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おはようございます。
今日も神様の恵みによって支えられて一緒に出会いできますことを感謝いたします。
先日は東北に地震が起きたり、この頃日本に地震が多いこともありますし、
個人的に家庭的にあるいは教会的に様々なことが起きている日々を私たちは送っているわけですけれども、
本当にこのような時代に次の日が来る、また次の日が来る、
目を開けて生きていることは本当に神様の恵みによって私たちは日々生かされているんだなと、
そういうふうに実感している日々でございます。
今日も心を尽くして、師を一緒に出会いしていきたいと思います。
また毎週私の治療のことを報告させていただいているわけですが、
先週の水曜日で一旦全部12回のうちの6回目まで終わりました。
本当に神様の恵みと癒しによって毎週欠かさず治療を受けることができることも恵みだと思います。
お医者さんも抗がん注射を6回連続で受ける人も、それができない人も多くあるみたいなんですね。
そんな中でユンさんも頑張って受けていてよかったですねと言われることも本当に皆さんのおかげの祈りを
神様が聞いてくださって治療を受けることができる、またそこに効果があるということは
本当に神様の素晴らしい恵みだと信じております。
今週の火曜日には精密に含む指揮をとって、実際にどれくらいがんが小さくなっているかどうかを見て
今後のことをまた進めていきますが、副作用が少しあったとしてもですね、
この薬が効いて治療が進んでですね、本当に12回以上は正直に受けたくないですね。
身体がしんどいこともありますし、そんなにめちゃくちゃしんどくて死にたいほどではないんですけれども
注射をもらったその日、水曜日、夜は手足がしびれたり筋肉痛みたいなのがあったり
なぜか寝れないんですよ、その日だけはね。
痛みのために寝れないんじゃなくて、何か活性されるのか分かりませんけど
もう夜中はほぼ寝れないんだけど、それで祈ったりね、いろいろして過ごしていますが
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でもこのように本当に生きていること、このように主に支えられて、誠実の方針だけになっていますが
これを差していただいていることは本当に主の恵みだと思います。
また私だけではなく、今白井姉妹も入院されていますし、無事手術も終わられたようですけれども
あるいは家族の中でもですね、いろいろ病の中におられる方々も大勢いらっしゃるわけですから
本当にその中でですね、単なる癒しだけではなくですね、癒しを含めて
神の恵みと癒しを体験して、そこで神を信じて、神の栄光をあらわす我々でありたいなと、そういうふうに願っております。
一言、水子を祈りします。神様感謝します。本当に神の恵みと力によって、癒しによって私たちがこの世に生かされていること
すべて神の恵みです。その恵みを日々覚え感謝し、主の皆をあがめ、主の栄光をあらわすものとさせてください。
今から主の御言葉を主御自身に語っていただきます。どうか私たち心を空っぽにして、素直な心をもって主の御言葉をいただいて
その通りに生きる力、恵みを上から満たしてくださいますように、お願いいたします。
感謝して、主に期待して、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン
今日は創石の12回目です。タイトルは神様の誠の友。神様の誠の友です。
ノアの話が続いているんですね。
今日も先週に続いて、神様とノアの関係を通して、また私たち自分自身が神様とどういう関係に生きているのか
それを顧みたり、またそれを模範としたり、あるいは悔い改めたり、あるいは感謝したりして成熟していく私たちでありたいと願います。
今日読んでいただいた御言葉、聖書、それから先週の御言葉から見ますと
神様は地のすべてが堕落して暴虐に満ちていることを主が御覧になって、すべてを消し去るとですね、その悔やみの中に主は決められたわけです。
消し去る、全部滅ぼすということ。
しかしそんな中でもですね、神様はノアとその家族を心に留めて、彼らを通して新しい創造をなさろうとしているということになります。
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というのはですね、神様が先週の御言葉にもありましたけれども、ノアの世代ですね、
この世代の中にあって、神の心にかなっているそのノア、あるいはその家族を神様が選んで、彼らを用いてくださったということになります。
今日はですね、この神様とノアの関係を先週はノアが神の心に共感したとお話ししました。覚えていらっしゃいますか、皆さん。
今日はそれはもうちょっと深めて、掘り下げてですね、こういうふうに話したいと思います。
もちろん、先週の御言葉に基づいたことですけれども、ノアは神の友だった。
神の友、ノア。ノアは神の友でした。
もちろんね、この6章とか7章以降を見たらですね、はっきりと神の友、ノアと見事が書かれているわけではありませんが、
私たちは旧約、新約、今日3カ所くらい開きますけれども、そこを見たらですね、
聖書の人物、彼らの信仰やその行い、そして神様との関係、交わりの関係を見てみると、
ノアはその後代のアブラハム、またモーセのように神の友であったということがわかります。
さあまずね、誰が神の友なのか、それを知るために、まず新約にちょっと行きましょう。
ヤコブの手紙2章23節開きましょうか。
新約聖書ヤコブの手紙第2章23節。
新しい聖書では、新約聖書の461ページですね。
新約聖書の461ページ。
ヤコブの手紙2章23節。
ここにですね、アブラハムについての見事が書かれているんですよ。
それでは一緒に読みたいと思います。ヤコブの手紙2章23節、ご一緒に。
アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた。
聖書の言葉が薄くし、彼は神の友と呼ばれたのです。
ここにね、彼は神の友と呼ばれた。
アブラハムを、あなたは神の友だとね、神様がもう認定してくださったわけなんです。
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神様を信頼したアブラハム、そしてその神の命令であった遺作を捧げなさいという、
その見言葉に、その命令に本当にしたかった、行ったアブラハム。
その彼を指して、聖書の見言葉は神の友と呼んでいるんです。
皆さん、誠の友は、神の友はどういう人なんでしょうか。
もう一箇所、イエス様の見言葉から学ぶことができます。
また開きますね。ヨハネの福音書15章14節。
ヨハネの福音書第15章14節。新しい聖書では216ページです。
今日はこのヨハネの福音書15章14節大事です。
これ何回もお話ししますので、覚えてほしいなと思います。
では一緒に読みますね。ヨハネ15の14。
私が命じることを行うなら、あなた方は私の友です。
もうイエス様はっきりと言われましたね。
誰が神の友、イエス様の友ですか。
神様がイエス様の言うことを、その命令を、そのことを、命じることを行う人が神の友達なんです。
これを覚えておいてください。頭に入れておいてください。
ですから、このイエス様の見言葉と、さっきのヤコブラの手紙のアブラーモのこと、
あとからノハのことを見ますが、どうですか。
なぜアブラーモを神の友と友達と呼べるんですか。
このイエス様の見言葉、ヨハネ15の14から言うと、
アブラーモは神が命じられたことを行ったから、彼を神の友と呼ぶということなんです。
神様と人間の関係を、イエス様と人の関係を、神様愛して、神様に信頼して、
ついていく人、従う人、命じることを行う人を、
友と呼んでいることに注目して覚えてほしいです。
これらを、いわゆるノアに当てはめていきたいと思うんです。
ではノアをアブラーモのように、イエス様が言われたヨハネ15の14のように、
ノアも神の友達と言えるんでしょうか。呼べるんでしょうか。
その資格と言ったらあれですけど、ノアにそんなところがあるんでしょうか。
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今日、読んでいただいた今日の聖書、歌書の全部を読むのは長いですので、
最後の今日の創世記の6章22節をご覧ください。6章の22節。
今日の聖書歌書ですよ。一緒に読みますね。
せーの、ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。
はい、どうですか、皆さん。
私が命じることを行うなら、そのあなた方は私の友です。
と言ったら、ノアは確かに神の友なんです。
すべて神が命じられたとおりにしました。そのように行いました。
詳しく言いませんが、箱舟は大きいですね。長さが約130メートルくらい。
幅が23メートルくらい。高さが12、3メートルくらい。
建物の3階、4階くらい。サッカー場1.5倍、2倍くらいの大きいものなんです。
それをノアは、もともと彼が大工屋さんじゃなかったでしょう。
あるいはどこどこのハオスの建築会社の建築家でもありませんし、
自分の下にたくさんの職員があって一緒に作れたわけでもないんです。
今から何千年も前の話だから。
それにノアは、どうですか。
すべて神が命じられたとおりにした。そのように行ったということなんです。
だからノアは神の友なんです。神の友なんです。
聖書を見ますと、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行ったと神に従う人物が聖書に多くいますけれども、
今日はアブラーノだけちょっと見てみますね。
創石の12章に行きましょう。
創石の第12章4節。
旧約聖書の17ページです。
そこの12章の4節と、先のノアの6章の22節をよく一緒に見たいと思うんですが、
12章の4節をまず一緒に見ますね。
アブラーノは主が告げられたとおりに出て行った。
まとめて、皆さん前の画面をご覧ください。
よく見てくださいね。ノアはどうですか。
ノアはすべて神が命じられたとおりに、そのように行った。
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アブラーノはどうですか。
アブラーノは主が告げられたとおりに出て行った。
もう全く同じパターンでしょ。
神が告げられたか、命じられたか、言われたか、同じ意味でしょ。
それをそのとおりに行う人なんです。
それはイエス様のヨハネの御言葉から見ると、
私が命じることを行うなら、あなたが私の友なんです。
だから、ノアもアブラーノも、今日は見ないんですけれども、
出現するときに出てくるモーセもね、
神が命じられたとおりに行う神の友だったんです。
もうノアもアブラーノも、全く同じ信仰のパターンを持っているわけなんです。
いいですか。覚えてください。
神の友は誰なんでしょう。
誰が神の友なんでしょうか。
それは神様が命じられたこと、神様が告げられたことをそのとおりに行う人です。
勝手に加減をしない、自分、自己解釈をしない、そのとおりに行うんです。
例えばノアがね、神様、この130メートル、これはちょっとデカすぎじゃないですか。
もう少し時間もかかるし、俺は歳もとってしんどいし、
ちょっと小さくするね、そんなこと一切しない。
そのとおりに行ったわけです。
ところが皆さん、大事なのは、なぜノアは、あるいはアブラーノは、
そのようにすることができたんでしょうか。
その根本のところが大事なんです。
神様を愛したからなんです。神様を愛しているから。
心から神様を愛して、心から神様を信頼しているから。
神様をたっとんでいるから、その私がたっとんで大切にしている方のお言葉も、
ご命令も、たっとんで大事にして従うということなんです。
ノアもアブラーノも、あるいはモーセも、私たちも、我々に足りなさがあります。
時には罪を犯したり、失敗したり、ミスをしたり、裏切ったり、偽ったりします。
しかし、それでも私たちは神様を愛しているから。
愛しているから信頼する、信頼しているから、たっとぶ、そして従うということなんです。
これはね、切り離すことができない一つなんですよね。
神様との関係だけではなく、人との関係を見ても、全く同じことが適用できるかと思うんです。
イエス様の御言葉のように、命を捨てるほどは別としてもね。
私が誰かを愛している、誰かを信頼しているならば、その人の存在も、その人の言葉やお話や頼み事も、
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それもどうしますか、たっとぶ、大事にするわけなんです。
それを従う、その通りにするわけなんです。
この関係が本当の友達と言える関係ではないでしょうか。
そして私たちがその美しい姿で生きるならば、私たちが生きているところ、その家庭、教会が天国になるでしょう。
ノアの話に戻りましょうね。
私たちはこのノアの記事をあまりにもよく知って、子供から大人までよく知っているから、
さっきも言いましたように、ノアが箱骨を作ったことを、あまりに当然の当たり前のように思ったりするわけです。
でも、決してこれはやりやすいことではないんです。
とんでもない神の命令だったわけなんです。
大工屋さんでもなかった、建築家でもなかった、一緒に作ってくれる人がたくさんいるわけでもない。
一度も作ったことのない巨大な船舶を作るわけではない。
どこかの小さな小舟、一人用のカーノみたいな小舟を作るわけでもないんです。
手伝ってくれる人も家族以外にはいなかったと思うんですね。
しかも皆さんご存知のように、ノアの時代まで、この大洪水が起こるまでには、
このような大きな洪水が起きたことは一度もなかったと、いわゆる創造科学者たちは言っているんです。
しかもノアはこの箱骨をだいたい80年から100年ぐらいかかって作ったと言われますから、すごいことなんです。
でもまた申しますが、ここまでノアが神の命令に従うことができたのは、その力、その原動力と言いますか、それはどこにあるんでしょうか。
神様を愛するから、神様を信頼するから、神様を尊く思って従っているから、
その方の見言葉も命令も尊くして従うわけなんです。
だからノアは神の友なんです、誠の友なんです。
2番目のポイントを見てみましょう。
でも私たちはこのように聖書を見て、ノアとかアブラムとかモーセとかヨシアとか、
あるいは他の人物を見て、彼らの素晴らしい記事を読むならば、私たちは到底できないし、それで引いてしまいやすいかもしれない。
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ところが皆さん、ノアがあるいはアブラムが神の友だからといって、
彼らが完璧な英雄で特別な超能力を持っていて、全く罪も死みも全くない神のようなものだったんでしょうか。
そうではないんです。
ノアは、私が知っているように、洪水が終わって雨が上がってからは、そこまでは立派だったんですね。
でもその後どうだったんだろう。
洪水が終わって農事をして、牧童酒をいっぱい飲んで酔っ払って、裸になって恥をかいた。
そしてそれが子孫にも大きな影響が与えられたんじゃないでしょうか。
アブラムはどうですか。
最初は、あなたに子供ができるよ、息子が生まれるよと。
サラも笑った。アブラムも笑った。
これは笑うということでは、実はからかおうという意味なんです。神様はからかって、そんなことありえませんよ神様、みたいな話なんです。
でもそのもっと前にはどうだったんですか。
神様がカナンにいて、そこに留まりなさいと言ったら、そこに危機が起きて、生きるためにエジプトに逃げて、
そこで自分を守るために夫として、男として、妻として、自分の奥さんを妹と言って、実際に親戚の妹は妹なんだけど。
そういうふうにして自分の命を守ろうと偽った。
ノアにもアブラムにもあるいはモーセにも、彼らはたくさんの失敗がありました。
たくさんの罪がありました。ミスがありました。こけました。つまづきました。
どうですか。でもそこでもう一度立ち直す。立ち直る。
もう一度主に近づく。あるいは悔い改める。あるいはそれでも私は神を愛しているんだからと言ってね、
その愛を告白して主に従う道を全うしようとしたということなんです。
だから皆さん、神の友というこの関係は、完璧な人になろうと無額そういう関係ではないんです。
私たちは信仰を持っていく中で、時々見ると完璧な人になろうと頑張る信者がいたりします。
ある意味で完璧になれないんです。完璧になれない。
信徒は神の前に頑張る関係じゃない。もがく関係じゃない。
愛の関係であって信頼の関係なんですね。
イエス様が言われました。大事な今しめは何ですか。
心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして頑張りなさいですか。
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違います。心を尽くして、力を尽くして、ぶわきなさいですか。
違います。何ですか。愛しなさい。愛することなんです。
心を尽くして主を愛することであり、心を尽くして主を信頼することであり、
そうすると神の心が分かってくる、知るようになる。
私もその心を持ちたい。共感できる。神の川に私も立って一緒に歩きたい。
時にはつまずいても、時には倒れても、時には罪を犯しても、
そこから立ち直って許してくださる恵みに預かって、もう一度神に従うこと。
その道を選び続けていくこと。それが立派な信仰なんです。
雨ですか、皆さん。これが神の友なんです。
これは神様との、神の誠の友であると言える人の生き様なんです。
私たちみんなが神の誠の友でありたいと願います。
ところが、ここで私が一つ注意してほしいことがあります。
それは聖書の人物、彼らの立派な行いを見て、
結果的に現れている何かの行いを見て、そればかり注目して、
その行いだけを見習おうとする。そこに全部気を取られてしまう。
例えば、ノアが箱舟を作ったその行い。
アブラムが父の家を出て、あるいは遺作を捧げようとした、あの行いみたいにね。
そればかり注目して、その行いを私もしようと、行いをしようとすると、
それはある意味で本末転倒の信仰になりやすいということなんです。
その行いだけを求めるのは信仰の根本ではありません。
もちろん行いはいりませんよ。心だけあればいいんですよ。
心だけあればいいんだから、皆さん来週から教会に来なくていいんですよ。
そういうような話ではない。行いは必要です。
ところが大事なのは、何が先なのか、何が根本なのかということなんです。
神の友は、神を愛して、神を信頼して、神の心を知って、神の関心事を知って、日々神様と深く交わりをする人です。
そうすると、その結果として、その愛する愛信頼交わりの結果として、自然に清い行いが、従順の行いが現れる。
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箱舟を作る、あるいは息子を捧げようとする、その従順の行いが出てくるのは、根本があるからなんです。
神を愛しているか、神の川に立って歩んでいるか、神が関心を持っていられることに私も関心を持って、
そこに私も全神経を使って集中して、そのために生きようとしているのか。
皆さん、原動力、力を持っていれば、その行いは自然に現れるんです。
神を愛して、神を信頼して、そうすると喜びに満たされて、もう神のために生きようとするんじゃないですか。
従おうとするわけなんですよ、愛するから。
でも逆に、その原動力がない、もう空っぽで、そんなままに何かの行いをしようとする、従順や何かをしようとしたら、
信仰生活はもうしんどいんですよ。楽しみもない、喜びもないんですよ。
厳選がないのに、何かを絞り出そうとするから、しんどさがあるだけなんですね。
だから皆さん、大事なのは、私たちの魂が、霊が根本的に日々生まれ変わること、新しくされることなんです。
私の魂が神の心に満たされて、神の霊に本当に満たされて、そうしますと、
自然と清い行いが、自然と美しい行いが、自然と神の心にかなった行いが、私から現れるんです。
その結果としての行為をしようと頑張らないと、自然に現れるんです。
そういう関係でやりたいんですね、神様と。
このように見ると、ノアだったり、アブラハムだったり、あるいはモーセだったり、
彼らは人間的な目で見れば、彼らの行いを見ても、時々そこに欠陥があります。
罪がありますし、ミスがありますし、失敗があります。
本当に私たちと変わらない、同じ罪を持っている人間なんですよ。
しかし、彼らにそんな結果的な行いには、足りなさや失敗があったとしても、
にも変わらず、神様との交わりの中に、深く入れていただいて、
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もっと深い恵みの杯を入れていただいて、
あるいは、もっと深い神の御言葉の中に行って、自分の魂を満たして、
神様と私のこの一対一の交わりの中に生きることなんです。
神の感心地が私の感心地になる、神の心が私の心になる。
だから聖書はノアを、あるいはアブラムを、正しい人、神の友と言われるわけなんです。
皆さん、そういう関係でありたいです。神様と私たちの関係が。
いかがですか、皆さん。心から神を愛しているでしょうか。
神の感心地が私の感心地になっているんでしょうか。
何とかして神に応答していきたいと願っているんじゃないでしょうか、皆さん。
だから今日もここに皆さん来て、心から礼拝を捧げているんじゃないでしょうか。
私自身、この病気を通して、前も少し話をしましたけれども、
もちろん病気が癒されることも大事だと思うんですけれども、
本当に願って祈っていることは、病気がただ癒されることだけでなく、
ある意味でもしも癒されなくても、私自身の魂が、霊が、私の生き方が、
本当に神の友と呼ばれるもので、ものになりたい。
本当に心から神を愛する口先だけではなくて、
本当に神が見て、もうあなたは心から私を愛している、
神様が認めてくださる、そういうものであれば、
たとえ私が病気で死んでも、私は喜ぶ。
神に受け入れられるから。
傲慢にならず、謙遜になって。
神を愛する愛を持って、神の愛に満たされて、
また私が皆さんを愛する愛の牧者になること。
これからどれくらい神の前に、牧会者として奉仕ができるか分かりませんけれども、
できる限りは本当に、私の願いは、
もう私を通して神様があがめられることですけれども、
それでも、ああ、良い牧者に出会ってよかった。
その一言を言われれば、それで私は、
ユン先生を通して神を知ることができた。
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神に近づくことができた。
ハレルヤ主の皆があがめられますように。
そして神の皆が褒めたたえられれば、私はそれでもう十分なんです。
神を愛しているでしょうか。
神様に従っているでしょうか。
心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、生きようとしているんでしょうか。
メッセージを終わりたいと思います。
ノアは神様と共に歩みました。
神様もノアと共に歩まれました。
ノアは神の関心を自分の関心としました。
自分の人生の中心に神を受け入れたわけなんですね。
そしてそれに喜んで心から応答しました。
時には失敗があってもね。
だから彼は神の友と呼べるんです。
願わくは私たちがノアあるいはアブラームのように
神の友としてこの進行の道を全うしていきたいと願います。
このような恵みが力が我々にありますようにお祈り申し上げます。
お祈りしましょう。