神への感謝の祈り
お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、幸いな朝をありがとうございます。
寒さが続く中にあっても、今日は良い天気を与えてくださり、
私たちの弱る心や体をあなたが慰め、
父の身元へとまた招いてくださったことをありがとうございます。
あなたは私たちを心から愛し抜いてくださいました。
イエス様が流された血を、
私たちの罪を完全に許し、引き受けてくださり、
それだけではなく三日目に甦えられた命、復活の命、
永遠の命を私たちに与え、
永遠なる死と共に切り離されない命に、
私たちを今生かしてくださっていることをありがとうございます。
あなたは自分の足ではない、私の恵みによって立ちなさいと、
あなたの恵みの世界へと私たちを招き入れ、
あなたと共に無垢にを立てる幸いへと導いてくださったことを感謝いたします。
北村兄弟を通し、主が成してくださったその御業も覚えてありがとうございました。
あなたの愛が兄弟を捉えてくださった。
本当にそれによって意味のある人生を歩めるようになったと、
主、ありがとうございます。
あなたの屈しい救いの御業はそのように、
私たちそれぞれのその人生の中においても、
働いてくださったことを覚えて感謝いたします。
どうか神様、はじめの愛に帰りなさいとあなたが語られますように。
今一度しよう、あなたを仰ぎ、あなたの愛を思い返し、
そしてまたあなたの恵みを知るこの時とさせてください。
お願いいたします。
御言葉を開いてください。あなたが語ってくださいますように。
ここに来たくても来れない方々、施設におられる方、
また御自宅で礼拝を守らざるを得ない方、
体が痛んでおられる方々がいらっしゃいます。
お一人一人の上に主が御臨在くださり、
慰めを与えてください。
また本当に戦争が、自然災害が、
多くの人たちを苦しめています。
主をどうかあなたが王として、
この世界を術を収めてくださいますように、
あなたの御手を述べてください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を開き、主がお語りください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
弟子たちの派遣
偽論教会の北村さんにお証をいただきました。
実は私も中学生の頃に、
公文で偽論教会の方が聖書を配布されているのをよく目にしました。
ある人は受け取る、
家に持って帰ってまた読まれるということもあるでしょうし、
ただ同時にもう一つ目にするのは、
帰りしな道端に聖書を捨てる人がたくさんいるんですね。
私は教会に当時行っていたので、
とても見ていてつらくなったことを覚えています。
ただ今思えば、
配布しておられた偽論教会の方々は、
もっとつらかっただろうなということを思い返すんですね。
決してそれ専属ではなくて、
お仕事もしながら、
多忙な中で時間を作り、
祈りつつ、でも主のためにと、
御言葉の種を蒔き続けておられるその働き、
私は本当に尊い献身だなということを思って感謝をしております。
ただですね、やはりそういう現場を見ても思います。
御言葉の種を蒔くという場所は、
優しい場所ではない。
今日のマタイの10章を見ますと、
イエス様も弟子たちを優しい場所に私は使わせますとは語っていません。
弟子たちが使わされるのは、
今日読んでいただいた通り、
狼の中です。
狼の中に私は使わすと言います。
すなわちそれは旧章にもありましたが、
イエス様のことを、
あいつは悪霊の頭だと言って批判した人々のもとに、
イエス様の弟子たちは使わされていきます。
弟子たちも、
あいつらは神を謀得したイエスの弟子だと見られ、
イエス様が悪霊の頭と言われますから、
いや、あいつらは悪霊だと指を刺される。
そのような道に歩んでいく。
それは義憤もあるでしょう。
正しい動機で怒る人たちもいるでしょう。
義憤も混ざった怒りで、
あなた方はまさに身体的にも精神的にも、
攻撃される道に入っていく。
そのようにこの十章を見ていくと書いてありますね。
そしてこれは今も変わりません。
多くの宣教師や教派を超えたミッション、牧師、
そして神徒であるお一人一人の方もそうでしょう。
主のためにと立つ一人一人の献身者、
それは今も世界中でこのような現実を味わっていることでしょう。
時には本当に命を落とすこともある。
そのようなことです。
ただそれほど過激でなかろうとも、
皆さんが、あの人にイエス様を伝えたいんですと願い、
祈りをする時の中にも、私たちが見る現実ですね。
ただ、今朝の歌詞を見ながら、
ただ見なければならないのは、
イエス様が弟子たちを派遣する時に、
ほら、あなたたち狼の中に行くから食べられたらいいですよ、
ということを言っているかと言ったら、そうじゃない。
厳しい現実に使わす。
使命の重み
でも、私はこのようにあなたたちを使わすというイエス様のお言葉、
やはりそれに耳を傾けなければならないのだと思います。
私たちも今朝は少し、このマタイの十章は派遣説教と呼ばれる箇所ですけれども、
イエス様がどのように私たちを使わせてくださっているのか、
二つのポイントを挙げてみたいと思います。
二つだけのことに目を止めます。
一つは、イエス様が言われるのは、
あなたが生きなさいということです。
あなたが生きなさいということです。
今日は十章全体を軽く見ますけれども、
十章の最初の二節からは、
弟子の中から十二人を選んだ十二使徒の名前が出てまいります。
イエス様は弟子の中から十二人を選び、
そしてこの十章の二節で、
十二使徒という言葉はマタイでここで初めて記されます。
使徒という言葉は、これはギリシャ語で直訳すると、
派遣されるもの、使わされるものという意味です。
その名の通り、イエス様は彼らをこの後派遣するわけ、
使わせていかれるわけですね。
そして使わされる彼らは、十章の八節を読みしますと、
七節から読みましょうか、十章の七節から、
行って天の御国が近づいたと述べ伝えなさい。
病人を癒し、死人を引きかえらせ、
さらっとに侵された者を清め、
悪霊どもを追い出しなさい。
あなた方はただで受けたのですから、
ただで与えなさいと言われるのですね。
これ一読されてお気づきになる方もいらっしゃるでしょう。
これは八章、九章でイエス様がなされた身業の全てです。
圧倒的な権威を持って、イエス様は社会からはじかれ、
当時で言うならば神様の愛からもはじかれていると思われている人たちのところに行って、
神様の恵みの御支配、
神様は生きておられてあなた方を癒し、
あなた方を愛しているんだという御支配を示されました。
弟子たちもそれを身近に見ていたわけです。
父なる神様はそのようなイエス様の業を
あなたたちにも委ねてくださるのだから、
だから今度はあなたたちが生きなさいと
イエス様が言われてここで使わされるわけですね。
少し考えてみたいと思いますが、
弟子たちはどう思ったでしょうか?
あのイエス様のように、
あ、私がそれをするんだということにワクワクしたでしょうか?
ただおそらくこう思ったかもしれないなと思うんです。
え?イエス様、あなたは来てくださらないのですか?
イエス様、あなたがしてくださるんじゃないんですか?
私も実は教会生活の中で同じような疑問を持ったことがありました。
青年の頃ですね、教会でバザーとかコンサートとかあるときに
友達誘うんですよ。結構来てくれるんですけど、
その中で何人かはその後も教会に来続けてくれる子たちがいる。
ただ青年期の私は教会で遊ぶことしか考えてなかったので、
彼らのために祈ることもあまりしませんでした。
ただあるとき、牧師先生に言われました。
みっくん、彼を導くのは僕じゃない。
あなたが祈り、彼を導かないといけないよと言われたんですね。
はっきりと言われました。
私はその言葉がよく覚えてますし、ショックだったのだとも思います。
どこかで宣教であったり伝道というのは牧師がしてくれるものだと私は思ってたんですね。
牧師が福音を伝えてくれる。
ただそのことを先生に言われて、いや違うよ、それは君があの魂のために
君がしなきゃいけないんだと言われたときに、
私は一挙に重荷がのしかかった気がしました。
けれどもそのときに思いました。そうか、それは私がするんだと。
それは私にとってはとても大事な訓練でした。
一つの魂のために重荷を持って祈るということですね。
弟子たちも思ったかもしれません。
イエス様、あなたがしてくださらないのですか。
先生が伝えてくれないんですか。
当然イエス様は、私たちがイエス様ご自身を伝えようとするときに
共に働いてくださいます。
イエス様は働いてくださいますね。
僕しも当然皆さんがイエス様をこの人に伝えたいというときは
当然共に祈りますし。
いや本当にどうしても難しいんですよ。
それは伝道でも何でもしますよ。
するのだけれども、そのために共に労使祈るのだけれども、
でもイエス様がここで弟子たちを使わされたように
あなたが行きなさいという言葉に
ここにいる一人一人は全員語られているんです。
あなたが行きなさい。
そういうことを言われるとなんか重たいなと思うわけですけれども、
でもなんでじゃあイエス様がそれをしてくれなくて
私が行かなければならないのでしょうか。
10章の9節から14節にはその理由が書かれていると思います。
皆さんよくご存知かと思います。
イエス様は弟子たちを質素な様相で行くようにということを命じられますね。
ただ、ここで弟子たちに何も持たずに質素な様相で行きなさいと
言ったことの理由は2つほどあるでしょう。
1つは弟子たちが奇跡を起こして癒されるわけですよね。
だから奇跡を起こすことによって弟子たちが支援者を集めて、
今のインフルエンサーじゃないですけれども、
神の力と弟子の旅
影響力を持って自分自身を大きくしないためです。
当時、奇跡を起こして俺が本物だって言って支援者を集める人は
イエス様以外にもたくさんいました。
使徒の発祥の魔術師諮問なんかまさにそうですよね。
そういう人たちはいます。
ただ、よく私は言いますが、悪霊も奇跡を起こします。
イエス様の弟子というのは、奇跡によって自分自身が大きくならないようにと注意されるんです。
どれほど素晴らしい技がその人において起こったとしても、
それは神様は愛と希望を人にもたらすためにその技を成してくださったんだ。
それは主の技なんです。
そう言って、低くなる歩みを覚えなさい。
それがこの歩みの目的の一つでしょう。
ただもう一つ大事なことは、弟子たちが旅先で神は生きておられるということを知るためです。
実説の言葉を読みますと、
「袋も二枚目の下着も履物も杖も持たずに旅に出なさい。
働く者が食べ物を得るのは当然だからです。」という言葉があります。
ここで袋もと書いてあるこの袋は、
こじき袋なのだそうです。
調べてみますと。
こじき袋です。
いわば、あなたたちは旅先で食べ物がなくなっても、
こじきもしてはならないと禁じているんです。
これはかなり厳しいですね。
むしろ11節に書いてあるのは、
どの町や村に入ってもそこで誰かがふさわしい人かを調べ、
そこを立ち去るまでその人の家にとどまりなさい、
ということを言われる。
弟子たちの生活を支えるのは、
町の中に誰か会ったことのないふさわしい人がいて、
その人があなたの生活を支えてくれますよ、ということを言うんです。
実に過酷で保証のない旅ですね。
けれども、これはなぜこんなことをするのか、
弟子たちを苦しめることは目的ではない。
むしろ、いや、でも行ってごらん。
行ったら不思議とそうなるよ、ということを経験させるためなんですよ。
それはすなわち、神様は生きておられて、
不思議な方法でも確かにあなたを養うんだよ、ということを知るためです。
神は生きておられる。
旧約聖書を見るときに神様は、
イスラエルの民が40年間アラノをさまよったときに、
一日たりともマナを忘れないお方である、ということが書かれていましたね。
それは何を言っているのか、
神様というお方は誠実なんですよ。
私たちに対して課された約束を守られるお方、
神は誠実であり憐み深いお方、
弟子たちは行った先で様々な奇跡で悪霊を追い出したり、大きなことを見るでしょう。
でも彼らが見なければならなかったのは、奇跡の大きさだけではない。
神様ご自身は憐み深く誠実なお方である。
そのことを頭ではなくて生きて知るためです。
旅先での神の誠実
主はそのようなお方なんだということを彼らが経験する。
ただ私たちもそれは実感としてあるかもしれませんね。
神様を信じていくというのは知識じゃないですよ。
主は生きておられるということを私たちは味わっていくわけじゃないですかね。
経験するんですね。経験なんです。
それはまさに、ただこれはイエス様がやってくれるんでしょって言って、
その道に歩もうとしない人はもしかしたら味わえない道かもしれませんね。
私たちはある種苦闘しながらイエス様を伝えようとするその歩みの最中にも、
主は誠実で生きておられるお方だということを味わっていくわけじゃないでしょうか。
私もこの説教を作りながら思わされました。
私たちは誰のもとに使わされているんでしょうか。
宣教の場所と言いますと、ギドーン教会のように公文でいろんな人に配れることも大事です。
ただもう一つ私たちの大事な宣教の現場は、私たちが帰っていく場所です。
私たちの帰る場所が宣教の現場です。
そう思うときに悟空にもなります。
もう何十年も祈りながら鉄の扉が動かないという経験を私たちは何度もしますし、
もう何十年もイエス様を伝えようとしながら伝えるたびに傷ついてばかりいるという経験を私たちは何度もしますね。
でもイエス様が言われる、いやあなたをそこに使わせているんだと言われるときに、
私たちはやはりそれでもそのために共に祈るように召されるんですよね。
共にです。これ共にというのはあなただけが祈るのではなくて、牧師にも祈らせてください。
そういうふうに共に私たちは祈っていく。
そして主がその人の心を動かしてくださるようにとやはり祈っていくんですよね。
そして何よりも私たちを忘れちゃいけないのは宣教というのは愛することですよ。愛することです。
そのように私たちは愛と希望をもたらすためにイエス様に召されて言われている。
あなたがそこに行くんだよと。あなたを使わせていると。
ただもう一つ、この今朝の箇所からもう一つのポイントとしてご一緒に覚えたいのは、
恐れないという信仰
そういう私たちにイエス様がかけられる言葉はいつも恐れることはありませんという言葉です。
恐れることはありません。
狼の中に使わせていく弟子たちに向かってイエス様は恐れることはありませんと語られる。
十章の中で言うならば三回繰り返し言われます。
十章の二十六節、二十八節、三十一節にその言葉がありますね。
ですから彼らを恐れてはいけません。
二十八節でも体を殺しても魂を殺せないものを恐れてはいけません。
三十一節ですから恐れてはいけません。
恐れてはいけないと三度繰り返します。
ある聖書学者が、聖書の中で最も頻繁に繰り返される忌ましめは、
愛し合いなさいでも正しく生きなさいでも分け与えなさいでもありません。
聖書で一番イエス様が私たちに語る忌ましめは、恐れるなです。
恐れることはないです。
恐れることはない。
そんな無茶なと読みながら思います。
確かに。弟子たちは恐れがある場所へと使わされていきます。
この十章を見ていっても、二十五節を見るならば彼らはひどい呼び方をされますね。
ひどい呼び方で彼らは呼ばれて、十七節には彼らは街道で暴力を振るわれるわけです。
十章の二十八節を見るならば、ローマやヘロデの手下は弟子たちの体を殺す力を持っています。
いわば命を奪える。過酷な環境です。
だから十六節に蛇のように賢く鳩のように素直であれということも言われます。
素直である福音を素直なピュアな思いで伝えることは大事だけれども、
それと同時にこの世に対しては賢く抜け目なく、
そのようにあなたたちは宣教をしなければならないということも勧められます。
ただそれだけ宣教の現場は容易ではないということをイエス様は言われる。
先ほど皆さんが帰る場所が宣教の場だと申し上げましたが、
キリスト社として生きていくそのために暴力を受けるということがないわけではありません。
言葉の暴力なんか数え切れません。
理解をされない、変な人として見られるということはあるでしょう。
また私たちは共通して死という現実が目の前にあるときに宣教の意欲はそがれます。
宣教?それどころじゃないですよ。私は私のことで精一杯なんです。
どれも私たちを取り囲む様々な怖い人、怖い状況、もしくは死という現実が私たちの内につくる本音ではないでしょうか。
私は素直な本音だと思うのです。
ただその現実に対してイエス様は言われるんです。
恐れてはいけません。恐れてはいけません。
なんでイエス様はそういうことを弟子たちにはっきりと言えるのでしょうか。
根拠となるのが実は今日の中心聖訓の23節です。
この説教の中で誠にとイエス様が言われるのはこの箇所だけです。
誠にあなた方に言います。
人の子が来るときまでにあなた方がイスラエルの町々を巡り終えることは決してありません。
この言葉は言い換えるならば、あなた方が町々を巡り終える前に、人の子は来ると言っているんです。
人の子は来ると言っているんですね。
これはちょっとだけ聖書の解釈の話になって申し訳ないんですけれども、
これは一般的にはイエス様が来るという話は、天からイエス様が地にやってくるというサイリンの言葉として理解することが多いです。
私もその理解は同意もしますし、否定する気もさらさらないです。
ただ、聖書はいろいろな解釈があるので、もう一つの可能性をお話しするならば、
人の子が来るという言葉、これはダニエル書の13章の引用なんです。
ダニエル書の言葉なんです。
当時、人々はこの言葉を見るとダニエルだし、イエス様は人の子だ、自分の子と人の子だというときにダニエル書7章と重ねている。
ダニエル書7章は細かく話すと長いのであれですけれども、
簡単に言うならば、あれは目視文学という読み物で、幻を見るのは天なんです。
7章に書いてあるのは、ダニエルは7章において様々な形した獣を見ましたけれども、その上に白髪の身座についておられる方を見ました。
そしてその見ているダニエルの下に、天の雲に乗って人の子がやってくるということが書かれる。
ときに、これは解釈の一つの可能性でしかありませんが、人の子が来るというこの言葉は天から地ではなくて、地から天に昇っていくという光景だという人もいます。
じゃあそれが何を意味するのかと言いますと、マタイの福音書はそういうことが全部重なっているんですね。
例えば、26章の64節、マタイの26章の64節というところに、十字架にかかられる前のイエス様の言葉がありますが、ちょっとだけお読みしますと、
マタイの福音書の26章の64節、イエス様が言われた言葉があります。26章の64節。
イエスは彼に言われた。あなたが言った通りです。しかし私はあなた方に言います。あなた方は今から後に、人の子が力ある方の右の座につき、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。
天の雲に乗って人の子が来るというのは、右座につくということと結び合わされ、そしてマタイの最後の28章を見るときに、28章の18節というところを見ると、まさに王であるイエス様のストーリーがずっと続いているんですが、28章の18節を見るときに、こう言われました。
イエスの権威と恐れの克服
イエスは近づいてきて彼らにこう言われた。私は天においても地においてもすべての権威が与えられています。ですからあなた方は行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。父子精霊の名において彼らにバクテスマを授け、私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。
みよ、私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいますという言葉です。あくまでこれは一つの解釈の話をしているので、そういうこともあるんだなと思って聞いていただけたらいいですが、ただ、28章の言葉から明快です。
それは弟子たちを使わされる上で、その力の根拠は何なのかというと、イエス様が言われるのは、私が天でも地でもすべての権威を持っている。私が天地の権威者、王であるということが、イエス様が選挙を進める上での根拠です。だから、恐れてはいけないと言われるんです。恐れることはありません。
イエス様がそう言われる根拠は、今や主イエス様が天でも地でも権威を持つ王と今やなられたからです。2000年前からなられたからです。天や地と言いますが、しかしそれは私たちが帰っていく場所もそうでしょう。
ある種、私たちの周りにある恐れ。恐れが取り組まく私たちが帰っていく選挙の場所。死という現実を捉える私たちの選挙の場所。それは、恐れと死が私を取り囲んでいると私たちは思うかもしれませんけれども、しかしイエス様が言われるのは、あなたを囲っているのは恐れでも死でもない。あなたを囲っているのは、それ以上に権威を持っている。私があなたを囲っているんだ。
そう言われるそのような場所なんですね。ちょっと力が入っちゃいましたが、でもそのような、いわば8章9章でも見ました。神様の恵みの支配、神様の誠実さ、いやまとめて言うならば、神様の良き力が、それは今もあなたを囲っている。そういうことを言うのではないでしょうか。
あなたがそう思えなかろうとも、傷ついてしまったとしても、死が私の心を蝕もうとも、現実はそうなんだ。現実は、私があなたを囲っているのだ。
そのことを表すような言葉が、10章で言うと、29節から31節の言葉が、まさにそういう言葉だと思います。10章の29節からは、
あなたの髪の毛さえもすべて数えられているという言葉はね、私は好きだなぁと思います。神様の許しなしに起きることは何もない。私の目によく見えることも、時々私たちはあります。祈りながらも私の願った通りにならないなぁということはありますね。
でも、私たちの目に悪く見えないことであったとしても、変わらない事実は、私たちは神の良き力に囲まれて生きているんだということです。だから、恐れることはない。恐れることはありませんと、今も主は私たちに語られるんですね。
今朝の場所から2つのことを改めて覚えたいと思います。第一に、私たちはあなたが行くようにと招かれるんです。あなたが行きなさい。行く場所は特別な場所ではありません。私たちが帰っていく家庭、私たちの職場、私たちの人間関係、その最中に帰っていきます。
そこで、4つの法則を持って行って、「イエス様!」と伝えることだけが宣教ではありません。宣教というのは、その場であなたが誠実にキリスト社として生きるということです。神の前に誠実に生きるということです。あなたがキリスト社として、そこで誠実に生きるとは一体どういう意味なのか、自分で考えなければならないこともあるかもしれません。
ただ、祈りながら、祈りながら、そのことを考えて行きなさいとめされる。その中で私たちは、味わうのでしょう。主は生きておられる。そして、その中で人々を愛しつつ、宣教をしていく。
そしてもう一つ、私たちが今朝覚えたいのは、そういう私たちを神の良き力が囲っているということです。恐れに取り囲まれるときに、思います。これは私自身もそう思いますから、偉そうには言えません。宣教、それどころじゃないです。私は私で精一杯なんです。
ただ、ある種厳粛な事実として、もう一つあるのは、でも主が委ねられた一人が、私たちにはそれぞれいるんですよ。これも事実なんです。どうすればいいんでしょうね。本当にそう思います。鉄の扉は動かない。だからもう動かないと諦めてしまう私たちがいます。
けれども、そう疲れている、落ち込んでいる私たちに、今朝、主の励ましをご一緒に聞きたいと思うのです。恐れてはいけません。恐れてはいけません。私があなたと共にいるんだ。私があなたをその場所に使わせたんだ。私の良き力は今もあなたを囲っているんだ。だから恐れることはありません。
神の良き力と宣教
私たちはその言葉を聞きながら、それぞれができる形で主にお答えさせていただければ幸いだと思います。一言お祈りをしてメッセージを終わります。