1. 名谷教会
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2018-07-08 39:24

2018/07/08:宣教からホーリネスへ

2018/07/08 教会創立25周年記念聖日礼拝
鎌野直人師
エペソ人への手紙 , -2;10

00:03
今朝は、お祈りにもございましたけれども、釜野直人先生をお迎えして、記念礼拝を申し上げていただきます。
午前の説教題は、ちょっと手法間違っておりまして、午後の説教題が書かれてまして、午前の方は、説教からホーリネスへ、午後がホーリネスから説教へと、
ちょっと変わりますので、よろしくお願いいたします。
釜野直人でございます。新学校のために覚えて祈ってくださってありがとうございます。
また、今日はこのように、名谷教会の25年という大切なその記念のときの、聖会と礼拝に、
私も2004年から2010年の6年間、このところで放送させていただきました。
帰ってきて見て、懐かしい顔があり、新しい方の顔があり、いろんなものがあるというのは、本当にうれしいことだなと思っています。
私がいないけど全然変わっていなかったら、またそれも寂しいですし、誰もいなくなっても寂しいですし、どちらもあるというのは、やっぱりうれしいことだなと思っております。
場所もそんなに、いくつか変わっているところはあるのはお聞きはしていますが、変わっているところと変わっていないところがあるというのは、またそれもうれしいことかなと思っております。
説教題の方、私がちょっとややこしい説教題を作る悪い癖がありまして、ややこしい説教題を渡したら、僕自身が多分、自分の中で一番ややこしくなっていて、順番逆にしたんだと思います。
選挙からホーリネスへというのは午前で、午後がホーリネスから選挙へとなります。すいませんが入れ替えていただきます。
これは本当に、関西政治新学校の交渉を昨年からさせていただいてまして、新学校ではフルタイムでは9年目、交渉は2年目というのをさせていただいています。
それとともに去年の4月からは、姫路の方の姫路情報協会の僕氏も兼任ということでさせていただいていまして、
今日は姫路の方は家内が、朝第2寝寝が開いていなかったので行けるかなと言って、電車で行かなくなっちゃうかなとか、8時前には解除になって、第2寝寝で無事に家内まで行くことができて。
終わったらこちらの方に、午後は来たいですということを申しておりましたので、何もなければ来れるのではないかと思います。
また家内も皆さんにお会いしたいと願っておりましたので、ありがとうございます。
03:01
それから実は大体もう3つの顔があります。もう1つは、そこに県名学院中学校高校というのがあるんですが、そこの育幼会ってPTAの会長もこの6年間しておりまして、
割としょっちゅうその辺りまで来てまして、来たり行ったり来たり、ここまで来ないんですが、あの辺はうろちょろしておりまして、
子供が、上の子が今大学2回生ですが、下の子が今高校3年生で、そういうこともありまして、会長もしてたりで、
昨日は来る予定だったんですが、大雨警報で亡くなりまして、いろいろと学校の方も大変だったようなんですが、そんなんで、
全然この辺りに立ち寄らないわけではなく、実はこの辺に出没しております。家から車で10分ちょっと5本走るまで、そんな遠いところではありませんので感謝です。
本当に懐かしいところに来させていただいて、懐かしい講談で見言葉を取り付かせていただくというのは、ある意味で、
牧師をしておる中での一つの光栄な時かなと思っています。
そういう、もうあの先生にもう一度来てほしくないなと思われているのではなく、また来てもまあいいかなと思っていただける、
それは本当に光栄だなと思っています。
そういうような形で、今日見言葉を取り付かせていただくことは感謝です。
思い出話ですが、いくらでも話がありますので、時間があまり長い話をしても申し訳ないので、
ある程度時間を整えながら、今11時過ぎですね、12時までに説教は全部終わらせたいとは思っていますが、
そういう本当に話せばいろんな思い出がある協会であります。本当にこの辺りに来させていただいて感謝します。
まあ何人かの方とは教区のこととかでお会いしたりで、全然会わないわけでもなく、
その辺で出くわしたりすることもなければならずということですが、本当にこのように来させていただいて感謝します。
一言に乗って見言葉を取り付けさせていただきます。
神様、このようにあなたが私たちを集めてくださり、
25年という長い間、この礼拝堂を通してあなたが宮谷教会の働きを祝してくださったことを感謝します。
それまでにも本当に様々なところで働きがなされ、そしてこの土地と建物が与えられ、今まで過ごすことができました。
決してその歩みは平坦なものではなかったということを知っていますが、
それでもなおあなたは私たちをここまで導いていってくださる、
でないとあわれみに存じられる方であることを覚えます。
その一部を共有させていただいたものとして、きょうは見言葉を取り付けさせていただきます。
神様、あなたがあわれみ、何よりもあなたの見言葉をお語りくださいますようにお願いいたします。
待ち望みイエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アメン。
私たちは、日本イエス・キリスト教団という教団というのは、
正解というのが好きな教団という変な言い方かもしれませんが、嫌いな教団ではありません。
06:01
清めとかホーリネスとかというメッセージを聞いて、
そういうときに自分たちのことを振り返るということをいたする。
そういう伝統を持っています。
正解があるというのが当たり前であるかのように、私たちは過ごしているのではないでしょうか。
でも当たり前であるということが当たり前で終わるのではなく、なぜそうなのか。
そのときよりなぜ正解というのが必要なのか。
というのを立ち止まって考えることも大事なのではないでしょうか。
今回はホーリネスと宣教ということをテーマに話をさせていただきます。
そして宣教からホーリネスが1回目で、ホーリネスから宣教が2回目となります。
ホーリネス、清めというふうにも言ったりしますが、それと宣教というのは密接に結びついているものです。
というのは、午後でお話をしますが、私たちのホーリネス、私たちの清めというのは、私たちの宣教の働きのために必ず必要なものだからです。
私たちが伝道をする、私たちが法師の業をするときに、私たちのうちにはホーリネスが必要です。
そういうものを求めるために、教会が教会として本当にあるべき姿を歩むために、正解というのは必要なわけです。
けれども、今日朝お話しさせていただきたいのは、私たちのホーリネスというのも宣教から生み出されてくるものだということです。
ただ宣教というと、私たちが思い浮かべるものと少し異なったものです。
ですから午前中は、この宣教からホーリネス清めというのが生まれるんですよ。
これからはホーリネス清めか宣教が生まれ、ホーリネス清めは宣教のためですよというお話をさせていただきたいと思います。
ということで午前の話なんですが、ホーリネスは宣教から生み出される。
それは私たちのホーリネスが、私たちの清さが、私たちの宣教から生み出されるということを言っているわけではありません。
私たちの清さ、ホーリネスというのが神様ご自身の宣教、神様ご自身の働きから生み出される。
神の宣教という言葉はお聞きになったことがない、聞きなえない言葉であると思いますが、少し説明をさせていただいて、何をお伝えしたいかということを明確にさせていただきたいと思っています。
宣教という言葉を皆さんお聞きになると、神の宣教ということは神様が宣教師になって、どこかに行って伝道したり、
東日本大震災や熊本の地震や今回の水害とかで困っているところに行って、神様が助けに行くんだというようなイメージでその言葉をお聞きになるかもしれません。
でも宣教というふうな言葉のもともと英語から訳された言葉なんですが、それはミッションという言葉です。
09:04
ミッションというもともとこの言葉ミッションというラテン語から来ていますが、送り出すというね。送り出す。
ですから神様の神の宣教というのは神様ご自身が自分をこの世界にお使わしになったこと。
神様がご自らをこの世界にお使わして、そこで何かをされたことということを表しています。
神様が何かを願って、この世界で何かをこれまでされ、これから何かをしようとしておられる。
そこから実は全てが始まるというのが神の宣教かの私たちの法理ですということの意味なんです。
神様はご自身をこの世界にお使わして、ご自身を送って何をしようと何を願っておられるんでしょうか。
全ての手紙をかなり読んでいただきました。読む方本当に申し訳ないと思いながら私は長い歌詞を選んでしまう傾向があります。
その中で一番最初に読んでいただいた1章の10節の言葉を見てください。
時が遂に満ちて実現します。一切のものがキリストにあって、天にあるものと地にあるものがこの方にあって一つに集められるのです。
というふうに書かれています。
実は天使が机を作ってくださった神様が願っておられるのは、私たち一人びとりが救われて、罪から救われて、許されてということだけではありません。
神様は世界全部のことを見て考えておられる。この世界にあるあらゆるもの、天にあるもの、地にあるものと言われています。
あらゆるもの、神様が作られた全てのものが一つに集められること、一つに結び合わされることを願っておられる。
全部が一つに結び合わされること。
それもキリストにあってイエス様にあってそのことをしようとしておられる。
それが実は神様が一番願っておられる究極の目的なんですよとこの聖書の箇所は語っているのです。
キリスト教という話をしますと、私たちは私と私が罪から救われて、私が死んだら天国に行けるんだという、
そういう私のことでキリスト教というのを理解することが多くあります。それは大切なことです。それは大事なことで、それは事実です。
けれども聖書を読み進めているときに、神様の御計画は単に私のことにとどまらず、もっと世界を見て広い視野で働いておられる。
神様の大きな御計画の中の大切な一部として私があるんだということに気づくのです。
12:09
神様が天地をキリストにあって一つにまとめるということは、時が遂に満ちて実現します。
イエス・キリストが二千年前にこの地上に来られたときに、そのことを通して、そしてその弟子たちを通して明らかにされて、今私たちにも明らかにされているんですよと語っているのです。
でもなぜ神様は天と地を一つにしようという計画を進められるんでしょう。
聖書を読みますと、曹操正記の1章から読んでいくと、神様が天地を作られたということが書かれています。
神様は天と地とその中に見せるすべてのものを作られた。
だから神様が全部作られたから、全部もう完成しているんだから、改めてそれを一つにまとめるなんていうややこしいことをしなくてもいいんじゃないか。
もう全部は完成してまとめる必要はないと思うかもしれません。
でも聖書を読んでいくともうちょっと違うんですね。
それは何かというと、神様はこの世界を一つにするのを、もう作ったから一つにやるんじゃなくて、私たち人間を通してそのことを実現するようにご計画なさいました。
人を通してこの世界を一つにしよう。
ここが聖書を読んでいると書いているんですが、人は神様に背いて、神様のこの目的、この計画を実現することができなくなりました。
その結果世界はどうなったか、バラバラになっている、歪んでいっている。
私たち人間がすることは、いろんなことを見ても、今の時代でも見てもわかると思いますが、物事をバラバラにする、いろんなものを歪ませる、ダメにしてしまうことです。
じゃあこのまま、この世界はバラバラになって歪んだままで、どうしようもなくなって破壊していくんだろうか。
神様はそうなさわなかった。
バラバラになった、歪んで、油断で、ダメになった世界を一つにするために、神様は働かれた。
天と地を一つにして、一つの世界を完成するために、神がなされたことが、イエス・キリストを地上に贈られたということなんです。
ですからそのことが、実は1章の15節から読んでいただいたところから、イエス・キリストを地上に贈って、このバラバラになっている世界を一つにするという神様の目的を果たそうとされたんです。
具体的にイエス・キリストを贈って、何をなさったんでしょう。1章の19節から20節のところをご覧いただきたいと思います。
15:02
国語の私がいたときの説教を聞きながら覚えている方は、日本語の世界、日本語の国語の勉強をするんじゃないかと時々思うような説教をしていましたが、今日も国語の時間の話になるんですが。
1章の19節の、また神の善能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力が、どのように偉大なものであるかをあなた方が知ることができますように、神はその善能の力をキリストのうちに働かせてと書かれています。
ここに出てくるところにたくさんの漢字が使われているんですが、力という漢字は何語出てきますか。変とか作りとかね、そういうところに力というのが出てくるわけ。
作りはないかな。出てくるわけですが、力という言葉が足りない言葉にこちらに出てきます。
神の善能の力の働きとかね、働くとかね、優れた力が、偉大なものといえば力に関する言葉です。その善能の力を働かせる。
まあくどい、聖書はくどい書です。まあくどく、こんなことを何回も何回も書いているなと思うぐらい、力に関する言葉がここにはたくさん登場します。
つまり何をここで祝うとしているか。神様がものすごい力を持って働かれる方である。ものすごい私たちには想像を絶するような皆さんが考えられるあらゆる力の中で考えられる最高の力をさらに遥かに勝った力を持って、その力をキリストのうちに働かせた。
2000年前にイエス・キリストが来られて、この市場でなさったことは、天地を救われた方が、その自らの力のすべてを一気に注いだことだと言っている。世界を救うというのはすごい力がいるなということを私たちは想像することができます。
神様が天地を救われたのはすごいな。その時には神様すごい力を使ったんだろうなというのは想像できますが、イエス・キリストを市場に送って、イエス・キリストもその生涯において神様はその天地創造に勝る力をそのところに注がれた。神様はすごいことを2000年前のイエス・キリストの身において出した。すごい力をそこに注がれたんだと書いている。
2000年前のあの時に何をしたとエペソビゼの手紙でパウルは語っているのでしょうか。2つのことを特に選んで書いている。いろんなことをイエス様はされました。福音書を読むといろんなことが書かれていますが、特に選んで2つのことに焦点を当てているんです。
1つは20節のところです。神はその善能の力をキリストの内に働かせて、キリストを死者の中から蘇らせた。イエス様の十字架が私の罪のためだということを私たちは大切にしてそのことをお話をします。そのためだと私たちは理解します。
18:10
そのところは大切であるんですが、あえてそこではなくてパウルは十字架を踏まえてイエス・キリストが復活された。死人の中から蘇らされた。最初の天地創造に勝るすごい力をそこに注いで、新しい天と新しい地をイエス・キリストの復活において始められた。そういうことを語っている。
そしてもう一つしたことがこの後20節の後半からです。天上において御自分の右の座につかせて全ての支配権威権力主権の上にまた今の世ばかりでなく次に来たる世においても唱えられる全ての名の上に高く置かれました。
先ほども使徒信条をご一緒に告白しましたが、天上において御自分の右の座につかせというのはイエス・キリストが天に登られた弁論の神の右に指したまいりと。そういうことを言っています。
でもイエス・キリストが天に登られたというのは私たちに聞くと、私の世代だったとしてウルトラマンが天に帰ってきたみたいな世界ですぐ思い浮かべちゃうわけですが、もう疲れたんでイエス・キリストは十二カート復活をお疲れ様でしたというのはありがとうございました。
しばらく天においてお休みいただければ、あそこでごゆっくりお休みいただければいいですよと。幸せの村かどっかじゃないですけども行ってお休みくださいみたいなイメージでイエス・キリストの昇天を私たちは受け止めてしまいがちなんですが、ここで述べているイエス・キリストの昇天はそうじゃないです。
天の王座について今も一生懸命イエス・キリスト様は働いておられる。この世界でこれも権威にかかわる言葉で、支配権威権力主権これ四つの言葉がどう違うんだ。
思わず聞きたくなるような同じような言葉を四つ繰り返して、この世界で考えられるあらゆる力の上に立ってそれをイエス様が支配しておられるのだということを語っているんです。
いろんな力があっていろんな力が反抗しようと立ち向かうことがあるかもしれない。けれどもそれを納めることができる方。
マタイの福音書の一番最後に私は天においても地においても一切の権威を授けられたという言葉がありますが、まさにあらゆるものを納める権威を授けられた方として今もイエス様は天において働いておられる。
私たちのために鳥なしで祈っておられるということを大事にします。それもそうです。鳥なしで祈りつつ私たちのために世界の王として世界を一つにしようと。
今もイエス様は働いている。だからイエス様は休んでいない。ずっと忙しい。ずっと働いておられる。これが神の宣教の技だと言っているんです。
21:07
神様がご自身をイエスキリストにおいて世に使わせてここで働きをなされた。天と地にあるもの、世界のすべてのものを一つにまとめるという目的のためにイエスキリストを地に送ってその上に絶大な力を注がれた。
今まで十字架で死んだ方を復活させて天の座につかせてあらゆる権力名に置かれ今も天と地を支配しているそのようなすごい力をイエス様の上に注いでそのことをなされた。
神様がこれだけすごいことをなさったということを私たちは教会に来ているならばいろんな形で聞きますし、人信条を読むならばそこで書かれていることは実はここで言われていることです。
けれどもその力がどれだけ偉大な力で神様がなされたことかということを私たちは認識しているか。
神様すごいことをしたね、ふんというところで終わってしまう。いや考えれば考えれば神様すごい力ですごいことをしたんだよねと本当に私たちは認識しているか。
そのことをいつも問われるのではないでしょうか。そしてそこには私たちが何かいい子だったからだとか私たちが神様に祈ったからだとか私たちが良かったからじゃなくて私たちがダメで私たちが世界をバラバラにしかできないそんなダメな私たちのためにあえて神様が一方的にやってくださったということを私たちはよくわかっているからです。
神様が私たちが何かどっかいいから神様良いことをしてくださったと思いがちなんですね。だからもっと良い子にならないと神様もっと良いことをしてくれないんじゃないか。
私たちがダメで物事をダメにしかできなくて破壊してバラバラにするしかできない私たちなのに一方的に2000年前にイエスキリストにこのような力を教えてくださった。
一方的な神の素晴らしい技がなされた。そのこと本当に心からわかっているかと今問われるんじゃないでしょうか。そしてもう一つ私たちが問われるのは2000年前にイエス様がそのことをなされたからこそもう全部出来上がっている。
何かイエス様のことの何かを追加しないと何かが起こらないように思っておられない。神様はその技を全部なしておられる。神の宣教の技は2000年前のイエスキリストの十字架と復活と昇天においてもう出来上がっている。
そういうことを本当に私たちは踏み落ちているでしょう。何かやっぱり自分たちに何かしなきゃいけない。何かまだ足らない。何かっていう思いではなくて神は全部やってくださった。すごい力を持ってやってくださった。
24:07
その神の一方的な恵みの技神の宣教が私たちの全ての歩みの原点であるということを本当に心から認識しているか問われるのではないでしょうか。
ではそこで終わりなんでしょうか。いやそこから神様は次の技をなしておられる。神様はイエスキリストを通して今も働いておられる。それはどのようにして今神様はイエスキリストの技を働いておられるのか。それは人を通してである。
面白いですよね。皆さんがいろんな人との関わりの中でややこしい人っているじゃないですか。問題を起こす人とかね。ややこしいな。めんどくさいな。ややこしくて問題を起こす人がいたとして何か自分が大切なことをしようと思ってその人に頼みます。
あの人であったらめんどくさいからこの大切なことはあの人は入れないで他でやろうというのが私たちの普通の考えです。ところが神様はこの世界をめちゃくちゃにした人間なんですが、けれどもこの人間を使ってもう一度この世界を一つにするんだと願っておられる。まあ心広いお方であります。
神様の技をあのややこしい人を通してそれでも神様はしたいと願っておられる。人が神様の技をイエスキリストの技をこの地上でするために大切なのがホーリネスだということです。神様ご自身の計画を全うするために神様が私たちの牛になしてくださる技がホーリネスである。
そのことを通して私たちは積極的にいろんなことに関わっていくことができる。ややこしかったものが今度はそれをややこしいのを作り直す働きに関わることができるようになるんです。
じゃあ神様は私たちに何をしてくださったんでしょう。以上の17節に戻ります。
どうか私たちの主イエスキリストの神すなわち栄光の父が神を知るための知恵と啓示の御霊をあなた方に与えてくださいますように。
神様は私たちに精霊を注いで私たちが神様を知ることができるようにしてくださっている。
皆さんが神様について、聖者が語っている神様について何かを知っているとしたら、実はそれは皆さんが偉いからとか勉強したから知ったんじゃなくて、
普通その部分があるんでしょうけれども、何よりも精霊を神様が与えてくださって、私たちにそのことを知らしめてくださっている。
27:05
知ることができるようになったのも私が頑張ったんじゃなくて、神様が知らせてくださるようにしてくれる。
さらに18節を見るとこうです。
また、あなた方の心の目がはっきりと見えるようになって。
最近やっぱり私も老眼が進みまして、これも老眼鏡なんですが、朝は見にくいんですね。朝起きたては見にくくては見にくいなと思いながらやります。
けれども、そのように私たちというのは見えにくくなる人間でありますが、私たちの心の目に光を与えて、その光によって見るべきものをはっきり見ることができるように神様はしてくださるんだ。
目は偽ります。
確かに私はあれを見たとか言うんですけど、後から聞いたらやっぱり違うよね。目は偽るものです。
私たちの目はそしていろんなものを見ます。
問題を見たり、敵の大群だったり、いろんな問題に先打ちできない教会の姿だったり、いろんなものを見ます。
そして、見えるものでそれ以外何も見えないように思っちゃうんです。
もうダメだ。
私たちの目の前に見えているものを見たらもう全部ダメだ。
ところが、あなた方の心の目がはっきりと見えるようになるとき、精霊によって目が開かれるとき、光が与えられるとき、私たちははっきりと今まで見えていなかったものを見ることができるようになる。
神様は私たちに今まで見えなかったものを見ることができるようにしてくださる方である。
この話をすると長くなりますから、エリシャの弟子が、アッシリアがシリアの大群に囲まれているときに、目の前には大群しか見えなかった。
でもエリシャが神に祈って、その下辺の目を開いたとき、敵の大群はそこにいたけれども、そこに神の群勢があって、彼らを取り囲んで守っていたのを見たという精神の回答があります。
これがエリシアの下の六章です。
神様が目を開いてくださって、私たちが見えていない神の素晴らしいものを見せてくださる。
現実は変わりませんが、別のものも見えてくる。
そして見えてくるのが、先ほど読んだ一書の十九節論。
神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力が、どのように偉大なものであるかを、あなた方が知ることができるように。
神様が目を開いてくださって、神様の偉大な力の働きがどれだけすごいかを見せてくださる。
神様はすごいんだ。それを見せてくださる。それだけではない。
30:04
私たちの内に働くということです。
私たち信じる者に働く神の力。
その力は、あのイエス・キリストにおいて働いただけではなくて、
イエス・キリストを信じる信仰をいただいた私たちの内にも働いている。
あの力が私たちの内にも働いている。
そのことを知り、体験していくようにとパウロは願っているんです。
私たち信じる者、信仰をいただいて歩んでいる者に、神の力が働いている。
実は信仰によって私たちは、イエス・キリストと一つに結び合わされたという言い方をすることがあります。
2章の5節、6節にこう書いています。
雷火の中に死んでいたこの私たちを、キリストと共に生かし。
6節には、キリストとイエスにおいて共によみがえらす。
あの2000年前に働いた、あの力は、今私たちが信仰によってイエス様と結び合わされる時に、私たちにあふれ流れてくる。
あの力が私たちの人生の中に、私たちの歩みの中に、私たちのあらゆる所にあふれ流れてくる。
私たちはキリストと共によみがえらせていただいて、罪の中に死んでいたものが、もう物事をめちゃくちゃにしかできなかった、死んでいたものが生き返らされて、
良いものを作り出すことができるものに変えてくださる。
いろんな力に支配されて、いろんなものに支配されて、もう振り回されていくことしかできない。
あっちに振られ、こっちに振られ、周りが流れればそっちに行ってしまう。
いろんなものに支配されていた私たちが、その収めるものに、キリストと共に、その天の所に座らせてくださっている。
信仰を通して、あのイエス・キリストの力を私たちのうちに沿い、私たちのうちにホーリネスを神が生み出してくださる。
信仰を通して、あの復活と昇天の力が流れ込む。
イエス・キリストを信じる私たちに沿って、二千年もあるということは無関係ではない。
あの力が私たちの今日、私たちに注がれているんだ。
同じ力が信仰によって私のうちに流れている。
信仰というのは単に頭の本じゃないんです。信仰というのは命なんです。力なんです。
あれが流れ込んでいる。
33:02
神様の一方的な恵みで、私たちのうちに力を注いで、信仰内にホーリネス強さを神様が始めてくださっている。
私たちが始めるんじゃなくて、神様が始めてくださっている。
そして神様が私たちを作り変える。
つまり私たちが作り変えられて、今まで何をしても物事をバラバラにしたり、めちゃくちゃにしたり、人を傷つけたりということしかできなかったものが、
困っている人を助け、崩れているものを合わせ、ごちゃごちゃになっているものを整備し、
死にかけているものを生かすことができるものに、神様が変えてくださっている。
問題を生み出すもの、問題を解決するものに、神が変えてくださる。
イエス・キリストにある信仰によって私たちのうちに働いて、神が変えてくださる。
神の働きをすることができるようになる。
この変化は、2章のところの1節から10節の中で、最初の部分と最後の部分を比較するとよくわかります。
2章の2節には、
それらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順の子らの中に働いている、霊に従って歩んでいました。
そういうこの世の流れとか、霊に従って歩んでいた、不従順の子らの中にあって、自分の肉の横の中に行き、
肉と心の望むままを行い、他の人と同じように生まれながら、身怒りを受けるべき子らでした。
もうダメダメだ。
ダメダメだった者が、2章の1節に、自分の罪と罪との中に死んでいた者が、
2章の5節で、罪かの中に死んでいたこの私たちを、キリストと共に生かした。
その結果、2章の10節。
私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリストイエスにあって作られたとまで変わっていくわけです。
罪に支配されて、自分の欲によって生きていた者が、身怒りを受けるべき者として死んでいた者が、
生かされて、神の力によって生かされて、良い行い、他の人のために生きることができる者へと変えられる。
神の力が私たちを変えて、現実となって私たちの行いに現れていく。
このように見ていくときに、私たちの歩み、私たちの強さ、私たちのホールネス、私たちのクリスチャンとしての良い歩みというのは、
自分が一生懸命努力したら生み出されるものではないということがわかります。
ああ、もっと清められなきゃいけないとか、ああ、もっと食い改めなきゃならないとか、もっと努力しなきゃいけないとか、
36:04
そういうことで生まれてくるものではないということです。
神様ご自身の業によるということ。
あれに豊かな神が、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに成してくださる。
神様が私たちのうちに生み出してくださる。
私たちの信仰のゆえに神様が生み出してくださる。
神様が御言葉を通して、福音を通して、私たちのうちに信仰を与えて生み出してくださる。
だから私たちの歩みは一言で言うならば二章の八節の言葉だ。
あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
救われたというのは何か、イエス様が信じて、罪に許されて、救われたという過去のことで終わってしまいがちですが、
これで言わんとしているのは過去に救われたことではありません。
今私たちの愛に全てを含めて。
神様が信仰を与えてくださって、神様が恵みの業を成してくださって、
神様が私たちを作り変えてくださって、神様があの偉大な力を注いでくださって、私たちは愛ものとなってくる。
私たちをそのようにしたいものだということ。
今でも頑張りすぎてはいないでしょうか。
神様の力が注がれるんだ、注がれているんだ。
私が頑張って何かがあるものではなくて、神様が力を注いで、その力によってさせていただくものだ。
具体的な話はお昼からさせていただこうと思っています。
けれども神様がのしてくださるその恵みの業が私たちの血に注がれて、私たちは良い業を、私たちの宣教の業をさせていただくことができるのです。
私たちはこの神様の素晴らしい恵みの賜物に本当に気がついているでしょうか。
聖霊によって私たちの心の目が開かれて、神様のあの絶大な偉大な力を見ているでしょうか。
神様から信仰が与えられているでしょう。
皆さんはひょっとしたら神様が与えているんだよというものを要りません、要りません、要りませんと日本的な謙遜さで断ってはいないでしょうか。
豊かなものや感想像を絶する力をイエスキリストに捧げ、信仰によって想像を絶する力をあなたに私たち一人一人に与えようとしておられる神様に、
39:00
わかりましたか、神様。ありがとうございます。喜んでもらいます。私に何もあるものはありません。何もありません。神様が全てです。
あなたが与えてくださったもの、与えてくださったもの全て、それは十分すぎるほどあるんです。
そのような神様の恵みの力を存分にいただいて、そこから歩み始めようではありませんか。お祈りをいたします。
39:24

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