1. 名谷教会
  2. 2014/07/20:聖日礼拝(旧音源)
2014-07-20 50:28

2014/07/20:聖日礼拝(旧音源)

2014/07/20 聖日礼拝(旧音源)




00:01
それでは皆さん、今日もメッセージに入る前に、お互いにですね、挨拶をしたい。
また、私はもちろん、よろしくお願いします。結構いらっしゃいました。
はい、それでは一緒に音をお祈りします。
神様、今日のこの朝の仏を成仏して、私たちを集めてくださいました。
三行通して、あなたが私たちにその美しみと恵みと愛をお添いでください。
また、私たちは神に元気をお返しできたことを感謝いたします。
どうぞしよう。今から、好きなる神様が、神様ご自身が、私たち一人一人に語りかけて、教えて、導いて、悟らせて、どうぞ恵んでくださいました。
初めての方々の上にも、また、いつも私を愛し支える、兄弟姉妹らしの上にも、どうぞしよう。
豊かな豊かな恵みを、恩受けさせてくださいました。
どうぞ、霜が降ります。私をどうぞ、お抱きください。
感謝して、いられたイエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
今日は、キリスト教のエッセンスのシリーズメッセージの、
今日からは、神様、それからイエスキリスト、次は聖霊様について、御言葉に学んでいきたいと思います。
皆さんは、それぞれ信仰、年数が多いかと思いますね。
ある方は数年、ある方は何十年も、なられた方々もいらっしゃるでしょう。
では、皆さんにとって、神様はどんなお方なんでしょうか。
自分にとって、神様はどんなお方なんでしょうか。
今から、15秒ほど、考えていただきましょう。
自分にとって、神様はこんな方たち。できれば、一つの文章でまとめればいいんですけれども。
それをですね、考えられたことを、誰かに教えてあげる、あるいは言ってあげることができるほどの、一つの文章で考えていただけますか。
03:06
しばらくの間、考えていただきましょう。
自分にとって、神様はどんなお方なんでしょうか。
はい、いかがでしたか。
私にとって、私が信じている神様は、こんな方ですよ、と言えるんですよね、皆さん。
それぞれの、皆さんが今までお会いした神様、恵まれた神様、助けてくさった神様、救ってくさって、
時には慰めてくさって、時にはすごいことを起こしてくさった、この神様を、私たちが信じているわけですね。
今日は大きく二つ、私たちが信じている父なる神様は、どんなお方なのか。
二つを聖書から学んでいきたいと思います。
まず一つ目は、父なる神様は、私たちといつも共にいてくださる方です。
いつも共にいてくださる方。
つまり皆さん、神様は、私たちといつも共に少し一緒にいたいと願っています。
それはなぜでしょうか。
私たちはですね、本当に私たちのことが大好きだから、愛せるから、私たちといつも一緒にいたいと願っておられるお方です。
それは皆さん、私たちが大切なことをしていなくても、ただただ、私だけは神様の子供だから、私だけのことを愛しておられる。
そして、私たちと共に過ごしたい、共に歩みたいと願っておられる。
だから皆さん、それを考えるだけで、本当に嬉しいんです。気持ちいい。
父なる神様が、私たちと一緒にいたいと願っておられる。
その神様が皆さん、弱い時にも、病気の時にも、失敗した時にも、がっかりしている時にも、いや、何事もなく平穏無事の時にも、主はいつもそばにいてくださる。
06:16
皆さん、その神様を常に日ごと、その神様と歩んでいらっしゃいますか?
本当に、父なる神様は、私のそばにいてくださるんだと。
それを感じて、気づいて、それを見て、経験して、歩んでいらっしゃるでしょう。
神様はいつもそばにいて、離れない。
しかし、私たちの人間は、人も人の間に出会いもありますけれども、別れもあるんですね。
あるいは、昨日まではもうすごく愛していた恋人でしたけれども、いろんな事情があって別れる場合もある。
あるいは、いつも一緒にいたいと願ってはいるんですけれども、やむを得ず様々な事情があって一緒にいることができない。
何かを一緒にやることができない。
そういうことも、私たちの人間の世界にはよくあることなんですね。
私は小学生の時です。親は職場をしていたので、学校で運動会をするんですよね。
昔、日本もそうだったかと思うんですけど、小学校の運動会は街の祭りみたいなことでしたね。
だから、もう親からおじいちゃん、おばあちゃんもみんな集まってですね、運動会を見て、お昼を一緒に食べたりですね。
そういう街のような時でした。
私の小学校の時、運動会の時、ずっと私はお母さんとかお父さんじゃなくて、おばと一緒にずっとお昼を食べていました。
あるいは遠足に行くんですよね。近くの山とかに遠足に行くんですよね。
そうすると、その時にもいつもずっとおばの親戚と一緒にお昼を食べていました。
職場をしていたからですね、もうやむを得ず行きたいんだけども、一緒にいられなかったんですね。
そういう小さい時を過ごした私ですから、子供が3人いるんですね。
できれば何か発表会とか、何かある時にそこにいたいと願うんですけれども、
09:02
牧師になってからですね、もうやむを得ず教会の行事と重なってですね、一緒にいられない、一緒にいけない時がよくあります。
皆さん、私たち人間はそうなんです。
しかし、実なる神様は、やむを得ず今日はちょっとごめんね、一緒におられないよ、そんなことはない。
では、一箇所見てみましょうか。
第1節大きい読書13節です。
旧約聖書第1節大きい読書13節。
旧約聖書587ページです。
よろしいですか。
では、ご一緒に読みたいと思います。
私はイスラエルの子らの肌中に住み、私の民イスラエルを捨てることはしない。
アーメン。
皆さん、実なる神様はイスラエル、つまり私たちの肌中にお住まいになるんですね。
お住まいになるんです。
この住みという言葉は、ずっとずっと住むという意味なんです。
それから、私の民イスラエルを捨てることはしない。
私たちが良いことをした時、偉いことをした時だけではありません。
愚かな時にも、失敗した時にも、弱い時にも、変わることなく、
いつも、私たちの肌中にお住まいになる。
そして、こじにはしない。捨てることはしない。
だから皆さん、安心してください。
神様は、朝は私たちのことを見て、大好き、大好きで、
ここにあって、お前はダメだなって、捨てていくね。
そんなことは、ずっと変わることなく、
共にいてください。私たちの肌中に住んでください。
皆さん、世の中にこんなに素晴らしい良きお父さんは、どこにおられるでしょうか。
他にはありません。
皆さん、ここにですね、肌中に住みという言葉は、その通りです。
12:03
神様は、私たち一人一人を、神様のお住まいにするホテルではありません。
宿屋ではありません。ただですね、何日か泊まってですね、
去っていく神様ではなく、ちょっと会って別れる神様ではなく、
ずっとずっと、私たちの肌中にお住まいになる。
そして、そこで働いてくださる神様、
慰めて、癒して、助けてくださる神様が、そばにいてください。
だから皆さん、父なる神様が、私たちの肌中に住んでくださる、
その人生はですね、祝福されることに決まっている。
父なる神様は、お住まいになるけど、何事もしなくてですね、
眠っているばかり、引きこもっているばかりっている方ではない。
働いておられる神様、助けてくださる神様、
身業を起こしてくださる神様、養ってくださる神様、
涙を拭い去ってくださる神様なんですね。
皆さん、この世には私たちが、この神様の存在を、
神様のご臨在をいつも感じ、いつも覚え、
そして神様とお会いして、神様と面と面を向かって対面して、
共に歩みたいです。
西時代のクリスチャーは、この神様が共にいるということを、
ダテン語でコーラム・デオと言います。
よく使います。それは、神様の臨在につきなんですね。
コーラムというダテン語は、前に所属です。
デオは、神と言います。
つまり、コーラム・デオは、神の御前に、
生ける神様の御前に生きる。
神様が本当にそこに臨在していらっしゃって、
その神様の御前に私は生きるんだ。
神の御前に私は歩むんだ。
という神様の御臨在意識をずっと持ち続けています。
会社に行っていても、街の中にいても、礼拝の場にいても、
目の場にいても、一人でいても、どこにいても、
15:02
自分は神の御前に立っている。
神の御前に生きるという信仰の意識を持っています。
これは大事なんですよね、皆さん。
私たちの信仰は、この礼拝の時を、
もちろん、お家で家族と一緒にいる時に、
どこか遊びに出かけている時に、
会社で仕事をしている時に、
隣の神様をまだ知らない方々と様々な関わりを持っている時に、
あるいは病院に入院している時に、
何かを、買い物をする時に、
仕事をしている時に、
いつも、自分は神の御前に立っている。
自分は神の御前に生きる。
という神の臨在意識を持って歩むことが大事なんです。
もう一箇所、セースを開きたいと思います。
2編、139編です。
139編の1から3。
では、1節から3節をまず見ていきたいと思います。
主よ、あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは、私の座るのも、立つのも知っておられ、
私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと、私の進むのを見守り、
私の道をことごとく知っておられます。
それから、7節から10節まで、また見てみましょう。
7節からです。
私はあなたの御前から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。
たという、私が天に登っても、そこにあなたはおられ、
私が闇に床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼を駆って、海の果てに棲んでも、
そこでもあなたの右手が私を導き、
あなたの右手が私を捕らえます。
アーメン。
18:01
皆さん、この詩はですね、誰々がですね、
ああ、もう神様、ずっといつかからもう困るな、逃げられないな、
という詩ではないんですよね。
ああ、自分がどこにいても、
あの本族に泥沼にですね、そこに覚えていても、
そこにも人は共にいてくださるんだ。
そういう心強い感謝の気持ちで歌っているこの詩なんですよね、皆さん。
神様はですね、いつも今日のこの詩のようにですね、
私のことを知っておられる。
そしていちごらはさくらしか、神にどう使っているのか、
使えているのか、信仰のともにどう接しているのか、
あるいは社会で、町で、会社で、学校でどういうふうに過ごしているのか、
神の愛を、クリスタルにだけではなく、
神を知れない人々にも、隣の人々にも、
どういうふうに愛の実を結んで振る舞っているのか、
神の歌詞を、すがにいちごらで報えてくださるんです。
それが、共にいてくださるお方なんです。
一つの北海道で墓解された先月のお話をしたいと思います。
開拓を、小竹の近くのところで開拓をされました。
今から15年前でしょうか。
開拓は教会ですから、まともな牧師間を刈ることも難しい。
教会の街道は、小さいものがなんとか支えられました。
その先月の4人家族が、60年以上になった本当に古い家で住んでいました。
その先生の話は、一年中虫が出るんです。
春は春の虫が、夏は夏の虫が、秋は秋の虫が、冬にも虫が出るみたいですね。
ずっと虫と共に生きる。
しかも、その教会の近くにはなかなか家がなくて、
車で私も実際に行ってみたんですけど、
ここから西武教会ぐらいの遠いところにお住まいがありました。
ところが、そのお住まいと教会の間に、あるおじいちゃん夫婦が暮らしていて、
通り道にあるんですね。
選挙時の息子さんがいるんですけど、
僕は中学生だったんですね。
よくそのおじいちゃんのところに遊びに行きました。
そして、そのおじいちゃんも将棋をとしたり、話し相手になったり、遊んだり。
選挙時の奥さんがたまにおいしいものを作ってさせあげたり、
21:04
そうして、電動するぞ、そういう気持ちじゃなくて、
ただ、このような人だから仲良く暮らしていました。
最初は、その家は息子さん夫婦が一緒に暮らしていて、立派な家を建てて、
しばらく住んで、息子さんの家族が東京に遣進して、お二人だけ暮らしていたんですね。
そして、それから結構、7月にそういう風に仲良く過ごしていました。
で、そのおばあちゃんが亡くなられて、おじいちゃんも人へ暮らしが早いんですから、
被災に移られました。
そして、引っ越しされる7月に仲良くしてから、本当に泣きながらお別れをして。
1ヶ月が経って、息子さんが家を処分しに来ていました。
だから、ずっと自分たちがいないうちに、選挙地の家族がまるで自分の息子のように、
お父さん、お母さんによく来てもらったんですね。
ただ、その息子さんのふうが選挙地のところに初めて来て、あの家を処分したいんですけれども、
ずっとうちの親のことをよく知ってくれたので、よかったら助けてほしいと言われました。
しかし、立派な家だったし、今の60年のボロボロの家に買った家賃、5万円ぐらいだったと思うんですけど、
それを精一杯で出して暮らしていて、それはもう買うのは無理ですとお答えしました。
そしたら息子さんが、「いくらだった?貸せもらえますか?」
「いやいや、買うのは無理です。到底無理です。」
そしたら、「賃貸にしてかけてみましょうか?」
「いや、今5万円も精一杯です。」
「どれぐらいだったら借りられますか?」
そしたら、「今5万円だから、5万円より安かったら借りることもできるかもしれませんよ。」
その息子さんが一旦帰って、翌日か一週間後に帰ってきて、買ったら3万円でした。立派な家でした。
北海道からですね、別海道なんですよね。庭も広くて、家も4LDKか5LDKだったと思うんですけどね。
それを買った3万円。しかも10年、20年もいいですから、ずっとここにお住まいしてました。
そしてほぼ10年、そこで3万円、あそこで賃貸。
自分の家のみたいにですね、家の前に金の乱人さんの名前もして。
皆さん、神様は、私たちが日ごろ恋愛している時だけではなく、日ごろですね、町中で会社で学校でどういうふうに私たちが過ごしているのか、
24:10
いつも共におられるわけですから、見て知っておられ、そしていざとした時に、
人が共にいてくださる方が働かる。助けて、周りの人々の考えも気持ちさえも人が変えて、
ご自分のためのために助けてくださる方が、共にいてくださるお方。
その話の後ですね、そういうふうにですね、契約した時にですね、教会の神徒さんがですね、20人、17、18人くらいだったそうです。
その神徒さんが、その先生にこう言ったそうです。
先生もずっと申し訳ない気持ちでした。
あの虫いっぱいのお家に暮らしていらして、もう遠くて、本当に申し訳ないぐらい、ずっと祈っていましたよ。
やっぱり神様、祈りに応えてくださるんですねって、みんなが喜んでいました。
皆さん、このような共にいてくださって、助けてくださる神様に対応したい。いつも応援したい。
その神様が、私の神様はこんなに素晴らしいお方ですよと、証しできる私たちでありたい。
2番目、好きなる神様は、語りかけてくださるお方。
語りかけてくださるお方。
皆さん、好きなる神様は、私たちに語りかけて、教えて、示してくださることが、神様は大好きなんです。
神様はおしゃべりが好きかもしれません。共に話し合うことが大好きなんです。
もちろん神様が沈黙になった時もありますけれども、
聖書を荘石からずっと見ていきますと、いつも神様は、自分の民にずっと語りかけられるんですね。
アダムに、アベルに、ヒアカイにも、ノアにも、アブラームにも、アノハガルにも、アノ全ての神の民にしわ、
時には励ましの言葉、時には忌ましめの言葉、時には教訓の言葉、時には愛の言葉をですね、語りかけて、語りかけてくださる。
その神様が今日も、私たちに生きておられ、語りかけておられます。
27:00
皆さん、神様はいろんな方法を用いてですね、私たちにお飾りになる。
皆さんは、どういうことを通して、神様の御声を聞いていらっしゃいますか。
礼拝を三秒放出、あるいは祈り放出、あるいはね、こういうメッセージを通して、神様の御声を聞いていらっしゃるんですよね。
神様はまず、私たちに、この旧神約聖書をもって、私たちにお語りになる。
私たちがもっとも耳を傾けるべき神の御声は、この旧神約聖書なんです。
ところが皆さん、千年前、二千年前に書かれたこの聖書がですね、むかしむかし大昔の頃ともつが、
どうして今も私たちに当てはまる言葉が書かれていると信じられるのでしょうか。
それはですね、神様は永遠から永遠までおられるお方ですから、神様には時間という概念がないわけないですね。
神様には、五千年前も今と同じ、今日と五千年後も同じなんですね、神様には。
ですから、数千年前にお語りになったとしても、その言葉は今日も有語で真理の御言葉で、私たちにぴったりの当てはまる御言葉なんです。
その御言葉に耳を開いて、御言葉に耳を傾けて聞こうとするものに私は語りかけてくださるんです。
このですね、聞こうとする話を語りください。あなたの言葉が聞きたいですし、どうぞお語りください。
という真理の御言葉は見られて、語りかけて、教えてくれます。
聖書を一箇所見てみましょう。
まずは新明記29章9節。
旧約聖書新明記29章9節。旧約聖書355ページです。
それでは9節を一緒に読みませんか。一緒に読みましょう。
30:02
3、あなた方はこの契約の言葉を守り、行いなさい。あなた方のすることが皆栄えるためである。アーメン。
もう一箇所、4編119編。1節から3節です。
このですね、編119編は、1節1節が全部神の御言葉を意味する箇所なんですね。
1,026ページです。旧約聖書1,026ページ下の段です。
119編、1節から3節。一緒に読みましょう。
3、幸いなことよ、まったき道を行く人々。主の御教えによって歩む人々。幸いなことよ、主の悟しを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
誠に彼らは不正を行わず、主の道を歩む。アーメン。
皆さん、どんな人生が幸いな人生なんでしょうか。主の教え、つまり主の御言葉によって歩む人々。
皆さん、聖書は完全経路です。神様の完全な経路なんです。
ですからこの聖書の御言葉を皆さんどうぞ、仏の皆さんの霊の糧にしていただきたいと願っております。
ここに気持ちがあるわけなんですよね。どうですか、皆さん、このごろ、聖書の御言葉をよく読んでいらっしゃいますか。
司会を求めていらっしゃいますか。神の御言葉に。
また神様は祈りを通して私たちに語りかけてくださる方です。
祈れば私たちは神様の御心を知ることができます。
だから神様が求めれば与えられると教えたわけですから、神の御胸を求め、行くべきところを求め、
あるいはどうすればいいのかわからないときに、主を教えてくださいと求めるときに、主は教えてくださるんですね。
すべてを知っておられ、共にいてくださるわけですから、私たちに何が必要なのか、今どこに行くべきなのか、
33:03
これをすべきなのかやめるべきなのか、すべて主が詳しく具体的に教えてくださるんです。
教えてくださらないわけではなく、ある意味で私たちが求めていないからであるかもしれません。
祈りは神様が私たちにお語りになるときであり、また私たちが神様に申し上げるときでもあります。
祈りは神様との会話のときであり、コミュニケーションのときであり、神様の御心を知り、私たちのこの心、心情を申し上げるときが祈りのときです。
ですから皆さん、日ごろお家ででもいいでしょう。あるいは教会ででもいいでしょう。あるいは会社でもいいでしょう。
皆さんのいるそこでお祈りください。車の中でもいいでしょう。一人でいるときもいいでしょう。
常に神の見所が何なのか、それを求めるものにしては語ってくださるんです。
聖書を一箇所見てみたいと思います。第二サムエル記です。
第二サムエル記2章、1節から4節までです。旧約聖書525ページです。
さあ、読む前にちょっとだけ背景を説明申し上げますと、初代のイスラエル王サウルは、ダビデを嫉妬してずっと彼をいじめておって殺そうとしました。
その日サウルが死にました。そしてユザの全ての人はダビデを追うとしようとみんなと願っていました。
さあ、そのときにダビデはどう振る舞ったのか、何をしたのかご覧ください。1節から私が読みますね。
この町ダビデは主に伺っていた。主に伺っていた。祈って教えてくださいとお勧めしたわけなんですね。ユザの一つの町へ登って行くべきでしょうか。
36:05
今ですね、ユザの人々がみんな待っているんですよ。さあ、どうぞおいでください。早くウチの王になってほしいです。みんな待っているんです。登ればいいんです。しかしダビデは神様に伺うんですよ。ユザの一つの町に登って行くべきでしょうか。
伺いました。まず神様にお勧めしました。みんなから、さあどうぞ王になってくださいと言われる。もう王になってもですね、誰も反対する人がいないんですよ。みんなね、サウロは死んで、もう当たり前のような状況なんです。しかしダビデは自分が決めて王になるのではなく、神に伺いました。
そしたら神様が答えてくださるんですね。すると父は彼に、登って行けとおっしゃられました。そしたら登って行けばいいんですね。答えられたから。しかしダビデはもう一度具体的に求めますね。
ダビデがどこへ登るのでしょうか。ユザの町が多くあるわけですから、どの町に登るでしょうかとお勧めしました。聞くと父はヘブロンへとおっしゃられた。そしたら大丈夫です。ユザのヘブロンへ登って行けばいいんです。
答えがあったからですね。そしてダビデはヘブロンへ行きました。家族を連れて行きました。四節、そこへユザの人々がやってきて、ダビデに油を注いで、ユザの家の王としたんです。
皆さん、常に神様に祈って道を求めていますか。聞いていますか。死をどうしたらいいのでしょうか。今行くべきでしょうかと聞いていますか。
神は語りかけてくださるお方ですから、常に求めて祈ってください。死はこのように祈りを通して語りかけてください。また、神様は教会、教の場へ、この教会を通してでもお語りになる。何かの徹底を通して死は語ってくださる。示して導いてください。
あるいは信仰の友を通して死は教えてくださるんですね。だからこの信仰の兄弟姉妹たちとともに交わり、ともに信仰生活をし、ともに学び、ともに奉仕をすることはすごいめずみなんです。
そこから誰々姉妹を通して、誰々を通して、死が人事を語ってくださる。ああ、そうだ、そうなんだと。そして死のうれしい時があるんですね。だから交わりが大事なんですよね、皆さん。
39:14
皆さん、神様はこの世界のすべての人を、すべてのものを、すべての状況を死は用いることができるんですね。それを用いて語りかけてくださるお方なんです。
ですから皆さん、私たちが耳を開いて、神様に耳を傾けるなら、死は必要なことを教えて語らせてくださる。そういう恵みを私たちが体験したい。そういう神様に日々お会いしたい。そして明かしたいことを願ったい。
神様はお語りになるのが好きです。話し合うのが好きです。だから皆さん、よくよく求めてください。お勧めしてください。
神様、あなたの見心は何ですか。神様はこのことはどうしたらいいんでしょうか。神様は、急に大きなお金が与えられましたけれども、このお金はどうしたらいいんでしょうか。
あるいは、神様、好きな人がいますけど、この人、結婚しましょうか。やめましょうか。神様、ある人から頼まれたことがありますけれども、助けてやりましょうか。やめましょうか。
神様にこの信仰の知性を、神様は応えるのが大好きなんです。だから、よくよくお勧めすれば。しかし、また来たか、そして腹を立てる、そういう方ではないんですよ。もううるさいとか、そういう方ではない。
何度も聞いても、何度も聞いても、百年聞いても、主は百年です。応えてくださるお方なんです。皆さん、この神様にダビデが神様にお尋ねしましたね。それはどういう意味があるんでしょうか。
これは、神の権威を認めるという意味なんです。私は主も別、あなたは主です。主のおっしゃる通りにします、という、この謙遜な態度がそこに潜んでいるわけなんです。
仏会をしていきますと、こういう方にひばひばお会いするときがあります。例えば、考えていなかった大きなお金が与えられた。株の配所金をもらったとか、あるいは退所金をもらったとか、あるいは貯金が満金になってお金をもらったとか、あるいは償還金をもらったとか、あるいはボーナスをもらったとか、
42:14
そういうときに、先輩の人は神様に聞きます。神様、こういうお金が与えられました。手に入りました。神様はどうすればいいんでしょうか。働ける力も職場も命も神様のものだから、この金もあなたのものです。
神様、何のために使えばいいんでしょうか。誰のために使えばいいんでしょうか。とお尋ねすることが金庫の知性なんです。そうしたら神様が教えてくださるんです。そしてその通りにしますと、神様が幾倍も満たしてくださるんです。
一つ先週に鹿児島めぐみ教会の白尾先生から教会にお願いの手紙が届いていました。白尾先生は女性の先生で、あそこに行かれて17、18年開拓されて、今まではビルの一つの会を借りて恋愛をしておられました。
神道さんは本当に少ないんですね。今やっと17、18名が集まっている教会になりました。当時は九州にいるときには一度行ったことがありますけれども、10人も集まっていなかったんですね。
その中でずっと建築をいつかは人が知ってくださるだろうと墨立ててきました。しかし家庭が7、8、10、12、3名だから、そんなに多くの金額を建てることも難しかったわけです。
あと120万円ぐらい墨立て金がありました。しかしそれだけでは一軒家を買うことも難しいでしょう。教会のみんなずっと祈っていたそうです。
そのところ、神様の教会のある方が財促をなさって、財促金の一部を建築研究に捧げたそうです。約300万円か400万円ぐらいだったらしいです。
決して少ない金額ではないんですよね。その方が金持ちなのか貧しかったのかそれを渡してわかります。大事なのはお金の金額ではなく、財促金は自分が何十年か働いて、そしてその自分の報いだから、自分のためにはどこのために作っていいんですよ。
しかしその方が神様に間違いなくお聞きしたでしょう。神様この財促金をどう使えばいいんでしょうか。そしてその一部を結構大きな金額を神の教会のために捧げた。
45:18
そのどうすればいいんでしょうか。その大きくあの金庫の姿勢、そしてそれを喜んで捧げたあの金庫のあの心を主が見られたわけなんです。もうすでにその方は大に祝福された方だと私はもう信じます。
皆さん、大事なのは金額とかそれをお金のことではありません。私たちが一つ神様にいくらお聞きしているかどうか、そしてその方のその相当な金額が天地に捧げられて、
その捧げまわされた寺尾先生が寺を見たところ、ちょうどいいところに一軒家がありまして、しかしまだまだ足りないんですよね。天地の手持ちがあっても足りない。
そのところ旧式教府のある教会の教会が臨時総会を開いて、二千万以上の融資をその教会が借りて、また教会に。神様が早い働かせてくださるんですね。着々進んでいるらしいです。
皆さん、一人の献金が大きな励ましになり、力になり、それがまるで火爆剤のようになって進まれているんです。皆さん、求めれば、祈れば、主が教えてくれます。語りかけてくださるお金。
どうか皆さん、神様は私たちと共にいてくださって、そしてお語りになる。ですから皆さん、一人一人のことのためにも、あるいは家族のことのためにも、あるいは教会の働きのためにも、これからの道の歩みのためにも、
神様に伺おう、祈る、求めるとお受けいただいて歩んでいく私たちでありたい。ダビデのようなクリチャンでありたい。そうするならば神様がもうすべて備えて持っておられるわけですから、主から応えられて歩むならですね、着々進んで素晴らしいことが起こるでしょう。
48:08
人生の道を歩む私たちは、右に行こうか、左に行こうかと悩むことがありますね。特に今いるところに苦しみがあるとき、思い切ってそこを出たいとも思いますけれども、行く先にはさらに大きな試練が待ち受けていることもあり得るでしょう。
右か左か、出るべきか、留まるべきか、私たちの心は不安と恐れでいっぱいになるかもしれません。しかし、そんな私たちのところにやってきて語りかけてくださる神様がおられます。私があなたと共にいると。
ですから皆さん私たちは、自分がいる場所がこの持ち場、立場が私たちに祝福を与えると思いがちですが、しかしそうではない。私たちに祝福を与えるのは、場所ではなく、組織ではなく、あるいは仕事ではなく、
共にいてくださる神様。見つけることのない神様。ずっと一緒にいてくださる神様。語りかけてくださる神様が祝福しています。何もないように見える荒野に道を設ける神様。そして人が通うところにしてくださる神様。砂漠に雨を降らせ、そこに水のあるところをこなさる神様がいます。
私が、皆さん一人ひとりが両谷教会がそういう神様の栄光を働き出すみたいです。そして明かしていきたい。栄光を返していきたい。そういう人生を歩もうではありません。
最後に、唐石二十八章十五節を私から読み出します。
見よ、私はあなたと共にあり、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻すと、私はあなたに約束したことをなし遂げるまで決してあなたを捨てない。
お祈りしましょう。
50:28

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