00:00
開かれている見言葉により、ホーリネスから宣教へ、という題にして、鎌野先生に見言葉を取り付けさせていただきます。お願いいたします。
鎌野直人でございます。昼も続いてお残りくださった方も、昼から来てくださった方もおられて、本当に感謝しております。
いつも、どの教会でも思うんですが、2回説教するときに1回目に人がいるけど、2回目で誰もいなかったらどうするんだろうという、
牧師の悪夢というのがありまして、高台に立ったら裸だったとか、そういうあれはありますが、実際そんなことは起こったことはありませんが、
皆さんがおられるというのは、本当に心から感謝しています。本当にこの25年のお祝いのときに、午後の政界にもご用意させていただく巡りを覚えて、心から感謝をしています。
その宗法の表紙を見ながら、私はこのときにはいなかったので、この場所にいる人間ではなかったんですが、
こうじっと見ながら、村上さんおるなというので、村上さんの名前を覚えていられる方と覚えていられない方もおられると思いますが、
一番最初のときに、本当に様々な形でここの近所として働いてくださった兄弟の姿を写真で見て、
懐かしいなと、先ほどもちょっと藤林さんと村上さんの話をしたりもしておりましたので、本当に神様がいろんな方々、
もちろん一番前に立っておられる藤原先生もあるんですけれども、
様々な方々を用いて、明大根教会をこの25年間、この場所で25年、それ以前の、本当に明大根南会館とか、電動車のところですね、大変だったという話も、
私もそこにはいなかったですけれども、ここにおる間に何回も聞かせていただいて、その大変さも覚え、教えられました。
あの場所を行って、ここだったのねというので、見たことも何回もありましたので、懐かしいことでありますし、
この場所でも本当に6年間経験させていただいた中で、いろんなことがあることを思い出しながら、
その当時ご一緒にさせていただいた兵田島の方々もおられますし、それからこちらに新しく加わってくださった方々もおられるし、
その時には教会に来られないなという方が教会に来られるなんて嬉しいなという方々もおられたり、
9年間というのは神様の憐れみの9年間なんだなということを改めて、
今日来させていただいて感じています。
本当に20年、5年間守られたということは、同じ神様がこれからも守り続けてくださるという、
本当にその信仰に私たちはいただいて、頼んでいくことが大事だよなということを感じています。
03:03
本当に何か懐かしいなという、そういう気持ちがすごく蘇ってくる場所であります。
ここには午前の続きからお話をさせていただこうと思っています。
午後から来られている方もおられると思いますので、少し話を戻しながらお話をさせていただこうと思っています。
一言いただいてください。
神様、本当にこの明治谷教会をあなたが守り導いてくださり、
最初は本当に神戸西部教会の少女先生また多くの方々の中であなたがビジョンを与えてくださり、
そのことを通して本当に様々な方々が労使を働き、そしてこの教会が本当に始まりという会が続けられ、
そこに多くの方々が集い、様々な戦いの中も通りましたが、この場所が与えられて、
ここでの伝説の始まり、そしてこのところで本当に他の上に立つ教会としてあなたが導いていってくださったことを、
そしてこの場所において、この街道において25年を迎えることができたことを感謝をいたします。
一方的なある意味であることを覚えます。
それと同じ神様が、ここまで守ってくださった神様が、ここまで導かれた神様が、
これからもこの教会を導いてくださることを信じて、本当に心から感謝をいたします。
この暫くの午後の正会のとき、どうぞもう一度、御言を通して私たちにあなたがお語りくださって、
私たちをさらにあなたが用意してくださっているところへと進むことができるよう助け導いてください。
イエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
ずっと御伝とここでエペソービトへの手紙のところからお話をさせていただいています。
御伝では、ややこしい説教題でごめんなさい、本当に。
宣教から法令にしてという題でお話をしました。
天と地を一つにするというその目的のために神様は、イエス・キリストを贈り、
イエス・キリスト御自身のうちに御自身の絶大な力を注がれて復活と昇天の業をなしてくださり、
そして信仰が与えられたものにこの絶大な力をキリストを通して注いでくださった。
私たちを作り変えてくださったのは、この2000年前にイエス・キリストにおいて素晴らしい業をなしてくださり、
そして信仰によって私たちにそれを注いでくださった神様である。
神様の御業、神様の宣教を通して私たちのうちに、
ホールデンス・キヨヘサへの歩みが始まったんだという話をさせていただきました。
本当に私たちはその神様の素晴らしい御業、もう驚くようなことをしてくださる、驚くほどの神様の御業、
その恵みに目が開かれているだろうか。
言うならば御伝において私たちが神様から憧れるのはそこではなかったかと思っています。
ここ、この時、大体今からのこの2時間というのは、夜の2時から4時と、昼の2時から4時は全部たくなる時間になります。
06:04
寝てしまわれてもいいんですけれども、しっかりと起きて聞いていただけるような話をしなければいけないんですが、
この午後のたぶん45分くらいのお話を考えていますが、
じゃあ私たちがそこからどのように進むのか。
すべては恵みにより信仰によるのである。
私たちの信仰ぞれは神様が与えてくださった恵みであり、神様が与えてくださった信仰による。
そこから私たちが、じゃあ答えていくのはどういうものなのか。
そのことについてご一緒に考えていきたいと願っています。
私たちが忘れてはいけないのは、全部神様が成してくださった業であり、神様が成してくださる業であるという隠すことのできない事実です。
でもその神様はその業をして、じゃあそれでもういいからと私たちをほったらかしにされる方ではありません。
私たちのうちに素晴らしいことをしてくださった方は、私たちのうちに喜びを与えてくださり、
私たちのうちに力を与えてくださり、そしてその喜びと神様が与えてくださった力の上に私たちを創り継いでいってくださる。
ですから与えられているから、こんなのもらってうれしいなとスキップしたがらですね、私たちは、じゃあ何を神様が私にできますか。
それが実は私たちの愛意です。
もうこれだけいただいたら何かせなあというですね。
もらうたびに頑張って、これだけもらったらもう何かせんといてもたってもいられませんわと。
そういうのが私たちの具体的な愛意です。
頑張るのはあかんじゃないです。
もうこんだけもらったら何かせな申し訳ない。
本当にそういう押し出されてさせていただく愛意です。
そこで私たちに大事なのが四章の一節に書いてある一言です。
召されたあなた方はその召しにふさわしく歩みなさいという一言です。
神様が恵みにより信仰による復位を与えてくださった。
イエス・キリストに素晴らしい技をして私たちの血に信仰を与えてくださった。
それはもちろん罪の中で苦しんでいる私たちが哀れでかわいそうでそんなダメな私たちを何とか命を与えてあげようというそういう思いからではありますか。
しかしそれだけではないんです。
私たちを召してください。召すというのはどういうことかというと招待する、証明、使命を与えるんです。
あなたに生きる目的とあなたのするべき仕事を私は与えたいんです。
09:02
生きる目的とするべき仕事を与えたい。それをあなたに与えるためにこれだけの豊かなものを与えるんだ。
与えられた使命、その召しにふさわしく歩む、ふさわしく生きるように私は全部注いでいるんだよと言っておられる。
フレッシャーな望みは死んだとき天国に行くことができるそういうことでしょう。しかしそれだけではない。
私たちが今生かされているときに、私たちに神様が与えてくださった使命、証明、召しにふさわしく歩むため。
今このときに何かができる、そのためにも召してくださっている。
死んで天国に行くだけであるならば、死ぬ直前に優先したらいいわけです。もちろんそれもそれで素晴らしいことです。
けれども、それよりも早くイエス様を知って、イエス様を信じて歩んでいる私たちというのは、
実は神様が使命を与えてくださって、生きる目的とゴールとするべき仕事を与えてくださっている。
具体的には召しにふさわしい歩みというのは何でしょうか。それが4章の3節です。
平和の絆で結ばれて、二玉の一致を熱心に保ちなさい。
実は神様がイエス様に偉大な力を注いでなされたのは、平和を生み出すためでした。敵対するものがたくさんあった。
バラバラになって敵対するものがたくさんあった。2章を読んでいただくと書いてますが、
違法人とユダヤ人という民族間の敵対ということが一つの大きなテーマでした。
敵対しているものは愛。異なるか故にお互い憎み合っているものを、その憎しみを解消して平和を与えて、そこに一つの神の民を生み出された。
どこの民族だとかどこのお前だとかどういう人だとかそんなに関係ない。
信仰というものが与えられた一つの民を神様は作り出してくださった。
神様があなた方を一つにしてくださったんだから、その一つであることが目に見えるように身に見え続けるように努めて歩みましょうというのが私たちの熱心なんです。
この言葉よく注意深く読んでいただきたいと思うんです。
見たもの一致を熱心に保ちなさい。保ちなさいということは既にあるんですよね。
全然一致は何やってもみんなバラバラなんです。一致がないんです。一致がないところに一致を作り上げる。
そうしなさいよって神様は言っているんじゃないんですよ。
聖人は言っているのは、一致を保つように努力しなさい。全部同じです。
神様が一つにしてくださっているんです。
12:03
私はあなたと一緒じゃない。そんなん知りません。
私があなたと一致していればそんなん関係ない。
神様は私たちを一つにしてくださっている。それを既にあるものが目に見えるように取り組んでいきましょう。
それが神様の私たちへの招きです。
だから教会の一致とかよく言われるんですが、それは一致がないから一致しましょう、一致しましょうという言い方をするんですが、間違いない。一致はあるんです。
神様が既に作っておられるんです。
2000年前イエス・キリストのうちに作られたんです。
それをそれぞれのところで目に見える形にしていくために、私たちは何ができるか神様から教えられましょう。ということなんです。
では具体的に何が大切なのか。
人格です。四章の二節にそれが書かれています。
謙遜と入和の限りを尽くすというのは、皆さんにとって考えられる一番最高の謙遜と入和を身につけなさいということです。
謙遜というのは自分を低くするということです。
入和というのは自分が何か素晴らしい人物だとか特別な人物であるかのように振る舞わないということです。
私たちが謙遜でなかったり入和でなかったりすると誰が起こるか簡単です。
もし私たちが謙遜でない入和でなかったら私たちがすることは何か。それは自分の意見と自分の考えを通すことだけが能力になります。
私はこう考えているから皆さんこうしなさい。
謙遜と入和がないとこれが人生の目的になります。
自分の目的、自分の意見が通すことしか考えなかったら、自分の意見や考えに反対する人、自分の意見や考えに疑問を持つ人、
自分の意見や考えにこれはこう直してよと修正を求める人に対して、いやそれは違うよ、あなた間違ってるよ、あなたは敵だよと。
私の意見、これが正しいです。
謙遜と入和がないとそういうふうになってしまいます。
でも謙遜と入和の限りを尽くす。あなたが想像できる謙遜を考えてください。あなたが想像できる入和を考えてください。
それの最高のものを出すようにしてみましょうと言っている。
逆に言うならば、私は間違っているかもしれないという思いを持つ。
私は学ばなければいけないことがたくさんある。私には知らなければいけないけど、知らないことがまだまだたくさんあるんだ。
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そのことを思って人に向き合うということです。
その人について私が全部わかっていると思って話をしたら、誰も聞いてくれません。
謙遜と入和の限りを尽くすというのは、この人について、このことについて、このみんなで一緒にやろうということについて、私は他の人から教えてもらわないといけないことがきっとたくさんある。
それを築くために進んでいこうと、向き合っていくということです。
あれが難しいですよね。新学校の教師なんかしてると、お前らわかってないだろって、いつも上から目線で話をしますので、
学生から教えられるなんて謙遜と入和はない。校長になってしまうという、それも必然性があります。
じゃなくて、私も教えられなければならない。それが謙遜と入和の限りを尽くして生きていくということです。
もう一つが、寛容を示しということです。
寛容というのは、まあ何でもいいよとか、みんな何でも来なさい、来なさい、何でもOK、何でもOKというふうな、そういう意味ではありません。
忍びたえて、忍耐をして、結果を待つということです。寛容という言葉よりも、ここは忍耐と訳したほうがいい言葉です。
私たちはイラチです。私もイラチです。自慢じゃないですけどイラチです。自慢してますが、時間をかけて自分の何かについて待つ、他の人の何かを待つ、
そういう姿勢が寛容、忍耐です。結果を急がない、一致を守り続けましょう、すぐ一致ができなあかんというのは、すでに寛容じゃないわけですよ。
一致を作るためには時間がかかる、一致を保つためには時間がかかる、労力がかかるんだ。神様それを耐える力を今日も与えてくださって、それに向かって今日できることをさせてくださいが、寛容を持つ。
そして、謙遜と仁和の限りを尽くし、寛容を示す人格をいただいていくならば、私たちはその次にある、愛をもって互いに忍び合うことができる。
愛をもって忍び合うじゃないです。愛をもって互いに忍び合う。何が違うか。
愛をもって忍び合うというのは、私はあなたのことをしのんでいるんだよ。あなたのことを我慢してあげているんだよ。私は愛があるからあなたのことを我慢してあげているんだよ、という私たちの態度は愛をもって忍び合う。
愛をもって互いに忍び合うというのは、私もしのんでもらっているんだ。私はあなたのことを忍耐している。でもあなたも私のことを忍耐してくれているような愛はどうでしょう。
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人に迷惑をかけないでいきましょうとよく言いますが、別のこれは違うだろうと言っても、ということは、あなたは人に迷惑をかけているんだから、他の人に迷惑をかけられたら我慢しなさい。
こういう言い方があります。それが正しいかどうか横に置いておいても、愛をもって互いに忍び合う。ああ、私も耐えてもらっているんだ。そのことを覚えて、私も耐えつつ、今できることをしよう。
だから誰も言われません。偉そうなこと言えません。だって忍んでもらっているんだもん。だから喜んで忍びます。私も本当に今まで何年間も何十年も、耐えてもらっているんだよな、ありがとう。
だから私がここで、あなたのこと耐えられないわ、なんて言ったら嘘だよね。愛をもって互いに忍び合う。そのために忍耐と寛容と謙遜が私たちにはいつも必要なのです。
こういうふうな姿になっていくというのは、今日、例えばこの政界みたいなものに出席して、今日お話を聞いて明日から私たちが毎日忍耐をもって、愛をもって互いに忍び合うことができるようになるなんていうのは思わないでください。
そんな簡単に、今日聞いてああいい話になったから私は明日から変わって忍耐と寛容の人になるんだ、互いに忍び合うんだ、そんなもんじゃありません。
だって人間関係ってあえているんです。私がもし今日すぐ変わったとしても、あえて変わらないです。
だいたい私が今日変われる、そんな簡単に変わってたら苦労しないわけです。
さまざまな人と関わっていく中で、私一人ではどうしようもないことを、神様から助けていただいて、少しずつ少しずつ学んでいく。
神様から信仰を与えていただく、それはひとときで与えてくださるでしょう。神様は本当に恵みと荒れみによって私たちに信仰を与えてくださる、御言葉によって与えてくださる。
しかし寝された飯にふさわしく歩む、そのような人格を私たちのうちに作り上げていくというのは、一生の旅路なんです。
そしてそれは一人ではできない。互いに助け合って、忍耐してもらって、愛に思って忍んでもらって、忍ぶことを教えてもらい、忍ぶことを学び進んでいく旅路。
この神様の絶大な恵みに目が開かれた者は、この使命の道を一生歩むように召されているんです。
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クリスチャンという恵みというのは、一瞬で即席でできるイラチでも何でもできるようなものではなく、実に時間がかかるプロセス、相手がいるプロセス、完成は最後まで見えないプロセスの旅路に導け入れられる。
私たちは共にこの旅を歩いて、見た目の一致を保ち続ける、あるものを目に見える形にし続ける旅を共に続けていく仲間なんです。
神様はその度に私たちを押し出すために、二千年前イエス・キリストにおいて、絶大な力をおそぎ、私たちの地に信仰を与えたその力を私たちの地に育んでくださっていた。
さあ、この力があるから、一緒に旅路を歩もう。あなた方の召された道に、ふさわしく歩んでいこうと招いておられるわけです。
じゃあ、謙遜と忍耐、具体的に私たちの日々の歩みのどこに表されていくものなのか。具体的なものです。
謙遜と忍耐と忍耐、互いを愛にもって、互いに忍び合うというのは、考えると遠い道のりです。
宮原さんが遠い道のりを送られたと。雨が降って道が閉ざされると遠い道になっちゃうわけですよね。
遠い道のりです。本当に遠いなと思ったら遠いわけです。どこから行ったらいいかわからないわけです。
けれども、ただ遠い道のりだけど、まず私たちがここから進めば次に進めるという手がかりはいくらでもあるわけです。
どこから始めたらいいのか。身近なところからどこで始めたらいいのかというのが、やはり全ての手紙の中にいくつも書かれています。
全部話し出すと終わりませんから、いくつかピックアップしてお話をしたいと思います。
1つは4章の15節のところに書いてあることです。
4章の15節。愛をもって真理を語り。愛をもって真理を語る言葉です。
真理を語るというのは簡単なんです。正論を吐けばいいんです。これは正しいんです。だから法です。真理を語るのは簡単なんです。
また逆に真理を語らないのもある意味で簡単です。あなたが言っている通りです。あなたが言っている通りです。あなたが言っている通りです。
全部忖度してですね。はいはいはいはいと言っておけばいいわけです。真理を語らないのも簡単です。
真理をただ語っていればいいのも簡単です。ところがここで言われているのは、愛をもって真理を語る。
いいんですね。あんた嫌いかあんた嫌いって言っちゃったら簡単なんですが、相手を生かしその人を支えることに最大限の力を注いで正しいことを正しいと語る。
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そのことを言って相手を潰すために語るなら真理を語ればいい。その人を生かしてその人を助けてその人に命を与えるために真理を語る。愛をもって真理を語る。それにも忍耐と謙遜がなければできません。
相手を見捨てない。相手が理解できるまで待つ。相手が理解できる言葉を選び選び語る。継続して、継続して語り続ける。そうでないと愛をもって真理を語ることはできない。
私たちの言葉が本当に愛をもって真理を語っているか、真理を語るだけか、真理を語らないだけか。そうでない。愛をもって真理を語るという実に難しい道を選んでいるでしょうか。
二つ目の大切なことは、として挙げたいのは5章の15節から6章の9節からまで書かれていることです。5章の15節にこう書いています。
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい。賢い者として歩きなさい。お利口さんになりなさい。神様の知恵をいただいて歩きなさい。
神様があらかじめ備えてくださった良い行いの一つとして、知恵をいただいて賢い者として歩く。でも賢い者として歩くってどういうことでしょうか。
人工知能の頭の中で歩くってそんなことないでしょうね。どうしたら賢い者として歩くのか。
それは実はこの後に賢い者として歩くというので、5章の22節以降ですね。賢い者として歩く例が三つ挙げられているんです。
実は私たちが日々の社会の中で、生活の中で関わる様々な関係の中で歩く。賢い者として歩くことが実は大事な使命の道なんだよということです。
一つ目は一番難しいかもしれませんが、22節。妻達をあなた方は常に従うように自分の夫に従いなさい。
そして25節。夫達をキリストが教会を愛し、教会のために御自身を捧げられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。
夫婦関係。妻が夫に使える。夫は妻を愛する。家庭は使える。家庭は自分のすべてのすべてを愛せのために捧げる。
関係難しいですよね。妻が来ているので、あんまり言うとまた後から喧嘩になるんです。家帰って喧嘩になると困るので。
27:07
難しいですよね。簡単じゃないです。
私も結婚して22年になります。計算間違いしか危なかったですが、難しい。よくわかります。皆さんも結婚なされておられる方、わかると思います。難しいです。
でもそこにおいて私たちが取り組んでいるかなという問いかけはいつも神様は私たちに与えています。
2つ目が6章の1節から。子供たちを主にやって両親に従いなさい。父たちをあなた方も子供を怒らせてはいけません。
これはまた難しいですね。親子関係です。子は両親をもんで両親に従う。両親をもんで主に従うようにする。
父は子を怒らせず、主が自分を備えられた、育てられたように育てていく。難しいです。
これも父親も今私の知恵も反応している方がおられますし、私の子供たち知っている方もたくさんおられるので。
実にこれも話すとたくさんありがある。難しいですね。でも感じていると思います。
決して簡単なものではない。それは私たちが足らないからであり、もちろん子供が足らないからであり、親も足らないからです。
みんな全部理由があります。難しいです。しかしそこを親子関係を関係ないわと言ってしまったら、私たちは賢い者として歩んでいるわけではない。
もちろんすぐ解説できないような問題はたくさんあります。
さっき最初に言ったように、今日正解来て、かえって親子関係が明日からハッピーになるなんて、そんなことは私は一切信じていません。
たくさんありますけど、ほとんどの場合はありません。
けれども私たちがそれを祈りをもって、忍耐と寛容をもって、神様から知恵をいただいて、
ここに関わることも神様が私を召してくださった召しであり、使命なんだと信じて、神様が与えてくださったものです。
神様が知恵を与えて、親子関係において、親との関わり、子供との関係において、私たちが取り組むということは大切であるわけです。
もう一つ登場するのが6章の5節から9節ですね。
奴隷たちをあなた方はキリストに従うように恐れおののいて、真心から地上の主人に従いなさい。
9節、主人たちをあなた方も奴隷に対して同じように振る舞いなさい。脅すことはやめなさい。
奴隷と主人という当時の社会の中の一般的にあった関係です。上下関係のある中で、主に仕えるように仕えていく。
30:00
善意を持って主に仕えるように仕えていく。脅すことはやめなさい。
まさに道活の関係ではないんですね。本当にそれが私たちの職場、地域の人間関係においてどうなのか。
脅す、道活によって相手を自分の思い通りに動かすのではなく、嫌な奴だから適当に済ますのではなく、
その中で神様、忍耐と謙遜を与えてくださって、新たな知恵を与えてくださって、ここで私が疲れていくというのはどういうことなんですか。
一つ一つでいいですから教えてくださいと取り組んでいく。
つまり知恵、賢い者として歩くというのは、私たちが生きているあらゆる社会の関係を見直して、その関係の中に神様の知恵をいただくということです。
あらゆる人間関係、たくさんの者が生きているわけです。それを全部見直して、神様ここにどうしたらいいんですか、私は愚かです、わからないです、
あなたは力を与えて、知恵を与えてくださって、導いてくださるんですから、どうしたらいいですか、忍耐と謙遜を与えて、導いてください。
教会でも法師を大切にします。教会でもいろいろあるでしょう。けれどもそれとともに大事なのは、教会の中で何かするとともに、
夫婦関係、親御関係、職場や地域の人との関係をどのように生きるか。私たちはそういう現場に生きているその中で悩んだらいいんです。
祈り、考え、そして選んでいく。神様、今私に与えられている最大の選択、ベストの選択を指してください。それを選んでいく。
失敗する場合もあるんですけど、でも選んで、選んで失敗したら、また学んで神様知恵を与えてくださいと、謙遜と忍耐をいただいて取り組んでいく。
教会はそういう働きが日々できるように支えていく。家庭において、職場において、そのように選んでいくことができるように支えていくのが教会の働きである。
互いに祈り合い、相談し合い、こうやったらいいんじゃない?時にはずれの助言もありますが、あたりの助言をしてあげて、助けて。教会が送り出して、家庭で、職場で、それぞれの地域で賢い者として歩くことができるように助けを送り出していくのが教会である私たちのそれぞれのそういう現場の中で賢い者として歩いていく。
教会はいつも私たちが日曜日、ここから出ていくとき、私たちは教会で力をいただいて使わされていく。ご夫婦で来ている方々も、家族で来ている方々も、集められて、使わされて、そこでそうだよね、夫婦であったとしても家族であったとしてもそうだよね、何とかやっていこうぜ、並んでいく。教会は使わされていくところであります。
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3つ目に大事なこととして挙げておきたいのは、6章の11節のところに書かれている、悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい、というところです。この後、神の武具を身につけて戦いなさいということが書かれているわけです。
その後、いろいろなものが書かれています。真理、正義、平和の福音、信仰、救い、御霊の与えをする義、神の言葉、祈り、これらをもって戦いなさい。それが重要なんですよ、と。悪魔の策略に対して立ち向かいなさいと言っているんです。
でも、一つ考えていただきたい。悪魔の策略は具体的にどこで表されているのでしょうか。悪魔の策略と聞くと、私たちが何か特別な、超自然的な何かのことによって悪魔の策略というふうに考えがちですが、違うんです。
さっきお話しした私たちの日々の人間関係の中に悪魔の策略は表されている。日々の小さな時にところに悪魔の策略は表されている。だから私たちが日々の生活の中で愛に根差して真理を語り、あらゆる人間関係において知恵を有るものとしてあえもとき私たちは戦っているんです。
私たちには真理が、正義が、平和の福音が、信仰が、救いが、御霊の与える剣が、神の言葉が、祈りが必要である、これらがあるからこそ愛をもって真理を語ることができる、人間関係において知恵あるものとなることができる、忍耐と謙遜をもって隣人に持ち合うことができる、
だから私たちは日々の生活の中で愛に根差して真理を語り、あらゆる人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることができる、人間関係において愛をもって真理を語ることが
凄い霊的なもの、もちろん霊的なものであるわけですが、しかし私たちが戦っている現場は、まさに私たちの日々の他の人とどう関わっていくかが、まさに私たちの戦いの現場である。
36:01
だから祈り続けていかなきゃいけない。私たちは敵を持ち出しちゃいけない。私たちに反対する人は敵ではないんです。敵は悪魔なんです。
私たちに敵対する人に対して敵対して戦っていくとき、悪魔の策略にはまっているんです。私たちに敵対する人に愛をもって真理を語っていくとき、私たちは悪魔の策略に勝っている。
悪魔の策略と悪魔との戦いって、天井のこの辺でやっているような話かもしれませんが、地上の現実で祈りをもって御言葉によって神様のメッシュに従って歩んでいくとき、私たちは知らないうちにですよ。
悪魔との戦いを戦っているんです。このような戦いを私たちができるように神様が私たちを救い出して導いていってくださっている。そのような召されたメシにふさわしく歩むように私たちは招かれている。
じゃあ、なぜそのような形で、いわゆる法律、清めでは何か。日々の生活の中であなたの隣人とあなたがどのように関わるか。です。私たちの心の中が変えられたとき、私たちは心の中が変わることは無敵ではないんです。心の中が変えられて隣人とどう関わりが変わるか。
でも、関わりを変えようと思ったら、心の中が変わらないと。関わりはほんまに変わりません。いつバレてやったらすぐバレます。ご夫婦でも分かりますよ。親子でも分かりますよね。作ったようなことをしててすぐバレる。
本当に心の中が変わって言葉が出てきたとき、その関わりが、忍耐が変わったときに、本当に下がるわけですから。別に何かしろというんじゃない。私たちの心が変わり、そのことによって関わりが変わっていく。
それが強みです。それが法理です。そしてそれには目的があるわけです。なぜ神様はそんなことまでして私たちに神の力を注いでくださるのか。なぜ一致を保つために努力すべきなのか。
なぜ忍耐と謙遜を求めて社会喚起を重んじるのか。なぜそんな形で悪魔の策略と戦うのか。
本当に神様を喜ばせる。いい子になるためですか。もちろんそれが間違っているわけではありません。けれども私たちがそのように取り組むことが、実は使命があるんだというのが、もう一か所でいただいた三章の十節の言葉なんです。
今から訳の形で書いていますが、三章の十節。これは今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して神の豊かな知恵が示されるためであったと書いています。
39:12
私たちがこの地上において一致を継続するために熱心に努め、愛を持って真理を語り、社会的な人間関係を大切にし、知恵あるものに歩んでいくときに、天にある支配と権威が、あらゆる霊的な力が、この世界は私が支配しているんだと思っている悪魔が、
教会の姿を見て驚くんです。
俺が支配しているはずなのに、ここなんか違っている。私が支配していたら、こんなこと、起こらないことが起こっている。私が支配していたら分裂し、互いが起こり、人々が憎み合う。
ところがここでは、愛を持って真理を語っている知恵あるものとして、互いの人間関係を苦しみながらも取り組んでいる、あらゆる力が自分たちが支配しているんじゃない。イエスキリストがこの世界を治めておられるんだ。
神様は私たちのそんな小さなことかもしれません。人間的な関係の中の小さな取り組みと、そのような祈りの中での戦いを通して、この世界の霊的なあらゆる存在に、イエスは主である、ということを示そうとしておられるんです。
私たちが地上において、一致を継続するように努めて、社会的な人間関係を大切にして、知恵あるものとして歩み続ける選択を行って、そのような戦いながらも歩んでいくときに、天上においても地上においても、霊的な力も、周りの人間も、私たちを見て、
ああ、イエスキリストがこの世界を治めておられるんだということを知るようになるんだと言っているんです。私たちは、赤ヒリトになりましょうと言われると、他の人に対して、いいクリスチャンになりましょうということを大事にします。
それが悪いことではありません。大切なことです。周りの人に対して、他の人に対してどうやって関わっていくか、すごく大事なことです。でも、それって、せたすると、その人の見ているところと見ていないところで、私たちは分けちゃうんですよね。
それはそうですよね。見ているところは、たのさなかんから、たのさなさんと、イエスキリストがグダッとなるよと同じようなもので、そこではちゃんとする。でも、私たちの戦いが、私たちの明かしする相手が、そういう人々だけではなくて、天におけるあらゆる力の前でもそうであるとき、私たちは裏表をとれないんですよ。
42:03
だって、天にある力は見ているわけですから、私たちの姿を。人の目だけではない。天にある力も私たちを見ている。そして私たちがそのところにおいて、うまくいくわけではないこともたくさんあります。そんなによくわかっています。
その中で、神の恵みと哀れみと力によって、愛をもって真理を語り、謙遜と忍耐を尽くし、寛容をもって与える人間関係の中で、神様助けてくださいと、霊的な神の部分によって戦っていくとき、あらゆる者たちが、イエスこそ主であることを知るんです。
マイヌスだけではない。天上ならえる霊も。それは私たちの宣教です。私たちは、地における証人だけではない、天における証人でもあるんです。宇宙大のインパクトがあるんです。言葉を変えるならば。
皆さんが、隣で苦しんでいる人のために水をいっぱいあげて、助けてあげたとき、それは宇宙の全体に対して影響を与えるんです。小さなことしかできませんということはないんです。
私たちのなす、そのような取り組み一つ一つが、宇宙に影響を与える。マイヌスだけではない。天の様々な霊に対しても影響を与えるんだと書いているわけです。
私たちがジェスから招かれているのは、目立つことではありません。派手なことではありません。隠れた。目立たない。地味な。そんな私たちの歩みごとに、全宇宙は知るんです。イエスは知りある。
全宇宙はこの方が本当の知りあると。イエスこそ本当の知りある。世界を治めているのは悪魔ではない。イエス・キリストこそ本当の知りあると。私たちの小さな取り組みを通して知ることができる。そんな使命を私たちは与えられてこの地上で生きているんです。隣の人に伝える使命もあります。そして天上のあらゆるものに対する使命もある。
同じことをしているときに、私たちはそれだけの影響を与える存在として神様を選んで信仰を与えてくださって、そのために力を注いでくださっている。
そういう私たちが取り組んでいくときに、今日の朝を話した一章の十節のあの御言葉が実現するわけです。天にあるもの、地にあるものがこの方にあって一つに集められる。イエス・キリストにあってすべての作られたものが一つになっていく。私たちのホーリネス、私たちの清き愛に、私たちのそのような戦いである取り組みの一つ一つを通して一つ一つが結び合わされていくんです。
45:14
そのようにすごい働きに私たちは見されている。ちっちゃなことですら、そのちっちゃなことがすごいんだ。そのことを知って私たちは歩むべきではないでしょうか。私はこれしかできません。そんなことないんです。あなたのしているその小さな愛の技が内を変えている。
そのような自信を私たちはもっといただいて進ましていただくべきではないでしょうか。私たちにとって大事なのは、今私たち一人びとりが使わされている家庭や職場や地域や友人の中で小さな働きを続けることです。それぞれの召された召しに応答し続けることです。それが皆さんに与えられた宣教の召しです。
皆さんは一体どこに使わされているんでしょう。どこで何をするようにされているんでしょう。そこに使わされているところで大きな働きをする必要性はない。でも小さな働きをさせていただこうではありませんか。
イエス・キリストにおいて絶大な力を与えてくださった恵の神が、信仰を与えてくださったものにどれだけ力を注いでくださるか。その力があるならば、私たちは小さな一つ一つに取り組んでいくことができる。宇宙大の影響を与えていくことができる。それだけの力をイエス・キリストにおいて神様は私たちに注いでいってくださる。
そのことを覚えて、励まされて、どうぞ明治の教会が25年、26年目、さらに神様の恵みのうちに住んでいっていただきたい。そのことを心から願っています。お祈りをいたします。