00:02
では、お読みいたします。
新約聖書69ページ、マルコの福音書3書13節より、
さて、イエスは山に上り、御自身の御望みになる者たちを 呼び寄せられたので、彼らは身元に来た。
そこでイエスは十二弟子を任命された。
それは、彼らを身近に置き、また彼らを使わして福音を述べさせ、 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
こうしてイエスは十二弟子を任命された。
そしてシモンにはペテロという名をつけ、 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ。
この二人にはボアネルゲ、すなわち雷の子という名をつけられた。
次にアンデレ、ピリポ、ボルトロマイ、マタイ、 トマス、アルパイオの子ヤコブ、タダイ、ネッシン党員シモン、イスカリオテユダ。
このユダがイエスを裏切ったのである。 以上です。
戦火隊に参拝していただきまして、 続いて内田先生より十二弟子の任命となり、 福音のメッセージをいただきます。
福音のメッセージをいただきます。
福音のメッセージをいただきます。
03:20
福音のメッセージをいただきます。
福音のメッセージをいただきます。
皆さんおはようございます。
こうして共に礼拝を捧げていきます。 特権を感謝をします。
プログラムが進められていっておりますが、 見言葉の時が来ましたので、
今日も見言葉を開きたいと思います。
一言お祈りをさせていただきます。
一言お祈りをさせていただきます。
兄弟たちよ、そういうわけで、 神の憐れみによってあなた方に進める。
あなた方の体を神に喜ばれる 生きた誠意なる備え物として捧げなさい。
それがあなた方のなすべき礼儀的な礼拝である。
めぐみ深い天の父なる神様、
今日もこうして私たちをこの聖霊の宮に お招きくださりありがとうございます。
イエス様が私たちを招いてくださり、 私たちもその招きに応答させていただいて、
ここにおいてくださるそのことを 覚えて皆をあがめます。
今日もあなたが私たちとともにいて、 そしてそのアガペを私たちに注ぎ、
そしてまた新たなる礼の注ぎを与えてくださって、 一人一人を使わせてくださることを覚えて感謝をいたします。
06:00
ただ今からの御言葉のひとときをもどうぞ主が祝福し、
また私たちがこの受ける御言葉を心に刻んで、 またそれをもってここから出ていくことができるように、
私たちの主はアガペの主でありますから、 どうぞ私たち一人一人にそのアガペを教えてくださり、
また私たちもそのアガペに生きるものとして支えてください。
この教会に、あるいは日本の教会、世界の教会がすべてこのアガペに満たされるように、
どうぞ一人一人を整えてくださいますように。
今日もこうしてここに来ることができたことをありがとうございます。
しかし、病のためにあるいは弱さを覚え、あるいは妨げがあって、
どうしても来れなかった兄弟姉妹方を覚えますが、 神様がどうぞ一人一人を覚えて、
その場にあって主との交わりをすることができるように助けてください。
私たちも、私たちの体を、またすべてを、 神に喜ばれる生きた聖なる備え物として今捧げますから、
どうぞこれを清めてお受け取りくださいますよう、 今からの御言葉のひとときをもどうぞ祝福してください。
語るものをも哀れんで最後まで支えてください。
イエス様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。
私たちは連続でマルコの福音書から、 イエス様が何を語られ、そして何をなさったのか、
そのことをもう一度福音書から知り、また教えられ、
そしてまたそこから今日を生きる私たちに、 神様が何を示そうとなさっているのかを、
今日も見ていきたいとそう思うわけです。
今日のひとつのテーマはこの弟子ということです。
先ほど読んでいただきましたマルコの三章十四節のところに、 イエスは十二弟子を任命された。
もちろんこの弟子という言葉はここだけではなくて、 もう既に二章でも三章の始めの方でも出てくるわけですが、
この弟子という言葉そのものが何を意味しているのか、
そしてこのことを通して今日私たちに、 神様は何を示そうとなさっているのかを見ていきたいと思います。
弟子というものを国語辞典で調べてみますと、
それは師、師匠の師ですね。師匠、師。
あるいは先生に従って教えを受ける者、 その教え子のこと、または門人、門の人、門人のこと。
09:07
そういうふうに書かれています。
それでは聖書が言う弟子というのはどういうものなのか。
ここに聖書辞典というものがありまして、
これを見るとこのように書いてあります。
広い意味ではイエスに行為を寄せて、 その一行に加わった当時のユダヤ人たち、
この福音書の中に出てくるそういう人たちを示す場合があると。
そして狭い意味では特に十二弟子のことを言う、 今日の歌手ですね。
そしてやがて教会が生まれるとき、 聖霊降臨、来週がペンテコスですが、
聖霊がこの弟子たちをはじめイエスを信じる者たちの全てに下ったという、
その時からキリストイエスを信じる全ての人々を指して言う。
弟子とはキリストイエスを信じる全ての人々のことである。
すなわち今日、主エスを信じて、そして礼拝を捧げ、
その交わりをして、そしてまた働きをしている人たち、私たちですね。
それは全て弟子である、そういうふうになるわけです。
この弟子ということは、三章の例えば9節のところでも、
イエスは大勢の、9節そうですね、ごめんなさい、7節、
それからイエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。
ここに弟子たちというのが出ています。
当時イエス様につき従って来る人はたくさんいたわけです。
あるいはイエス様のお話を聞きたい、あるいは癒していただきたい、
そういう人たちがたくさん群れて、イエス様の行くところに来たわけですが、
その人たちを弟子と、その人たちの中にも弟子という人たちがいたわけですが、
しかし今日の箇所では、イエス様は山に登り、ご自分のお望みになる者たちを呼び寄せて、
そしてそこでイエスは12弟子を任命された。
ここに12人の弟子というのが出てくるわけです。
たくさんイエス様を慕って来る人たちの何人か、あるいは何十人か、何百人かわかりませんが、
その中からまた12人をお選びなさって、そして任命されたということ。
12:07
この任命という言葉は、それはその人たちにある種の権威を与えるということです。
もちろん権威を与えられた者がその任命者なんですが、任命を与える人にも当然権威がなくては、その任命は無効になるわけですね。
ここではシューエス御自身が権威者としてその任命する権威を持っておられた、そのお方が12弟子にまたその権威を授けなさった、それが任命であるわけです。
ではなぜイエス様はこの12弟子を選び、また任命なさったのか、その目的は何だったのか、
あるいは今日の協会の弟子たち、その弟子たちがこうして置かれて、そしてその働きとは一体何なのか、そのことを今日のテーマとしたいと思うんです。
見言葉を持ってそのことを一つ一つ見ていきたいと思います。
14節、イエスは12弟子を任命された。
それは彼らを身近に置き、また彼らを使わせて福音を述べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
まず第一に、身近に置きとあります。
イエス様はこの選んだ12弟子、任命を与えた12弟子を身近に置かれた。
この身近に置かれたということは、生活を共にして、そしてこの12弟子を教育し、そして訓練しようとなさったのではないだろうか。
12弟子をイエス様は身近に置かれた。
イエス様は今、選挙の働きに預かっておられる、その選挙の旅、あるいは日常の生活、それを続けながら、この弟子たちも一緒にそこに身を置いて、そこで教え、訓練をしようとなさったわけです。
机の上だけの、あるいは教科書を開いて教える、そういうものだけではなくて、実際の生活の中に、生活を共にしながら、そこで教えよう、訓練しようとなさったわけです。
いわば実践教育というようなところでしょうね。
ある人は、教育というのは教える、いくとも書きますが、共に育つという、その教育だ、まさに実践をもって、共に生活しながら、そこで学び、訓練を受けていく。
15:16
弟子というのは、この師匠の話す言葉、あるいは身振り、そういうものを、それを実際に見て、時にはそれを盗むという表現はいけないですけれども、そういうものを真似て、そしてそこから学んでいくものだ、いわゆる体で覚えていく。
そういう教育、それをイエス様はしようとなさったわけですね。
体で覚えていく、訓練を受けていく、それが教育の基本であるというふうに、イエス様は考えられたのでしょう。
私たちも思い返せば、そういうことがあったな、もちろん学校にいたときも、毎日学校に通い、ある時間、先生方と一緒に過ごしながら、そしてクラスの人たちと一緒に過ごしながら、学び、またいろんなことを勉強したわけですが、
それとは少し趣の違う、例えば寮生活で、1年中同じ場所で、そこで生活をする。
学校の場合は、学校が終わると家に帰るわけですが、寮生活、寮の訓練というのは、朝から晩まで、1日中その場で訓練を受ける。
そういうことも確かにあったな、あるいは短い2,3日、あるいは1週間でも、例えばキャンプでその場にみんなが行って、そして食事もともにしながら、生活をしながら、またそこで学び、訓練を受ける。
そんなことも確かにあったな、そういうふうに思います。
懐かしいとともに、ある者はそういう場でしっかりと大切なものを教えられた、今もそのことが私の中に生き続けていますという人もたくさんおられると思うんですね。
その生活をともにしながら学び、訓練を受ける。それはもちろん、学校でもいいわけですが、寮生活、キャンプでもいいわけですが、誰もがそのことをいつもしているという、それがいわゆる家庭での教育ですね。
家庭にあって生活をともにしながら学び、訓練を受ける。
18:04
特に幼少期ですね、青年になるまでの小さな時期に子どもたちが一緒に暮らしているお父さんやお母さんやおじいさんやおばあちゃんや、あるいはもしいれば兄弟や、そういう人たちと生活をともにしながら、そこで学び、また訓練を受けるということですね。
家庭というのはただ、食べたり寝たりという、そういうことだけではなくて、家庭教育という大げさな表現はしなくても、その場にあっていろんなことを考えさせられ、学び、そして訓練を受ける、そういう場であるということですね。
その家庭で受ける教え、学び、訓練というものが、その人の人格や人間形成に少なからずの影響を与えるということは、これは否定できないことであります。
もちろん、家庭以外の場で学び、教えられ、訓練を受ける、それはそれで尊いことでありますけれども、私たちがどの場合でも、そこで生活をともにして、そして実際に体でいろんなものを学んで覚えていくということ、これは非常に大事なことでありますし、必要なことだろうと思います。
私たちは、ただ教科書や本を通して学ぶという、それだけではなくて、実際にそれを自分で体験し、そしてそれを自分の血となり肉となっていく、そういうことが必要であろうかと思うんですね。
多くの人が何か学ぼう、あるいは新しいものを自分は何か知りたい、そして必要ならばそういう実際の体験をもって訓練を受けたい、そういうことを願っておられる方はたくさんいると思うんですね。
世にあっても、いろんな講座であるとか、あるいはセミナーであるとか、あるいはトレーニングセンター、そういうところに行って何か学ぼう、何か自分のものにしようというわけですが、それにはもちろん時間もいりますが、お金もかかる。
もう一つの講座で何万円という、そういうものがいくらでもあるわけですね。それができる人はそうすればいいわけですけれども、もちろんできない人もいます。
21:00
でも、そういう費用もかからないで、本当にいい訓練を受ける場所があります。それは先ほど言いました家庭と、そしてもう一つが教会。教会なんですね。
教会は本当に良い学びと訓練を受ける場所として神様が備えてくださったところだと思うんですね。この訓練を受けない手はないと思います。ぜひ受けていただきたいと思うんですね。
イエス様ご自身が十二弟子を選ばれて、そして身近において一緒に生活しながら、そこで教え、そして訓練を与えなさった。それは今も同じです。
この教会というところ、主イエス様がおられるその教会に私たちが来て、そこで教えられ、そしてイエス様主からいろいろと訓練を受けるということですね。
学ぶということ、それは真似るということから始まると言われます。
ですからこの弟子たちもイエス様の日頃の日常の立ち振る舞いや、あるいは実際にイエス様が発せられる言葉を耳にしたわけですね。
そのイエス様の声を実際に聞いた。そしてイエス様と直に話した。イエス様と一緒にお祈りをした。
時にはイエス様に質問をした。イエス様ここがわからないんですが、これはどういう意味でしょうか。あるいはイエス様が先ほどこんなことをなさいましたが、あれはどういう意味あるんですかというようなことを聞くこともできた。
そういうことを考えますと、この十二弟子は本当に選ばれた人であるなと思うんですね。
もちろん私たちは直にイエス様と相対することは許されませんけれども、イエス様と同じ例の精霊ご自身が今私たちとともにいてください。その精霊を通して私たちはイエス様の教えをいただき、またこの訓練をいただいているのだ、そのことをもう一度ここからも覚えたいと思うんです。
イエス様は十二弟子を選び、まず身近におき、ともに生活をしながら教え、また訓練を与えなさった。この弟子の訓練が必要であるということは、いろんな理由があるかと思うんですが、イエス様は先を見越しておられたわけですね。
やがて私たちはこの福音書を読んでわかるんですが、たくさんの人がイエス様のことを知りたい、イエス様の話を聞きたい、そしてイエス様に従っていきたいという、そういう人が現れてくるということを、そのときイエス様はもうわかっておられたわけですね。
24:16
ますます群衆は増えていくだろう。イエス様は一人でこれに対応することはできない。ですからその群衆をきちっと導き、そして整える、そのためにはそれを導く人、いわゆるリーダーが必要なんだということをイエス様は考えられたんですね。
ですからまずこの十人弟子を選んで、そして訓練を与えようと。
今日この二十一世紀、世界中に福音が広まり、そして世界中に教会が建てられている。しかし思い返せば、これは始めはこの十人弟子から始まったということです。
たとえ十二人の弟子であったとしても、そこにまず一つはビジョンがあるということですね。ビジョンがあるということ。それがあればこのようにして、やがて世界中に福音が広まり、そして教会が建てられるんだということがここに証されているわけです。
十二人から始まった神の国の運動が、今日このようにして世界的な教会に発展していったということですね。
それは先ほど言いました一つはイエス様にそういうビジョンがあった。やがてこうなるだろう。こうなるに違いない。きっとこうなる。そのことをイエス様は描いておられたわけです。
それともう一つはイエス様が人づくりの名人であったからです。
イエス様は漁師に神の国も知らない、福音も当然知らない、そして罪人であるその漁師を見つけて、そしてあなた方を人間をとる漁師にしてあげよう。
おそらく彼らは私がそんなものになれるんですか。でもイエス様にこの身を委ねさえすれば、イエス様はいかようにしてもその人をきちっとした選挙者に作りなさるということです。
イエス様はまさに人づくりの名人。私たちは世にあっていろいろな組織とかあるいは機械とかさまざまなことを用いて何かをなそうとしますよね。世の中のすべてがそうだと思うんですが、しかし結局はやはり人なんですね。
27:14
ですから人材、人が財産である。その組織がいかに立派なシステムができようが、あるいは立派な機械が備えられていようが、でもやはりそこにいる人たちがどういう人がいるのか。
その人たちが何を知り、何を思い、何を目指して、あるいはどういう訓練を受けてきた人なのかによって決まってくる。そのことを改めて思うわけです。
ですからイエス様もそうでした。福音宣教、これから弟子たちが福音を伝えるために出ていく。そのために何が必要か。まず人だ。この人づくりをしっかりしなければいけないんだという。
そのことを考えなさってイエス様は自分の身元に彼らを置いて、そして訓練なさったわけです。もう一つは弟子たち自身がやはりそういう熱い思いを持ってこのイエス様に従っていこう。この方から教えを受け、訓練を受けていこう。そういう思いがなかったらこれはできないことですね。
その弟子たちがそういう熱い心を持って、そして彼らは純粋にイエス様に従って、そしてこの福音宣教の技が進められていったんだと言えばかっこいいんですが、実はそうじゃなかったんです。
この弟子たちというのはイエス様に従います。あなたに従います。そしてどんなことでも教えてください。訓練を受けますから従いますと彼らは熱い心は持っていたんです。でもやがてイエス様が捉えられたときにこの弟子たちはみんなさーっと逃げていった。そういう弟子だったんです。
そういう弟子でありますけれどもイエス様はそのことをもとしてまた彼らを作り変えられ、そして精霊を注いで、そして彼らを何とかこの宗の器に間に合うように忍耐を持って宣教者として作っていかれたということなんです。
ですからやはり私たちは今日弟子としてその働きをさせていただきたいというそういう願いがあります。でも反面こんな私が本当に主に用いられるんでしょうか。そういうことがあります。
30:20
中には本物の弟子になると言ってくださるイエス様に身を任せるわけですが本当にそのようになれるんでしょうかというようなことも疑問に思うときもあるんですけれども。
私たちは今出エジプト機を学び始めたところですがあのモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出すそのいわばリーダーに立てられるのに80年かかったわけですね。最初の40年いろいろありましたがミディアンの地で羊飼いとして訓練を受けるそれがまた40年あったわけです。
モーセは80歳にしてそのイスラエルの民を導くリーダーに立てられた。ですから神様のその計画それは私たちにはわかりませんけれども少なくとも私たちがこのような私ですけれども神様あなたにすべてを委ねますからいかようにでもあなたが作ってくださいと。
その思いさえあれば人づくりの名人であるイエス様はどんなふうにでもそのものをふさわしいものに作り変えてください。
精霊御自身がその弟子たちを取り扱い練り清めてくださるということ。そのことを覚えておきたいと思います。
二つ目にイエス様がこの弟子たちを自分の身元においてそして実践訓練をなさった。それは二つ目に彼らを使わせて福音を述べさせるためです。福音宣教のためにこの十二弟子を訓練なさったということです。
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさいという。これが福音の中心メッセージですね。このことを多くの人に伝えていきなさい。まずイエス様がそのことを言いました。
それを聞いて教えられた弟子たちが今度はそれぞれが世界中に出ていってそれを伝えなさい。イエス様一人が伝えていくのはもう限界がありますから弟子たちがそれを担ってそれぞれにそれをなしていくためにまず弟子の訓練を与えたということであります。
33:09
今日の私たちも等しくその弟子であるならば私たちの務めもまたこの福音宣教の働きをするということです。教会の働きはいろいろありますけれども礼拝を守ることもそうですが、まずこの福音を告げ知らせるという。
これが弟子としての大きな務めの一つであるということを覚えておきたいと思います。しかし福音の宣教一言で言いましてもこれは簡単ではありません。
ですからどうしたらこの福音が伝えられ、あるいはその聞いた人たちがそれを受け入れてくださるか。もちろん精霊様がそれをすべて取り成してあとは精霊がしてくださるんですけれどもその導きという部分において弟子がそれをするわけですね。
精霊様主よこのお方をあなたのもとに連れてまいりました。今この人は信じたいそしてあなたの子としてこれが生きたいと願っておられます。
どうぞ今あなたが望んでこの最後の爪のところですね救いというその技を神様なさってください。そのまでのその働きそれを弟子たちはするわけですが、これがなかなか難しい。
実際になさった方ならそのことを必死と感じられると思うんですね。弟子様信じませんか。はい信じますという二つ返事の人はまずいなかった。
なぜそれがわかるか。私自身がそうでしたから。何度も何度も拒否しては跳ねつけては過ごしておったという。それが大抵の人だと思うんですね。
なぜこの福音宣教福音を伝えそしてなかなかそれが受け入れてくれない。なぜ難しいのか。それはやはり伝える相手が人だからですね。生身の人間だから難しいんです。
ですからこの福音を人々に伝える。伝えるだけではなくそのことを信じてそしてその人自身もまたこの家様の弟子となっていただく。これはとにかく難しい。たとえそこに導くだけであったとしてもこれは難しいことなんです。
36:07
ですから宣教に必要なことの一つそれは人間学というものを学んでおくということも必要ではないかと思うんですね。人間学というのは決して学問というよりもこの人って何だろうかということですね。
まずこの人というのはいろんな人がいるなというそういうところから始まって人というのはこういう時にはこういうふうに反応するんだなとか。あるいは一つのことを言っただけでもあるいは一つの行動をしただけでもAさんとBさんと全然違う反応が返ってくる。Cさんもまた違う。そういうことをいろいろ知っていくということですね。
例えばそれが心理学という部分でも応用できるかと思うんですね。人それぞれには心の感じ方あるいはその時の心理状態というのがみんな違うという。
あるいはその中でも統計的に大抵こういうふうに反応するとかこうすれば人というのはその時にこう感じるものだというようなものを知っていくということですね。
当然はその文化に影響されるあるいはその文化とかその民族そういうものによって違ってくる。それも一つの人間学の一つでありましょうし逆にたとえ文化や民族生まれ育ちそういうものが全然違う状況であっても人としてこれは誰でもが共通しているなという。
そんなことも知っていくということ。それが人間学というんですがそういうものをしっかりと学んでいくということは大事なことだと思うんですね。
バードウォッチングをされる人もいるかと思うんですがどういう表現がいいんですか。ピーポーウォッチングで人を見ていくということですね。
人々がどんなふうに反応するんだろうかどんなふうに考えているんだろうかそういうものをしっかりと観察して学んでいく。
あるいは自分自身をモデルにして私だったらこういうときはこう感じる。でもあの人だったらどうだろうか。そんなことを客観的に知っていくということ。
もちろんたくさんの人と接していろんな人からそういうものを知って学ぶというそれができればいいんですが決して多くの人から学ぶというそれだけではないと思うんですね。
39:07
やはりそのときそのときのいろんな人たちの考えていることを反応をしっかりとそこから学んでいくということ。それを自分なりにきちっとまとめておくということですね。
あるいは何かそれに参考になるようなものがあればそれも含めて人間というのはこういうものなのだこういう反応をするのだそういうものをしっかりと自分の中に身につけておく。
そういうことを基礎にして福音仙境に出ていくわけですね。そこに生身の人間と相対して、そしてそれはもう挨拶から始まって日頃のそういう接触から始まって、そしてこの人は何を悩み何を求め何に関心を持って。
あるいはその人の今置かれている状況はどうなのか、そういうものをいろんなことを時間をかけてでも知りながら、そしてこの人にやはり罪人としてのこの解決、この人が幸いになっていただきたいというそういうアガペが私たちにありますから、この人に福音を知ってもらおう。
そういうふうにして、やがてその福音を聞いた人はこれだということをいつかきっとそこで感じるようになると思うんですね。私も信じたい。あなたがそのままに幸いで輝いているなら、あなたの信じている神を私も知りたい。もっと教えてください。きっとそうなるはずですね。
でもそれはなかなか難しいことですから、イエス様は訓練を与えなさったわけであります。
誰も私たちが、誰でも新学校に行ってその学びと訓練を受けることができれば、それはそれで幸いですが、決してそれだけが訓練ではありませんけれども、教会でもしそういう機会があればその学び訓練を受けていただきたいと思うんですが、
もっと大事なことは、その弟子が福音宣教をしようと熱い心があって、そして人間学も勉強し、そしていよいよこの福音の宣教に当たるんですが、やってもやってもなかなかうまくいかない。
42:00
こんなに一生懸命やっているのに、足を棒にして汗を流し、あるいは体も疲れもありながらも一生懸命頑張っている。
それでも人は心を開いてくれない。あるいは中には聞いてくれない。そういうことが実際にあるわけですね。
私はなぜこんなところにいるんだろうか。新学校も出て、そして訓練を受けたはずなのに、実際やってみるとなかなかうまくいかない。
とにかく一生懸命やっている。それだけは間違いないのに。そしてだんだんだんだん自信をなくす。もう自分はまず向いていないんじゃないかな、そういうふうに思ったりします。
もう自分はダメだ、ときにはもうやめよう、そういうふうに思ったりするわけですね。どの新学生も一度はそういうことを通ります。
そしてもういわば自分が惨めで、そして自分の至らなさ、ダメさ加減がもう嫌というほど思い知らされるわけです。
そして祈ります。神様もう私はダメです。こんなに一生懸命福音宣教頑張ってやってきているんですけれども、もうダメですと。
いわば全面降伏。神様もうダメです。私はもうこれ以上無理ですと。
そのときに神様がおっしゃることは、よしお前はいまいよいよ福音宣教のスタートラインに立った。これは不思議な体験ですね。
あんなに一生懸命やって、そして頑張った。それは決して無駄ではない。しかしそのときは自分の頑張りで、自分の一生懸命さで何とか伝えようとしてやっていた。
そのときに誰も心を開いてくれない。誰も聞いてくれない。しかしもうダメです。神様もうダメですと自分自身が死の前に減り下り。やはり神様の助けや神様の力なしではやっていけませんという。
そこに立ったときに初めてそのものはこの福音宣教の働きのスタートラインに立ったんだ。そこから始めればいいんだ。自分の力でするのではない。神ご自身がその力を与えて、そして神ご自身とともにこれを成すんだ。
福音宣教はいわば神の技であり神様がそのものを持ちなさって、そして精霊の力によってするものだということ。ですから、見せんによらず能力によらず我が霊によるなり。我が霊によるなり。精霊により頼まなければこの福音宣教は進みゆくことはできない。
45:19
そのことを神様は弟子たちにも教えておられるんだと思います。
三つ目の目的は悪霊追放のためにこの十二弟子を選んで権威を授けたということ。
当時この悪の霊に惑わされ、そして苦しむ人々がたくさんいたということが福音書に記されています。
人間が悲惨な目に遭う、あるいは不幸の原因である、それはその人に取り付いた悪の霊だ。
悪の霊というと私たちは何かオカルトのようなそういうものを思いますけれども、決してそうではない。
私たちの誘惑をしてくるそういうものが全てこの悪の霊の仕業である。
悪の霊というのはこれが悪の霊だというふうに見えるようにして現れません。
本当に狡猾ですから、悪、賢いですから、巧みに、上手に私たちの心に入って耳にささやいて、そして目を惑わせて、
そしてこれぐらいいいじゃないの、こんなもんみんながしているんだから、そういうふうにして私たちを神様から遠ざけようとする。
それが悪霊の働きですけれども、そういう悪霊から解放するためにこの十二弟子にその権威を授けた。
そして悪の霊は追い出して、そして聖なる霊を導き入れるということですね。
その働きがこの弟子たちにあるんだ。
そういうふうにして神の国は人々を通して広がっていくということ。
そのことが一つの目的であった。
イエス様がその十二弟子に悪霊追放の権威を与えなさった。
今日の私たちにもこの悪の霊との戦いというのが当然あるわけです。
私たちの戦いは血肉に対する戦い。
いろんな戦いがありますけれども、その根本は悪の霊との戦いなんだ。
この悪の霊にしっかりと立ち寄るために、そして勝利するために私たちはイエス様から学びまたは訓練を受け、
そして実際その場にあって勝利するものとされている。
48:00
その御自身が勝利者である。
その御方に私たちが常に寄り添って、この御方に頼んでいく。
それが私たちの弟子としての歩む道である。
そのことをもう一度覚えて、私たちもこれからイエス様にしっかりと従って、
そして教えを受け、訓練を受けて、そして間に合う器とならせていただけたらと、そう願っています。
お祈りをいたします。
イエスは十二弟子を任命された。
それは彼らを身近に置き、また彼らを使わして福音を述べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
天の父なる神様、二十一世紀を生きる私たちもまたイエス様の弟子の一人として、
それぞれにお使わしくださっていることを覚えて皆をあがめます。
このようなものをも神の御子、イエス様の弟子として置いてくださっていることを感謝し、これは誠に光栄であります。
これからも主の弟子として神様のお役に立ちたい、また神様の用いやすいような器になりたいと願っていますから、
どうか私たちをさらに学びを与えて教えてください。
また訓練を与えて私たちを根に清めてくださいますように、私たちの救い主イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。