00:01
おはようございます。だんだんここにも慣れてきた感じがしますが、
今朝もですね、皆様がこの街道に入ってこられてから、
まだ暑いですね、という会話を交わしていらっしゃるのを後ろに聞きながら、そうだねと思っています。
でも、私が今済ませていただいているところも、
8月の一番暑い頃は、目を覚ましたら31度以上あるという日が何日も続いていましたけれども、
やっと30度を切るようになったので、そして夜は虫が鳴いているのが聞こえるので、
やっぱり季節は移り変わっているので、嬉しいなと思っています。
今日はこのようにして皆様とまた共に2言葉を開かせていただくことを感謝いたします。
では初めにお祈りを短くさせていただきます。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
恵み深い天の地なる神様、あなたの尊いお名前とイエス様の十字架の地を崇めて感謝いたします。
私たちを罪と滅びから救い出して、あなたとの豊かな関係の中に、交わりの中に導いてくださってありがとうございます。
あなたの前に立つ勇気は自分にはありませんけれども、
イエス様のゆえに本当に喜んで御前に出ることを許していただいていることをありがとうございます。
今日も福音書の2言葉の中からあなたの御心を受け取り、我が心とすることができるように、
御精霊が助けて導いてくださるようにお願いをいたします。
また、それぞれの内にある願いと思いに、神様御自身からのお答えがありますようにお願いいたします。
尊いイエス・キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン
マタイの福音書30の説教を続けさせていただいておりまして、
今日は実はその5章の7説、
憐れみ深いものは幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです。
というところから話は広がっていきます。
それで今日その流れの一番最後に18章のところが来るということで、そちらを読んでいただいています。
ですから本当の聖書を話す順序からすると、ちょっと読んでいただいた箇所と私のお話する箇所はちょっとずれているので申し訳ありません。
今日は憐れみについてお話をさせていただくんですけれども、
03:01
私が大阪の美濃に使わされていた時に、ある修道者のご夫人がいらっしゃって、
その方はアメリカとかイギリスに駐在している方の奥様だったので、
いろんなところで勉強しておられたんですが、憐れみっていう言葉を聞くとすごく上から目線の言葉のように捉えられるので、
こういうことはあまり好きでないと私におっしゃったのを今も覚えています。
でもこの聖書が言っている憐れみ、ここで使われている憐れみは上から目線どころか、
横に並ぶのに価値のないようなものであっても側に来て、そして慰め励まそうとする、そういう気持ちがある憐れみとして使われてあります。
ですので、聖書が言う憐れみは心優しくて思いやりがありって、親切で慈悲深い、そういう性質です。
そして人の弱さを知ることができる、そしてその人に心を傾けることができる、そういう性質を表しています。
それで五章の七節、憐れみ深いものは幸いというのがまず一つですね。
そしてその人たちは憐れみを受けるからですと続いていますので、ここに憐れみ深い人たちの祝福が二重にあるということがわかります。
最初は憐れみ深い困っている人を助けたりする、そういうことができることは非常に幸いなことですね。
なおかつその人はこれから神様からなお憐れみを受けることができるという、自分がすることができることとともに神様からなお祝福されるという二重の祝福がこの中にも含まれています。
この憐れみ深いものという言葉は物質的な助けの方をまず第一に言っている言葉です。
ですから今いろんな災害や難民の方とかがあるときに本当に心を動かされて支援したりする、そういう心のことを言っています。
しかしそれだけではなくて、相手の人の霊的な心の面の不足ということに関しても心が言って、
その人がもし弱っているならば助け、もし罪を犯しているようであれば導いたり助言したりすることができるような目に見えない部分、そういう働きにも関わっていく、そういう心を持っている人のことを言います。
06:15
それでまず今日は何箇所か聖書をお開きしますけれども、先ほどもイエス様の再臨のお話をお祈りの中でなさっておられましたが、
マタイの福音書は24章25章に再臨のことが書かれてあります。その25章の31節のところから、人の子は、マタイ25章の31節からちょっとお読みします。
25章31節
人の子はその栄光を帯びてすべての御使いたちを伴ってくるとき、その栄光の座につきます。そしてすべての国の人々が御前に集められます。人の子は羊飼いが羊をヤギからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、ヤギを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。
さあ、私の父に祝福された人たち、世界の基いが据えられたときから、あなた方のために備えられていた恵みを受け継ぎなさい。
ここからですね、あなた方は私が空腹であったときに食べ物を与え、乾いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、私が裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。
すると、その正しい人たちは答えます。
主よ、いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、乾いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちはあなたが病気をしたり、牢におられたりするのを見て訪ねたでしょうか。
すると、王は彼らに答えます。まことにあなた方に言います。
あなた方がこれらの私の兄弟たち、それを最も小さい者たちの一人にしたことは私にしたことです。
これは半分ですが、
裸の人に服を着せ、病気の人を見舞い、空腹の人に食べ物を差し上げるというような良い行いが、
した本人には気がついていない。
私はそのようなことをいつしましたかという、自分の善行に対して記憶がない、記憶に留めていない人に向かって、
この王様は良くしてくれた。私にしてくれたんだよ。
09:00
これらの小さい者、困っている人たちにしてくれたのは私にしたことなんだよと言って、
本人は気がついていないでも、
王様、ここで言えば神様でしょうけれども、
神様の方はしっかり覚えていてくださって、それに報いてくださるということがこのところに記されています。
一方、そういうことをしなかった人は、
私はいつそんなことをしませんでしたかと言って、
本人が気がついていない、そして失色を受けて放り出されるという続きが後にあります。
マザーテレサという方が、
愛の反対の言葉は無関心であると言われたのはよく知られていることですけれども、
関心を持つということが、人を愛するということの一つの始まりと言えるかもしれません。
イエス様はこのように本当に小さいものにするということを喜んで見ていてくださるということがわかります。
そしてそれは、今それをした人が気がついていないように、
無理やりこうしなければならないからしたというのではなくて、
自然発生的に心が動かされて行うということを、どんなにか喜ばれるということがよくわかってきます。
そして、私たちの動機が変えられて、そして思いやりを持つことができるようになるのは、
もともとのその人の性質というのも、もしかしたらあるかもしれませんけれども、
私たちが気づかされるのは、やはりイエス様の十字架のもとに帰って、
キリストがどんなに私たちに良くしてくださっているかということがわかるときに、
私たちの愛したり許したり受け入れたりする心が変えられていくのではないかと思っています。
ですから、前回ここでお話をしたときに、義ということをお話ししましたが、
先週でしたが、あるものを読んでいるときに、
義というのは、一つの神様の方向に帰っていくためのルールだというふうに説明してありました。
私たちは、神様からのルールがないと、自分勝手な方向に向いてしまいますから、
いつも神様の正しさの方向に帰っていくような道が備えられているということですね。
それは、イエス様がどのような生き方をすべきかを、私たちに身をもって示してくださいました。
その十字架で、神聖歌の99番にあるように、この地上のものの報いは何も受けられませんでしたけれども、
12:09
私たちを愛して、ご自身を十字架にかけて、それだけが報いであられたイエス様の愛、
そして神様の真実の愛を、私たちは日ごとに新しく新しく管理させていただいて、
それを神様に作り変えていただく必要があると思うわけです。
それで、今日読んでいただいた十八章の御言葉にやっとたどり着いていきます。
この十八章は、信仰の長い方は何度も何度もお読みになっていらっしゃると思いますけれども、
赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤
お話をしましたけれど
その頃中学生の子供も何人か来ていたんですね
クリスチャンホームでないところから来ていた女の子が
私のお母さんは怒りだしたら
もう昔のことを何回も同じことを言って
それが嫌なんだと言って言っていました
一度ごめんなさいと謝られたことに対して
なかなか記憶まで消さないということが
人にはあるわけですね
正解などで
本田先生が例に使われていたんですけれども
もし私がこの口壇でガラストップに水さしが置いてあって
何かの表紙に壊してしまった
また次に御用に来た時に
また同じことをした時に
先生またですかって言われたら
とても傷つくというか
そういう話をされていたんですけれども
一回したことに対していいですよいいですよって
言いながらなお覚えているというのは
許していないと一緒だというふうに
そういうふうに説明していただいたことがあります
この18章の流れは
小さい子供たちを受け入れなさいということから始まって
そして罪をある人がいる場合
その人をどうやって訓戒するかということの続きとして
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その有名なですね
18節の誠にあなた方に言います
何でもあなた方が地上でつなぐことは天でもつながれ
何でもあなた方が地上で解くことは天でも解かれます
誠にもう一度あなた方に言います
あなた方のうちの二人が
どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら
天におられる私の父はそれを叶えてくださいます
二人か三人が私の何をして集まっているところには
私もその中にいるのです
と言われておっしゃって
この20節の前には
祈り地上で心を合わせて祈る
祈りの効果について書かれています
そしてその流れとして
今朝読んでいただいた
終わり35節は
あなた方もそれぞれ自分の兄弟を心から許さないなら
私の天の父もあなた方にこのようになさるのです
とおっしゃってですね
先の許すこと
地上で繋ぐことは天でも繋がれ
地上で解くことは天でも解かれますというような
その祈りを教えられた中で
その続きの中に
兄弟心から許すということがここに加わっています
ですからこの21節からのところは
祈りとも関わりますし
この心の状態というのが私たちに教えられていると思います
読んでいただいたらすぐ分かりますように
ペテロが
7回許したらいいですかという
その頃の基準よりも多いかと言ったんですけれども
7×7 490回
終わりなく許しなさいとニュース様のお答えが返ってきました
これほど人間のこれくらいって考える標準と
イエス様の標準はもうまるで天と地
運勢の差があるということがはっきり分かるんですけれども
ここの畳に出てきている王様が
許した金額がここの下の注釈を見れば
1タラットが6000デナリですから
相当な金額ですよね
そのものに対して
許してもらった人の方は
今で言う100万円程度
何千万円とか許してもらった人が
100万円を許さないという出来事が起こっています
18:00
それを私たちがイエス様の十字架で許してください
そして私たちの日ごとの穢れも
許しを乞うときに清めてくださるという約束の中に
私たちが生かされておりますが
日常生活の中でこういうことが起こってないかどうかということを
日ごとに点検する必要があります
もうそのことをしていらっしゃるかと思うんですけれども
一度今日も清めのお祈りがありましたが
一度清められても完璧になる
もう終わりまで完璧になるのではなくて
その都度その都度
神様との関係で清められ続けて
私たちが清い生涯を送ることができますから
しばしばいろんなところで謝る
愚かさの上に判断ミスをしたり考え違いをしますから
その度に自分がどうであったかということを
神様の前に悔い改めて
日ごとに次々刻々清められ
また変えられていくということが
私たちには必要になっていきます
いろんな話を今日はしますけれども
この1ヶ月ほど私は大リーグにいる
大谷一郎という選手をずっと見ていたんですけれども
それを見ていたら
この間引退した一郎選手のこともちょっと出たりして
その二人をちょっと読んでいたら
とにかく恵まれた中でスポーツ選手として励むんですけれども
彼らもやっぱりもう一筋
毎日毎日同じことを繰り返して
体力をつけてそして訓練して
スポーツに当たっていたというのを読みましてね
クリスチャンの信仰生活もきっとそうなんだろうなと思いました
毎日毎日先生を読んで神様とお交わりをして
祈りをして訓練していただいて
修正をかけていただいて
そしてその継続の中で身を結んでいくのだと
そう思わされます
ですから一時に全てが100%になるわけではありませんけれども
スポーツ選手と同じで私たちにもまだ成長の余地がある
そしてそれを神様は望んでいてくださるということを思わされるわけです
今日は最後にもう一つ違う聖書の箇所を開かせていただいて
終わりにさせていただきます
ヘブル人への手紙の4章
今日は有名な箇所ばかりを開きますが
ヘブル人への手紙の4章の16節
新約聖書の442ページです
ヘブル人への手紙4章16節
21:02
お読みします
ですから私たちは哀れみを受け
また恵みをいただいて
織りにかなった助けを受けるために
大胆に恵みの溝に近づこうではありませんか
ここに哀れみを受けという言葉がありますように
私たちはイエス様の変わらない哀れみに寄りすがったですね
恵みを受けるために
その溝も恵みの溝なんですけれども
招かれているということです
私たちが反省したりがっかりしたり
いろんな思いがありますけれども
感謝もありますけれども
訴えることも多いと思うんですね
しかしこの哀れみに大胆に恵みの溝に近づこうではありませんかという
神様の招きがあります
私たちを作り変え日ごとに新しくして
神の国にふさわしいものを変えようとしている
神様の招きがこのところに記されています
それとともにちょうど同じページ
開いていただいている反対の左側になるんですが
6章の10節に
神は不公平な方ではありませんから
あなた方の働きや愛を忘れたいなさいません
あなた方はこれまで生徒たちに仕え
今も仕えることによって
神の皆のために愛を示しました
ここにもですね
神様が私たちの行いに対して報いてください
あなた方が示してきた愛を
お忘れになりませんというふうに書かれています
ですので
今日が哀れみあるものということですので
足らない部分は神様に求める場所があるということと
そして足らないことであっても
私たちが人を許して受け入れて
助けていく行為をするときに
神様はあなた方の働きや愛を忘れたいなさいません
つまり天に帰っていったときに
またイエス様がおいでになったときにですね
よくやってくれたねという
神様からのご褒美が私たちには用意されているということです
ですので
哀れみ深いものという
その人は
そうなるためにはですね
日毎に先ほども繰り返しましたように
イエス様に近づくということ
具体的な御言葉を読んで
神様の御心を
24:00
自分に語られている御心
御言葉を聞く
知るということはとても大切になりますけれども
そこから私たちは
外なる人は滅びても
内なる人は日毎に新しくなるという
内側から新しいという経験を
続いてさせていただくことができます
神様が二重に私たちを祝福してくださいますので
神様の哀れみにすがりつつ
私たちもさらに
神様の哀れみに似たものに
させていただきたいと願います
ではお祈りをいたします