1. 名谷教会
  2. 2014/09/21:聖日礼拝(旧音源)
2014-09-21 20:16

2014/09/21:聖日礼拝(旧音源)

2014/09/21 聖日礼拝(旧音源)




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はい、それでは、今日のメッセージはですね、この古臨当人への手紙、第13章から
愛に満ちた教会という題にしまして、しばらくですね、御言葉から恵みをお受けしたいと思います。
今日、皆さんも無事にですね、3、40分くらいかかわれたと思うんですけど、無事に到着できましたと。
また、天気も本当に晴れてですね、本当に感謝いたします。
アメリカでですね、実際会ったことですけれども、双子が生まれました。
ところがですね、兄の方は、ちょっと元気でしたけれども、弟の方が、代わりの息子でしたけれども、
弟の方が、生まれてから心臓が悪くてですね、正常的に動いていなかったんですね。
それで、インキュレーターに弟の方が入っていたわけなんですけれども、
その時に、主医のお医者さんが、ちょっと変わった、プロティックを言いましょうか、対応をしていました。
それはですね、お兄ちゃんのベッドにですね、その横にですね、その心臓が悪くない弟を横に寝かせた。
そしたらですね、不思議なことが起きます。
生まれて2、3日しか経っていないから、普通の私たちのように実習があって、
自分の横に心臓が悪い弟が来たな、というそれは実習できないと思うんですけれども、
でも不思議にですね、その兄の方がですね、その自分の横にいる弟をですね、
例えばですね、こう抱っこするんです。兄の方が。
で、それをずっと自分の弟を抱っこしています。
そしたら、不思議な不思議なことが起こります。
それでですね、この脈の心臓の迫動ですか、それも良くなかった弟の方、その心臓の迫動が徐々に徐々に制御に戻って戻って、
そしてそれがまた2、3日経って、1週間くらい経って、弟の心臓がもう全く制御に戻ってですね、
2人とも病院から退院できた、あの実際の話があるんですよ。
で、まあそれを動画で見たことがあるんですけれども皆さん。
このようにですね、愛には素晴らしい力があります。愛には凄い力があるんですね。
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今日は、愛に満ちた境界とは何なのか、ともにですね、考えてみたいと思います。
イエス様が立て落とされた境界とはどんな所だったのか。
イエス様が立て落とされた境界は一体どんな姿だったのか、それを聞くならばですね、それは一言で言うならば、
愛に満ちた境界です。愛の共同体と言えると思います。
ところが皆さん、聖書、新約聖書にですね、大体私は境界の原型と言いますか、境界はどんな所なのか、それを知りたい場合、
まず開いて読む聖書はどこですか皆さん。だいたい人の働きなんですよね。人の働き。
それでも間違ってはいないんですけれども、実は境界という名前はですね、これは境界ですけど、
そういう名前は書かれていないんですけれども、実はイエス様と十二の弟子、あの群れと言いましょうか、
その十三人のあの共同体はまさに境界の原型であって、境界の初めての姿です。
イエス様はですね、弟子たちと旅をしたり、多分ですね、イエス様は誰でも訪れたんですよね。
弟子たちと風邪でもしたり、食事も一緒にしたり、一緒に寝たり、あるいは一緒にパーティーもしたり、
宴会にも行ったり、また奇跡も起こしたり、その様々なことを三年間ですね、一緒に過ごしています。
皆さん、それがですね、態度がありませんでした。提起をさせることもありませんでした。
しかし、イエス様とあの十二の弟子、その集まり、その群れ、その共同体はまさに境界の本来の姿であって、
それはですね、愛に満ちた境界のお姿です。
そのうちですね、イエス様に弟子たちに建物もありませんでした。書籍もありませんでした。
持っているものよりですね、持っていないものが多かったですね。
ところが彼らの間に、イエス様と弟子たちの間にあるものが、持っているものがありました。
あの当時の他の人々に、他の土地にはなかったものがありました。
それは何でしょうか。それは、愛なんです。
しかも普通の人間的な愛ではなく、神の愛であって、イエス様の愛でした。
また特にですね、弟子たちに向かうあの十二、ペテロやヤコブや、彼らに向かうイエス様の愛、
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もちろんまたイエス様に向かう弟子たちの愛もありました。
このように皆さん、最初の境界はですね、イエス様と弟子たちのこの共同体にあった、愛に基づいた愛の共同体、
それが境界の本来の姿ではないでしょう。
イエス様が弟子たちにですね、教えられた御言葉の中で、
もっとも多く書かれた、そして語られた御言葉の中の一つは、
私があなた方をどうしたように、愛したように、
私があなた方を愛したように、
あなた方も互いに愛した、
一緒にですね、覚えていらっしゃる方は一緒に、
消していきましょうか。
私があなた方を愛したように、
あなた方も互いに愛した、
よろしかったですか?
1つ目ですね
はい
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛してあります。
これが家様と弟子のこの教会、この共同体の唯一な教会
家様が教えられた教会の姿
世の人々の愛し方じゃなくて
家様が自ら身をもって示してくださった
家様の愛し方
それなんですよ
皆さん
ただ唯一、家様の愛
その愛こそがこの世を変えることができる
また自分自身を変えることができる
また変化や改革や
あるいは人を癒す、あるいは人を回復する
すごい力はこの愛にある
家様が弟子たちに身をもって
模範的に見せてくださった愛の愛し方は
最後の最後まで
諦めず
捨てず
裏切ることなく
あくまでも信頼し切る
自分をへり下らせる
高ぶらない
全てを耐え忍ぶ
全てを信じる
全てを待ち望むこと
その愛が家様と弟子たちのあの共同体の愛です
09:07
これが皆さん、教会の一つなんです
これがまことの教会の姿だと思うんですね
私の家族が宮谷教会に赴任しまして
今9月ですから
1年と6ヶ月、1年半年が過ぎました
そんなに長い時間ではなかったんですけれども
本当に1年半年間
本当に皆さんに祈っていただいて
捧げていただいて
応援していただいて
今日までですね
どっか行かせていただいているわけなんですけれども
本当にですね
感謝して感謝して
神様に感謝して
皆さんに感謝して
また本当に自分は
うちは本当に幸せな国家だなと
いつもいつも
そう
お世辞でありました
一度もですね
なんで僕がこの教会で赴任してきたんだろう
そういったことを思ったことは
一度もありません
皆さんには
本当に素晴らしい愛があります
兄弟姉妹のために
教会のために
何とかしてさせてあげたい
自分にできることならば
何とかさせていただきたい
そういう熱意
その
従心の信仰
また法師の信仰
愛があるんですよね
その姿をゆう様が
ご覧になってですね
本当に喜んでおられ
また褒めてくださると思うんですよね
今日の御言葉から
簡単にですね
申しますと
熱くてあまりにも立てられないんですけれども
えーとですね
今日の御言葉を
今のあたかしに
当てはめて言うならば
例えばですよ
そうではないんですけれども
本当に教会の中に
すごい素晴らしい賜物を
持っている人が
多くいたとしても
愛がないなら
それは
平気に
あるいは
いくらすごい信仰を
持っていても
山を動かすほどの信仰を
持っていたとしても
愛が
あたかしの間に
愛がないなら
それは
何でもない
12:00
今日の御言葉に書かれているんですよね
たとえ私が余分な賜物を持っており
またあらゆる奥義と
あらゆる禁忌と
良い通義
また山を動かすほどの
完全な信仰を持っていても
愛がないなら
何の値打ちも
ありません
たとえ私が持っているものの
全部をまぬす人たちに
分け与え
また私の体を焼かれるために
渡してもですね
愛がなければ
何の役にも立ちません
本当にそうなんです
あたしがですね
一生懸命に活動したり
一生懸命に奉仕したり
一生懸命に何をする
活動をしたとしても
その中に
愛がなければ
それは値打ちもなく
役に立たないということなんですよね
願わずは
両大教会が
今もそうなんですけれども
今よりさらに
愛に満ちた教会でありたいと
願わせておきます
互いに深く愛し合う教会
イエス様が愛してくださったように
互いに愛し合う教会
互いに理解し合う教会
思いやり合う教会
祈り合う教会
助け合う教会
そういう本当のですね
イエス様と弟子たちのような
愛の関係でありたいと
そう願っております
私はこう思います皆さん
教会において
最も重要なことは何でしょうか
大きくて
すごい建物なんでしょうか
いや、そうではありません
それよりもっと重要なことは
私たちが
イエス様の御言葉のように
愛し合うことではないでしょうか
多くの方針をして
多くの活動をすることに
最も重要なことは
私たちが互いに
愛し合うことではないでしょうか
有名な教会になることより
最も重要なことは
私たちが愛し合うことではないでしょうか
自分もそうなんですよね
忙しくて有名な牧師になることよりは
あるいは大きな教会の牧師になることよりは
最も重要なことは
謙遜になって
イエス様のように
愛に満ちた牧師
牧者になることだと
考えております
皆さんイエス様は
私たちがこのような信者
このような牧師
あるいはこのような教官になることを
願って望んでおられます
愛は関与です
愛は親切です
愛は人を妬まない
愛は自慢しない
愛は高慢にならない
愛は礼儀に反することをしない
愛は自分の利益を求めない
愛は怒らない
15:00
愛は人のした悪を思わない
愛は不正を喜ばずに真理を喜ぶ
愛は全てを我慢し
愛は全てを信じ
愛は全てを期待し
愛は全てを耐えし延びます
実は言語ですね
全部愛が愛が愛が入っているんですけど
日本語の政治は愛を全部外しているんですけど
愛は全て耐えることはあります
だから皆さん
三浦の教会が
愛に満ちた教会
本当に愛し合う教会
自分の全てを分け与えても惜しまない
共に支え合う
心から悩みを明け渡し
互いのため泣き
互いのため祈る
そういうですね
愛に満ちた教会でありたいと
そう願っております
皆さんにですね
私のことを申し上げるならば
よくよく祈るときにですね
自分は神様の方を祈るんですね
神様
私には本当に
愛が足りません
私には哀れみが足りません
神様私に
あなたの愛をお与え下さい
あなたの哀れみを私にお与え下さい
そして愛に満ちた
愛に満ちた
哀れみに満ちた
そういう牧草のような牧師の息を
ならして下さいとですね
祈るんですけれども
皆さん三浦の教会が
イエス様の御言葉のように
自分を愛するように
自分の命を愛するように
自分を大切にするように
お互いに大切にする
愛者を許可いただきたいと思います
最後にもう一つだけ申し上げますと
このようなですね
深い愛の共同体教会になるためには
いくつか指定いただきたいことがありますけれども
その中の一つだけ申し上げますと
それはよくよく集まることなんです
会うことなんです
皆さん人はですね
会っていないと心がですね
遠くなるんですよね
例えばですね
韓国の場合にですね
20歳、21歳、22歳の
本当に
旺盛な男性たちが
みんな軍隊に住んですよね
でも多くの男の人は
自分の恋人を
世界に置いたまま
軍隊に住んです
で、大体ですね
何枚くらいか知りませんけれども
彼氏さんがですね
軍隊になりた
みんな彼女たちは
他の男の人に行ったってですね
そういうことがよく起こるんです
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あの二人はそんなことなかったんですけどね
よくあるんです
で、今はですね
年に何回も休暇で
入ってくることがありますけれども
私が20年前は
年に一回休暇があるかないかなんです
だからですね
入隊する前にラブラブしていてもですね
軍隊に入って
一年も会っていないとですね
手紙がですね
送ったりもらったりするんです
あの時は電話もできなかった
で、帰ってきたらですね
電話番号、携帯番号が変わっている
そして連絡したら
他の男の人に
恋していることが
よくあるんですけれどもね
何を言いますかっていうならば
会っていないと
これは変わりやすいんですよ
人間というものなんですね
ですから教会というものは
皆さんもちろんですね
もう水曜日とか
あるいは日曜日とか
あるいはなんか練習とか
様々な都合を持って
皆さん集まっているんですけれども
だから
もうできるならばですね
よくよく
お互いに会って
その中で
共に祈りかばいを分かち合う
あるいはおしゃべりをしていいでしょう
あるいはお話をしていいでしょう
そういう風にして
お互いを理解し合う
そして愛が膨らまる
その中で
お互いの霊性も高まる
こういうですね
お互いに刺激を受けつつある
教会でありたいと
そう願っております
本当皆さん
どうか明太に教会が
本当にイエス様に褒められる
本当に明太に教会は
愛に満ちた教会だなと
そういう風にイエス様に
褒めていただき
また認めていただく
教会でありたいと
願っております
では最後にですね
13節一緒に読んで
今日の演説を終わりたいと思います
13節一緒に読みますね
よろしいですか
3、はい
こういうわけで
いつまでも残るものは
信仰と希望と愛です
その中で
一番優れているのは
愛です
はい
一言お祈りします
20:16

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