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2021-02-21 35:50

2021/02/21:創世記(8)あなたはどこにいるのか

2021/02/21 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 3:1-10


00:00
みなさんおはようございます。
3週間ぶりですね。
31月31日にメッセージをさせていただきまして、
また2週間、本当に何から何まで斎藤先生に支えられていますけれども、
2週間の斎藤先生の講師も本当に心から感謝いたします。
本当に助けてくださって、癒してくださる神様の皆を賛美してあがめます。
また、みなさんの熱心な祈りにも本当に心から感謝申し上げます。
初めての抗がん剤の治療なんだけれども、
どうしても髪の毛が抜けることは、防ぐことはできないんですね。
それは通るプロセスだと思います。
また、本当に不思議に、他の人はどうなのか分かりませんけれども、
本当に多くの方に祈っていただいて、神様が力をくださって、
大きなダメージというか、副作用もなく、痛みもなく、
割と油断してはいけないと思うんだけれども、
割と元気というか、普通に家で暮らしております。
吐き気もほとんどないですし、なるべく体力が落ちないように食べておりますし、
また本当に全てが神の恵みです。
金曜日、3回目の抗がん剤の投薬をしました。
その前に血液検査とレントゲンの検査をしましたところ、
血液的には、はっきりと少し落ちていますけれども、
まだ危険な段階ではないですね。
それと感謝のことは、レントゲンの検査をしたところ、
入院前と比べて、私が見ても分かるくらいの右の肺の影がだいぶ薄くなっています。
先生も補がん剤がよく効いているようですねと言われました。
本当に感謝いたします。
神様は生きておられて、私たちの祈りに応えてくださっておられること、
本当に信じて感謝いたします。
また3月3日から週に1回、水曜日になってしまったんですけれども、
また4・5・6回の補がん剤をする予定にしております。
本当に願わくはですね、私のこの糖尿と、またその癒しを通して、
神様の栄光が現されて、本当に私の神様は生きておられるんだと、
03:00
神は聞かれる、主は癒してくださると、その証ができる。
我々でありたいなと、そういうふうに願っております。
一言短くお祈りします。
我々は主よ神様、感謝いたします。
あなたの恵みを本当に心から感謝いたします。
今日もこのようにして、あなたを崇め賛美するために、ここに兄弟姉妹たちが集まっております。
この小さき者も主が立たせてくださいましたから、どうか私ではなく、
神様ご自身がお語りくださいますように。
その御言葉によって生きるようにしてください。
イエス様の皆によってお祈りします。
アーメン。
葬式の、今日8回目です。
参照に来ました。
葬式の内容はとても多いので、
細かいところまで行くよりは、
重要なところの御言葉を優先にしてお伝えしていきたいなと、そういうふうに思います。
1月31日にですね、神様と人の関係という題で、メッセージを取り付かせていただきました。
そこでですね、
私たちは被造物である神を恐れ賛美するものとして作られた。
私たちのこの位置がどこなのか。
それは神様が預けてくださったこの自然世界を管理するものであり、主を恐れ崇めるものである。
神様が主である、神様が創造主である。
その秩序の中に生きることが幸いであるということをこの前学びました。
今日はその後の話になりますが、
アダムとエヴァはですね、この素晴らしい愛と義の関係をよく知って、
そして最後まで疑わず、油断せず、惑わされず、この従順の道を歩むべきでした。
それが人が生きる生き方なんです。
神様がデザインした、神と人の秩序の中に生きる素晴らしい祝福の生き方なんですね。
人が人として美しく幸せに生きる生き方、歩むべき生き方、デザインされた生き方だったんですね。
ところが皆さんがよく知っていらっしゃるように、アダムとエヴァ、
06:00
つまり人はこの関係を、この美しさ、この幸せを壊してしまったんですね。
もちろんそこには蛇として現れたサタンの誘惑がありました。
そしてその誘惑にエヴァとアダムは負けて、神の命令を、命のような御言葉を犯してしまったわけです。
今日はですね、なぜそこに誘惑があったのか、神様はなぜ蛇がエヴァを誘惑するようにほたらかしたのか、
に対する疑問に答えをするよりは、
アダムとエヴァがこの善悪を知る木の実を食べた結果、
つまり神様との美しくて祝福と恩情の関係を壊した結果に注目したいと思います。
そこから、この罪というものはどういうふうに私たちに何をもたらしてしまうのか、
そして私たちが得るべき生き方、神との関係を学んでいこうとしております。
どうしてもですね、メッセージを準備する中で、このあなたはどこにいるのかは来週もう一回させていきたいと思います。
今日はその前半になると思います。
蛇として現れたサタンの誘惑に先にエヴァが、それからアダムがその実を食べてしまいました。
神様は食べてはいけない、食べたら必ず死ぬと言われました。
しかし、アダムとエヴァは、その瞬間、その誘惑が来た瞬間、
神の御言葉と神の命令に対しては目が閉ざされてしまって、
つまり善と義に対しては目が閉ざされてしまった。
実は明るく開かれているべきなのに、それが盲人になってしまった。
そして逆に、悪と誘惑に対しては目が明るくなって開かれてしまって、罪を犯してしまった。
皆さんここで私たちは、この罪・悪のプロセスを学ぶことができます。
聖書が語る罪というものは、ただ悪いことをするだけの、そういった程度のものではないんです。
社会的な観念から見れば、犯罪というのは法律を犯すことなんですね。
09:02
交通の法律やらいろんな法律があるんですよね。
それを犯してしまう。
そうしたらそれは犯罪、罰金、懲役みたいになるわけなんです。
ところが神の御言葉は、私たちがいくら法律や秩序をよく守って、
誰から見ても見られても完璧な人だとしても、聖書はローマ書の3書10節にこう言っています。
それは次のように書いてある通りです。
偽人はいない、一人もいない。
つまり神の公義、神の御言葉から見れば、すべての人は罪人であろうということになります。
この罪、この悪はどのようにして私たちの中に入り込んでしまったんでしょうか。
もともと私たちは、私たちの魂と霊と心とこの体は、私たちのこの全存在は神の御言葉、
つまり神の掟を明るく知って、目が開かれて、その掟を喜んで楽しんで守るように生きる存在として作られたんです。
同時に、悪に対しては、もう知らない、死んだものであるとして作られたわけなんです。
ところが私たちの霊と魂と心が、体が、ある瞬間から神の御言葉を守ることを喜ばない。
神の御言葉を通りに生きることがもう退屈で、そこに喜びがなくなってしまう。
つまり神に対しては、霊への目がもう暗くなってしまう、盲人になってしまうということになるんです。
それはローマ書の6章に大事な御言葉がありますので、一緒に開きたいと思うんですね。
ローマ書6章2節、それから11節、ローマ人への手紙第6章2節と11節開きましょう。
新しい聖書で305ページですね。新訳の305ページ。よろしいですか。
12:08
2節をまず一緒に読みたいと思います。
それから11節も一緒に読みたいと思います。ここが大事ですね。
ありがとうございます。ここにね、罪に対して死んだものである、神に対しては生きているもの。
これが私たちのもともと歩むべき道なんです。
罪に対して、悪に対しては死んだものである、関わられない、関わらない、そういうものとして作られて、
そして神に対しては生きているものとして私たちは作られたわけなんです。
これが皆さん大事なんです。道徳的に、あるいは人間的に見て、
いや、とてもあの人はナイスで、いい人で、本当にもう法律がなくても本当に生きていけるような、
そういう人だとしても、それは戒犬状のものである。
私たちは自分の霊が、魂が、心が、体が、この世の人々の目にどう見られるか。
世の中の人々が私のことをいいと言っているかどうかを基準にして生きるものではないということなんです。
クリスチャンは既に、罪に対して死んだものなんです。
この世に対して、この世の考え方、生き方に対しては死んだものである。
だから世の価値基準によって生きるものではないんです。
それを既に乗り越えた生き方をするのがクリスチャンの生き方である。
だから皆さん、私たちは常に、私の霊が、魂が、心が、生き方が、
神の目にどんなものなのか、それを気づかされて、悟って、その道を歩んでいかなければならないんです。
15:08
少し私のことを話させていただきます。
私は牧師であり、選挙師であり、家では夫であり、また父として生きているわけです。
過ごしております。大きな犯罪を犯したこともありませんし、交通違反を3回ぐらいしたことはありますけれどね。
泊まれに2回引っかかったこともありますけれども、ここ平凡で悪くない人として生きてきたわけです。
もちろん神の前に罪人であること、神の前には神の憐れみを失くしては立つことのできないものであることを告白しながら、
祈りながらここまで来ました。
その中で、2000年に新学校に入りましたから、今まで20年間、向こうでここで仏会をさせていただいて、ここまで来たわけです。
そんな中で、この度の肺癌、4期のBになりますけれどね。
それは宣告を受けてから、本当に神の前に徹底的に悟らせていただきました。悟らされました。
私が神の前にどれだけ憐れの多い罪人であるか。清くないものであり、罪の多いものであり、当然死ぬべきものである。
神の下目としては、持ち入られるには値もないものであること、それを徹底的に語らされました。
私は何者でもないことを深く深く語らされました。
神様に対して、教会と皆さんに対して、家族に対して、どれだけ自分が偽善的で偽りのものであったのか。
どれだけ神の心を痛めたものなのか。どれだけ罪深いものであるのか。本当に徹底的に悟らされました。
18:01
これは、この病気を通して神様が私自身を断崖絶壁の端っこまで主がそこに立たせて、神の前に両手を挙げて降伏せざるを得ない、何もできない者として主が私をそこに立たせてくださいました。
そしてそこで徹底的に悔やかに主が導いてくださいました。
それは私は悔しいと思いません。決して思いません。私は本当に感謝しております。
もしも私がこの病気がなかったならば、私は未だに高慢な者として、罪深い者として、頑固な者として、自分の力で誤解を、いろんなことをしようとしてきたかもしれません。
あるいは、自己満足に落ちていたかもしれません。自分の偽善に気づいていなかったかもしれません。あるいは、多くの羊を闇に導いてしまったかもしれません。
こんな私を主は見られて、もうこれ以上はダメだ、お前は。しかし主は私を諦めたならば、私がどうであろうがほったらかして、そのまま捨てられたかもしれません。
しかし主は私のことを諦められませんでした。これ以上ダメだ。主はそこで愛の鞭を持って、主がこの度私を討たれたと私は受け止めております。
そして、この神の愛の鞭に投票はしておりますけれども、本当に感謝しております。これを通して、私は自分自身がどんな者なのかをはっきりと悟らされました。
神の前に、教会の前に、自分が生きるべき、自分が歩むべき道をはっきり主が教えてくださいました。
私は、皆さんも祈ってくださっておると思いますが、私は投票をしながら、こう祈っておりました。
主よ、今年で51歳になりましたが、神様、もし神様が秘石屋に病気を癒して15年の人生の時間を許してくださったように、
21:11
もし私に、いや、15年じゃなくていい、5年でもいい、10年でもいい、その時間をしよう、あなたがお与えになるならば、残りの人生を本当に神の復位のために燃やして、神の御前に行きたいと、そういうふうに祈っております。
その中で、まずは私のこの投票を通して、夫婦の関係か、また子どもとの関係、家庭での祈りと感謝が本当に回復されていることに本当に感謝しております。
皆さんにお願いしたいことは、皆さんご自身の病気でありませんか。
また、この前の水曜日の人会でもお話しさせていただきましたが、この僕氏の病気を通して、皆さん自分自身を本当に帰り見ていただきたい。
私たちがどれくらい大きな罪人であるか。
この世に対しては死んだ者で、神に対しては生きている者として生きるべきなのに、逆に神に対しては死んだ者で、世に対してはめちゃくちゃ明るく生きている者として歩んではいないのだろうか。
もしもそういったところがあるならば、それを悟る、悔い改める、直す機会にしていただきたいんですね。
皆さんに哀れに抱いて感謝しております。
ところが、ただ、ユン先生かわいそうだな、肺がんだってどうしよう、それも悪くないだけですけれども、そういったよりは、
私の病気を皆さんが自分自身の信仰や魂を帰り見るための素材にしてほしいんです。
そして皆さん自分自身の魂がさらに清められて、さらに主を愛して、信仰とは何なのか。
私たちは全知全能の神様を本当に信じているのだろうか。
その自分自身の信仰を改めて帰りで見る、そのチャンスにしてほしいんです。
24:04
そして、私たちがみんな本当に神様を信じて愛するものとして帰られる恵みとすれば、私のこの病気は、この闘病は無駄にならず、祝福につながるのではないでしょうか。
そうしていただけるでしょうか、皆さん。
さて、また見言葉に戻ってきますと。
私たちは罪に対しては死んだものであり、神に対してはキリスト、イエスにあって生きているものとして生きること。
これが逆になるときに私たちは罪の奴隷になってしまうこと、罪のプロセスが始まっていくことなんです。
だからもう一度繰り返しになりますが、いつも皆さん、自分自身の霊を魂を心をいつも帰り見てください。
精霊の光に照らしていただいて、世の基準から見て良いか悪いかじゃなくて、神の御言葉、神の光をもって自分自身を照らしてみて、私は果たして罪に対して死んだもので、神に対しては生きているものなのか。
逆ではないか。
もしも少しでも逆の部分があれば、それを悟って神に帰っていく我々でありたいと願います。
神様は一概に全ての人を私のように取り扱われるとは言えないと思うんです。
神様は本当に忍耐の深いお方なんですね。
忍耐して忍耐して耐えて耐えて耐えて耐えてくださる。
憐れんでくださる。待っていてくださる。何十年も待っていてくださる。
でもそれでも悟らない。
それでも全く信仰の道を歩まない中途半端な道を歩んでしまっていれば、
死に捨てられていない人であれば、死は何かの愛の鞭を死の手にするかもしれないんですね。
もちろんみんなが病気になるわけではないんですけれども、死は何かを通して悟らすということなんです。
27:02
だから皆さん、大きな愛の鞭に打たれる前に、小さなことから気づいて悟って、常に死に帰る人が幸いな人なんです。
私は分かりました。
愛の鞭がどれくらい大きな愛であり感謝なことなのか。
皆さん、もし私たちが間違った道を歩んでいるには変わらず、神様から何の愛の鞭も悟らされることもなかったならば、それは幸いじゃないんですね。
幸福じゃないんですよ。それは本当にもう不幸なんですよ。
神様からほったらかされているという風になるかもしれない。
今日の御言葉7節に、
こうして二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。
そこで彼らは一軸の葉を綴り合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。
ここにアダムといえば、二人の目は開かれてしまいました。
神に対して開かれ、罪に対しては閉じているべきなのに逆になってしまった瞬間がこの時なんですね。
アダムといえば、その実を食べた瞬間、彼らの霊と肉全存在の目は、神に対してはもう閉じてしまった。
閉ざされてしまった。死んでしまった。
そして、罪に対しては目が開かれてしまった。
罪に対して死んだものであるべきなのに、罪に対して生きているものになってしまった。
これは神様が願う生き方と思う正反対なんですね。
神様がどれくらい心を痛められるでしょうか。
どれくらい悲しんでしょうか。
その道ではないんですよ。
アダムといえばよ、人よ、そこではないんですよ、あなたが行く道は。
主は悲しんでおられる。泣いておられる。
こうして人は、美しく素晴らしくデザインされた道を捨てて、神に対しては死んだものになってしまって、
30:01
この世と罪に対しては目が開かれ、生きていってしまった。
皆さん、私たちが本当によく見分ける力を持っていなければならないと思うんですよ。見分ける力。
それは、私たちがいくらこの世の知識をたくさん持っていたとしても、数多くの情報を知っていたとしても、もちろん損はしないでしょう。
また多くの人にいろいろ助けることもできるでしょう。
また認められることもあるでしょう。仕事もうまくできるでしょう。
それに伴う収入もあるでしょう。
しかし本当に大事なことは、もしこの世に対してはいくら白色あるものであったとしても、
私たちの霊と魂と心と体が、その目が神に対してはもう閉ざされてしまって、
神に対しては死んだものであるならば、その以外のすべてのものはすべて虚しいものであるということを知らなければならない。
皆さん、ソロモンをご覧ください。
彼は神の人として生きてはいましたが、実はこの世に対しては生きていて、
神に対しては死んだもののように生きてきました。
だから彼が老年になって徹底的に悟って、そして悔い改めの心を持って作ったのが神言だったり伝道者の書だったりするんですよね。
そこを一緒にちょっと開きましょうかね、皆さん。
まず、神言の16章2節。
もう少しでメッセージを終わりたいと思いますけれども、神言の16章2節。
神言16章2節、一緒に読みましょうか。
どうですか、皆さん。
人には自分の行いがみんな純粋に見える。
人々から見える。
あるいは自分が見て純粋にきれいに、私は大丈夫、そんなふうに見える、考える、思うわけなんですね。
33:02
しかしどうですか。
主は、神様は私たちの霊の値打ちを図られるんです。
だから、このソロモンは、また私は読みますが、伝道者の書1章14節から見ると、
私は火の下で行われたすべての業を見たが、なんとすべてが虚しいことよ。風を負うようなものだ。
1章16節。
私は自分の心にこう語っていった。
今や私は、私より先にエルサレムにいた誰よりも知恵を増し加えた。
私の心は多くの知恵と知識を得た。
17、私は一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。
それもまた、風を負うようなものであることを知った。
1章18節。
実に知恵が多くなれば、悩みも多くなり、知識を増すものは悲しみを増す。
多くの知識を、多くの知恵を増し加えたソロモンだったんですよ。
もう世界中からソロモンは褒めたたやられました。
素晴らしい知恵の王ソロモン、いまだに言われているんじゃないですか。
しかしソロモンはそれに対して、風を負うようなものである。
いくら知識を知恵をたくさん持っていて、世界中から評判、いい評判を受けていても、
神に対して真なものであれば、他は全て虚しいものである。
私たちはどうでしょうか。
皆さんはいかがでしょうか。
神に対しては生きているものでしょうか。
神に対して目が開かれているんでしょうか。
明るく見分けられるんでしょうか。
神の御言葉を、善と悪を見分けて、神の起きてを喜んで行っているんでしょうか。
自分自身を顧みて、見ていただきたい。
どうか私たちの霊と魂と身体と心が、
罪に対しては真なものであって、
神に対しては生きているものである。
神に対しては本当に明るく開かれているものであって、
神の起きてを喜んで行う道、
命の道を一緒に歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りします。
35:50

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