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皆さん、おはようございます。
おはようございます。
それでは今日も、メッセージをあげる前に隣の方々と、挨拶したり握手したり、歓迎したいと思います。
ゆっくりいらっしゃいました。
はい、では一言お祈りいたします。
愛する聖の神様、今日もあなた様の恵みを、素晴らしい恵みを感謝いたします。
今日もこうして、主の御前に賛美を授け、祈りを授けるこの群れの上に、主の恵みと慈しみと、また、御言葉の悟りを深く主を教え、また、主が授けてくださいますように。
そして、神様に語られる御言葉通りに、私たちが伝うその信号を、どうぞ、私たちにお与えくださいますように。
よろしくお願いいたします。
主よ、心を開いて聞く意味をお与えください。
御典に至れます。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
アーメン。
はい、先週は本当に、とても素晴らしい天候の中で、野外礼拝を共にですね、始めることができましたこと、本当に感謝いたします。
子供を含めて40人ぐらいでしょうか、41人ぐらいでしたけれども、本当にですね、望まれました。
楽しかったですね。来年もまた、よかったら春も秋も行きたいなと思っておりますけれども、本当に感謝いたしました。
今日は、キリスト教のエッセンスシリーズメッセージの聖霊様の2回目なんですが、
今日はですね、最初には、今からですね、一つの絵をお見せしますけれども、
ウサギが一匹出てきます。
そして皆さんから見ると、こっちをちょっと上げて見ているウサギの絵なんですけれども、よくご覧ください。
ウサギが見えますか、皆さん。
ウサギが見えますか。
耳が長くてこうしているウサギが見えますか。
はい、さあ、消えてください。
今度は、一匹のアヒルを描きました。
腰が長いアヒルが、今度は向こうを向いています。はい、どうぞ。
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アヒルが見えますか、皆さん。見えませんか。見えますか。はい、以上です。
さあ、これはですね、この絵は、実は昔から心理学とかでよく使われる絵です。
それは何を私たちに一つ示しているかと言いますと、
先にどういう情報を自分の頭に入れておいたのかによって、
同じ絵を見ていても、これはウサギだという情報が頭の中に入ったらですね、
ウサギが見えてくるんです。
頭の脳の中にですね、ウサギを見ようとするこの動きが構えられるわけですね。
逆に、さあ、これはアヒルですとしたら、アヒルだと言ってですね、
アヒルを見ようとするその心の気持ちがあるわけなんですよね。
つまり皆さん、私たちはですね、このようにですね、今まで、あるいは今も、あるいはこれからも、
何かに影響を受けて暮らしてきたわけです。
そして今も人から、あるいは何かの情報から、何かの影響を受けているし、
またこれからも様々なルートから影響を受けることでしょう。
例えば考え方とか、食事をするときに食べ方とか、歩き方とか、進行の仕方とか、
何かのですね、決定をするときの仕方とか、様々なことの今の自分というものは、
実は今まで様々なことから影響を受けてできたものが今の自分なんです。
つまりはですね、私たちが自分がその影響をコントロールしている。
そして自分も自分自身をコントロールしていると思いがちなんですけれども、
実は私たち今の存在、生き方、進行の仕方というものは、実は様々な影響を受けたその産物であり、
結果であるということなんです。
例えば皆さん、私は影響を与えたり影響を受けたりするんですよね。
今まで皆さん振り返ってみてください。
ご両親から影響を受けて育ちました。
仲間ができたからは仲間から影響を受けたり影響を与えたりして、
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自分の人格、あるいは性格、あるいは生き様が形成してきた。
学校の先輩後輩、あるいは教会の兄弟姉妹達、あるいは何らかの本、あるいは僕先生とか、
あるいは新聞とか雑誌とか、ドラマとか映画とか、様々な影響を受けて、
今自分が何かの決定をしたり、何かの事柄を決めたり、進路を決めたりするわけなんです。
良い影響を受けたこともあるでしょうけれども、そうでない影響も実は私たちが受けてきました。
今も受けていますし、これからも受けるようになるでしょう。
ところが進歩のことについて共に考えていただきたいと思いますが、
今の現在の皆さんの進歩の在り方は、自分が作って築いてきたものでもありますが、
同時に様々な人から、様々なメッセージから、あるいは何かの情報からそれを影響を受けて、
現在の皆さんの進歩の在り方ができているわけなんですよね。
これは誰も否定しないと思います。
例えば、教団という枠の中で先輩や、あるいは今まで通ってきた明太に教会とか、
あるいは教会を移られた方は前の教会からとか、あるいは先後の先輩とか、
あるいは何かの学びとか、あるいは自分の好みによって、
そしてその好みによって自分が選んだ結果から影響を受けて、
実は私も皆さんも進歩の殻と言いましょうか、特色を持っているわけなんです。
ところが皆さん、私たちはそのように様々な伝統という影響を受けて、
そのために真理を見る視野が狭くなることもあり得るということなんです。
例えばですよ、選挙を読んだり、あるいはメッセージを聞いたりしていて、
自分の進歩の殻とよく合わないとか、あるいは今までずっと聞いてきた、
あるいは今までずっと学んできた教理とかメッセージと違ったら、あるいは違和感を感じたり、
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大体私たちは口には言わないかもしれませんけど、心の中にこういう考えたりするんですよね。
それぞれ違う。今までずっと学んできたのにとか思い込んで、
時には心の扉を閉ざしたり、耳を閉ざしたりすることもあり得ると。
また、時々耳にする言葉があります。
例えば何かの教会のやり方についてですね、
それは福音派のやり方とか、あるいはこれはペンテコステのやり方とか、あるいはこれはキョウル派のやり方とか、
それはアメリカのやり方、これは日本のやり方、あるいはそれはどこかの国のやり方とか、
そういうふうに分けようとする気持ちが私たちの内側にはあるのではないでしょうか。
この事例をお話ししたいと思います。
去年ですね、新学校で研究を受けるときに、ある卒業生の赤木でした。
彼は教団の教会から育てられて新学校に入った人なんですけれども、
彼の赤木の中にこういう話がありました。
同じ1年生からずっと勉強していた一人の新学生が、余裕になったら一つで異言で祈ったり、熱く祈ったり、大声で祈ったりしてですね、
その教団に育った彼はですね、それが第一弾だったんですね。
それでですね、もう本当に強く異様感を感じてですね、今まで聞いたこともない意見とか、
こんなに狂ったように祈る必要があるんだろうか、そう言ってですね、
彼と関わりを持つことすらなかなか苦手だったそうなんですね。
実際に新学校では、その学生の祈りがですね、他の学生に邪魔になる、だからちょっと慎んでほしいと言われたみたいです。
ところがその新学生が卒業する頃、1年、2年、3年になってですね、そして卒業する頃になって、
彼はこう言ってました。
自分が今までどれほどこの偏見な考え方を持ってきたんだろうか。
今まで自分が学んだこと、今まで自分が見たこと、それだけが正しいと、それだけが望ましいと思ってきたのに、
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そうではないということを気づかされた。
自分の転入感と言いましょうか、その偏見がですね、自分の考え方のうすわが、
あ、小さすぎたか、狭かった、それで心の耳を閉ざしてしまった、自分の愚かさと言いましょうか。
それをこの赤足の時にですね、明かしをしたことを。
皆さん、今日の説教のポイントは、聖霊様の支配をしっかりと受けましょうということです。
ところが皆さん、聖霊に満たされるためには、聖霊に満たされて、聖霊様の支配をしっかりと受けるためにはですね、
私たちが放棄しなければならないことが、手放さなければならないことがあるわけです。
例えば皆さん、車のですね、後ろのトランクにですね、荷物がいっぱい積んでいると、それ以上入れることはできないんですよね。
中に入っているものを出して、そして新しいものを入れなければならない。
両手にですね、何かものをですね、いっぱい掴んでいると、
誰かがそれよりもっといいものを与えようとしてもですね、今掴んでいるものを手放さない限り、もっといいものを自分のものにすることが、手にすることはできないわけなんです。
今掴んでいるもの、今握りしめているもの、あるいは自分に内側にいっぱいになっているものを、時にはそれらをですね、放棄する、手放す、空っぽにする。
そうするときに、聖霊様のご支配をしっかりと受けることができる。
そして聖霊に満たされたクリスチャンになることができるんです。
皆さん、クリスチャンは大きく二つの部類に分けることができるかと思います。
聖霊に満たされているクリスチャン、聖霊に満たされていないクリスチャンです。
まず今日は、ではですね、聖霊に満たされていない、聖霊十万でないクリスチャンの特徴は何なのか、まずここから見ていきたいと思います。
反面教師にしていただきたいと思うんですが、まず一つ、聖霊に満たされて、聖霊に支配を受けているのではなく、歴史と伝統に支配を受けていることです。
聖書はどこを見ても、私たちにですね、聖霊に満たされなさい、聖霊に満たされていなさいと書かれていて、歴史や伝統に満たされていなさいとは教えていません。
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ところが私は人間ですから、何らかの歴史、何らかの伝統に影響を受けてきたものですから、それに満たされている。
心の中に、頭の中に、生き方に、信仰のやり方に、それがすごく大きな影響を受けているわけです。
ところが皆さん、聖霊に満たされること、聖霊十万というものは、日々新しく注がれる恵みであって、また日々新しく私を変える力であって、また日々私を支配してくださる聖霊のご支配ですから、
それを受けるためには、そして自分自身が変えられるためには、果たして自分が受けてきた歴史や伝統やそういったものが、聖霊の御心に合うか反するかを、真剣に聖霊様に聞かなければならないということです。
もちろん歴史、伝統がすべて聖霊様の御意志に反するという意味ではありませんが、しかし歴史と伝統というものが必ずしも100%、すべて100%聖書的であるとは言えないと思います。
だから私の内側にはですね、歴史と伝統に満たされていて、一般になって聖書を読んでも賛美を歌っても、祈りをしても、説教を聞いてもですね、神様私を新しく知ってください。しかし自分の意志は変えません。聖霊様おいでください。主よどうぞおいでください。しかし自分の考えは変えたくないです。
せっかくは含めて教授の皆さんは、私たちスリーちゃんは、唯一の基準は歴史でもなく伝統もなく、実は聖書であって神様であって賛美一体の神様がすべてのことの唯一の基準になります。
ですから何かを決定するときに、あるいは進めていくときに、今まで何かをやってきたのかを基準にするのではなく、あるいは今まで何を学んできたのかを基準にするのではなく、あるいは自分の頭の中に何が入ってきたのかを基準にするのではなく、
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そういったものを一旦下ろして、放棄して、空っぽにして、そうしておいて、聖霊様が何をお語りになるのか、それを聞いて、そして従っていくことが、私たちに主が求められる信仰の在り方。
二つ目、聖霊十万でないクリスタルの特徴は、自我が強いです。自我が強い人は、聖霊十万になりにくいです。難しいです。
皆さん、私たちは祈るとき、賛美を歌うときに、メッセージを聞くときに、あるいは皆さんが聖書を読むときに、このような姿勢で祈ったり賛美をしたり、メッセージを聞かなければならない。どんな姿勢でしょうか。聖霊様、教えて下さい。
たとえ自分の考えと違っても、自分が今まで知っている事柄と違っても、違和感を感じていても、学びます、変えます、従います。これが聖霊十万なクリスタルの信仰の在り方なんです。
ところが、自我が強い人は、このように求めます。祈ります。賛美はしますよ。説教も聞いていますよ。しかし、教えて下さい。変えます。従います。そこまでは応答しないです。自我が聖霊様より強いからです。
聖書の一箇所を開きたいと思います。第一テサロニッケ五の十九説。第一テサロニッケ五書、十九説。四百一ページでした。では、十九説。短いですけれども、一緒に読みたいと思います。三範。
三玉を消してはなりません。ここに三玉を消してはなりませんと書いてあります。英語の聖書は三玉の火を消してはなりませんとあります。つまり皆さん、聖霊は受けました。確かに聖霊は救われたわけですから、三玉によって救われていますけれども、
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自分の内側にある聖霊の火を、聖霊の働きを、聖霊様のその力を消してしまうんです。自分の自我が強くて働く聖霊の火を消してしまうわけなんですね。
例えば、聖霊様が本当に火を起こそうとしたら、フッと消してしまう。聖霊様が心の中に祈りませんか?フッと消してしまう。聖霊様が学びませんか?としたら、その火を起こしてくださるんですね。しかし、強い自我がその火を消してしまう。
したがいませんか?と、聖霊様は心の中に常に火を起こしてくださるんです。火を起こして私たちを生かしてあげたいと、そうして聖霊様は火を起こしてくださるんですけれども、私はそれを消してしまうんですね。聖霊の力を、聖霊の火を消して、消して、消して。
皆さん、聖霊十万のクリスチャンは火を起こしますが、聖霊十万でないクリスチャンは火を消します。聖霊の火を消すのに、最も強いのは、消火器より自我がもっと強いです。
だから皆さん、自我の強いクリスチャンは、聖霊様がその内側で、その境界で働かれないんです。火が消されているから、力が消されているから、これを私たちは真剣に考えていなければなりません。
私は果たして、聖霊様が起こしてくださるその火に従っていくクリスチャンなのか、それを何らかの自分のこだわりや、あるいは歴史や伝統や、自分が今まで身についているものから誓ったと言って、違和感を感じているかと言って、それを消しているのではないか、真剣に私は考えていなければなりません。
聖霊様は常に私たちに新しいチャンスを、火のようなリバイバルのチャンスを、主は与えようとしておられるんですね。
生きる神様であって、人格の神様であられるわけですから、常に私たちに良い影響を与えようと。
しかし私たちが義が強くて、それをおこたわりする、拒む、消す、それが聖霊十万でないクリスチャンの特徴なんです。
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では、聖霊十万なクリスチャンの特徴はどういうものでしょうか。
まずですね、「聖霊に満たされなさい。」と今日の御言葉にありましたけれども、この満たされるとは、日本語の通りです。
満たされる、十万だ、あるいは満ちあふれる、そういう意味なんですよね。
皆さん、聖霊様は風紀でもなく、何かの地でもなく、人格であられ、または神聖を持っておられるおかさなんです。
ですから、聖霊に満たされているクリスチャンは、聖霊で満たされていて、聖霊様の人格が満ちあふれて、聖霊様のご神聖が満ちあふれて、聖霊の身が満ちあふれているんですね。
皆さん、よく考えてみてください。
自分の頭の中に、心の中に、一派になっているものが、自分の知らずうちに出てくるんです。
例えば、うちの子供たちが、最近のディズニーのアニメの有名な映画、雪の女王、そのDVDを見て終わったら、ずっとずっと歌ってるんですね。
子孫も、息子も、かしなみは、ありのままで、ずっと歌ってる。それを見ていると、教えられます。
自分が学ぼうとしていないんだけれども、頭の中に、1日半でしょうか、ずっとそれを見ているうちに、その歌が頭の中に入って、そして口から自分の手が出てくるんですね。
皆さん、そういう経験があるでしょう。何か映画を見て、出てきたら、歌が口から出てくるんです。
心の中に、頭の中に、何がいっぱい入っているかによって、その人の口から、人生の在り方に、それが表されるということなんです。
例えば、よく日本の方が、韓国の空港に着いたら、キムチにんにく臭いと。韓国人が日本に来たら、何と言いましょうか、韓国と違った匂いがするんですね。
それは、畳の匂いなのか、醤油の匂いなのか、それはわかりませんけれども、違った匂いがする。
私、トルコに初めて、トルコのイスタンブルの空港に着いたら、あの西洋人のあの匂いが、うわーっと出てきて。
私たちの心の中に、霊の中に、何に満たされているのか、それによって、それが表されるということです。
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だから、聖霊に満たされていますと、自然にですね、聖霊の人格が、聖霊の品質が、聖霊の身が、現れるんです。現れるんです。
それが、聖霊の影響を受けることであって、聖霊様のご支配を受けるということなんです。
聖霊に満たされるということは、その言葉通りであって、自分の内側に、聖霊様で満たされて、一般になって、
聖霊の人格で一般になっている、聖霊の身で一般になっている、聖霊様の品性で一般になっている。
だからですね、自分が意図的にですね、「私は聖霊の人ですよ。ご覧ください。」と言わなくてもですね、
まるでコップに水を注ぐと溢れるように、聖霊に満たされているクリスタントと共に話し合ったら、共に祈り合ったらですね、恵まれるんです。
自分の心が、聖霊は火の形ですから、燃やされるんです。もっと祈りたくなって、もっと従いたくなって、もっと謙遜になって、もっと愛するようになるんです。
聖霊充満なクリスタントからは、この人格が溢れて自分にですね、大きな波のように押し寄せてくるんです。それを影響を受けるわけないです。
皆さん、いかがですか。皆さん、いかがでしょうか。聖霊の支配を受けていますか。消していますか。全くにご支配を受けているでしょうか。
皆さん、聖霊の全くご支配を受けているクリスタントは、この世に対してはノーと言うんです。しかし、聖霊様に対してはいつもイエスと言います。
聖霊様に対しては、私たちはイエスマンにならなければならないと思うんです。それが支配を、全く支配を受けるということなんです。
僕のクリスタンは、聖霊様の存在や能力は、気にはしません。否定はしません。
聖霊様がおられること、聖霊が自然あられること、聖霊様の力があることは認めますけれども、
しかし、自分たちの先入観や偏見や、あるいは伝統や、あるいは乾いた信仰のために、聖霊の力を、聖霊の死を、聖霊の人格を拒むのです。
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だから、聖書を読むときに、私たちは、乾いたドライな考えで読むと、それを読むだけで、聖書に記されているこの記事が、この出来事が、このミラクルが、この不思議が、自分と何の関連付けられないんですね。
ですから、皆さん、私が聖書を読むときも、聖書は聖霊の霊化によって書かれたものですから、従う信仰を持って、そして、聖霊の力、聖霊の死、聖霊の人格を認めながら読み、
そして、この不思議が、この出来事が、このミラクルが、自分の上にも、この時代にも、起きることを信じながら読むことが大事なんです。
賛美を捧げるときもそうなんです。起こしため賛美をします。満たして下さげた賛美をします。実は、しかし、現実はそうでない。ギャップがあってはいけないんですよ。
ですから、皆さん、聖霊充満なクリスチャンの特徴は、その霊がピュアで純粋なんです。本当にその霊が子供のようであるんですね。年齢とは関係ありません。
聖霊に満たされているクリスチャンは、その霊がピュアで純粋であってですね、聖書を読むときに、教えられるときに、メッセージを聞くときに、ああ、その通りになると、それをもう覚醒をもって読み、聞くわけなんです。
聖書に記載されている奇跡が、不思議が、今日も、自分の上にも、その通りに起こることを信じながら聞き、読みます。
子供はそうなんです。で、うちのひな、まだ二年生なんですけど、二年生の子供であってもですね、もう素直でですね、親が言う通りに、それを信じてしまうことがあるんですよね。
しかし、六年生のひなちゃんは、そんなことがなかなかないんです。
子供のような純粋でピュアな信仰をもって、聖書に記載されている御言葉はその通りになる。それを信じて、それを宣言して、聖書を読んだり、あるいはメッセージを聞いたりするわけなんですね。
これが皆さん、聖霊に満たされているクリスタルの特徴なんです。だから、聖霊に満たされていると、聖霊の支配を全く支配を受けているからですね、その考えが、言葉が変えられるんです。
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聖霊様が今日も自分の上に、この教会の上に奇跡を、不思議を起こしてくださるんだと、それを信じて、言葉で宣言しつつ、そして信仰を道を歩んでいくんです。
聖霊十万のクリスチャン、聖霊十万の教会は、信仰によって祈り、祈った通りに応えられることを信じて、言葉らを進めていきます。
ところが、聖霊十万でないクリスチャンが集まっている教会はですね、祈りはしますよ、賛美はしますよ、メッセージは聞けます。しかしですね、祈った後ですね、電卓をたしてですね、打ってですね、できるかできないかを決めるんです。
人間的な経験によって、これができるかできないかを決めるんです。祈りはしますけれども、聖霊の全く支配を受けていないということではないです。
今日のエフェクト5の18節の、聖霊に満たされなさい、この御言葉は、言語は、今もこれからもずっと続けて満たされていなさいという現在進行形、ずっと満たされ続けるという意味です。
ですから皆さん、ああ、昔は聖霊十万であったのに、昔は熱かったのに、昔は本当に強かったのに、それもいいんですけれども、今が最も重要なんです。
20年、10年、30年、40年前、聖霊十万であったこと、それはその時で十分なんです。ある意味で今までは有効ではないんです。
今日は今日の糧が必要であるように、今日は今日の御霊の力が、御霊の恵みが必要なんです。
前回申し上げたように、今日、今、この状況の中で聖霊様の講師を受ける、聖霊様の御支配を受けて従っていくことが聖霊十万祭りさんの特徴なんです。
経験や知識や自我や歴史や伝統や自分のこだわりをおろしといて放棄して、聖霊様の御声に耳を傾ける。
そしてそれが自分の何かと違っていても、聖霊様の御声であれば従っていく歩み、これが聖霊十万祭りさんの特徴。
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アメリカにヘイニーナウエンという先生がいますけれども、その先生が聖霊十万をこのように例えています。
聖霊十万というのは、聖霊に満たされというのは、聖霊様とワルツを踊ると同じである。聖霊様のリードに合わせて、歩調に合わせて踊る。
僕はワルツを踊ったことはありませんけれども、聖霊様のリードに合わせてワルツ踊りを踊ることであった。
自分が勝手に右に行ったり左に行ったりしたのをしてしまうのではなく、聖霊様のリードに自分が足も体も任せて合わせることです。
本当にその通りだと思います。
聖霊十万は聖霊様とダンスを踊ること、合わせることです。
自分に聖霊様合わせなさいよ、合わせなさいよと求めるのではなくて、聖霊様に合わせるんです。
聖霊様が右にステップを踏んだら自分も右に行くんです。
聖霊様が左にステップを踏んだら自分も左に行く。
聖霊様がターンホンをされたらそれをターンホンされるように。
だから皆さん、聖霊十万なクリスチャンの特徴は、その考えも行動も言葉も柔軟性があるんです。
つまり柔らかくてしなやかなんです。
だから自分の経験知識があるんです。みんな持っているんですね。
しかしそれを持っていても、それが頭の中に入っていてもですね、聖霊様が右に来なさいと言ったらですね、それを形に変えるんです。
柔らかいです。しなやかです。柔軟なんです。
聖霊様のリードに合わせることが聖霊十万なクリスチャンです。
聖霊様のまったく素愛を受けているクリスチャンは、いつも考えが、いつも態度が、言葉が、行動がですね、柔らかくてしなやかです。柔軟です。固くないんです。
いつもですね、喜んで聖霊様に納得されるんです。
例えば皆さん、人もですね、何か頼む時にですね、頼みやすい人がある反面、頼みにくい人があるんです。
何かですね、頼んだらこうして、こうして頼んだらですね、はい、そうしましょう、という人がいる反面、頼んでもですね、何でそんなにするんですか。
自分の考えと違います?伝統と違います?と言って、従ってくれない。頼みにくいです。
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聖霊様も同じなんです。私たちの内側ですね、死を起こそうとしておられる。こう、右に行きましょうよ、左に行きましょうよ、とですね、誘って働くをする時に、
聖霊に満たされている人は柔軟であるから、柔和であるから、すぐに変えることができる。そして変えるんです。
しかし、満たされていない人は固く、固くならない。だからですね、右に行きましょう、行かないんです。左に行きましょう、行かないんです。
回りましょう、回らないんです。結論を申し上げたいと思います。ですから皆さん、聖霊偶慢なクリーチャーは、聖霊様の御品性に変えられるんです。
しょっちゅうですね、どまり、怒った人が、柔和な品性に変えられる。すごく頑固だった人がですね、もう、しだやかに、優しく、柔らかく、柔軟な人に変えられるんです。
自我が強かった人がですね、柔順な人に変えられるんです。自己中心が強かった人が、神中心の人に変えられるんです。
隣植で、けちな人が、豊かに分け与える人に変えられるんです。捧げることを惜しんでいた人が、喜んで捧げる人に変えられるんです。
皆さん、信仰生活は宗教生活ではありません。聖霊様は人格であって、パワーであって、死であって、支配であられます。
ですから皆さん、私を含めて、私みんなが無駄に教会の皆さんが、本当に聖霊様の全く支配を受けようでありませんか。
そして、心も身も考えも変えられて、聖霊の人格、聖霊の品性、聖霊様の身のように変えられるべきである。
このようなクリスチャンを、そのような家庭を、そのような教会を引くが、十分に持ちにて下さい。
皆さん、いかがですか。聖霊様が皆さんに何か頼みやすいクリスチャンですか。頼みにくいクリスチャンですか。
聖霊様が火を起こそうとする時に、それを一緒に燃やすクリスチャンですか。消してしまうクリスチャンですか。
聖霊様は今も、変えられるように促して、その聖霊様の全く支配を受け出せます。お祈りです。