00:00
神に祝福された人生の法則、です。
本当に感謝いたします。
それでは、メッセージの前に、隣の方と挨拶を交わしたいと思います。
ありがとうございます。
一言お祈りいたします。
最後に、兄弟たち、
全ての真実なこと、
全ての誉であること、
全ての正しいこと、
全ての清いこと、
全ての愛すべきこと、
全ての評判の良いこと、
その他、得と言われること、
賞賛に値することがあるならば、
そのようなことに心を止めなさい。
私たちは何に、どこに、心を止めているのでしょうか。
今日、神を信じる者として、
私が何に、どこに、心を止めていくべきなのか、
それがどんなに大きな神様からの祝福に繋がることなのか、
今日の言葉を通して、メッセージを通して、
神様、私たちに教えてくださいますように、
お願いいたします。
一体に言えば、
イエス様の皆によって、
お祈りいたします。
アーメン。
先週から、
神に祝福される人生の法則21のシリーズメッセージをさせていただいております。
今日はその2回目で、
思考の法則、
思考の法則ということをね、
一緒に御言葉から学んでいきたいと思います。
私たちが生きているこの世界には、
いろんな法則があると思うんですね。
03:01
例えば、
自然の法則があります。
国によっては違いますけれども、
日本の場合だから、
春には、
シャトラのような花が咲きます。
夏になったらどうなりますか?
気温が上がり暑くなります。
冬になると雪が降ったり、
気温が下がります。
全てには、
小さなまた大きな法則があると思います。
実は皆さん、聖書にも、
多くの法則が書かれているんですよ。
法則という言葉自体は、
日本語の聖書は訳されていませんが、
何かしら出てくるんですよね。
例えば、ローマ人の手紙、
8章1節2節には、
その厳二という、
神科学の言葉は厳二と訳されていますが、
それが法則という言葉と、
まったく同じ意味であります。
例えばこういうことです。
聖書が語る法則。
罪の報酬は死である。
これはもう法則なんですよね。
1たす1は2であるように、
罪の報酬は死です。
罪の報酬が、
命になることはないんです。
また、神の恵みの家、
信仰によって救われます。
救われる法則です。
信仰によってのみです。
他にはありません。
例外はないんですよね。
あるいは、信じる者は救われ、
信じない者は滅ぼされます。
これも法則ですから、
信じない者が救われたり、
信じる者が滅ぼされたりすることは、
絶対にない。
神の法則です。
皆さん、こう考えてみたらですね、
神様を信じる私たちのことを、
このように言えると思います。
私たちは、
信仰の法則に従って生きるものである、
ということです。
信仰の法則に従って生きるものである。
これは本当に素晴らしいことだと思います。
その中で今日は、
先日はね、
信仰の法則を学びました。
今日は、考え、思い、
思考の法則について一緒に学びたいと。
まず簡単に命題をお話ししましょう。
人は何を考えているかによって、
その人の言葉、行い、
06:00
信仰のあり方、生き方などが
決められるということです。
もう一度申しますね。
人は、その人がね、
普段いつも何を考えているか、
それによってその人の言葉や行いや、
信仰のあり方、生き方なども
影響が及ぼされて決められる
ということです。
ですから皆さん、
普段ですね、
私たちが何を考えているかによって、
自分自身の人生の未来が決められるといっても、
過言ではないと思います。
ここで神様のことを考えてみたいと思います。
漱石の第一章の一節。
世の始め、何もなかったときに、
神の言葉がありましたよね。
例えば、叱りやれとね。
でもよく考えてみたら、
その神の言葉より前に、
神の思いがあったわけです。
神の思い。
わかりやすく言うならば、
人を救って、私と一緒に交わろう。
そういった神のね、
良い思いが、素晴らしい思いが先にあって、
その思いによって言葉がね、
果てられて、そして形を持った被造物が作られたわけなんですよ。
そう思いますよ。
これを簡単に法則として言いますと、
神様の思いがその通りに実現された。
神の思いがその通りに実現された。
思い、考えが言葉になり、
言葉が行いになるという法則なんですね。
思いや考えが言葉になります。
その言葉が行いになるという法則です。
素晴らしい良い思いをお持ちになった、
お持ちになった神様によって、
その良い思いが叱りあれ、
あるいは我々に見せて人を作ろう、
そういう言葉になり、
その言葉が実物、現実になったという。
そういう思いが言葉になり、
言葉が現実になる。
つまり思いが現実になるという言葉です。
思いが、考えが行いになるという言葉です。
09:00
今日の言葉をね、
聖書の御言葉をよくご覧ください。
ヒト・パウロ先生は、
あのフィリピンにある教会の信徒さんのことを考えて、
手紙を送る時に、
何に心を止めるべきなのか。
このものに心を止めて欲しいとね、
この心を止めなさいという言葉は、
深く考えなさい。
ある英語の聖書は、
メディテイトというね、
黙想する、
そういう意味として訳しているんです。
何を考え、何を黙想するんでしょうか。
8節、今日ね、
9節でもありますから、
もう一度ね、一緒に読みましょうかね。
8節、いいですか。
お一緒に、はい。
最後に、兄弟たち、
すべての真実なこと、
すべての誉れあること、
すべての正しいこと、
すべての清いこと、
すべての愛すべきこと、
すべての評判の良いこと、
その他得と言われること、
賞賛に値することがあるならば、
そのようなことに心を止めなさい。
アーメン。
皆さん、今ファウルがですね、
何に心を止めなさいと言っていますか。
真実なこと、誉れあること、
正しいこと、
それから清いこと、
それから愛すべきこと、
評判の良いこと、
得と言われること、
賞賛に値すること、
賞賛に値することを考えなさいと話します。
そのことを深く目指しなさい。
お分かりでしょうか。
この心を止めなさい言葉は、
もう一つの意味がある。
それは、心を満たしなさい。
これらのことで、
あなたの心を満たしなさいという意味です。
つまり、
真実なこと、正しいこと、
あなたの心を満たしなさい。
あなたの心の中に、
真実さ、正しさ、
清さで満たして、
いっぱいにしてあげなさい。
あなたの心の中に、
もし袋があるならば、
心の袋に、
このような良いもので、
たくさん入れてください。
皆さんではでしょうか。
皆さんの先週一週間、
皆さんの心の袋には、
どんな考えが、どんな思いが入ったのでしょうか。
何を入れたのでしょうか。
皆さんの心の袋に。
12:00
真実なこと、誉であること、
正しいこと、清いこと、
愛すべきことだったでしょうか。
そしたら、それは本当に素晴らしいことであります。
この八節の次に、
パウルはこのように大事なお話を、
もう一つ語っています。
九節を一緒に読みたいと思います。
あなたがたが、
わたしから学び、受け、聞き、
また見たことを実行しなさい。
そうすれば、
平和の神が、
あなたがたとともにいてくださいます。
アーメン。
パウルはまた私たちに、
大事な法則を教えてくれています。
皆さん、私たちは、
神様の言葉から、
まず、
学ぶこと、
受けること、
聞くこと、
見たことを、
どうしたらいいのですか。
実行しなければならない。
実践しなければならない。
学びが、
実行につながっているのです。
つまり、
学んで、受けて、聞いて、見たことを、
実践しなければならない。
それによって、
花が咲く、
それによって、
神に喜ばれ、
神の祝福が与えられる、
という法則なんです。
これが信仰生活なんですよ。
学びだけ、
聞くだけ、
見るだけじゃなくて、
それも恵みですけれども、
それが実践に、
実行に、
本当に大事なんです。
私たちは、
神様を信じています。
神様を信じる人は、
正しいこと、
清いこと、
評判のいいことで、
心を満たします。
ちょっとね、
おかしいかもしれませんが、
こんなことを考えてみました。
メッセージにしながら。
これ、もしもの話ですよ。
私たちの、
今ですよ、皆さん。
今、私たちの心の中にある、
その考え、
思いを、
形のあるものに、
もしすることができる、
できて、
それを今、
みんな、
全員、
みんな、
心にあるものを、
並べます。
そして、
この教会の床に、
ブルーシートを敷いて、
ここに全部並べます。
どうなると思いますか。
みんな喜ぶでしょうか。
ショックする。
そんな思いを皆さん、
したことないですか。
もしそれを、
形にすることができるならば、
全部出して、
そこに名前も付けます。
ユンポクシ。
15:00
誰々さん。
これは誰々さんのものですよ。
これは誰々さんの心の、
心から出したものですよ。
全部並べたら、
どうでしょうか。
私たちは、
人に、
いられないから、
神様はいつも、
許してくださるから、
と思って、
真実でないこと、
正しくない、
強くないこと、
評判ではなく、
悪評のもの、
得ではないことを、
考えて、
そこに心を、
止めていたり、
する、
私たちが、
正直に、
あるのではないでしょうか。
神様を欺くことはできない。
自分自身を、
欺くことはできない。
どうか皆さん、
今日の8節、
9節を、
ぜひ心に止めていただきたい。
そして、
私たちの心に、
真実なこと、
正しいこと、
強いこと、
愛すべきこと、
評判も良いこと、
得と言われることを、
称賛に値することで、
一般にしてください。
それが、
私たちの、
言葉になり、
行いになり、
生き方になるからなんです。
信仰のあり方になるからなんです。
今度は掘り下げて、
話をさせていきましょう。
至高の法則について、
一つ目。
まず、
神様に、
自分自身の考えを、
収めていただいて、
自分自身の考えを、
神様に支配して、
いただくことなんです。
これが本当にまず、
本当に大事なことなんです。
神様を信じることは何でしょうか。
願いを言って、
何か、
答えてもらうことだけなんでしょうか。
神様に、
私の全てを、
思いも、
言葉も、
行いも、
生き方も、
夫婦の関係も、
親子関係も、
自分の人生の歩み方も、
全てを、
神様の支配、
ご支配、
統治を受けなければならない。
それが、
信仰なんですよ。
全て。
18:06
何を考えるか、
何を話すか、
何をするかなど、
全て神様に、
納めていただくこと。
その時に、
私の人生に、
神様からの福が来るんですよ。
でもね、
そのためには、
信仰訓練が必要です。
どんな訓練でしょうか。
私たちの、
思いを、
考えを、
イエース・フィリストに、
神様に、
服従させる、
信仰の訓練です。
これは私の話ではない、
二言葉の、
教えなんです。
ちょっと整理をしていただきたいと思います。
これは第一ですから、
第二コリント、
十章、
四節から六節です。
みんな一緒に書きたいと思います。
第二コリント、
十章、
四節から六節です。
聖書をお持ちの方は、
お開きください。
私の聖書では、
357ページですね。
聖書をお開きでしょうか。
では、
四節、
私は読みしますので、
五節、六節、
一緒に読みますね。
四節、
私は読みます。
私たちの戦いの武器は、
肉のものではなく、
神の御前で、
要塞をも破るほどに、
力あるものです。
一緒に、
私たちは、
様々の紙弁と、
神の指示に逆らって立つ、
あらゆる高ぶりを打ち砕き、
全ての計り事を取り子にして、
チリストに服従させ、
また、あなた方の従順が完全になる時、
あらゆる不従順を罰する用ができているのです。
アメン。
ここにね、大事な言葉がありますよ。
五節をご覧ください。
私たちは、
様々の紙弁と、
神の指示に逆らって立つ、
あらゆる高ぶりを打ち砕き、
全ての計り事を、
この計り事という意味は、
重い考えが悪い方向に向かっている、
そういう考え、
思いのことですね。
それらをまず、
どうしますか。
取り子にする。
それが勝手に働かないように、
勝手に本当に悪いことを生み出さないように、
自分に働かせないように、
まず、
ひばっておくってこと。
計り事を、
考えを、
思いを、
取り子にする。
そしてどうしますか。
キリストに服従させる。
キリストに服従させなければならない。
21:04
そういう服従させるときに、
我らの思いが、
考えが、
従順が、
何になりますか。
完全になります。
ですから皆さん、
私たちの従順が、
信仰が、
完全になるためには、
神の指示に逆らって立つ、
あらゆる高ぶりを打ち砕いて、
すべての悪い考えや思いを、
取り子にして、
縛りつけて、
キリストに服従させなければならない。
なぜでしょうか。
自然の人間は、
罪を犯すから、
神の知識に逆らうからなんです。
確かに私たちは救われましたけれども、
罪の性質を持っているものですから、
善をはかるより、
悪をはかりがちな傾向、
そういう性質を、
我々は持っているんですよ。
皆さんはそうではないでしょうか。
私はそうなんです。
ですから、
その考えや思いを、
悪をはからう、
徳を立てない、
悪評を言いふらす、
正しくない思い、
清くない思い、
そういう思いを、
我々の肉の性質は、
持ちたがるんですよ。
かき集めるんですよ。
それで心の奥に、
いっぱい入れようとする、
肉の性質が、
我々の中にあるわけなんです。
まずそれに向き合わなくてはならない。
私は全然大丈夫ですよ。
あなたはそうかもしれませんが、
と思ってはいないでしょうか。
だから、
私は常に、
自分の思いを、
考えを、
キリストに、
服従させる訓練を、
やり続けていかなくてはならないんです。
皆さん、
神の前に、
正直に考えてみていただきたいです。
私はどれだけ、
自分勝手に考えてしまったり、
物を言ってしまったり、
行動を起こしてしまったり、
するんでしょうか。
もちろん、
いいことを考えないわけではないんです。
神を喜ばせたい、
そういう思いを持っていないわけではありませんが、
でも私たちは、
本当に、
御言葉にあるように、
善に悟く、
悪には、
悪には、
悟くあるべきですけれども、
時々、
自分自身を見ても、
逆なんです。
善にはとても悟く、
悪にはとても悟く、
善を行うには、
24:00
とても、
鈍い。
悪を行うには、
とても、
素早い。
そういう思いを持っている自分自身がある。
ですから皆さん、
私たちは普段、
神様に、
イエス・キリストに、
自分の考えを、
思いを、
複重させる訓練を、
し続けていくことが、
信仰生活なんです。
なんででしょうか。
その思い、
考えが、
言葉に出るから。
それが、
行いになるから。
そしてそれが、
その人の、
人格になる、
神聖になる、
そういうものになるわけなんですよね。
キリストに、
毎日、
毎瞬、
考える。
そう歩んでいかないとですね、
私たちは、
神の前に、
偽善者なんです。
偽善者。
法則です。
法則なんです。
もし皆さん、
ダイエットしていらっしゃる方いますか。
夜遅く、
食べ過ぎると、
次の朝、
お腹が半端じゃないです。
半端。
法則です。
私たちが、
正しいこと、
清いこと、
神に喜ばれることを、
考えて思っているならば、
それが、
言葉として、
行いとして、
その人に、
現れるんです。
たまにこういう話なんです。
あの人は、
なんであの言葉を言うんだろう。
そんなことを、
普段、
考えているからなんです。
清いこと、
正しいことを考えてならば、
清い言葉が、
正しい言葉が、
その人の口から出ます。
その行いが、
現れます。
なぜなら、
考え、
思いと言葉は、
もう、
説得なんです。
必ずそうなります。
法則なんです。
皆さん、
一つご説明してみたいと思います。
毎日、
皆さんの考えを、
客観的に、
濃厚に書いてみてください。
そしてそれらを、
客観的にですよ。
主観的にじゃなくて、
見て、
正しくない、
清くない、
徳を高めることではないものが、
あったならば、
神の前に、
悔い改めなければならない。
自分自身がどれくらい、
27:01
神の前に、
罪を犯しているのか。
徹底的に、
悔い改めをしなくてはならない。
私はですね、
たまに私自分も、
そんな情けない時がありますが、
曖昧に、
適当に、
悔い改めているようで、
実は悔い改めていないように、
過ごして、
逃してしまう時があったです。
あまりにも、
甘えてしまって。
そして、
いわゆる、
自己合理化をするんですよね。
私はこんなことを、
しなくてはならなかった、
わけがあるんだよって。
あるいは、
もうこういう理由があるんですよ。
そういうふうに、
自分の都合のいいように、
考えたくなる。
これで自己合理化して、
罪を、
悪を、
悪いことを、
正当化しようとする、
我らのこの、
罪の真実が、
中にあるんですよ。
それを認めて、
だから、
復讐させるんです。
神の清み。
キリストに。
これをおそらく、
私は深く分かりませんがね、
日本優秀は、
昔の先生方は、
たくさつという言葉ね、
よくおっしゃられたんですよね。
ちょっと似ているかなと思います。
似ています。
打ち砕くこと。
打ち砕かせることです。
神に逆らう思いを、
生き方を、
粉々にして、
打ち砕かせて、
復讐させること。
それによって、
清められる。
その清めなくしては、
神を喜ばせることはできない。
信仰生活としても、
それは、
無駄に事に終わる。
自己合理化ってはいけません。
あの人が悪いから、
私はこんなことをするんだ。
自己合理化ってはいけない。
自己合理化も、
自分の都合のいいように、
捉えてしまうことも、
実は、
罪の結果なんですよ。
堕落の結果なんですよ。
罪人だから。
罪の性質をまだ私は、
持っているから、
自分は悪くないと、
思いたくなる。
サタンのささやきに、
騙されるわけなんです。
だから、
復讐させるんです。
常に打ち砕いて。
どうか皆さん、
普段、
イエステ・キリストに、
我々の思いを、
まず思いを、
考えを、
復讐させて下さい。
30:01
新しいこと、
清いこと、
評判の良いこと、
愛すべきこと、
評価に値することに、
心を止めて下さい。
目を止めて下さい。
フォーカスを、
そこにいつも、
合わせて下さい。
他には、
方法がないんです、
皆さん。
イエステ・キリストを考え、
イエステ・キリストを目指し、
イエステ・キリストに祈り、
神の御言葉を読み、
その方と深い、
霊の交わりを、
思って下さい。
他には、
方法がないんです。
いくら、
いいね、
いい世の本を読んでも、
いい講演をしても、
いい学びをしても、
キリストに復讐させない限りは、
人は、
実は、
変わらない。
私は思うんですよ。
今の現代の私たちに、
学習が足らないから、
研修会に出ている回数が足らないから、
学びが足らないから、
情報が足らないから、
人は堕落するんでしょう。
十分学んでいます。
特に日本という、
この国は、
十分、
我らは、
学んだ上で、
それを実行する。
そして、
自分の悪を、
罪を、
キリストに、
神様に復讐させる。
それによって、
人は、
そこで大事なことは、
神を恐れかしこむ信仰が、
我々にありまして、
神は、
愛であると語る同時に、
神は、
罪を、
悪を、
許さない神であること、
恐れかしこむ信仰を、
同時に、
持たなければならない。
大きい2番目として、
神様に復讐させた考えが、
我々の言葉や、
未来を決定しきる。
新たな言葉や、
行い、
未来を決定しきるのは、
まず考えからスタートするんです。
だから普段、
何を考えているかが、
実は大事なんです。
イエス様は、
その心の考えの重要性について、
このように語られました。
良い人は、
良い蔵から良いものを取り出し、
悪い人は、
悪い蔵から悪いものを取り出すのです。
33:00
どうでしょうか。
心に満ちていることを、
口が話すのです。
イエス様が言われました。
私の話ではないんです。
心に満ちていることが、
良いこと、
正しいこと、
素晴らしい、
強いことが、
満ちているのは、
それが、
口が話すのです。
口が話すと、
日本語のセリアが口です。
口が話します。
強いこと、
善を、
評判の良いこと、
得と言われること、
口が話すのです。
心に満ちているから。
それなら、
良い人は、
良い蔵から良いものを取り出し、
悪い人は、
悪い蔵から悪いものを取り出す。
取り出されているものを見れば、
分かりますよ。
口から話されている言葉を聞けば、
分かりますよ。
その人の普段の行いを見れば、
分かりますよ。
心の蔵に、
何が一般になっているか。
そう思いませんでしょうか。
同じ教会の中で、
貧困生活をしていても、
ある人はいつも、
感謝と喜びや、
充分さに、
本当に謙遜さに、
溢れています。
そういう言葉と行いが、
いつも溢れています。
なぜかと考えたら、
普段、その人の心の蔵の中には、
そういう清い正しい良いもので、
満たされているからなんです。
法則ですからね。
しかし、
そうでないとは、
何かがあったら、
つぶやきが、
何があったら、
不平が、
文句が、
批判が、
否定的な言葉や行いが、
もう話される。
なぜでしょうか。
普段、
その人は、
自分の心の蔵に、
そんなもので、
満たしているからなんです。
法則ですからね。
味噌汁を飲んだら、
味噌汁の匂いがするし、
キムチを食べたら、
キムチの匂いがします。
心の蔵に満ちているものが、
口か口が話します。
行いに現れます。
生き方に、
人格になる、
未来になる、
神への信仰のあり方になります。
法則なんです。
ですから、
心の蔵に、
正しいこと、
評判の良いこと、
清いこと、
愛すべきこと、
徳と言われることで、
満たしてください。
格差を満たしてください。
澄んでください。
それが、
我々の、
人生を、
未来を、
徹底しています。
36:01
パウロはいつも、
清いこと、
正しいこと、
善を、
徳と言われることを、
考える人です。
そういったね、
もう、
彼の人格が、
そうできているんですよね。
だから、
今日の御言葉のね、
その続きをちょっと、
読みたいと思いますけれども、
今日の、
十、
十一節、
十一節、
一緒に読みますね。
フィリピ四の十一節、
一緒に読みたいと思います。
はい。
乏しいから、
こういうのではありません。
私は、
どんな境遇にあっても、
満ち足りることを、
学びました。
アメン。
パウロはね、
貧しくても、
乏しくても、
もう、
飛んでいても、
どんな境遇にあっても、
満ち足りる、
感謝する、
私は豊かである、
私は幸せである、
ということを、
その四節を、
もう、
学んで、
耳に尽いてるんですね、
ヒト・パウロには。
それは、
パウロは、
八節のように、
全ての真実なこと、
全ての困りあること、
全ての正しいこと、
全ての清いこと、
全ての愛すべきこと、
全ての評判の良いこと、
徳と言われること、
称賛に値することに、
普段、
心を止めているから、
それを考えている、
目指して、
キリストに服従させて、
キリストに、
自分の考えを、
くっつけさせているから、
だから、
それが、
この態度として、
姿勢として、
現れるんです。
普段、
あの人は、
なんでああいう姿勢なんだろう、
ああいう態度なんだろうか、
何か起きたら、
なんでいつも、
あんな風なパターンの
行動が出てくるんだろうか、
それがその人の人格だからなんです。
普段、
考えていることが、
人格になるわけなんです。
だから、
普段、
清いこと、
いいこと、
神に服従させているから、
貧しくても、
鞭打たれても、
彼は満ち足りる、
喜ぶ。
だからね、
このフィリピンの手紙に、
ありますように、
喜びなさい、
喜びなさい、
喜びなさい、
という言葉は、
今日も読んではいないんですが、
ヨウンイソウの伝説に、
あるんじゃないでしょうか。
いつも、
手にあって、
喜びなさい。
もう一度言います、
喜びなさい。
当国中の、
彼なんだけれども、
喜びなさいと言える、
これは口先の喜びじゃないんですよね。
本当に、
パウルは、
喜んでいるんですよ。
なぜなら、
喜ぶ、
喜びを、
感謝する考えをさ、
39:01
持っているから。
キリストに、
服従させているから。
普段それを、
自分の心の中に、
いっぱいにしているから。
もう一度、
皆さんに、
お尋ねいたします。
普段、
皆さんの心の袋には、
どんな思いを、
どんな考えを、
どんなことで、
満たしていますか。
何を入れていますか。
何に心を、
止めているでしょうか。
イエスキリストに、
心を止めてください。
神に、
キリストに、
諮り事、
神を逆らう事、
正しくない事、
清くない事、
服従させてください。
打ち砕かせてください。
他には、
方法がないです。
そのためには、
私たちには、
聖人様の力が必要。
パウルも言いましたね。
私の中には、
憎なる思いと、
御様の思いが、
戦っている、
戦っている。
ああ、
何という、
惨めな人間なんだろうと、
父とパウルですら、
そんな悩んで、
戦っている事を、
感じているのに、
私たちは、
それより勝る人だったら、
まあ、
いいんですけどね。
もう絶対にね、
足元にも及ばないものだと、
思うんです。
そしたら、
もっと激しい戦いが、
私の中に、
あるわけなんです。
皆様の中に、
あるわけなんですよ。
戦いは来ていない。
ただ、
ずっと、
負けているわけなんです。
勝ってはいないでしょ。
負けっぱなしだから、
もう、
戦いしかないんです。
少しでも戦う、
その目、
あれば、
ああ、
本当に私は、
惨めな人間ですよ。
私のこの悪い思いを、
この唇の言葉を、
この生き方を、
死を複製させてください。
記憶してくださいと、
もがき、
祈るようになるでしょう。
いや、そう、
祈らざるを得ないでしょう。
最後になりますが、
賢大は、
こういう人がね、
目想する日々、
という本の中に、
こういう面白い話があります。
今日の話とね、
ちょっと、
内容がつながっていますが、
人の心には、
庭があります。
庭を、
きれいに、
手入れすることもできるし、
放置することもできるでしょう。
ところが、
よく、
手入れをする人がいる。
あるいは、
もう置きっぱなしで、
放置っぱなしの人もいる。
でも不思議に、
必ず、
両方の庭には、
何かが伸び出て、
育ちます。
よく手入れをしている庭には、
きれいな花や、
木のある庭になるでしょう。
しかし、
42:00
ほったらかしっぱなしの庭は、
雑草だらけの庭になる。
心の庭が、
同じなんです。
よく手入れをしていますが、
皆さん、
放置っぱなしです。
皆さん、
私のすべて、
我々の考えを、
言葉を、
行いを、
愛を、
イエス・キリストに、
服従させてください。
すべては、
考えから始まります。
善も、
悪も、
愛も、
憎しみも、
誉れも、
評賛も、
悪性も、
考えから。
神に受け入れられることを、
考えましょう。
そして、
最も大事な結論になりますが、
いい考え、
余裕、
素晴らしい考えを乗り越えて、
イエス・キリストを考えてください。
イエス・キリストから、
手を離さないでください。
先週、
一週間、
皆さん、
どれくらい、
イエス・キリストを考えていましたか?
どれくらい、
イエス・キリストを目指しましたか?
どれくらい、
イエス・キリストに、
心を満たしていたのでしょうか?
世の思いで、
世の心配で、
世間の話で、
雑誌や、
テレビや、
新聞や、
この世のメディアで、
心を満たしてはいないでしょうか?
イエス・キリストが、
入る隙はあるのでしょうか?
十のイエス・サマが、
納めておられるのでしょうか?
それは素晴らしいことである。
イエス・キリストを考え、
祈り、
精霊様に求めてください。
精霊様が助けてください。
お祈りします。