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今日はご容認して、2020年最後の聖日を迎えて、また信仰をもって、兄弟姉妹とともに礼拝してきます。
恵みを心から感謝いたします。
今日は最後の礼拝であることもありまして、葬式は休んで、
四辺から、夜は過ぎ去り、朝が来る、という題にして、御言の恵みをともにお受けしたいと思います。
今日はダビデの話ですけれども、ダビデの人生には、本当に山あり谷ありの人生でした。
波乱万丈な人生でした。
その嬉しさ、悲しみなどが、特に四辺にたくさん書かれていますが、
今日の30編には、一節ごとに、ダビデが経験した人生の喜怒哀楽がよく現れています。
その中で、ダビデはどのようにして主の御長に預かったのか、
そして、彼は何をどうしたのか、それを見ていきたいと思います。
まず、今日の一節を見ると、ダビデの人生には敵があったことがわかります。
多くの敵がいました。
若い時にはサウルがいました。
また、王になってからは、息子のアブサロムに追われたこともありました。
恐怖や恐れを感じて経験した恐ろしい時間が、彼の人生にありました。
また、二節を見ると、彼はどんな病気なのかわかりませんけど、
主が癒してくださいましたとありますから、
身体か、あるいは精神なのか、病気を持っていた、病んでいたことがわかります。
その中で神様は、彼を癒してくださいました。
また、三節を読むと、読みから引き上げと生かしてくださったとありますから、
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ダビデは本当に死の直前まで行っていた。
この読みは、スウォルハデスシを意味する言葉です。
死の寸前まで行って経験したということでしょう。
また、五節を読むと、何かのようにダビデは、神様の見怒りを感じて、その下にいたことがわかります。
このようにダビデは、敵がいたり、病んでいたり、死の寸前まで落とされたり、
自分の罪のゆえに神の見怒りを経験したり、
本当につらいこと、難しいこと、いろんな人生の道を歩んできました。
このようなダビデの生涯を読みながら、
私たちもそこに共感しやすいなと思います。
今年、あるいは今までの人生を皆さんも帰り見ると、
本当につらい時もあったな、喜びの時もあったな、苦しい時もあったな、
と、いろいろ皆さん、振り返ることができるんじゃないでしょうか。
だから聖書の人物の中で、特にこのダビデのことに感情移入というか、
しやすい共感できる人物かなと思います。
ところが、そこまでいうと、この世の人々の人生、生涯と変わりがないんですよね。
そんな時に、人生のどん底まで落とされて、病気の時、敵に追われた時、
黄泉まで落とされた時に、ダビデは何をしたのか。
信じる者であれば、信仰者であれば、そんな時にどう生きるべきなのかが教えられる言葉が4節にあります。
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4節を声を合わせて、大きな声で一緒に読みたいと思います。
ダビデは敵に追われている時、病んでいる時、恐怖の時、死の寸前まで落とされた時、
人生の極度の悲しみの時、何をしたのでしょうか。
彼は主を褒めたたえて、主の皆に感謝しました。
ダビデは主を礼拝しました。その時に彼は主を覚えました。
これが信仰です、皆さん。これが信仰なんです。
私たちも人生の中で、病気とか苦しみとか辛さとか、様々なことを経験するんじゃないでしょうか。
辛い時もありますし、嬉しい時もありますし、祈っていることがすぐには応えられなくて、
辛いこともありますし、嬉しいことばかりあるわけではないと思うんですよ。
その時に、信仰の本当の値打ちが試されるということなんです。
その時こそ、信仰を働かせる時なんですね。
世の中だったら、人を探すかもしれない、電話するかも、LINEするかもしれない、
手紙書くかもしれませんし、誰かに会うかもしれませんし、
いいところに旅をするかもしれませんし、おいしいものを食べるかもしれませんし、
何かして気分転換をするかもしれませんし、
あるいは、たくさん食べたり、たくさん寝たりするかもしれない。
しかし、信仰のものであれば、そんな時には、主を呼び求めること、
主を礼拝すること、主に感謝すること、主を褒め歌うこと、それが信仰なんですね。
これを私たちはみんな頭では分かっています。
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しかし、信仰というものは、頭で分かっていることだけで終わっては、
実際には何もならないんじゃないでしょうか。
聞いていること、頭で分かっていること、それを実際の自分の生活において、
それを行うこと、実践すること、その通りに生きることが必要なんですね。
そんな中で、旅では、神の恩情を賛美しています。
それが語説ですね。
今日の歌詞の中で語説が、忠臣誠君になりますが、
もう一度語説を声を合わせて、大きな声で読みたいと思います。
せーの、この語説は対照的に、対比的に書かれている御言葉です。
まず旅では最初に、神の怒りと恩情を対比しています。
この新しい聖書は、対照的な表現が、大工法の表現がちょっと物足らないなと思っているんですが、
後語訳聖書の方が対照的に書かれています。
そちらの方を読ませていただきます。
語説の1行2行だけですね。
その怒りはただ束の間で、その恵みは命のかけり長いからである。
簡単にですね、神の御怒りはあるはあるんだけど、それはもう一瞬短い。
しかしどうですか、それと対照的に、神の恩情は常しえに長いという意味なんです。
この方がわかりやすいと思いますね。
神の御怒りです。
旅ではパテシェヴァのこととか、人口調査のこととか、
彼の人生にしてはいけない罪を犯して、
神の御怒りの下にいたことがありました。
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確かに神様は、神の民が罪を犯した時などに、神様は御怒りを発せられる。
それから聖書の歴史を見ればよくわかりますね。
あらのでのイスラエルの民とか、歴史を読めばですね。
でもその御怒りは単なる感情の爆発ではないんですね。
私たちが自分の罪を、過ちを気づくように、悟らせるために、分からせるために、
主は御怒りを発せられるということです。
でもそれは、つかのま一瞬である。
神様はずっと抱いているわけではない。
それより、神の御情は常しえに長いと旅では賛否しています。
ここで神の愛を御情を私たちは覚えるんです。
神様は私たちが悪かった時、罪人であった時、傲慢だった時、
そんな時がたくさんあったには変わらず、
主は許して、許して、また許して、また許して、
時には目をつぶってくださって、時には見ていないかのようにしてくださって、
時には知らないようにみなしてくださって、
御情の上に哀れみを、哀れみの上に慈しみを施してくださった。
それで今、私たちがここにいるわけです。
この恵みを私たちは知らなければならないんです。
もしも神様が私たちの罪を、私たちが犯すたんびに主が見怒りを発せられ、
その罪を主が暴かれるならば、私たちは生きられないんです。
神の前に立つことはできない、許されないものです。
しかし主は見怒りはつかのまで、御情は命のある限り長く施してくださるんです。
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だから私は自分が偉いから、熱心があるから、知識があるから、金があるから、能力があるから、
あるいは信仰の年数があるから、たくさん捧げたから、今立っているわけではない。
ただ神の御情があるから、今いるわけなんです。
だから十字架の許しは不思議なミステリーなんです。
神に逆らった私たち、神を欺いた私たち、偽りの私たち、
唇ではこう言っても実際はああいうふうに生きている私たち、
敵だった私たち、罪だらけの私たち、
こんな私たちは、目をつぶってくださって、
見怒りは一瞬に過ぎ去らせてくださって、御情は憐れみや許しは永久に長く施していく。
神様はその十字架の恵みをもって私たちを許してくださいました。
その神を賛美して褒めたたえる私たちでありたいです。
ですから私たちが、もしも敵に追われている時、病んでいる時、
死の寸前まで落とされた時、何かのつらい状況の中にいる時、
わけわからない苦しみの中にいる時、
その時に覚えるべきことは、
主の見怒りはつかのまで、主の御情は長いから、
私はそれでも主の御情のうちにいるんだ、という信仰を持つことです。
旅では、その見怒り御情を大書的に歌って、
その五節の三行四行には、夕暮れと朝明け、涙と喜びを大書的に歌っています。
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夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びが。
夕暮れは涙ですね。
苦しみ、つらさ、痛み、闇、どん底、どうしようもない苦しみかもしれない。
その時が夕暮れ、夜のような時。
旅では人生の中でたくさんの夜を経験しました。
皆さんも今まで、いろんな夜、闇を経験したのではないでしょうか。
ある意味で、2020年は世界的にコロナということで、
世界が闇を経験していると思うんです。
教会も社会も、一般の事業者の方々も、会社員の方々、教会も、闇を経験している。
旅では四編二十三編で、死の影の他人を歩もうともと歌っているように、
旅でも眠れぬつらい夜をたくさん経験しました。
その時にみんなつらいです、しんどいです。
夜がなんでこんなに長いの、みたいにね。そう感じるかもしれない。
あるいはもう朝が来ないんじゃないかと。
もう夜はずっと続くんじゃないかと、闇がね。
そんな風に思う時もあるかもしれない。
しかし旅では確かな希望を歌っていますね。
夕暮れには涙が宿っても、そんな時があっても、
朝が来るんだと。
夕暮れには涙が宿っていたとしても、
主はその夜を過ぎ去らせてくださって、朝をもたらしてくださるんだ。
そして喜びを与えてくださる主がおられると賛美しているんです。
これが信仰なんです。
夜は過ぎ去って、必ず朝が来るんです。
朝が来るというのは、主の癒し、主の喜び、主の希望、主による新しい始まりを意味するわけなんです。
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夜は闇です。その闇は消え去ります。過ぎ去ります。
しかし神によって新しい朝が始まるように、新しい命が、神による恵みが新しく始まるんです。
そういった意味として、神様は私たちに、ある意味で、
人生の70年、80年、90年をポンとまとめてくださるんじゃなくて、朝があって夜があって朝があるようにね、
24時間、1日の単位で主がくださるかもしれないなと思うんですね。
皆さん、もし昨日亡くなった方がいらっしゃるならば、
その方にとっては、今日という日はどれだけ来てほしい。
朝を、明日を迎えたいとどれだけ願っていたんでしょうか。そうでしょ。
それが今日、私たちには与えられているということなんです。
あるいはその人がもしクリスチャンであればね、
明日礼拝したい。でも明日礼拝できない。
もう土曜日に天に行かれたならば、
その人にとって今日の礼拝はどれだけ願って願って祈って求めた礼拝でしょうか。
そんな信仰を持って私たちは礼拝しなければならないんですよ。
当たり前のように朝が来るわけじゃないんです。
偶然今日が明日が来るわけじゃないんですよ。
神様が毎日の朝、私たちの目が覚めるときに、
新しいチャンスを与えておられるわけなんです。
そのチャンスの時間が信仰によって生きれば、
神の恵みのときになりますが、
自分のために生きれば、それはもう罪まみれの一日で終わってしまうわけない。
ダビデはそれを経験したわけなんですよ。
夕暮れには涙がとっても、朝明けには喜びの叫びがあると。
だから私はダビデが今歌っているように、
今は世界中が夕暮れかもしれません。
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皆さん個人個人に小さなこと大きなことで、
夜のような闇のような、そんなときであるかもしれません。
あるいはこれからはそんなときがまたやってくるかもしれない。
人生にはいろんなことが起きます。
しかし神様はその闇を、夜を過ぎ去らせてくださるのは必ず。
そして、みいかりが束の間であるかのように、夕暮れももう短い。
必ず終わる。必ず朝が来るんだ。
そういう信仰を持ちたいんです。
だから私は毎朝朝を迎えるときに、ハレルヤ主を感謝します。
今日も私に新しい命を許してくださって、主を感謝します。
今日の一日を、あなたのために生きるものとしてください。
と感謝して謙遜に歩みたいわけですね。
神様はその想像の秩序というか節理というか、
それによって私たちに毎日語っておられるわけなんですね。
夜は過ぎ去ります。必ず過ぎ去ります。
悲しみも、苦しみも、闇は過ぎ去ります。
そして朝は必ず来る。
そのことを、ダビデは今日の11節にこのように歌っています。
11節を一緒に読みたいと思います。声を合わせて、11節一緒に読みましょう。
ここによく見ると、
嘆きを、悲しみを踊りに変えてくださった。
荒布を解いて、喜びをまとわせてくださった。
悲しみと踊りが対照的に書かれているわけなんです。
神様はひっくり返してくださる。
鈍然返しを起こしてくださる。
今は闇かもしれない。今は病かもしれない。
今は辛いトンネルのような時なのかもしれない。
しかしそれは束の間である。夜は過ぎ去る。
悩きを、荒布を押しは、それを踊りに喜びに変えてくださる。
主を信じて、待ち戻って、その方を愛して歩んでいきたい。
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その神を賛美して礼拝している旅をメッセージをあげたいと思います。
今はこの世界が、私個人個人が、
闇の時、夜の時のような時であるかもしれない。
しかし主はその夜に朝を用意していてくださる。
そして主は我々の人生の中で、闇を、悲しみを、辛さを、それらを全部取っ払して、
過ぎ去らせてくださって、そこに悩きの代わりに踊りを、荒布の代わりに喜びをまとわせてくださる主がおられる。
その方を信じて、賛美して、また新しい年を迎えて参りましょう。お祈りします。