1. 名谷教会 podcast
  2. 2014/10/12:聖日礼拝(旧音源)
2014-10-12 34:28

2014/10/12:聖日礼拝(旧音源)

2014/10/12 聖日礼拝(旧音源)




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手の内の神様、二名拝め賛美いたします。
居合して、共に質問二枚に礼拝できる、この恵みを心から感謝いたします。
今から、神様の御言葉に耳を傾けます。
そうかすよ、あなたがおいしいお語りくださいますように、
聞かせてくださいますように、お願いをいたします。
初めての方々、久しぶりの方々、救助中の方々、
また、いつもしお会いし、礼拝に出席している神道の方々の上に、
主よ、少し恵みをこの場で、主よ、あふれさせて、
注いでくださいますように、お願いをいたします。
見て、二拝め、感謝して、イエス様の御名によって、お祈りいたします。
今日は、キリスト教のエッセンスシリーズ説教の教会です。
教と、それから、ライフは正解ですので、また大きな選挙を通して御言葉をいただきたいと思います。
その次、もう一回、あるいはもう二回のメッセージを通して、
この教会について、ともに、教えていただきたいと、そう願っております。
その前に、先週は、富山からの神道さんが来て、
勤務式教室と、また日曜日には、食事の愛意餐会をともに、
持つことができましたこと、本当に感謝いたします。
帰りの日、月曜日に、朝、ちょうど、あいにく、台風が通りましたけれども、
電車で行って、無事帰国できました。
また、帰ってから、メールが来まして、
本当に、宮谷教会の皆さんの熱い愛に感謝いたします、というメールのことを言っております。
代わりに、お伝えいたします。感謝いたします。
まず、昨日は、聖書属外通読会がありまして、13人の方が参加して、
祈祷の働きから一気に、ともに学び、また交わり、また若かりの時を持ちましたけれども、
本当に、生きてられる聖霊様の働きを、聖書から世にまた学べる、とても良い年でした。
毎年、春と秋、行う予定でありますけれども、終わりの時に、私がある姉妹に、
次回からは、旦那さんみんなを連れて、みんな参加しましょう、と言ったら、それでいいですね、と言われましたけれども、
宮谷の高齢の皆さん、いかがでしょうか。来年の春は、ぜひ、お越しくださいまして、お願いいたします。
03:09
今日は、教会について、ともに学んでいきたいと思います。
現在、日本には、約8000くらいの教会が全国にあります。
それぞれ、教団も違ったり、教派も違ったりするんですけれども、それぞれの特徴を持って、特色を持っていると思います。
それぞれ、特徴や特色を持つことは、いいことだと思うんですけれども、
ところが、私たちは、神様を信じて、教会生活をしていて、このようにですね、教会道に集まって、礼拝を捧げて、あるいは奉仕をしていますけれども、
では、いったい、教会とは何なのか。この質問に対する、政治的な答えを持って、そして、その答えの上で、教会を立ち上げること。
それは、最も大事なことであります。
私たちがですね、神様に対してもそうなんですけれども、教会はこんなものだ、というイメージを持っているかもしれません。
そのイメージが、実は、私たちそれぞれ信仰生活にですね、とても大きな、あるいは重要な影響を及ぼすということであります。
例えばですよ。例えば、教会は交わるところだ、というイメージを持っていたとしましょう。
そしたら、この教会はですね、何より交わることとの交わりを最優先にすると思うんですよね。
だから、何より交わって、親睦会を持ったり、それ優先順位によってですね、時間や会計や力をですね、交わりや交わる、そこにですね、くそぶっぱくと思うわけなんですよね。
その教会において、一番重要なのは交わりなんだ、というふうに思っていることもあり得るだと思います。
あるいは、違ってですね、教会は社会問題を解決するところだ、この社会問題や政治問題を改革する、あるいは変革するところが教会であるべきだ、というイメージを持っているならば、
その教会はですね、さまざまな社会問題や政治問題、さまざまな問題をですね、取り組んで、必要に応じて時には集会を持ったり、デモンストレーションをしたりする、あるいは特定の政党をですね、引き下りするかもしれない。
06:09
あるいは、教会は心の平和を得るところだ、といったイメージを持っているならば、教会の中でですね、メッセージにおいても、すべてのあらゆる集まりにおいてもですね、
イエス・キリストの福音、この神の御言葉を語る、学ぶことよりですね、単なる心の平和をもらうこと、それに力や関心を持つかもしれない。
皆さんはどうでしょうか。皆さんが持っていらっしゃる教会とは、というイメージはどんなものでしょうか。もしですね、皆さんのお家の隣の方が、皆さんが来たんですから、
誰々さ、教会って何ですか?と聞かれたら、皆さんは何とお答えになるでしょうか。そうですね、私もよくわかりませんね。そうしたら困りますね。
今日のポリント・ビートへの手紙、第一章、一節から三節には、パオロ先生が自分が開拓して、自分が養い育てたその教会、ポリント教会のチントパンに手紙をかけ送りながら、
一番最初にですね、教会とは何なのか、わかりやすく彼らにも教えて、私たちにも教えていくんです。もう一つですね、今日の聖書箇所、二節を一緒にお読みしたいと思います。よろしいですか。
今日の二言葉、二節です。ご一緒にお読みしましょう。
ここにですね、一番最初に、ポリントにある神の教会とありますね。これがとてもシンプルな文章なんですけれども、神の教会、この言葉に教会の本質、教会の定義、アイデンティティがここに含まれているわけなんです。
09:06
神の教会です。皆さん、教会は神のものです。これが、この定義がとてもシンプルでありながら、とても重要な定義であります。教会は神の所有であって、神のものであります。教会はイエス・キリストを頭とし、神のものであります。
では皆さん、神の所有、神のものという意味はどういう意味なんでしょうか。それは、神様が教会の主であられ、神様が治められるという意味ではないでしょうか。教会の主は神様であります。
教会は、主なる神様がイエス・キリストを頭として称えられて、治めてくださる。そこが教会なんです。ですから、教会は牧師が治めるところではありません。あるいは、教会は役員が治めるところでもありません。あるいは、教会は信徒が治めるところでもありません。
だからといって、牧師なんかいりません、という意味ではせしてあります。教会は根本的に神様の御意思、御心通りに治められるところであって、またそのようなところでなければなりません。
そうするときに、そのように治めていただくときに、教会が教会らしくなるわけなんです。ですから、牧師も役員も信徒も、皆、いつも主なる神様の御前に自分を低くし、自分を無にし、へり下って、
神様に治めていただく、神の支配、御支配を受けるところ、そこが実は教会なんです。皆さん、どんな教会が幸せな教会なんでしょうか。
皆さんが描いている、こんな教会は素敵で幸せな教会なんだな、というイメージをそれぞれ思うかもしれません。ある方は、幸せな教会は本当に緑の野原に、スイスとかヨーロッパに建てられている、
12:01
あのような素敵な場所に教会が建てられて、鐘が鳴ったりして、皆、胚児のような服装をして教会に集まる、そういうイメージを持っている方がいらっしゃるかもしれません。
あるいは、教会はやっぱり都会に、ど真ん中にポンと建てられて、そうあるべきだと、そういうイメージを持っているかもしれません。
あるいは、教会はちょうど妙谷くらいの、お互いによく知り合える30人ぐらいがこじまりついた、この棟がいいでしょ、といったイメージを持っている人がいるかもしれません。
いや、教会は何千人も何万人も集まって、本当に世界のために、福のために全身にしていくべきなんだ、そういうイメージを持っているかもしれません。
それぞれですね、皆さんはどんなイメージを持っているでしょうか。
ところが、教会はどのときに幸せな教会なんでしょうか。
それは、人間の声より神の主見が生きておられ、そして神様の主見通りに納められ、導かれ、進められる教会が、実は教会らしい教会であって、最も幸せな教会なんです。
言い換えますと、御言葉が生きている教会。イエス・キリストの十字架の福音が生きている教会。
罪の揺るぎと、回復と、復位の御言葉が述べ、伝えられ、そして魂が救われ、生き返る教会。
それが実は、神様が望んでおられ、そしてイエス・キリストの十字架の知識を通して買い取られた目的が、ここにあるわけです。
ですから皆さん、教会がですね、いろんなことをしていいんです。
それが、罪でない限り、どんなことをしていいんです。
交わりをしていいですし、報酬をしていいですし、何でもいいと思います。
それがですね、罪でない限りですよ。
しかし、いろんなこと、様々なことをしていいんですけれども、もしもその中で十字架を失っている、神の御言葉を失っている、福音を失っているならば、実は教会はすべてを失っていると同様であります。
イエス・キリストは消え去って、十字架は消え去って、
単なる平和、単なる癒やし、単なる誇しといったものを求めるならば、それはですね、一般社会でもいくらでも聞ける講演会と何の変わりがないと思います。
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アメリカのある教会の一つの事例です。ちょっと残念な事例なんですけれども、アメリカのLAにクリスタル・チャーチという有名な教会があります。
教会の全面がですね、1万枚以上のクリスタルガラスで覆われている素晴らしい教会です。
昔の僕は、ロボツ・ヒューダという僕がありまして、その教会ですね、なんと世界最初にですね、ドライブイン・チャーチをしました。
広い駐車場がありまして、車に乗ったままラジオの急波数を合わせて、僕の席を聞けるといった便利なシステムを取り入れた教会です。
その教会でですね、ロボツ・ヒューダ、僕は昔からポジティブシンジンという、アイテム類、不可能はないというですね、
不可能はないというこの本は、私も大学のときに読んだことがありますけれども、世界でですね、もうビリヤセーラーになった本なんです。
何万人も集まるメガチャーチになりました。ところが、その教会には、最初はそうでなかったと思うんですけれども、
どんどんどんどん、福井のキリストの十字架を失ってしまって、一瞬の間にかですね、成功や、あるいは幸福、あるいはアメリカンの考え方と言いましょうか、
アイテム類、不可能はない、そういったものを公演に対するような教会に変質してしまいまして、何年前かこの教会はもう倒産してしまいました。
そして今はですね、その教会の中に様々な混乱がありまして、昔のあの神の教会の栄誉は失っているところになってしまいました。
皆さん、教会が十字架を失ってしまう、福井を失ってしまう、この聖者の御言葉を失ってしまうならば、全てを失うことと、
皆さんお一人お一人も同じなんです。私たちが一体何を求めて教会に来ているんでしょうか。私たちが求めるべきことは、必ず手にしなければならないことは、
イエス・キリストの十字架の福井であります。神の御言葉であります。永遠の福井であります。
この本質をぜひ皆さんが失うことがありませんよ。皆さんのものにしていただいて、それをイエス・キリストが再びお出になるあの時までそれを持ち続けていきますように。
心からお祈り申し上げます。神の教会は神の御言葉が生きていて働く教会であります。
18:06
イエス・キリストの十字架の福井、罪許し、福井の恵みが述べ伝えられる教会なんです。
ですから皆さんが様々な奉仕をしていらっしゃるんですけれども、その全ての奉仕は何のために私たちがしているんだろうか。
自分の才能を駆使したい、あるいはこれがやりたい、あれがやりたい、そうしていいんです。素晴らしく用いられていいと思います。
しかしその究極的なゴールは、私たちが集まって奉仕する究極的なゴールは、イエス・キリストの十字架であって唯一の神様の栄光を表すことでなければなりません。
教会がただ3人集まって、ただ生徒する、メガサーチになること、リバイバルだけを求めて集まったり働くならば、教会は教会の本質を、生命を失うようになりがちだと思います。
フェイスやリバイバルというものは皆さん、神の視点にかかっているものですよね。神様が聖書をしてくださるならば、私たちがその恵みに預かることができるでしょう。
しかし神様が聖書を与えてくださらない、そしたら私たちがそれをいただくことができないんです。
主役聖徒にダビデとホロムンが出てくるんですね。ダビデの念願のお願いは、神の神殿を建築することでした。十分ダビデの時代にそれを建築できました。できたんですね。十分できたわけなんですけれども、神様はそれを許されなかったんです。
すべての材料をダビデはそれを集めました。十分建築ができるはずなんですけれども、神様はダビデの時代じゃなくて、その息子のソロモンの時代にダビデがほぼほぼすべて準備しておいたものを神様がソロモンに許して、ソロモンの時代に神殿を建てることができた。
神の助けにかかっている。私たちの命も、教会の未来も、実は神の助けに、神の御手にかかっているものですから、私たちはリバイバル、単なるリバイバル、単なる成功、単なる成功や幸福を求めるツリチャン教会ではなく、
神様御自身を求め、そして神と共に歩もう。そして神の心にかなった教会となるように求めなければならないと思います。
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両谷教会がこのような教会になりたいです。神の主権が生きておられる教会。神様の全て支配を受ける教会。人間が救人じゃなくて、神様が救われる教会。そして成功やあるいは復興、あるいはリバイバルだけを求める教会じゃなくて、神様と共に一人一人が共に歩むこの信仰の道を求める教会でありたいと思います。
そうするならば、神様の身もねで、この時代に、あるいは次の時代に、主が主の教会を建て上げてリバイバルも起きてくださるでしょう。ですから皆さん、ただただ神のかを求め、主を求める私たち、また両谷教会でありたいと願っております。
その次に、大きい2番に行きますと、ヒトパールは、教会は神の教会だと言いまして、その次に付け加えて説明をしています。
すなわちからです。私が読みます。すなわち、私たちの中イエス・キリストの皆を至るところで呼び求めている全ての人々、その人々が聖徒なんですね。そしたらその聖徒は聖徒として召されました。
イエス・キリスト、イエスにあって聖なるものとされた方々、ここまでが教会を説明している御言葉です。つまり皆さん、教会は、この教会、今ですね、私たちは集まっているんですよね。この群れ、この教会を教会とも言いますが、皆さん、お一人お一人を主イエス・キリストを信じるお一人お一人が教会なんですよね。
お一人お一人が教会であって、またこの教会のクリスタンが集まっているこの教会がまた教会なんです。これが教会の本質であって、ここに教会の神秘があるわけなんですけれども、
今日のこのすなわち以降の御言葉を見ますと、教会は何なのか。それは聖徒として召された人、聖なるものとされた人、これが教会なんです。もう一度申しますね。
聖徒として召された人、聖なるものとされた人、これが教会、一人一人の教会、そしてその集会を説明している。皆さん、聖徒として召された、聖なるものとされたと日本語はとてもよく訳されているんですけれども、これはですね、受け身なんですよね。
24:05
それはどういう意味かと言いますと、自分が自分自身を、私は今日から聖徒だ、私は今日から聖なるものだと、自分が自分をそうすることはできない。
自分がすることじゃなくて、神様が私を聖徒として召してくださる。神様が私を聖なるものとしてくださるときに、私たちは聖徒になり、聖なるものになるという意味であります。
ですから教会は、この言葉だけを見ても、初めから最後まですべて神様によって始まり、神様によって讃えられ、神様によって完成される。それが私たち一人一人の教会の姿であって、またこの群れ集会の教会の姿であります。
ですから皆さん、教会は神様が召してくださって、神様が定めてくださって、そして私たちが教会となり、聖徒となるわけなんです。
教会を、そして言語ではエクレキアと言うんですね。皆さんお気になったことがあるかと思いますけれども、エクレキアという意味は、神の命を受けた人々、つまり神様に召された人々、それがエクレキアという意味であって、それが教会の意味なんです。
ですから今日のですね、この2節の聖徒として召され、あるいは聖なる者とされた方々、これがエクレキアという意味であって、これが教会の意味なんです。
つまり皆さん、教会は神の恵みによって建てられた共同体なんです。教会は聖霊の感動を受けた、そして救われた聖徒の集まりが教会なんです。
ですから皆さん、教会は始まりが一般の国家や一般の何らかの団体とは全く違わせるんです。国家やあらゆる団体はですね、人々の有志のある人々が集まって、
そしてそこでその基地を運営するために代表を選出して、それを自動車に搭載して基地を組んで、この団体が、ちょっとしんどかったですね。
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台所に行かれて、ちょっと休憩されたと。たぶん初めてだからだと赤ちゃんもしんどいかもしれません。
もう一度申し上げますね。普通の一般の団体はですね、人々が集まって、そして自動車を立てて基地を組んで、そしてその団体を運営していくわけです。
しかし教会は有志のある人々が集まって、教会を建てて開拓した形はそう見えるかもしれませんが、いや、違います。
神様が見つけ下さった生徒が集まって、神の恵みによって集まって、神の心通りに主の自動車を立てて、そして主の導きに、主のご支配をいただきまして進まれあらゆることが、主の出発が違うわけなんですね。
この認識とこの信仰を持つことがとても大事なんです。教会は神様が見つけ下さった、神様がお選びになった、神様が定めて下さった私たちが自分の意思で来たかどうかに思えるかもしれませんけれども、そうじゃなくて、神様が見つけ集めて下さったから私たちが集まりました。
そして主の教会を私たちが建てたわけじゃなくて、実は神様が建てて下さった。その恵みに私たちが預かっている。この信仰、この認識を持つことがとても大事なんです。
新約聖書、福音書を見ますと、教会という言葉が3回出てくるんですね。その中に、大の福音書16章をしたいと思います。新約聖書の大の福音書16章、まず13節からなんですけれども、新約聖書32ページでございます。
イエス様がフィリーポー・カイザリアという四王子に弟子たちと行きました。そして会えてながらイエス様が弟子たちにこう聞きました。
人々は、自分のことなんですよね。イエス様は自分のことを誰だと言っていますかと聞きました。
そしたら、弟子たちは人々から噂を聞いたわけですから、イエス様に答えました。イエス様、人々はイエス様のことをヨハネだと言う人もいますし、エリアだと言う人もいますし、ウレンジャーとかエリアとかエレミアとかと言っています。
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そしたら、15節にイエス様が彼らに弟子たちに、いや、今日私たちに行こうとイエス様がお尋ねになります。あなたは私を誰だと言いますか。あなた方は私を誰だと言いますか。
皆さんだったら何とお答えになりますか。イエス様は今日ここにおいでになりまして、皆さんお一人お一人にあなたは私を誰だと言いますかと尋ねられたら、皆さんは何とお答えになるでしょうか。
その時、ペテロがこう答えました。16節。一緒に読みますか、皆さん。16節を一緒に読みたいと思います。
その時、シモン・ペテロが答えて言った。あなたは生ける神の巫女キリストです。アメン。ペテロが素晴らしい告白をしました。あなたは生ける神の巫女キリストです。
この素晴らしい告白をして、イエス様は彼をあなたは幸いですと彼を褒めて、そしてこのペテロの信仰の上に私は私の教会を建てるとおっしゃったんですね。
ペテロの上じゃなくて、ペテロが告白したこの信仰。あなたは生ける神の巫女キリストです。イエス様を生ける神の巫女として、キリストとして、メッセアとして信じるその信仰の上に私は私の教会を建てると言われました。
この二言葉を見ても、十八節を見ても、イエス様はこう言われました。では私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上に、この岩の上はペテロの信仰、告白をさせます。
その上に誰の教会ですか?誰の教会ですか?私の教会を建てますと。ここにもイエス様は私の教会と言っていました。神の教会でありまして、イエス・キリストの教会である。
教会の主はイエス・キリストだと。教会はイエス・キリストの体であって、イエス・キリストは教会の頭でありました。ですから体は頭についているのが何より大事なんです。
ですから教会は頭であるイエス・キリストを中心にしなければならないという教会です。人間中心ではなく、イエス・キリストを中心であるところ。
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伝統や多数の意見より、イエス・キリストの御心がはたって何なのか、それを知るために祈り、悩み、御言葉を目指し、祈る場所、そこが教会でなければなりません。
メッセージを終わりたいと思います。まとめますけれども、真珠説教ですので今日はここまでしたいと思います。教会の頭はイエス・キリストです。私たちはその、ですから頭なるイエス・キリストに収めていただくとき、その他の御心を通りに従うとき、
教会は教会らしく、教会の使命を果たすことができる、そして神様になって幸せな教会になることです。願わくは、私たちみんなが、この世の中に教会がイエス・キリストを感じていただくとき、イエス・キリストの心から御従い、また従順に歩む、私たちでありたいと、そう願います。お祈り致します。
ご清聴ありがとうございました。
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