1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/07/24:聖日礼拝(旧音源)
2011-07-24 42:04

2011/07/24:聖日礼拝(旧音源)

2011/07/24 聖日礼拝(旧音源)


00:01
聖書をお読みします。
新約聖書、使徒の働き6章の1節から7節まで、新約聖書の237ページです。
使徒の働き6章1節。
その頃、弟子たちが増えるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちがヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。
彼らのうちのヤマメたちが、毎日の排泄でなおざれにされていたからである。
そこで十二使徒は弟子たち全員を呼び集めて、こう言った。
私たちが神の言葉を後回しにして、食卓のことに使えるのはよくありません。
そこで兄弟たち、あなた方の中から見たまと知恵とに満ちた評判の良い人たち7人を選びなさい。
私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
そして私たちは、もっぱら祈りと御言葉の奉仕に励むことにします。
この提案は全員の承認するところとなり、
彼らは信仰と精霊とに満ちた人、ステパノ及びピリッポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの回収者、ニコラオを選び、
この人たちを人たちの前に立たせた。
そこで人たちは祈って手を彼らの上に置いた。
こうして神の言葉はますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。
そして多くの妻子たちが次々に信仰に入った。
以上でございます。
続きまして聖火隊員より聖火501番を賛美していただき、その後内田先生より役割分担の意義と題して説教していただきます。
03:35
聖火501番
聖火501番
聖火501番
聖火501番
聖火501番
聖火501番
聖火501番
06:07
聖火501番
おはようございます。
今日も聖書を開いて御言葉をいただきたいと思います。
一言お祈りをして今日のメッセージへと入らせていただきます。
聖霊があなた方の上に臨まれる時、あなた方は力を受けます。
そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで私の承認となります。
恵み深い天の父なる神様、こうして私たちをこの水戸へと導いてくださり感謝をいたします。
一週間の歩み、それぞれの場にあってなす技は異なりましたが、そこからひとたび解き放ってくださり、また場所と時とを一つにしてあなたを賛美し礼拝しております。
今日のこの主の復活を記念しての礼拝、神様私たちがプログラムの一つ一つ心を込めてあなたにお捧げいたします。
どうぞ天において受け入れてくださり、そして主は今も生きてこの礼拝の主として私たちを導いてくださるお方であることをこの礼拝を通して覚えることができるように、
そして私たちがあなたの身すくいに預かり、またあなたの愛をいただいてここまで来ることができましたこと、また今あなたの身手の中にあり、またこれからの日々もあなたが伴っていてくださることを信じて委ねています。
今日も御言葉を通してあなたの身を教えをいただきたく待ち望んでいます。何よりも精霊を注いでください。精霊がなければあなたを理解することはできませんが、御霊に導かれるとき真理をあなたは私たちに教えてくださいます。
どうぞ私たちの心を開き、また目を開き、耳を開いてあなたのお声を聞くことができるように、また御言葉をうちに蓄えて、それを拠り所として私たちがこれから歩むことができるように助けてください。
暑い日々でありますけれども、今弱っておられる方々の上にあなたの癒しの身手が及びますように、またこれからの日々も健康を支えてくださり、この夏を乗り切ることができるようにお一人お一人を支えてください。
09:09
何よりも私たちの魂が健全でありますように、常に祈りまた御言葉に支えられて、そしてあなたの交わりを何よりの喜びとしてこれからも会いましていただきたく願っています。
私たちは聖書を読んでいますが、聖書の書かれた当時、最も盛んであったスポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、スポーツ、ス
ポーツは何でしょうか?何だと思いますか?クイズではないですけれども、正解の方にはアイスクリームを、と用意していませんが、聖書が書かれた当時、最も盛んだったスポーツ、おそらくマラソンだったと思うんですね。
それは、パウロの書いた手紙などにそのことが伺い知るわけですね。
例えば、勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、とか、あるいは神の栄冠を得るために目標を目指して一心に走っているのです、そういう言葉を通してマラソンだったのではないか、そのように想像するわけです。
もし当時、少し声が上がりましたが、サッカーがもし流行っていたら、おそらく聖書の中にサッカーを例えにした、そういう言葉がきっと出ていたんだろうな、そう思うんですね。
なぜかと言いますと、今私たちは、使徒行伝を通して、宣教の働き、そして教会形成ということをずっと見ているわけですが、この教会形成とサッカーと共通するところが多いからです。
一つは、チームプレーであるということ。
二つは、皆が一致して、そしてゴール、あるいは目標を目指して進むということですね。
もう一つは、そのゴールまでに、いろいろな困難や試練はありますけれども、そこに耐えていくことによって、それぞれが鍛えられていく、そういうことがあろうかと思うんですね。
そして、信じて、諦めないで、突き進んでいくときに、そこに奇跡が起こるということ、こういうことが言えるんだと思うんですね。
12:04
そしてもう一つ、今日学ぶことですけれども、一人一人に与えられた役割をきちんと果たしていくときに、そしてそのチーム、教会は強くなるんだということ。
フォワードであるとか、ディフェンスであるとか、ゴールキーパー、あるいは監督、コーチ、そういうような、それぞれの役割をそれぞれがきちんと果たしていく。
そういうことによって、そのチーム、そして教会がゴールを目指して、そして館を勝ち取るということ、こういう共通点があるのではないかなと思うわけです。
今日開いていただいております六章一節から七節の、このところで教会形成の一つとしての役割分担の、そのことを一緒に考えていきたいと思うんですね。
なぜ役割分担が必要なのかということ。
一つは、その役割分担をする意義、それは一人ではできないということ、あるいは一部の人だけで成り立たないということ。
二つ目は、それぞれに与えられている豊かな賜物、才能、そういうものを生かして用いていただくために役割分担が必要であるということ。
そして三つ目に、それは神様の御心である福音仙境の働き、そしてそのことによって救われる人が次々に起こされていくためなのだということであります。
私たちは今、六章の一節から読み進んでいきますときに、そのことをもう一度覚えたいと思うんです。
そのころ弟子たちが増えるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちがヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。
どんどん弟子たちが増えていった。そして教会が建てられ、そしてそこにたくさんの人たちが集うようになった。
一つの教会という種の群れの中に、この教会では同じユダヤ人なんですけれども、ギリシャ語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人たちが一つの教会の群れの中にあったということですね。
これは特に問題はありません。二カ国語あるいは三カ国語で礼拝を持っている教会もあるわけです。
ですからもしこれが言葉の問題であるならば問題はないわけです。それぞれの言葉に合わせて礼拝をすればいいことでありますが、
ここでの苦情は彼らのうちのヤモメたちが毎日の配給でなおざれにされていたからである。
15:09
もうおそらく配給という何か物、食料などをいろいろ配っている中で、どうも差別とはいかないまでも不公平なものがあったんだろうという、そういうことがここに起こったわけです。
教会の中に起こった一つの問題です。そのことを取り上げて、この十二使徒たちが弟子たち全員を呼び集めてこういった。
当時この十二使徒がこの教会の一つの大きな責任を負い、そして皆の面倒を見る中心的な働きをしておったわけですね。
そこにますます弟子たちが増えていくものですから、十二使徒たちそれぞれが目いっぱい働いておったわけですね。
そういう中にまた一つ問題が起こった。そのことで弟子たち全員を呼び集めてこういったとあるわけです。
ここは十二使徒たちに与えられた神様の知恵だったと思うんですね。
自分たちで何とかしようと思わないで、全員を集めた全体集会、あるいは今日でいう教会の臨時総会のようなものを開いたわけです。
そしてこの問題をみんなに提示して、この問題をどうしましょうかということを呼びかけたわけです。
そして提案として、私たちが神の言葉を後回しにして、職託のことに使えるのはよくありません。
そこで兄弟たち、あなた方の中から見た目と知恵とに満ちた評判の良い人たち7人を選びなさい。
私たちはその人たちにこの仕事を当たらせることにします。
そして私たちはもっぱら祈りと御言葉の奉仕に励むことにします。
役割分担の意義の一つは、もう一人ではできない、あるいはここでは12人の人たちだけで全ての問題を解決できない、追うことはできないという状況になったからそれを分担しましょうという一つの知恵。
それがここで言っているわけですね。
その12人の人たちが、もしこの問題、あるいは次に起こっている問題、それを全部引き受けてそれを解決しようとするときに、もしこの12人の人たちが倒れてしまったらどうなるのか。
よく言います、親亀の上に子亀が、子亀の上に孫亀が、親亀こけたら皆こけたという、そういう状態になりかねないわけですね。
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ですから12人の人たちはしっかりとその土台を支える、そういうところにいてください。
ですから、もしいろいろな課題、問題、労力のいることが起こったならば、それを皆に分担してやっていきましょう。それがいいのではないか。そういう知恵がここで与えられたということ。
この12人の人たちのこの知恵はどこから来たんだろうか。おそらく神からの知恵であろうと思いますが、聖書の中にもそのことはしっかりと記されていたわけです。
彼らはそれを思い出したのかもしれない。
出エジプト記の18章のところを開けていただいたら幸いです。旧約聖書の127ページです。
私たちが聖書を解釈するときに、いろいろな仲介書を用いますが、聖書の最も良い仲介書は聖書です。
出エジプト記の18章の13節からのところを見ていただきます。
ここでは、モーセの妻、チッポラのお父さんであるシュウトのイテロが登場します。
このイテロがモーセを訪れたところの記事です。
13節。
翌日、モーセは民を裁くために裁きの座についた。
民は朝から夕方までモーセのところに立っていた。
モーセのシュウトは、モーセが民のためにしている全てのことを見て、こう言った。
あなたが民にしているこのことは一体何ですか。
なぜあなた一人だけが裁きの座につき、民は皆朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。
モーセはシュウトに答えた。
民は神の御心を求めて私のところに来るのです。
彼らに何か事件があると私のところに来ます。
私は双方の間を裁いて、神の掟と教えを知らせるのです。
するとモーセのシュウトは言った。
あなたのしていることはよくありません。
あなたもあなたと一緒にいるこの民もきっと疲れ果ててしまいます。
このことはあなたには重すぎますから、あなたは一人でそれをすることはできません。
さあ私の言うことを聞いてください。
私はあなたに助言をしましょう。
どうか神があなたと共におられるように。
あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持っていきなさい。
あなたは彼らに掟と教え等を与えて、彼らの歩むべき道となすべき技を彼らに知らせなさい。
あなたはまた民全体の中から、神を恐れる力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、
21:07
千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなければなりません。
いつもは彼らが民を裁くのです。大きい事件はすべてあなたのところに持ってき、小さい事件は皆彼らが裁かなければなりません。
あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたと共に重荷を担うのです。
もしあなたがこのことを行えば、神があなたに命じられるのですが、あなたは持ちこたえることができ、この民も皆平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。
孟瀬は周都の言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。孟瀬はイスラエルの全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の頭に任じた。
いつもは彼らが民を裁き、難しい事件は孟瀬のところに持ってきたが、小さい事件は皆彼ら自身で裁いた。
このようにして、周都イテロの助言を通して、孟瀬は役割を分担していった。
そして孟瀬は、孟瀬が本来すべきことのみを預かって、それに専念することができた。
それが全体の益として、この民が導かれていったという。
それに同じように、この十二使徒はそのことをしたわけですね。
あなた方にこの仕事を任せますから、私たちは本来やるべき祈りと御言葉の奉仕に専念させていただきます。
そういうことをしたわけです。
教会の形成にあって、まず第一にこのことを私たちは、させていただけるように願うわけです。
教会にこのような苦情や課題があるということ、それは決して問題なのではありません。
その問題をどう乗り越えていくのか。
その問題を乗り越えていく知恵や力や、そしてアガペの愛があるのかどうか、それが問題なのです。
そしてその起こった課題、それをみんなで追って、そしてこれをどのようにして解決していくのかということ。
その一つの知恵として役割を分担していきましょう。
決して一人の人、一部の人たちだけがそれを抱えて、そして全体が疲れてしまうことのないようにしましょう。
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これはおそらく家庭の中でも言えることだと思うんですね。
お父さんお母さんが全部、特にお母さん方が全部家のことに追われてしまうということ。
お母さんが倒れてしまったら、本当にお家の中は暗くなってしまうわけですね。
ですからできるだけご主人さんに、あるいは子どもたちにも何か役割を与えて、上手に与えて、そしてみんなが補っていけるような、そういうのが望ましいのではないか。
あるいは職場でもそうだと思うんですね。学校でもそうだと思います。
そういうことに、この御言葉は本当に有益だと思うんです。
二つ目の役割分担の意義として、その役割分担をすることによって、一人一人に与えられている神様からの賜物や、あるいは才能、そういうものが生かされて用いられていくんだということがあるわけです。
ここでも7人の人たちが、この問題に当たることになったわけですね。
それはこの7人の人たちが、この問題には彼らは適している。
この問題というのは、両者の間の、いわば仲互いのような感じですね。
ですから、この問題を上手に仲介する、そういう賜物に長けた人、与えられている人に、この仕事を任せましょう、ということは、任された人も自分の賜物が用いられるわけですね。
この問題というのは、ただ配給がこちらの人には多くあって、こちらの人は少ないとか、あるいはこちらの人は与えられて、こちらの人は名残にされている。
だから、こちらの人に平等に物を与えたらいいんだ、という問題でもなさそうだと思うんですね。
この背景には、おそらく人間の持っているこの心情の問題というのが、より大きい問題だと思うんです。
物を平等に与えたらこの問題は解決するか、そんなものではないと思うんですね。
私たちは何か差別扱いされたという、そのことが傷つくわけですね。
あるいは何かこういう目つきがどうだとか、あの言い方は何だとか、あるいはプライドを傷つけられたとか、おそらくそういう心情の問題が大きいんだと思うんですね。
ですから、そういう良者をうまく取り持つ、そういう知恵のある、あるいは賜物のある、ですからここに見たまと知恵とに満ちた評判の良い人たちが、こういう仕事に当たることがいいんじゃないか。
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そしてその賜物を持っている人たちも、そこで持ち入られるという、これが幸いなことであろうかと思うんですね。
どんな人も神様から良い賜物が与えられているわけですから、それを神様に生かして持ち入っていただく、そのための役割分担。
決してその一部の人、一人の人がいろんな賜物を持って才能があって、そしてその人だけがその役割を抱えてしまうということではなくて、
自分はあれもできる、これもできる、でもそれをみんなに開放して、あの人にこれをやっていただこう、この人にもこれをやっていただこう。
そしてその持ち入られる人も自分の賜物に気づき、また自分が持ち入られることを神様に感謝する、そういう機会を与えてあげるということが非常に大事なことであろうかと思うんですね。
そのことを言っている聖書の箇所、それがエペソビトへの手紙、今度はエペソビトへの手紙に行きますが、新約聖書の377ページです。
エペソビトへの手紙4章の11節のところから、こうしてキリスト御自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師、また教師としてお立てになったのです。
それは聖徒たちを整えて法師の働きをさせ、キリストの体を立て上げるためであり、ついに私たちが皆信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になってキリストの満ちた見たけにまで達するためです。
この12節のところに、この指導者たちがするべき働きとして、聖徒たちを整えて法師の働きをさせとあるわけです。
ですから、この指導者たちが、自分たちだけが法師の働きをして、聖徒たちにさせなかったならば、彼らは自分たちの仕事をしていないということ。
ちょっと逆説のような感じがしますが、自分たちが全てのことをしてしまったならば、彼らは自分たちの仕事をしていないということなんですね。
もちろん、やればできるんですけれども、それをぐっと我慢して、そして聖徒たちを整えて法師の働きをさせていく。
もちろん、させっぱなしで自分は何もしないということではなくて、それをしっかりと見極め、そして指導し、みんながその役割を果たせるように祈り、支え、そして指導する。
30:14
そういうのが働きなのだということですね。
日本海軍の総司令官であった山本一六が言った言葉とされている、この指導者の心得、七つの手という、このことをグッドニュースの手紙にも書きましたが、七つの手、この手じゃないですけれども、
彼はその訓練生たちを指導する上で、このように言いました。
やってみせて、やらせてみせて、言って聞かせて、褒めてやらねば船は動かじ、ということですね。
やってみせて、そしてやらせてみせるということですね。
もちろん、やらせるわけですから、指揮官とすればもうヒヤヒヤです。
下手したら船をぶつけてしまうかもしれない、でもそこはぐっと我慢して、こうするんだよ、ここはこうだよ、教えて、そしてやらせてみる、させてみる、ということですね。
そしてできたら、よくやった、それでいいんだ、もしできなければ、ここはもう少しこうした方がいい、明日の方がいい、そしてもう一回やってみなさい、というふうにやらせてみせるということですね。
この私たちが役割分担をそのようにしてさせていただくことによって、自分たちはこの神様に用いていただいているんだ、というその満足感、
あるいは自分が今まで気づかなかったその賜物、才能に気づいたり、それじゃもっともっと新しい方針にもチャレンジしていこう、そういうふうにもなっていけば本当に幸いだと思うんですね。
皆さんはもっともっと自分の賜物に気づいていません。
ですから教会はそういうものをもっと引き出していかないといけない、そういう使命があるわけです。
教育に預かる教師というのは教える師と書きまして、教えるということが強調されていますが、
この英語のエデュケーションというのは、これはもともとは引き出すという、そういう意味があるわけですね。
子どもたちが持っている豊かな才能を先生たちが引き出してあげる、そういう尊い仕事、それが教師の働き。
ですから教会でも信徒の皆さんが持っているその能力、賜物を引き出して、そしていろんな役割を担っていただく。
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そのことによって、もう一度神様との関係が正しくせられ、また自分が救われ、それだけではない、こんな私が神様の御奉仕に用いていただけるんだという、そういうことに気づいていただく。
そういうためにも、この役割分担というのは本当に大切なことであるわけです。
生徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、これは家庭でも同じですね、あるいは職場でも同じだと思うんです。
家庭にあってはお父さんお母さん方が子供たちの豊かな能力を引き出してあげる。
えでして私たちは間違うと、せっかく与えられている才能や能力を潰してしまうようなことはないだろうか。
その方法は難しいかもしれませんけれども、私たちは祈りと、そして愛をもって、アガペの愛をもってそれを見守っていく、支えてあげるということ。
そういうことがあれば、彼らは自分が与えられている賜物を本当に豊かに用いるようになる。
そしてみんながそれを喜び合う、称え合うという、それがこの役割分担の尊い意義なのであります。
そして三つ目に、首都行電に戻りますけれども、この提案が全員の承認するところとなり、臨時総会で承認されたわけですね。
そこで信仰と精霊とに満ちた人7人が選ばれて、そしてその人たちに手を置いて、そして彼らを使わせた。
これが安守ということですね。手を置いて精霊の注ぎ、また三浦の注ぎを与えて、彼らをその仕事に当たらすという安守をしたわけです。
彼らは本当に嬉しかったろうと思うんですね。こんな私がこういう働きに用いられるのか。私たちにすればややこしい問題に使わされたなと思うんですけれども、彼らはそうじゃなかった。
こういうところに自分が用いられるのかということですよね。
特にこの人の魂、あるいは心のケアをするということ。これは非常に難しいですけれども、やりがいがあるわけです。
このお互いが特に、心情的に何か課題があるときの解決に必要なのは、先ほども言いました、ただ平等に何かものを与えたらいいという、それだけではないんですね。
36:04
心がみんな傷ついているわけですから、その時には両者を前にして祈るということですね。
自分が間に立って、その両者のことをよく聞き、まずそれぞれの言い分をよく聞き、その上で私たちは神様に祈るわけですね。
そしてお互いがそれぞれを、それぞれ悔い改めるということ。
そしてお互いがアガペの愛に目覚めて、お互いを支え合う、あるいは許し合うという、それが必要なんだと思うんですね。
そういうことに彼らは長けていたわけです。
見たまと知恵と、そして評判の良い、あるいは信仰に満ちた、そういう人たち。
そういうふうにして役割を分担することによって、三つ目の意義、それは七節。
こうして神の言葉がますます広まってゆき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。
そして多くの妻子たちが次々に信仰に入った。
これが神様がこの役割分担を通して願っていたことなんです。
こういうことを通して神の言葉は広まり、そして救われる人がどんどん起こされて、そして教会に加わる人たちが増えていったということ。
そのための一つとしての役割分担。
本当に不思議なことです。
教会の中に起こった一つの問題、苦情、課題が、それを乗り越えていくときにますます神の言葉は広まり、そして救われる人が多く起こされた。
ですから教会の中で何か問題が起こったとき、それはハレルヤ神様、阿弁感謝しますと喜ぶべきでしょう。
決して問題が起こったからひるまないで。
この問題をどうみんなで解決していくのか、どのようにみんなで役割を分担してこれを乗り越えていくのか、そのために祈りが必要だ、あるいはみんなの悔い改めが必要だ、そしてみんなの、そして支えとその賜物を用いていきましょう。
そうしていくときに、そしてみんなのそれぞれの与えられている役割を忠実に果たしていこう。
あるいはまだ賜物が用いられていない人たち、その人たちにもそれを預かっていただこう。
もちろん時としてある人が言います、本当に私のようなもの何の役にも立たないで申し訳ありませんと、本当に謙遜におっしゃる。
でもそんなことはありません。役に立たない人を作ることは神様はなさらないわけです。
もちろんしようと思ってできないときは確かにあります。そのときはもうそれでいいんです。
39:03
その人は、その人の名前が教会の名簿に載っていること、あるいはそこにいてくださっていること、それだけがその人の役割として十分に果たしているわけですね。
今少し教会から離れている人、その人も祈りの表の中に名前は記されています。
それだけでも私たちの励みであり、またその人たちのために私たちは祈れるということ、これは本当に尊いことなんですね。
そしてまたできるようになれば、そのときに神様に用いていただけたらそれで幸いなのであります。
こうして、このところでは役割分担をすることによって、神の言葉、宣教がますます進んで、それぞれがそれぞれの持ち場、立場を忠実に果たしていくときに救われる人がどんどん起こされていった。
これが神様の御心であったわけです。
何よりも私たちのシュウヤスキリスト御自身が自分に与えられたその役割、その御使命を忠実に全うしてくださった。
人としてこの世に来てくださり、苦しみを受けて十字架にかかって私たちの救いの御業をなしてくださり、そして三日目によみがえって天に帰っていかれた。
今は精霊として私たちのこの中に共にいてくださっているシュウ御自身がその自分に与えられた役割を果たしてくださった。
その御方を私たちの主として、この御方に信じて従っていきたいと願っております。お祈りをいたします。
こうして神の言葉がますます広まり、弟子の数が非常に増えて、多くの人たちが次々信仰に入ったと。
天皇神様、今日は六章を通して役割の分担について共に学ばさせていただきました教会にありまして、ここまであなたが支えてくださり、
またその中に神の知恵が与えられ、そして皆さんの祈りが積まれたことであります。
また教会にはいろんな奉仕がありますけれども、皆さんがそれぞれの賜物を用いて分担して、そしてその奉仕の業に励んでくださり、今日を得ていることを感謝をいたします。
これからますますそれぞれの賜物が生かされ、用いられて福音宣教の働きが進められてまいりますように、イエス様の尊い皆を通してお祈りいたします。
アーメン。
42:04

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