やされたから仕事もできるようになったでしょう。
また恋人もできて、結婚もしたでしょう。
子供もできて、家庭もできたでしょう。
神様に礼拝するようになった。
そして友達と一緒にですね、同じ漢字を聞くことができる。
神様との関係を築くことができる。
きっかけですね、彼はイエス様をですね、もう伝える、宣伝するものになったと思うんですよね。
一言で言うならば、神様との関係も、人との関係もアメイジングに変えられたということなんですね。
皆さん、あくまでもこのように生きたいと思いませんか。
神様との関係、人との関係の中でですね、アメイジングな素晴らしすぎる祝福を味わいたくないでしょうか。
イエス様は、この男の人の人生と病気を癒してくださったことのように、
イエス様は今、皆さんの人生を、その心の病気を、あるいは体の病気を癒したい、治したいと、
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私の心が強くなれと、イエス様は話しておられます。
イエス様がそうしたいと願っておられることが、もっとも大事なことなんですよね。
そしてイエス様は実際に癒やすことができるお方であらる。
ところがですね、今日のこのストーリーから学ぶこと、三つがあります。
まず一つ目は、謙遜ということです。謙遜。
皆さん、普段ですね、私たちが謙遜をかかるときに、いやいや、私はできません、できません、あの人はできますし、あの人はもっとうまいですよ、
それは謙遜ではありません。ただ、そのことから避けたいだけなんです。
十二節をもう一度ご覧下さい。
彼の態度、彼の姿勢を注目したいですね。
例えばイエスがあの町におられたとき、前身ジャラートの人がいた。イエスを見ると、その次ですよ。
司令布してお願いした。
主よ、お心一つで、ここまでです。
謙遜というものは、イエス様の御前に行って、自分のことを隠さずにありのまま表現することなんです。
そしてイエス様の御前に司令布してお願いすることです。
実はこれが謙遜なんです。
もし皆さんが悲しみの中にあるならば、その悲しみを丁寧に表現すること、それが謙遜です。
もしありがたいと思っているならば、そのありがたさを、感謝を表すことが謙遜です。
何かすまないことがあるなら、申し気ない。
すみませんとごめんなさいと謝ること、その心を表現することが謙遜です。
そしてもし、この男の人のように、心の病を、日々を、キスを、何か問題かばいを抱えているならば、
それを主の御前に司令布して、主は私の心に、私の人生には、このような、こういった、こういった傷を、弱さを私が抱えていますと、
イエス様に言い表すことです。そして助けを求めることです。
ありのまま。これが皆さん、謙遜なんです。
ところが皆さん、私はですね、自分の弱さを、自分の足りなさを、それを言い表すのがちょっと怖いんです。
ためらいます。しかし、謙遜な人は、神の御前に司令をして、神様、私は壊れています。私を治してください。
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こういうふうに言い表すことが謙遜なんです。
主よ、私の心を治してください。私の壊れた関係を治してください。私の心に平安を、喜びを与えてくださいと、
司令をしてお願いすること、これが謙遜なんです。
そしてもう一つの謙遜な態度が出てきます。
お心一つで、近畿大学の生徒によりますと、お心ならば、お心ならば、つまりイエス様がそうしたいと思うならば、
これが謙遜な態度です。神の御前に協力していないんです。高ぶっていないんです。
まず、イエス様のお心がどうなのか、それをお尋ねする、これが。
大きさ尋ね、信仰です。この人はとても素晴らしい信仰を持っています。
私を清くしていただけます。
新教宅生徒の言葉は、さっきもう一度申し上げましたように、私を清くすることがお出来になります。
あなたは私を清くする、癒やすことができます。その力があなたにあります。
すると、彼はそれを疑わなかった。信じていなかったんです。不確信していました。
彼が心配しているのは、イエス様が癒やすことができるかできないかではなく、
今イエス様の心が癒やしたいと願っているのかどうか、それがただ気になっているだけです。
皆さん、私たちもこの男のような信仰が持ちたいです。
イエス様、あなたは私の人生すべてを全く偏見のように、新しいものに強くすることがお出来になります。
壊れた関係を直すことができます。この心をお持ちいたしましょう。
そう、イエス様の御前に比例をして、お願いを言い表す時に、イエス様は共にその痛みの辛さを背負ってくださる。
背負ってくださるだけではなく、手を伸ばして、触って癒やしてください。直してください。
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それを信じることが信仰なんです。
ところが、こう思う人がいますと、イエス様に何もかも任せっぱなしのは、それはひどくないでしょうか。
そんな弱虫のような人にはなりたくない。自分の人生にちゃんと真を持つべきではないかと思う方がいらっしゃるかもしれません。
そういうのを持てると思います。
しかし、信仰というものは、主よ、お心ならば、あなたは私を強くすることが、壊れた関係を、壊れた我の人生を、あなたは直す、癒やすことがお出来になります。
私の心も精神も霊も人生も、直すことがお出来になります。それを委ねることです。
信頼することです。それが信仰なんです。
ですから、信仰の反対側は、信じないことというより、私はこの病気のまま生きるから関わりしないでくれ。
私はこの私の人生、心もふにゃふにゃのままで生きるから、どうでもいいから、そういうふうに思うことが実は、
皆さん、どうかイエス様を信頼しようではありませんか。あなたの人生を誘うではありませんか。新しい人生が始まりますよ。
三つ目は、新しいライフスタイルです。
イエス様はこの人に言いました。最初に生きなさい。そして、恋愛しなさい。つまり、神様と共に新しく出発してください。
これから、あなたの新しい人生が始まりましたよ。もう始まっていますよ。その人生を思いっきり喜んで楽しんでほしいという、イエス様のお言葉です。
だから、この人の人生に新しい出来事は、思い、思風病が癒されたことだけではなく、神を礼拝する生き方になったということです。
これは皆さん、実は我々の人生において最も大事なことなんです。今まで神を恋愛していなかった人、その人が神を礼拝する生き方に変えられた。
皆さん、イエス様が皆さんの人生に関わりを持ってくださる。そのことが始まるとしたら、めんどくさいことが起こるのはありません。
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新しいプロジェクトが始まるんです。壊れた負担が治る。傷ついた人生が癒される。咳かれたこの目が開かれる。
だから、イエス様の新しい生き方に協力していくんです。協力していく。任せていくこと。
一つ一つ一緒にいただきたいと思います。同じいる可能性につきましょう。
五章三十一節。次のページですね。今日のメッセージは、聖書の数の続きの結論のようなイエス様のお言葉です。
五章三十一節、三十二節、一緒に読みたいと思います。
三、そこでイエスは答えて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。
私は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔やためさせるために来たのです。
皆さん、イエス様は言われました。医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。
つまりイエス様が来られたのは、丈夫な人のためではなく病人のためです。
ところが我々は、自分は病人とは思わないんです。健全かつ健康だと思っている。
日々なんて、傷なんて、そんな話をしないでくれと思うんです。
正直に自分自身に向かい合って考えてみれば、傷も多くて、日々も多くて、課題も多くて、そういう我々なのではないでしょう。
皆さんの心はとても健康ですか?そしたら神様に感謝してください。
そして弱い人を助け上げてください。しかし少しでも霧がある、岸がある、岩砂を抱えている、壊れている部分があるんだったら、
懸賞に、主の御前に比例をして、お願いをして、主よ、お心ならば、あなたは私を強くすることがおできになります。
とお願いするわけではありませんか。
そうしますと、その時に、主のアメージングな愛の手、癒しの手を、主が伸ばしてくださって、タッチしてくださる時に、全く新しい人生が皆さんにとって始まります。
皆さんの心は、皆さんの霊は健康ですか?お祈りいたします。