今日は、「心の中心を見ておられる神様」という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
皆さん、神様は霊です。 ですから、神様と通じるためには、私たちの霊を通して、神様と通じなければいけません。
これが非常に大事です。私たちの霊をもって、神様と通じるんです。
私たちの霊は何ですか?これは心の中心というところです。 良心というところです。
ですから、霊である神様とは、私たちの心の中心をもって通じるんです。 また良心をもって、神様と通じるんです。
先週のメッセージで、イエス様がマルコの2章7節で、
「こよ、あなたの罪が許された。」と言いました。 そこに座っていた立法学者たちは、
なんていうのか、この人はなぜこういうことを口にするのか。 神を謀毒している。神を追い取り、他には一体誰が罪を許すことができるか。
ということを、立法学者たちが口に出したんじゃなくて、心で思ったんです。
イエス様は、ご自分の霊の力で、心で思っていることを、それを見抜いて、この次に、
イエス様が、私はその権利を、権制を持っていると言われる場面があります。 イエス様は私たちの心を見抜いておられます。
私たちは人の心をわかりません。思ってだけわかります。 心は誰もわかりません。
しかし神様は、私たちの心によって見るということです。 だから神様の前に立つ時に、
心が正しくなければ、それは受け取れないということはわかりますね。 それは神様だけじゃないんです、もともと。
神は全知全能、絶対全です。 神は愛で、神は嘘をつくことができない。
神様一回持っておられる心が変わることはできない。
これは神様だけじゃないんです。もともと人間がそうでした。 創世紀1章27節に、神はご自分にかたどって人間を作られた。
神にかたどって私たちを作られた。 だから私たちももともとそのような人物でした。
ところが、いつそれは変わったのか。それは創世紀3章で変わったんです。
最も世の中で狡猾で悪賢い蛇の話を聞いて、蛇に従ったんです。 罪を犯したんです。
だから、罪を犯す者は悪魔に直します。 だから神様に直している私たちが悪魔に直すことによって、
悪魔の属性が私たちの中に入ってきたんです。 これが最も悪賢い、狡猾な、
これが自己中心的、自分のためにいくらでも頭を使うことができるような人間として変わったんです。
それから神様は人と対話されるときに心を見ておられるんです。
心の中心で、あなたは姿を持って、こっちではこう言うかもしれないけど、心の真ん中には何があるのか、
神様はそれを見ておられる。 神様は人間の生死、化福、すべてを主観されるお方です。
何を見て人間、私たちに祝福を与えたり、命を与えたりされるのか、心の中心です。
今日読んでくださったヨアネ1章47節。
ナタナエルという人がイエス様のところに来ることを見て、イエス様はこう言われます。
見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがないと言います。
この人には偽りがない。他の日本語の聖書では正直だ、嘘がない。
英語の聖書ではもっと詳しい。邪悪なことがない。騙す心がない。蓋心がない。
皆さん、これがどれほど大事なのか。イエス様の前に、神様の前に立つ時、神様は中心を見ておられるから、
その偽りがない人として、神様と交わりができます。偽りがある人は、神様と交わりができないでしょう。
聖書には神様に用いられた全ての人の特徴は信仰があったと言います。
この信仰は素晴らしいものですけど、今日、この信仰という言葉は、もういろいろ変質されてしまいました。
今、私たちが使っている信仰、これは本当に千差万別ような種類があるんですけど、
自由主義信学の人たちは、信仰を倫理道徳ぐらい考えます。
自由主義信学者たちは、宗教多言論という、全ての宗教には真理があり、全ての宗教は根本的に同じだと言います。
だから彼らは宗教統合論を話し出しています。その人たちも信仰、信仰と使います。
この信仰は、今、私たちが持っている信仰とは違うんです。
また、根本主義的な信仰もあるんですけど、聖書を完全な神の言葉として、絶対的に聞き従う。
これは素晴らしいですね。根本主義的な信仰もあります。
自由主義から根本主義まで、天と地のような差があるんですけど、みんなが信仰、信仰と言い出します。
私たちバーテスト教会は、この全てが入っています。
なぜなら、各業、業、業界主義だから。その業界がOKと言ったら、自由主義もOK、根本主義もOK。
いろいろな種類が全部入っています。じゃあ、どうすればいいでしょう。
ですから、神様が見られるのは、千差万別の様々な信仰ではなく、
あなたが信仰という、あなたの心の真ん中には何があるのか。
だから、神様は信仰という言葉よりは、私たちの心の真ん中をいつも見ておられるお方です。
ですから、心の中心、この言葉が大事だということを理解していただきたいと思います。
聖書は、神様の前で、この心の中心が一番正しかった人をダビデと言います。
使徒行伝中3章22節に、こう言います。
私はエッサイの子である、私の心にかなう者、ダビデを見出した。
彼は私の思う通り、全てを行う。
それで、ダビデの子孫を通して、イエス・キリストを贈ってください。
どれほど神の御心にかなったのか、世の中に誰一人、その人を通して、私の大切なキリストを贈りたいんですけど、
誰を通して贈るかと言った時に、ダビデ。
わあ、素晴らしいんじゃありませんか。
もちろん、ヨセプも素晴らしい、モボンセイも素晴らしい、ヨーシュアも、サムエルもダニエルも、素晴らしい信仰を持っていったんですけど、
神様は特にダビデをよごいらしています。
それぐらい、神様はダビデに対しては、いろいろな訓練をされたんです。
じゃあ、ダビデを油を注ぐために、サムエルをエッサウの家に送るんですけど、エッサウには7人の息子がいました。
行ってみて、初めの息子エリアプを見たら、この人かっこいい、立派な人でした。
だから、サムエルはこう言います。
やっぱり、神様が、ああ、備えた人がいるんだと思って油を注ごうとしたら、神様はその人ではない。
そうしながら、気を読んでくださった、サムエル・ジョーの16章7節。
用心や背の高さを目を向けるな。私は彼を知りどける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。
今、世界は、今、YouTubeを見ておられるでしょう。
今、世界のすべての人の関心は、かっこいい人、美しい人。
その人は、栄養のように、もう本当に風情のようになっています。
でも、見るのにあまり様子が良くない、背の高さもあまりない人は、もう世の中には価値がないように見える。
世の中と神様は、この価値判断が全く違う。
天と地が違うように、私たちの考え方と神様が見られることは違います。
私はここに気をつけなければいけません。
だから神様は、エリアップを選ばないで、ダビデを選ばれた。
ダビデはもう背も小さいし、もう本当に、もう見るのにあまり姿が良くなかったかもしれませんけど、神様はダビデを選ばれた。
その後、神様はダビデを訓練されるんですけど、誰を通して訓練されるのか、サウル王を通して訓練されました。
ダビデは神様から油を注がれて、それで戦争に出る時にはいつも勝ちますね。
だからイスラル人たちは、ダビデが戦争に勝ってから戻ってくる時に、もうみんなが褒めたたえながら、もうダビデに嬉しい声をあげて、何というのか、
サウルは千を打ち、ダビデは万を打った、と言います。
その話を聞いて、サウル王が出たもんです。
そこから訓練が始まるかもしれません。
もしかしてダビデが私の王位を奪うんじゃないか。
そんなことはありえないんですけど、それを考えながら、それでダビデを殺そうとした。
皆さん、殺そうとする心、これは悪霊の心です。悪魔の心です。
その心を持てば持つほど、悪霊が強く働いて、結局彼は気が狂ってしまいました。
気が狂った状態で、もう判断力が失った状態で、ダビデを殺そうとします。
ダビデが何の罪を犯しましたか。罪を犯したことはありません。
ただ、サウルが見る時には、ダビデは危ない存在、自分の王位を狙うような存在だという、これだけです。
それでダビデを殺そうとするんです。
じゃあ、それを通して神様がダビデを訓練をされる、と。
じゃあ、サウルを殺そうとします。ダビデは、必ず全域を逃げ回ります。
その中で、神様は何を見ておられるのか。
ダビデの心の中心がどのように変わっていくのかを見ます。
じゃあ、私たちは気をつけなきゃいけないこと。
教会で、信徒たちがみんな同じ心を持っているんじゃないでしょう。
ある人は、自己中心的で、まだ自分の有益ばっかり考えていらっしゃるかがいるかもしれません。
だったら、みんなが、この人は嫌だなと思うかもしれません。
その時、神様が牧師を見ています。
牧師が、その人をどんな心で、その人のために祈ってあげたり、
仕えてあげたりするのか、ということです。
もし、イエス様だったらどうされるんですか。
ああ、そのような人は、あれに思って、その人をもっと教えながら、いろいろ祈ってあげるでしょう。
じゃあ、イエス様のように、牧師が、自己中心的に、自分の利益ばっかり、素早くそれを狙っているこの人を、牧師がどのように助けるのか。
これは、毎日、私はそれを試されるような気がします。
その人を、あなたはイエス様のように、その人を愛して、その人のために祈って、その人を使っているのか。
私は、それが私の評価です。
そういう人も、そのような、神の前で正しい心を持っていかなければいけません。
じゃあ、ダビデの素晴らしい点は、神様が油注がりで建てられた王様、その人を甲斐を与えたり、殺すことは、神様を敵対することだと思って、絶対にしないんです。
これが、ダビデの素晴らしさです。
わざと、神様がチャンスを与えます。でも、殺しません。
じゃあ、これがね、サムエル城の26章に、こんな言葉があります。
ある人が、ダビデが、あれのにいますと言ったら、サウルが、軍隊を連れて、あれのに、ダビデを殺しに行きます。
ああ、探しましたが、いません。夜になりました。
サウル王が、寝るために、あるところで、寝ているでしょう。
わざと、神様が、眠りの霊を送って、彼たちが寝るんですけど、普通に寝るんじゃなくて、もう、眠り込むような状態を作ります。
そこで、ダビデが言っています。みんな寝ています。
じゃあ、自分は、なぜこんなに逃げ回っているんですか。サウルじゃないですか。
サウルを殺してしまえば、自分は逃げ回らなくても、いいんじゃないですか。
だったら、みなさんは、どうします。
周りの家来たちが、殺しましょう、殺しましょう。サウルさえ殺せば、私たちは自由じゃないですか。
しかし、ダビデは殺さないんです。
神の御前で、神様が油を注がれて建てられた王様を殺したら、私に罪がないのか。
殺さないんです。
神様は、その心を大切に思われて、ダビデを建ててください。
その時間がどのくらいか、サムエル帳19章から30章まで。
期間的には、約10年間、同房者の生活をしながら、神様から訓練を受けます。
それで、ダビデは降格されました。
サウル王も、はじめは純粋でした。しかし、王になってから変わりました。
王になったら、王位ということはすごいでしょう。王位に執着します。
彼は傲慢で、自分の栄光を求めて生きます。
何回もチャンスがあったんですけど、神様に従わないで、
もう、神様を不従順、不信仰をやりながら、
彼は神様に逆らいながら、自分の栄光、自分事ばかり考えます。
皆さん、神様は一回間違えたということで、見捨てる方ではありません。
ローマ帳、中1章29節に書かれてあるでしょう。
それにもかかわらず、神の身むねを知らないから、
自分の王位を自分が守ろうとして、
悪に悪を、罪に罪を加えながら、彼は悪いことをします。
特に、私は一つ、今日、皆さんに申し上げたいのは、
サムエル帳の28章で、ペリステの人たちが攻撃にしてきました。
サウル王は、ペリステの知恵の大功を見て、怯えてしまいました。
それで、サウル王は神様に祈ります。
神様、助けてください。これからどうすればいいですか?
祈るのに、神様は答えてくれないんです。
どんな方法でも、神様は答えてくださいません。
だったら、皆さん、何を考えるべきですか?
ああ、私は神様との関係が間違えた。
神様の前に罪を犯した。
それで、罪を悔い改めながら、神様は何とか答えてください、と言うべきでしょう。
しかし、彼はそうしていなかったんです。
神様に祈ってみて、神様は答えてくださらないから、
自分のケツの心がありました。
そうだ、神様は答えてくださらなければ、他のところに行けばいいんじゃない?
副案を持っていました。
それで、どこに行くんですか?
占い師のところに行きました。
神の国、イスラエルの王、サウルが、
神様に尋ね求めるんじゃなくて、
神様に尋ね求めたら、彼は答えがないから、
すばやく占い師に行きました。
皆さん、何が正しいですか?
神様が答えてくださらなければ、
そこで答えをくださらなくても、私はあなたしかいません。
死んでもあなたしかいませんから、
私はあなたの前で、
あなたが答えてくださる前の時まで、私はここで待ちます。
何とか間違いがあるなら、教えてください。
悔いを改めますから。
私の人生を変えますから、私に答えてください。
あなたしかいませんということで、神様の見前で泣きながら、
悔いを改めながら、神の答えを待つべきでしょう。
それをしないで、別の自分の案、副案を持って、
答えてくださらないから、そこに行ってしまいました。
皆さん、これが悪いんです。
私は信者が間違いがいろいろあります。
祈ってみて答えがなければ、自分のやり方でやってしまう。
絶対ダメです。
正しい方法は、答えるまで待ち続ける。
また、悔いを改めながら、神の見物を尋ね求めながら、
待ち続ける。
二股かける信仰です。
サタンに騙された大ニコリンと中一章の3節にありますが、
アダムとエバがサタンに騙されました。
その方法は何でしょう。
神の御言葉よりサタンの声をもっと聞きしたがって。
結局、蛇をもっと愛した。これだけなんです。
また、バラム予言者。神の予言者です。しかし、お金がもっと好きでした。
ロットの家族。神様を信じました。しかし、世の中のいろんなことを愛しました。
アカンというものは、神の御言葉は絶対、愛情の言葉を全部滅ぼすと聞いているのに、
愛情の中で、愛情の城を攻撃しながら、その中で美しい服がありました。
銀もありました。銀もありました。それを盗んだんです。
イスカリルーダはイエス様をついていきながら、大最主張たちと、いつも何かあります。
コネクションがあります。ここも愛し、ここも愛し。
結局、彼は最主張たちの話を聞いてしまいました。
だから、二股かける信仰によって、結局、全ての人はダメになるんだということが分かりました。
以前の私の牧会で、私の一番大きな過ちは、二股かけることでした。
私の二股かけることは、セムール教というところと、クンビドムという教会、
そのような人たちの教えをいただいたことです。
特に私は、セムール教というところからは、正しい信仰、神中心的な信仰を学びました。
本当に感謝しました。
しかし、クンビドムというところからは、私は正しい救い論を学びました。
ああ、これも大事、私には大きな必要でした。
しかし、皆さん、向こうの顔の人たちから見たら、この人は私たちからの教えをいただくだけじゃなくて、
他の教えをもいただくんだと思って、二股かけるやつだと思いながら、私は嫌われたかもしれません。
私には色々な理由があったのですが、その部分が、私の前の僕会のところに、
私は間違えたことだなと、その人たちの気持ちに、うまくいけなかったのではないかと思います。
結局、二股かける人は、どこでも歓迎されない人になります。
ですから、私はその後は、ある団体についていくことをやめて、
イエス様だけについていく信仰として、私は今やっているのですが、
イエス様だけについていくなら、私に自由があって、
なぜ、昔はそこに縛られて、こんな気持ちになったのか、今は後悔しているところもあります。
でも、その先生たちも、私も天国に行くでしょう。
天国に行ってから、お前、二股かけたやつと言われたらいけないから、
一緒に天国に行くのに、今、関係があまり良くないじゃないですか。
だから、私はそこに悩みがあって、私が持っている信仰は、神言の16章7節です。
主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださるということ。
私が神様に、これから神を喜ばせる信仰を持っていくなら、
神様が、私が今まで下手くそになって、ダメになっている関係性をすべて取り戻してくださる。
私はそれを信じて、とにかく今は神様だけ喜ばせ、神様についていく。
それで、神様、どうか、私、今、関係がない方たちを、どうか和解させてくださいという気持ちで。
なぜなら、みんな一緒に天国に行く。天国にいても、悪い奴と考えたらいけないんじゃないでしょうか。
とにかく、今の世界は裏切りの世界です。
自分の有益になれば、いつでも捨てて離れる。
いちわりがない人になれるでしょう。世の中の、さまざまな、
見法、術、ということは、いろいろありますけど、私たちは、イエスさまに学ぶこと。イエスさまを学ぶこと。
また、自己中心を捨てて、神中心になる。徹底的に、聖霊さまに委ねて、その導きに従う。
また、聖霊の心というのは、実り。それによって、私たちの心が変わっていく。これが、非常に良いです。
さあ、そのために、パオールが、私たちに教えてくださったのが、ガラディア2章、中九節と二十節。
私は、キリストと共に、十字架につけられています。生きているのは、もはや、私ではありません。
キリストが、私のうちに生きています。私が死んで、キリストが生きている。
私が死んで、神の御言葉が生きている。私が死んで、聖霊さまが生きている。
そのような状態になれれば、心の中心が正しい。
イエス様が見られるときに、「ああ、あなたは偽りがないな。」
偽りがないと言われる人になるんじゃないでしょうか。
私たちが弟子訓練をします。信仰成長を求めます。そのことは何でしょう。
それは、心が清い人になること。
マタイゴショハセ、心が清い人であるとは幸いである。
その人たちは、神を見る。見るということは、出会おうということです。
弟子訓練をして、信仰成長して、何をするんですか。
神に出会おう。神と共にいる。神様に用いられる。
神様を喜ばせる人になる。これがどれほど大事でしょう。
今、世界は裏切りの世界です。
人々は裏切りを平気にします。
しかし、私たちは、イエス様は、私たちがイエス様に見慣れた、真実な人になることを願っています。
ナタナエルに言われたように、
お前を見たら、偽りがない人だ。偽りがない牧師だ。偽りがない教会だ。
これはどれほどいいでしょう。
もし、私たちの心に蛇のような狡猾で偽りがいっぱいある、
サタンのような蛇のような心を持っているんだと言われたら、
悔やらためながら、徹底的にキリストの心を持たせてくださいと、祈る私たちになれればと思います。
最後に、神言の4章23節。
何を守るよりも、自分の心を守り、そこに命の源がある。
心の中心を、神様を見るのにいつも、あなたは偽りがない人だ、と言われる私たちになりましょう。
お祈りいたします。
主よ、信仰生活で一番大事なのは、心の中心を守ることだということを学びました。
これが信仰だということを学びました。
イエス様の御心を学び、イエス様の御心に従う私たちにならせてください。
聖霊様、私たちを清い者と、清い者になって、
神を見る、神に出会う、神と共に歩む私たちにならせてください。
イエス様皆によってお祈りいたします。
アーメン。